あの人のせいだとおもうんです(3)

 中指から小指までで鍵を握り、人差し指で鏡に触れる。その瞬間、背後でパリンッと高い音が鳴った。

 振り返ると、いくつもある鏡がひとつ、はじけ飛ぶように割れたところだった。いや、ひとつじゃない。まるでドミノ倒しか何かのように、連鎖でも起こっているかのように、次から次へと鏡が割れていく。

 そしてひとつ割れるごとに、明かりが消えるようにゆっくりと何もない空間が広がっていく。

「やだ」

 アリスが、小さく声を立てる。

「大丈夫」

 震える指を握りしめてやってから、ふうっと息を吐く。

 鏡が割れていく。鏡――鏡、か。こちらをそのまま映すようでいて左右は違う。現実であって、そうでないものを見ているような不思議なもの。そんな存在が無数にあって、それが消えていく。どういえばいいのかわたしには分からないけれど、なんとなく皮肉めいたものを感じてしまった。


 夢と魔法の続きを見るかどうか――


 彼の残した言葉が脳内でぐるぐると回っている。そんなもの、正直よく分からない。いま答えを出せるくらいなら、最初から悩んでなんかいない。でもひとつだけ確実に言えることがあるとするなら。

 とにかく今は、わたしたちの仕事場へ――現実にある夢と魔法の王国へ、戻らなければいけないということ。

 仲間も待っているし、ね。


 パリンッ……!


