ネバーランドという世界(1)
その入江は青空と溶け合うように存在していた。
朝一の太陽に水面がキラキラと反射している。潮の匂いがかすかに漂っていて、入江の岩場にはある生物が鎮座していた。長い髪に、美しい顔立ちの女性――ただし下半身は魚。人魚だ。それも数人。
「はー、人魚なんて本当にいるものなのねぇ」
「はぁ……ん……?」
マキちゃんがなんか若干頭がおかしいことを呟いているが、まぁ、いいや。
人魚たちから離れた岩陰に隠れて、彼女たちを見つめる。
今朝、またもマキちゃん家からこちらにやってきたところ、出てきた場所がここだったのだ。フックたちはいないが、ワニの口の上でもないのでわたし的には良しとしたい。
「あ、平澤」
マキちゃんが小声でわたしを呼び、そっと入江の入り口を指さした。
ひょいっと。
まるでかくれんぼをしているかのように、少年が顔を出したのだ。
赤い羽根のついた三角帽子に、緑の服。
――ピーター・パン。
彼の頭のすぐ隣が、なにか光を反射するようにきらきらと瞬いている。あそこに、妖精が――ティンクことティンカー・ベルがいるんだろうか。
ピーターは、水辺でおしゃべりする人魚たちの元へ降り立つと、何か言葉を交わしている。
と、次の瞬間だった。
「もう、いいっ!」
雷みたいな怒鳴りつける声が入り江に響いた。ぎょっとするわたしたちの前で、ピーターが走り去っていく。岩場から岩場へと跳ねながら。
「え、え……?」
びっくり、した。
いまの、なに、ピーターが怒鳴ったの? 人魚たちなんか恐縮しちゃってない? っていうか逃げてった? 走って? ――飛びもせず?
「何かおかしいわね」
混乱して立ち尽くすわたしの腕を、マキちゃんがそっと触れて。それからすっと外した。
「行きましょ、平澤」
「あ、はい」
――これはこれで何か変、だけどね。
今までならたぶん、無造作につかんで引っ張っていってだろうな、と思う。
触れられた腕を反対の手でそっと握ってから、わたしは先に歩き出したマキちゃんの背を追った。
「ちょっとごめんなさいね」
マキちゃんが人魚のひとりに声をかける。人魚たちは一瞬短く悲鳴を上げて、パシャンッと水面下へもぐってしまったが、すぐに浮上してきて、水の上に顔だけを出す。
「ニンゲン?」
「やだ、ニンゲンね」
「しかもオトナだわ。オトナよ」
「オトコかしら、オンナかしら」
口々に言う人魚たちに、マキちゃんはパタパタと手を振った。
「やぁねぇ。男よ男。見れば分かるでしょお」
うん、見て分かることと聞いて分かることとの間にある、情報のギャップに戸惑ってるんだと思いますが。
人魚たちはきょとんとしてお互いに視線を交わした後、おかしなニンゲン! と笑いだした。
……つくづく、マキちゃんのこの能力は才能だと思う。
警戒を解いた人魚たちに話を聞いたところ、どうも、ここのところピーター・パンはおかしいのだ、と言った。
「おかしいって?」
「んー、なんかねぇ、いっつもピリピリしちゃってるのよぉ」
漫画みたいなオレンジの髪の人魚が首を傾げた。
「ほんとほんと、ちょーっとしたことですぐ怒っちゃうの」
「今もよ。また今日も飛んでないの? って聞いただけで怒って行っちゃったの」
ねーっ、と人魚たちが不服そうに声を上げる。
……それって、まさか。
「とべ、ない?」
「おそらくね」
小声で呟いたわたしに、マキちゃんが小さく頷いた。
え、ええぇ……。
飛べないピーター・パンって、それはなんかもう、根本からズレて……。
と、ふと某魔女な女王さまや頼りなさすぎるどっかの国の王子を思い出して首を振る。
いや、ありうるわ。この世界じゃ。
「そっか、ありがとうね。ちょっと見てきちゃうわ」
「あ、オニーサン」
ひらりと手を振ったマキちゃんに、人魚のひとりが声を上げた。
「あの。気を付けてね」
「ん? ええ、ありがとう」
人魚の入り江をあとにして、ピーター・パンの去っていった方向へと足を進める。
岩場を不格好によじ登るわたしを、マキちゃんは文句も言わずに待っていてくれる。でも、なんとなく――なんとなく、ではあるけれど。やはり前より少し、距離を感じた。
