第20話 傍観者たち
二十、傍観者たち
菩提樹のシリンとして、全てを取り戻したアニラは、天佑と紫萱に守られて、屋敷の中を散策していた。アニラの部屋は、新しく入居することになった天佑達と同じ部屋だった。しばらく様子を見て、ひとりでいても大丈夫だと二人が判断できたら、一人の部屋に移る予定だった。
「今日はお庭に出てみない? 少し寒いけど、いい景色が見られるわ」
紫萱が誘うと、アニラは嬉しそうにそれを受けた。
月の箱舟は、あれ以来何もしてこない。大きなシリンを失った以上、次の手を打つまでに時間がかかっていたのだ。ラウラと浩然はその大きなシリンの消滅とともに一切の記憶を失い、自分が誰であるのかさえも分からなくなっていた。その二人を守っているマルスは、二人とも、戦う意思はみじんもなく、むしろ、記憶喪失患者として見守っていかなければならない存在なのだと言っていた。
その話は、二つの屋敷にいるすべての人間に知らされていた。輝はまだ動けない。肩より足のけがのほうがひどかったからだ。
「輝に関して、アースはなんて仰っているの、紫萱?」
庭にある花を撫でながらアニラは紫萱をふと見た。アニラの黒い瞳は優しさを帯びていて、まるで苦行に耐えたシッダールタにミルク粥を捧げたスジャータのような目をしていた。その瞳に吸い込まれそうになって、紫萱は、はっと目を覚ます。
「輝は」
スジャータの気分だった。これもアニラの能力なのか。不思議な少女だ。
「輝の熱は、メリッサの協力もあってずいぶん下がってきたそうよ。シリン封じの影響も消えたと言っていたわ。あとは、けがの治り具合を見て、リハビリを始めるということらしいけれど」
「けれど?」
無垢な顔でアニラが聞き返す。彼女を洗脳して仲間に引き入れたいと思った月の箱舟の気持ちが、少しわかる気がした。紫萱が戸惑っていると、天佑が茶々を淹れてきた。
「姉さん、しっかりしてくれよ。アニラはなんか悟っちまってるんだ。引きずり込まれたら説教でも食らうぞ。それで、アニラ、輝のことなんだけど、それはアースの旦那に任せておけば大丈夫だと思うぞ。そんなに大勢で見る必要もないし、ナギ先生もこの地域への往診を再開したしな。紫萱が心配していたのは、リハビリの開始時期だ。それだけの話だよ」
「そうですか。心配はしなくてもいいのですね」
安心した顔をして、アニラは笑った。
少しでも、一度でも輝にかかわってしまうと、彼のことが気になって仕方がなくなってしまう。いまは、記憶喪失になってしまっているラウラや浩然のことよりも、輝のほうが気がかりだった。
アニラは、立ち上がって花に礼をすると、庭の真中にある噴水に腰かけた。そこの水をすくい、その水をしっかりと見る。
「私がここでこうしていても、何のお役にも立てないのですね」
水を見たまま、アニラが呟く。それは、彼女の願いを示していた。
すべての人間、全ての命が平安であれ。
そう願う心が、いま、何もできない自分自身を責め立てていた。
「アニラ、それじゃ、あのラヴロフのシリンと変わらないぜ」
アニラの心を読んだのだろうか。天佑がそっと、アニラの肩に手を置いた。
「あいつらは、世界の平和のために、一部の人間の不幸を願った。不幸が平和を呼ぶ心を作り出すと錯覚していた。でも、アニラはそうじゃないだろ」
天佑の言葉に、アニラは目を丸くした。一つの真実を見た時のような表情だ。
三人は、驚いた顔をしているアニラが何も言わなくなってから、黙ったままになってしまった。そのうち、町子たちが学校から帰ってきて、宿題を終えたのか、軽快な金属音が屋敷中に響き渡った。メルヴィンが何らかの金属を打つ音だ。最近は台所で使う包丁を研いだり、鍛えなおしたりすることが多くなってきたという。
そんなメルヴィンの音を聞いて、アニラは夢からさめたような顔をした。そして、劉姉弟を交互に見ると、こう言って二人の服を掴んだ。
「いいことを思いついたわ。二人とも、手伝って!」
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