 残っていた最後の鏡が割れた音が、反響する。

 目の前の一枚だけ――マキちゃんが映りこんだそれだけが残っている。

「さあ、行こう」

 アリスの手を引き、わたしは鏡の中へと入っていく。

 背後で、もうひとつ――本当に最後の鏡が割れた音がした。



「平澤っ」

「ヒラさん」

「ヒラー」

 叫ぶマキちゃんと、なんとなーくゆるーい剛くんと花ちゃんと。

 迎えてくれた三人に笑いかけて、ほっと短く息を吐く。

「ども。戻りました」

「何が何だか……アタシちょっと追いつけてないんだけど」

「俺ちょっとどころじゃねーっす」

「右に同じ」

「あー、いやまぁ、うん、あとで説明はしますけど」

 振り返る。アリスはまだ当然でっかいままだった。

「ごめん、しゃがんで」

「ア、ハイ」

 素直にぺたんとその場にしゃがんで、少し迷ってからぺとっと上体を倒してくれる。うん、ありがとう。なんかごめん。

「とりあえず……アリス以外は、いつも通りでいいみたいです」

「あっ、何か分かったのね!?」

 マキちゃんにこくんと頷いて見せる。マキちゃんは少し安堵した顔で苦笑して、オーケイ、と呟いた。

「今ここにいるのは、ウサギ、帽子屋、女王と兵隊が二体。青虫とチェシャ猫は見てないんだけど、来てない、ということでいいかしら?」

 と、アリスに問う。

「えっと。青虫さんはたぶん来てないわ。猫さんは」

 ちょっと迷う様子を見せて、アリスはその大きな指を持ち上げた。

「そこ」

「どーっせそういうオチなんだろうなぁって思ってましたとも思ってましたとも!」

 マキちゃんがやけくそみたいな声を上げつつ、自らの頭の上に現れた毛玉――もとい、チェシャ猫をむんずとつかむ。

 紫色の奇怪な猫は、キシシと笑ってマキちゃんの手の中で尻尾を振っている。

「ヒヒヒ、キシシ、夢の中から出られない」

「やかましい」

 マキちゃんが苦虫を噛み潰したように呟いて、わたしを見た。

「平澤、鍵! とりあえずこいつは面倒くさいから先に送り返しちゃいましょ!」

「あっ、はいっ」

 確かにマキちゃんの言うとおりだ。また消えられたらたまったもんじゃない。あわてて鍵を握ったままチェシャ猫に押し付ける。

 ここで手を放して持っていかれたらたまったもんじゃないので、しっかり握りしめておく。

 反対の手で軽く叩こう――としたとき。


 べしっ。


 無造作な仕草で猫の尻を叩いたのは、剛くんだった。

「あ」

「あ」

「ニャッ」

 間抜けな声を上げるわたしとマキちゃんの目の前で、猫が短い悲鳴とともになんだかあっけないくらいあっさりと消えた。

「……あ、あれ? マズかったっすか?」

「い、いや……うん、ありがと」

「うぃっす。サクサク行きましょ。俺もう休憩終わりっす。ヒラさんらも入り時間近くないっすか」

「あ、はい」

 剛くんはなんかこう……もろもろ、動じないなぁ。頼もしすぎる。

『……たくましいお方が、お仲間ですな』

 ぼそりと呟いたのは魔法の鏡だった。無言で頷いておく。

「……って、鏡、まだいてくれた。ありがとね」

「いいえ。まぁ私も、送っていただかなければいけませんので』

 そっか。とはいえちゃんと感謝も言いたいし、後にしよう。という気持ちを汲んでくれたのか、花ちゃんがよっしゃ、と声を上げる。

「はいヒラ、次はウサギっ」

 ウサギをほらよっとばりに掲げて、花ちゃんが言う。

 素直に、猫と同じように鍵を押し付けると、また剛くんがペシッと叩いて消えて。

 トランプ兵二体と、帽子屋も消えて。

 ……あっけないというか味気ないというか、無造作すぎる気もするけれど。

 さすがに女王はわめきながらじりっと後ずさりした。正常な反応です、はい。

「わたしの光の珠をお返しっ! 首をはねるよ!」

「いやー、それはちょっと無理な相談だねー」

 花ちゃんが肩をすくめる。女王を囲むようにいそいそと距離をとっている。反対側からは剛くんが狙ってて、なんかこう、こっちが悪役めいている。

「平澤」

 マキちゃんが静かにいうと、そっと手を差し出してきた。鍵を手渡すと「ありがと」と短く呟いて、そのまま無造作に女王に向き直った。笑う。

「ごーめんなさいねぇ。嫌よねぇ」

「え」

「バタバタしちゃって驚いちゃうわよねぇ」

 困ったように笑いながら近づいてく。あ、これ、マキちゃんの得意技だ。こういう時のマキちゃんは、相手に警戒心を抱かせないようにするのがものすごく得意だ。

 案の定女王は呆気にとられたようにマキちゃんを見上げながら、呆然と立ちすくんでいる。

 マキちゃんはそのまま女王に近づき、そのふっくらとしたまるい手をとった。

 ――鍵を握っている手を、その上から重ねて。

 ……あ、女王、また目がうっとりして……って、そうか、マキちゃんこれ分かってて近づいたのか。

 さりげなくめっちゃ性格悪い気もしますが。

 いいのかなぁと若干ためらったわたしよりも先に、剛くんがそそくさと近づき――


 べしっ。


 また無造作に叩いて、そして、女王の姿が掻き消えた。

「うしっ」

 剛くんは、にかっと白い歯を見せて笑った。

「あと鏡のほうは、なんとかなるっすよね」

「えっと、はい」

「そっちのちびっこは? ヒラさん、大丈夫っすか?」

「……トレーナー信頼しなさいってば」

「お。かーちゃん頼もしいっす」

 ケラケラっと剛くんは笑う。

「んじゃ俺、オンステ戻るっす。また後でー」

 ひらっと手を振って、早足で剛くんがオンステへ出ていく。

 ……動じないというか、肝が据わりすぎているというか……

「前から思ってたけど、あんたの息子強いよねー」

 花ちゃんの感想に、無言で頷く。まぁなぁ。剛くん、トレーニング初日に唐突に「恋愛相談いっすか?」とか聞いてきて当時の彼女との話をしてきたからなぁ。マイペースすぎるんだよなぁ。そのマイペースさが、入場者数アテンダンス高かろうが何だろうが本人ペースでやれるから、この仕事向いているところもあるんだけども。

「頼もしいわねぇ」

 マキちゃんがくすくすと笑っている。

「さて、平澤。鏡も返してあげなくちゃね。あっちの女王が寂しがっちゃうわ」

「ですね」

 笑って、わたしは鏡に向き直る。

「いろいろ、ありがとね。急に呼んじゃってごめん」

『いいえ。たいしたことはしていませんので。彼とは会えましたか』

「まぁ、一応。――また呼ぶことあったら、ごめん」

『その時はその時、ですな』

 鏡の悪戯っぽい言い回しに少しだけ笑って。

「それじゃあ、ね。みんなにもよろしく」

「ありがとうね、鏡」

『ええ。そちらも、お元気で』

 わたしとマキちゃんの言葉に、鏡が頷いて。

 それからわたしは鏡をあちらへ送り返した。

 そして。

 泣きそうな顔で地面に這いつくばる大きな大きな幼女の前へ、わたしは歩み寄る。



 アリスは目に涙をいっぱいにためて、わたしを見下ろしていた。

「泣かないでいいよ、アリス」

「でも、だって、だって、わたしの可愛い足は遠く遠くなっちゃったし、みんないなくなっちゃったわ。わたし、どうすればいいの」

「うん、大丈夫」

 たぶん、だけど。

 心の中で付け足して、でもそれは表に出さないまま笑いかける。

「平澤、どうするつもり?」

 マキちゃんの声に、わたしは少し頭をかいてから切り出した。

「あの。アリスのお話の最後って、教えてもらえます? どうやって戻るんです?」

「え?」

「起きるんだよ。ぶっちゃけ夢オチ。お姉さんがいて、お話をしてくれていて、みたいな」

 花ちゃんが教えてくれた。ああ、そんなんだっけか。なんとなく聞いたことはあった気がする。

 と、すれば。

 ――起こせばいい、ってこと、かな。

 ふっと息を吐いて、わたしはアリスを見上げた。

 よし。あんたはちゃんと出来るはず、平澤ありす。

「アリス」

 呼びかけて、わたしはアリスをそっと抱きしめた。

 ふんわりと金色の髪が揺れる。ほんの少し甘いような、子どもの香りがする。

「起きて、アリス。あなたは今夢を見ているの。時計のウサギも、ニヤニヤ笑う猫も、大きな青虫も、頭のおかしな帽子屋も、おこりんぼうの女王も、みーんなあなたが見ているただの夢。ただの夢だよ」

「でも」

「大丈夫、怖くないよ。お姉さんが、木の下であなたを待っている」

 ほんの少し震えていたアリスの体が、すっと力を失った。落ち着いたみたいに。

 ぽん、ぽん、とその背を叩く。

「めちゃくちゃで怖くて、でも楽しい夢を見ていたの。大丈夫。起きてもいいんだよ。起きたらまたきっと、楽しいことが待っているから」

 言い聞かせるように、ゆっくりと紡いだわたしの言葉に、アリスはどう感じただろう。

 それははっきりとは分からない。アリスはわたし自身ではないから。でも、たぶん、安心してくれたんじゃないかな。

 だってほら、少し身体を離してみたら、アリスは泣き笑いみたいな顔で、こっちを見ていてくれたから。

「ほんとに?」

「うん。約束する。夢のあとも、楽しいよ」

 だから。

「だから起きて、アリス」

 アリスはその言葉ににこっと笑って――そして。

 ゆっくりと、消えた。


 うん。おはよう、だね。もうひとりのアリス。

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