第16話 迷い人
十六、迷い人
いつ頃からだったろうか。
劉 天佑という青年が住んでいるこの渓谷は、地図から姿を消していた。何者がどのような目的でそのようなことをしているのかは分からない。しかし、天佑からすれば、それは自分自身を侮辱されたに等しいことだった。
天佑には一人の姉がいた。名を紫萱と言った。二人ともずいぶん昔からこの地に住み、自給自足の生活をしてきた。あまりにも昔から住んでいるために、彼らはしょっちゅう名前を変えて生活してこなければならなかった。彼らが生まれてからもう、三回も名前を変えていた。
彼らの住む谷は、中華人民共和国となった大きな国の奥地にあった。気候は決して温暖ではなかったが、暮らしにくいほど寒くもなかった。谷あいに家があるために日が短かったが、それも慣れればさほどの悩みでもなかった。
天佑は町が嫌いだった。時々姉の紫萱に誘われて、町に出る服を着て出ていくことがあった。この山間部でとれるお茶を売るためだ。その金を衣類や食料に換えたり、髪の毛を整えたりするのに使う。たまに出る町は人であふれていて、少し古風に見える天佑達を珍しそうに見る人間の視線が、彼の嫌悪感を刺激していた。
「町はそう言うところよ、気にしないで」
紫萱はそう言ったが、天佑は慣れなかった。町の人の視線も気になったが、一番気になったのは、町に平気でごみを捨てていくマナーの悪い観光客だった。
町から家に帰り、ほっとしたところで、姉が食事の用意を始めた。日は暮れかけている。天日干しにして発酵させた茶葉を片付けながら、天佑はふと、天を見上げた。
「町も外に開かれるようになって、政治もだいぶ変わった。この渓谷が地図から消えて何年もたつ。何もかもが変わってきたけど、こんなに急に変われば、ついていけなくなる」
姉は、黙って料理を作っていた。天佑の愚痴は今に始まったことではない。しかし、今日はなんとなく寂しさを感じさせた。天佑がどこかへ行ってしまいそうな気配すらしていた。
「天佑、ここが開かれていないのは、地図にないからかもしれないわ」
ふと、浮かんだ考えを口にしてみる。紫萱は、料理の仕込みが落ち着くと、かまどに火をつける前に、家に入ってきてゴロゴロとしている弟を見た。
「世界遺産にでもなって、観光客なんか来た日には、ここから出ていかなければならない。ここが町になってしまったら、私たちにもう暮らす場所はないのよ。私は梅、あなたは桃。その記憶をずっと保ってきた以上、頼るところは一つだけになってしまう」
「一つだけ? 俺たちに頼る場所が一つ、あるのか?」
紫萱は、笑って頷いた。
その時、誰かがこの家の戸を三回、ノックした。
おかしい、この渓谷には劉姉弟以外誰もいないはずだ。それに、この家は誰にも知られていない。不思議に思って紫萱がドアに手をかけた。だが、天佑がそれを阻んだ。
「俺が開ける。仲間の気配じゃない」
天佑はそっと、木でできた戸に手をかけた。片手には薪に使うための太い木の枝を持っていた。そして、勢いよくドアを開けると、外にいた相手に薪で殴り掛かっていった。
すると、相手はきゃあ、と悲鳴を上げてとっさにその薪を受け止めた。だが、天佑の力と勢いに押されてその場に尻もちをついてしまった。
相手は、年端も行かない女の子だった。
「いったた。いきなり何するかと思ったら。こんなの聞いてないよ」
その年端も行かない女の子は、後ろに三人の人物を連れていた。
なぜ、今まで気が付かなかったのだろう。今になってようやく、果てしなく大きい、ほぼ無限に近い大きな力を感じる。この女の子の後ろで苦笑いして謝っている存在。地球のシリンだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます