魔女の林檎とキャストの鍵(2)
◆
冷たい水の中で、誰かの声を聞いている。そんな感覚だった。
――違う。水の中ではない。
そう気が付いた瞬間、意識が一気に覚醒した。
「平澤っ!」
悲鳴のような懇願のような叫び声に、思わずうっと顔をしかめる。
み……耳が、耳が痛い。
ゆっくり目を開ける。あー。これ死んでないわー。めっちゃ生きてるわー。頭痛いもん。
ずきずきする頭を騙しながら、なんとか瞼をこじ開けて。
そして、わたしを見下ろしていた人影の正体を知る。
真っ青な顔をした、男の人。
「……キ、ちゃ」
かすれた声が喉に張り付いて出てこなかった。
マキちゃんはそれでも安心したのか、はーっと大きく息を吐いて、そのままぎゅうっとわたしを抱きしめた。
「い、た……たい、です、マキちゃ。つよ……」
「うるさいわね、黙って受け入れなさい」
パワハラ(物理)だ。パワハラ(物理)だ。
じたばたするわたしを問答無用でマキちゃんは抱きしめる。い、意外と力ありますねオネエさん……。
「……あ、あの」
「び……っくりした……もー、ほんと、勘弁して頂戴……こっちの心臓が止まるかと思ったじゃない……」
ようやく身体を離してくれたマキちゃんは、こちらの肩を掴んだまま、ぐったりと項垂れている。
……えーと。頭が回っていない。何でここにマキちゃんがいるんだ? っていうかここはどこだっけ。何してたんだっけ。
きょときょとと首だけまわしてあたりを見る。若干小汚い小屋の中。ちいさな家具に、それから。
床に転がった、齧りかけの林檎。
――あ、そうか!
「マキちゃん! あれ、毒林檎です!」
「知ってるわよっ」
ごつん、と軽く額を殴られた。ひどい。
マキちゃんは疲れ切った目でこちらを見つめている。
「……あの」
「……」
「す、みません。……戻ってきて、くれたんですね」
「そりゃ、戻るわよ。後輩ひとり捨てておけるわけないでしょうが」
「……そう、ですよね。すみません」
マキちゃん、本当にいい人だ。わたしはたぶん、分かっててやった。戻ってくるって信じていて、やった。ずるくて、ごめんなさい。
「平澤」
「はい」
「ごめんなさいね。すぐ戻れなくて」
「え。いや、それは全然。なんでマキちゃんが謝るんですか」
びっくりしてマキちゃんの顔を見る。マキちゃんは、いつものように少し困った笑顔だった。
「――びっくりしたわー。戻ったら朝なの」
「え」
……そ、それはつまり、勤務日の……?
「まさか」
「したわよ。仕事。徹夜で。フフフ。そんな無茶は二十代前半までよね、出来るの。三十路間近にやらせないで欲しいわ。眠くて死にそう」
「う……わぁ。って、え? じゃあ」
「寝てないわよ。そのまま仕事上がってきたわよ」
……ま、じか。
ぞっとしてしまう。そりゃ疲れた顔もしているわけだ。
「しかも聞いてよ平澤。ひっどかったのよー、今日。
……う、わぁ……
ベラベラとマキちゃんが話す内容に思わずドン引きする。そんなイレギュラーだらけの日に徹夜で勤務とか死ぬ気しかしない。
「アタシが思うに、まぁほかのはともかく、白雪姫関係は、こっちのせいもやっぱりあるんでしょうね」
「……で、すかね」
マキちゃんに曖昧に同意する。小さくマキちゃんは笑って、それからおもむろに、わしっとわたしの頭を鷲掴みにした。
「いっ、いたたっ、ちょっ」
「しーかも。しかもよ? 聞いてよ平澤。そんな状況で勤務こなして家帰っていろいろ悩みまくってこっちにきたら、今度は何故か白雪姫の格好をした平澤がぶっ倒れてるし本物の白雪姫はいないし林檎は転がってるし、はぁ? よ。はぁ!?」
「ず、ずみばぜ」
「呼んでも呼んでも起きやしないし、もーっ、ほんとにどうしようかと思ったんだからね!?」
怒鳴るだけ怒鳴って、マキちゃんはぺしんっ、と最後にわたしの額を叩いた。
はー、と大きく息を吐く。
「……すみません……」
謝ってから。
ふと、気づく。
「……あの」
「何よ」
「マキちゃんが起こしてくれたんです、よね」
「……」
「どう、やって」
「……」
「……」
あ、すごいヤな沈黙が。が。が。ががが。
ニコ、とマキちゃんが張り付けたような能面の笑みを浮かべた。
「聞きたい?」
「……」
「……ききたい?」
声が低いです。
「……やめときます」
「賢明な判断ね」
静かに頷かれてしまった。
……まぁ、うん。かんがえないでおこう。
と、いうか。そうじゃない。そこじゃない。いやそこも大事だけれど。
「あの、白雪姫は? 女王は?」
「白雪姫はさっきも言った通り見当たらないの。女王は分からないわ。そっち行ってないもの。来てたの?」
来てた、というか。
「えっと。……その、林檎」
と、転がっている林檎を指す。
「持ってきたの、魔女、でした」
「……魔女」
「の、格好をしてたけど、たぶん女王かなぁって」
マキちゃんが真顔になっている。ヘラ、とわたしは笑って見せるしかなかった。
「あ、あははー」
「うふふー?」
「……え、えへ」
「ありすちゃんは、その、魔女が持ってきた林檎を、食べたと?」
「女王だし……毒、ないんじゃないかなぁ、って。あの」
べちんっ! と、わたしの額が酷い音を立てた。
「痛いですっ!」
「おバカなのアナタ!? 白雪姫の話は知ってるんでしょう!?」
「めっちゃ観ました!」
「なおさらおバカなの!?」
