『彼』というひと(3)
まるで、瞬きをした瞬間に溶けた夢みたいだ。
そこにはもう、誰も――誰も、いない。
サイリウムだけが、落とし物のように散らばっている。
背後にいるキャストの気配が、息を呑んでいるのが分かる。
「ひらさわ」
マキちゃんの声にちいさく頷いて、大きく息を吸った。
まだ、終わってない。終わってない。この状況に巻き込んだことに対するお礼も、説明も、出来てない。
最後までやろう、ちゃんと。
「――さと子さん!」
振り返って、思い切って叫んだわたしに、さと子さんはニコ、っと笑った。
「さって。機材チェック完了ー?」
……え?
機材チェック……?
何を言い出したのか分からなくて、ぽかんと口を開けてしまう。
「おっけでーす、さと子さーん」
そう言ったのは花ちゃんだ。剛くんも続けて、完了でーす、と声を上げる。
「そうそう、機材チェック機材チェック」
「大事ですもんねー」
「誘導灯、いざってとき点かなかったりしたら困るもんなー」
みんなが口々に言いだした。
なに、それ。
……それでいいって、こと、なの?
誘導灯を携えたキャストたちが、その場に落ちていたサイリウムを拾い上げる。そのまま笑いながら、歩き出す。シンデレラ城に背を向けて、バックステージへと。
「さー、おしまいおしまい。早く上がらないと、ねー」
さと子さんがみんなを急かすように促す。花ちゃんと剛くんも。瀬野や辻ちゃんやなかじさんも。他のみんなも。
笑いながら歩いていく。
「やられたわね、まったく」
マキちゃんが隣でちいさく笑った。
最後に歩き出したさと子さんに、わたしはたまらず駆け寄っていた。
「――あのっ」
「ん?」
「ごめんなさい、なんか。あの」
「平澤」
「はい」
さと子さんが立ち止まった。先に進むみんなを軽く見てから、わたしと向かい合う。それから、そのまま笑って、
「キャストの
――そう問いかけてきた。
そういう……こと、か。
わたしは笑いながら……うそ。ちょっとだけ泣きそうになりながら、答えるしか出来なかった。
「すべてのゲストにハピネスを」
「ん。そういうことで、いいんじゃない? おつかれさま」
ぽすり、とわたしの肩を叩いて、さと子さんは行ってしまう。
その後ろ姿を見送る。しばらく、動けなかった。みんなの姿が、バックステージに向かっていって、遠くなって見えなくなっても。
膝から力が抜ける。
傷の入った安全靴が、目に入る。
「ありすちゃん」
マキちゃんの声がする。すぐそばに、しゃがみ込んでくるのが分かる。でもわたしは、顔を上げられない。ただただ安全靴と、地面を見つめるだけだ。ゆらゆら、ゆらゆら、揺れているそれを。
「おつかれさま」
マキちゃんは意地悪だ。今そんな言葉、追い打ちにしかならないじゃないか。
巻き込んでごめんなさい。
付き合ってくれてありがとうございました。
言いたいことはいっぱいある。でも。
「マキ、ちゃん」
わたしは、そばにあったマキちゃんの制服の袖をぎゅっと掴んだ。子どもみたいだ。でも、いいじゃん。わたし、マキちゃんの
ばっと顔を上げる。
言いたいことはいっぱいある。ありがとうも、ごめんなさいも、当然だ。でも。
本当に言わなきゃいけないことは、もっと別のことだ。
「わたし、マキちゃんの人生に責任持てないです。ただのトレーニーだし、後輩でしかないです。わたしだって、これから先どうしていくか、不安が消えたわけじゃないです。でも」
「平澤」
マキちゃんの袖口を握りしめたまま、わたしは叩きつけるように、叫んでいた。
「それでもわたしは、マキちゃんと、もっとゲスコンしていたいです!」
大人の仕事のことなのに、まるっきり子供みたいなわがままな言葉。
マキちゃんは大きく目を見開いてわたしを見返してきて。しばらく無言で。結構無言で。でもわたしも、引きたくなんかなくて、じっと見据えていた。
そして――本当にずいぶん、経ってから。
「あ……はははははっ!」
マキちゃんはその場にぽすんとおしりをついて、のけぞりながら大声で笑った。
「マキちゃん……」
このくそ寒い時期の冷たい地面に、ふたりしておしりをつけて、まったくバカみたいだ。
大笑いしたマキちゃんは、そのままその大きな手のひらでわたしのおでこをぽすん、と打った。
「――アナタの勝ちよ、平澤」
誰もいないパークに、マキちゃんの言葉がやさしく響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます