海 7

 そこはロンドンの市街地の中でも奥まった場所で、何人かの乞食がいる細い路地だった。タクシーの運転手にそこで降りるように言って、ケンは、路地の奥のほうに入っていった。ナギはケンがおかしいことにうすうす気が付いていた。これはおそらく月の箱舟の差し金だろう。だからこそ、ケンを放っておくわけにもいかなかったし、彼らの思惑を探るいい機会だと思った。

 ケンは、ナギと一緒にいることが嬉しいみたいだった。だが、こんな治安の悪い場所でデートも何もあったものではない。やはり何かがある。

 そして、おそらく月の箱舟の狙いは自分だろう。

 ケンを操ってまでこんな薄暗い、街灯もない路地に連れ込んだということ自体、それを匂わせていた。

 ケンは嬉しそうにナギを奥へ、奥へといざなっていった。すると、ちょうど袋小路に当たる場所に、その人物はいた。

「ケンちゃん、いい子ね。奥さんを連れてきてくれたの」

 現れたのは派手な服を着た女性で、何歳なのかは分からないがずいぶん若い外見だった。厚化粧をしているのと暗闇にいるせいでどんな顔なのか、何歳くらいなのか見当がつかなかった。

「月の箱舟か。ケンに何をした」

 ナギがその女に問いかけると、女は自分の黒い髪を後ろへ放って、口元に笑いを浮かべた。

「察しがいいのね、ナギちゃん。じゃあ、私の狙いも分かってもらえるかしら」

 ナギは、その言葉に瞬時にその女が誰なのかを悟った。

「エルザとかいう女か。私を連れて行って何をする気だ? 言っておくが、私に洗脳は効かないよ」

「強がっちゃって。可愛いところあるじゃないのん」

 幼稚な言葉を使うエルザの表情は、不敵な笑いを浮かべていた。とてもふざけているようには見えない。ナギは、この女がどれだけ油断ならないのかを感じて、一歩退いた。

「およそシリンである人間に、私の洗脳が効かないはずはないのよ。ケンちゃんの命が惜しければ一緒に来ることね。この人今、あたしが死ねって言ったら喜んで死ぬわよん」

 ナギは、強がっているわけではなかった。ただ、本当のことを言っただけだ。しかし、ケンのことは放っては置けなかった。彼女の洗脳はおそらく彼女にしか解けないだろう。一緒についていって、敵の内情を知るのもいいかもしれない。そしてそれは、ナギにしかできないことでもあった。

「分かったよ。私があんたについていけばいいんだろう。ただし、ケンは屋敷に返してもらう」

 エルザは、ナギのその要求に首を縦に振った。

「いいわよん。どうせこの子に用はないんだしい。その代わり、ナギちゃん、あなたには私たちの言うこと。聞いてもらうからね」

 エルザが笑ってこちらに寄ってくる。ナギの手を取って裏路地の入口へ向かう。ケンは置き去りにされてしまった。ナギは待ち受けていたタクシーに乗せられる直前、目を閉じて少しだけ何かを思う仕草をした。そのあとおとなしくタクシーに乗り、エルザとともにその場から去っていってしまった。

 ケンのいる場所にはたくさんの乞食たちがいた。彼らは眠っているケンに近づくと、持っている金品を探るために近寄ってきた。

 しかし、それを止める人物がいた。暗闇に紛れてその人物は近くのビルから飛び降りてケンのもとへ降り立った。そして、ケンを抱き上げると再び暗闇に紛れてどこかへ行ってしまった。

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