そこまで言わなくても。
思わず反抗的な目で見上げてしまう。マキちゃんはぐしゃぐしゃっと前髪をかくと、盛大にため息を吐いた。
「分かる……分かるわー。アナタの思考。手に取るように分かっちゃうわー。おかーさん、ヤになっちゃう……」
マキちゃんが言う『おかーさん』は、トレーナーの意味だ。新人にはマンツーマンでトレーナーがついて手取り足取り教えるから、親子同然、と言われる。そしてもちろん、わたしの『おかーさん』ことトレーナーはマキちゃんだ。
「リスクは絶対分かってたでしょう。でも正義感から信じると決めたから大丈夫、とか自分で言い聞かせたでしょう。ドキドキしながら、でも悟られないようにって食べたんでしょう。あー、もう、全部分かるわ」
「さすがです」
「さすがじゃない」
あ。声が怖い。真剣に怒ってる。
怖くなってちょっと身をしぼめていると、ぽす、と優しく頭に手が置かれた。
「平澤。四つの鍵、分かるわね?」
――四つの鍵。鍵、といっても『四つの』がつくということは、マキちゃんに押し付けた『鍵』のことではない。
それは、キャストがみんな持っている『鍵』だ。
「……SCSE、ですか?」
「そうよ。言えるわね?」
そりゃ、そうだ。言えないキャストなんていない。入社すぐの新人だって言える。
「S、セーフティ、安全性。C、コーテシー、礼儀正しさ。S、ショー。E、エフェシェンシー、効率」
――全キャストの行動規準。それが、SCSE――四つの鍵、だ。入社すぐの研修でも、配属先でのトレーニングでも、通常業務内でも。いつだってそれを口酸っぱく言われるし、言ってるし、みんなが守っている。物事を考えるうえで、このSCSEの順番で考えろ、というもの。大事なものの順番だ。
まずは何より安全性が確保されていなければ、楽しくない。礼儀正しくなければ、楽しくない。ショー性を失えば、楽しくない。効率が悪くても、楽しくない。
すべてが大事だけれど、それらの順番は厳守しろ、というものだ。毎日の業務で、マニュアルにないことに出くわすことはしょっちゅうだ――というより、マニュアルが役に立つことのほうがむしろ少ないのだが、そんなとき、自分で考える指針になる。そしてその基準が全キャストで統一されているからこそ、イレギュラー時に各々で動ける。逆に言えばマニュアル外の行動をしたとしても、セーフティのためにこうしました、と言えば、上司も含めて咎める人は誰もいない。それが新人の勝手な判断だとしても、だ。
わたしも、新人のトレーニングをするときには、この四つの鍵をとにかく覚えてもらう。マニュアルよりも、何よりも。最悪マニュアルをど忘れしても、SCSEに則った行動さえしてればリカバリーはいくらでもきくからだ。
「よく言えました」
マキちゃんが満足げに頷く。なんだか新人扱いされているようで居心地が悪い。
「平澤。アナタCキャスよね? トレーナーよね?」
「……はい」
「なんでこんなこと確認されなきゃいけないんだ、って思ってるでしょ」
「……すこし」
「じゃ、訊くわね。アナタ、SCSE、ちゃんと守ったって言えるかしら? S、セーフティ、安全性。どういう意味だった?」
――ああ、そうか。
ここまできてようやく、わたしはマキちゃんが言おうとしていることが分かった。ここまできて、だ。恥ずかしいにもほどがある。
少し視線を下に落としながら、答えた。
「ゲストにとってもキャストにとっても、安全を第一にする」
「そうよ」
くしゃりと頭を撫でられる。恥ずかしくて顔を上げられないけれど、たぶんマキちゃんは今、いつもの優しい顔で笑ってるんだろう。
「SCSEを守りなさい。平澤。何が何でも、誰にとっても『
つまりマキちゃんは、白雪姫の物語の中で魔女が持ってきた林檎を食べればどうなるか、というリスクを分かったうえで林檎を食べたわたしの行動を叱っているのだ。それは、安全性にかける、と。自分の身を守るという考えがすっぽ抜けた行動である、と。
「ごめんなさい……」
小さく謝ると、またくしゃくしゃ、と頭を撫でられた。
「――さ。立って、平澤」
マキちゃんはその場で立ち上がると、わたしの手をぐっと引いた。つられて立ち上がって、恐る恐るマキちゃんの顔を見る。
マキちゃんは、なんでもないような顔をして笑っていた。
……ずるいなぁ。
「行くわよ、平澤。白雪姫を探さなきゃ。それに、女王にも会わないとね。アタシね、あっちでいろいろ考えてたら、ひとつ思い出したことがあるの」
「思い出したこと?」
扉をあけて歩き出したマキちゃんの背を追いかけながら、問う。
森の雨はいつの間にかあがっていたようで、じっとりとした空気が肌を湿らせはするけれど、冷たくはなかった。
緑の匂いが濃い道を、ずんずんと進み、マキちゃんは少しだけ振り返ると、意地の悪そうな顔でこう言った。
「白雪姫の台詞。アタシ、あなたに誤って伝えちゃっていたわ。彼女はこういったの。『嘘を吐くことなんてないはずの、信頼できる方』って」
マキちゃんの足取りがはやくなる。ほとんど駆け足になりながら、マキちゃんは続けた。
「いい、平澤。『信頼できる"方"』よ。――『信頼できる"人"』とは言っていないの」
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