少し行くと、別の岩場に腰かけている少年を見つけた。
ピーター・パンだ。
マキちゃんがわたしに手で合図して、わたしたちは一旦足を止めた。それからそっとそっと、気づかれないように近づいていく。
海の上だ。木に覆われて見えづらくなっている岩陰に身を潜め、声が聞こえるぎりぎりまで、近づいた。
ピーターは、やはりご立腹のようだった。
「なんだいなんだい、どいつもこいつも。飛んでなきゃなんだってんだ!」
「ピーター、あの、あのね。あの子たち、たぶん、悪気はないよ」
「うるさいな、ティンクは! なんでいつまでもついてくるんだ!」
「だ、だって、だって」
ティンカー・ベルらしき光が、おろおろとピーターの周りを飛んでいる。
うわぁ……。
『なんなのあのガキは』
……うっかり、マキちゃんとハモってしまった。
お互いに顔を見合わせて苦笑いする。
「……わたし、ああいう奴嫌いなんですよね」
「奇遇ね。アタシも嫌いなの」
くすりとマキちゃんが笑う。それから、ふぅと息を吐いた。
「さってどうしたもんかしらね。フックの依頼はあの妖精さん殺し、とかって物騒なものだったみたいだけど、なーんか裏がありそうよね」
「ですね。っていうかなんか、ティンクめちゃくちゃ可哀そうですし」
まぁそうでなくとも、殺せ、なんて依頼を受けるつもりはさらさらないけれど。
「とりあえずフックと再度合流するべきです、よね。話を聞かなきゃ」
「そぉね。とはいえどこにいるやら……」
マキちゃんが難しい顔で手を顎に当てたとき、だった。
「もう、いい! ついてくんな!」
怒声と。
――パリンッと。何かが割れる音は、ほとんど同時だった。
そして、わたしの足元が消えるのも。
「ひっ」
「ちょっと!」
宙に放り出されたかのように、重力が一瞬なくなった。が、次の瞬間、肩に重い衝撃が走っていた。マキちゃんが咄嗟に掴んでくれたらしい。
「え、え……」
「考えない! とりあえずそっちの手もよこしなさい、早く!」
マキちゃんに言われるがまま、反対の手を差し出す。
マキちゃんはわたしの両手を握り、ゆっくり、ゆっくり、引き上げてくれた。
「……あんた、落ちすぎ、よ」
ぜえはと荒い息の間から、マキちゃんが言う。
わたしはというと、呆然とその場に座り込むしか出来なかった。
――何が起きたか、分からなかったからだ。
恐る恐る振り返る。そして。
「……なに、これ……」
喉が震えて、かすれた声が上滑りした。
呆然と座り込むわたしの真後ろには、闇が口を開けていた。
割れたガラスの欠片のように歪な形の闇。ただただ真っ黒でそこも見えない、光も何もない深淵が、唐突にぽっかりと、口を開けていたんだ。
ついさっきまで立っていた場所に空いた穴は、ただただ真っ暗で。
何が起きてそうなったのか、そもそもそれが何なのか、わたしにもマキちゃんにも全く分からなかった。
分かることは、ピーターの怒鳴り声とともにそれが起きたこと。そして、わたしが落ちかけて、かろうじてマキちゃんが引っ張り上げてくれたことだけだ。
「大丈夫、平澤」
「あ……はい、なんとか。ありがとう、ございます」
「……で、これは、なに」
マキちゃんの硬い声に、ふるふると首を横に振るしかない。だって何も分からない。
と、別の場所から声がした。
「おぉい、客人ー」
海からだ。
穴を避けて、岩場の縁へとずりずりと移動して――腰が抜けて立てなかったのだ――覗き込む。
「あ」
小舟が岸に近づいてきていた。そしてそこに、見覚えのある顔があった。
でぷっと太った小さなおじさん。
キャプテン・フックの片腕のスミーだった。
スミーは、その太った体に似合わない軽快な動きで岩場をひょいひょいと昇ってきて、わたしたちの元へとやってきた。
そして、ぽっかりと開いた闇をみて、ああ、と顔をゆがめたのだ。
「まぁた開いちまったんですねェ。落ちなくて何よりでさァねェ」
――また、とは?
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