第7話日本人同士

 なんだかんだとやっているうちに、クリスマスが近づいてきた。キャンパス内の大きな木にも飾り付けがなされ、かなり気候も寒くなった。時々雪も降る。そんなある日、僕が廊下を独りで歩いていると、女の子に声をかけられた。

「新藤君」

僕はびっくりした。いつもと違う呼び方をされたことに、つまり彼女が日本語で僕を呼んだことにだ。

「え?」

振り返るとやはり日本人の女の子が立っていた。ああ、確か同じ寮にいた子だ。一度キャシーの歌を聞きに行ったとき、どこか淋しそうだったのを覚えている。僕はまたまた久しぶりに日本語を話した。

「君は、えーと」

「森元啓子よ。よろしく」

「よろしく」

「いつか話しかけようと思ってたのに、あなた寮を出ちゃったし、ずいぶんジェイスに惚れられてるみたいで、近寄らせてもらえなかったわ」

「そ、そうなの?」

「そうよ。ジェイスってば、新藤君を日本人の女の子には近づけてなるものかって結構あからさまに私の邪魔をしてたわよ」

知らなかった。ジェイスがそんなことをしていたなんて。僕は不安になるばかりで実際には何もしていなかったのに。僕はしてもらってばっかりだ。だから余計に不安になるのかも知れない。それにしてもジェイスこそ心配症だ。僕がジェイスよりも日本人の女の子の方を選ぶなんてことは絶対にないのに。

「君は、えーと、森元さんは、友達とか、その、できた?」

「みんな良くしてくれるけど、でもやっぱりついて行けないの。他に日本人の女の子もいるんだけど、バイタリティーのある子ばっかりでね、日本人同士くっついてちゃ来た意味ないって正面切って言われちゃって、あんまり話しかけられないの」

「それは、なんかひどいね」

「でも、あなたもそう思ってるよね」

「思ってないよ、別に」

「でも日本人と全然しゃべってないでしょ」

「それはね、ただ僕は日本人があまり好きじゃないからなんだ。もちろん人によるし、君のことが嫌いではないんだけど、日本が嫌で逃げてきたからさ」

僕はそう言って微笑んだ。僕もひどいことを言っているかも知れない。なるべくごまかすために笑顔を作ってみたのだ。

「新藤君、本当にジェイスが好きなの?」

「うん。…え?どういう意味?」

「あ、ううん、いいの。まさかね」

彼女の思考回路が読めてしまった。さすが日本人。まさか僕とジェイスが恋人同士なわけはないと思っている。大学で見ていても十分怪しい僕らではあるが、日本人には理解できまい。

「私ね、かなりひどいホームシックにかかったの」

「へえ」

「かからなかった?」

「うーん、まあ、少しね。日本の絵を見たり日本から電話があったりしたときにちょこっと」

僕達は中庭の方へ歩き出した。

「私もね、家に電話したりすると余計辛くて、ただ耐えてたわ。部屋にいてもルームメートがいるし、お風呂の中とかベッドの中でしか泣けなかった。時々日本語がしゃべりたくなってね」

「うん、分かる」

「独り言とか言ってたの。中庭とか、人のいないところで。歌を歌ったりとか」

「ふうん。今は?」

「それがね、もう我慢出来なくなって、誰かと日本語で話したくてどうしようもなくなって、あなたに声を掛けたわけ」

僕は足を止めて彼女の顔を見た。今、この人はしんどいのか。表面には出していないけれど、どうしようもなく辛いのか。

 彼女はニコッと笑った。しかし笑えなくなって泣き出した。僕の胸にすがって泣いた。僕はそっと彼女の肩に手を置いた。そうして彼女が泣き止むのを待っていた。

「ごめんね。恥ずかしいな」

「そんなことないよ。正直言って僕も泣いたもん」

「ジェイスは慰めてくれた?」

「…うん」

「いいな」

よかった。慰めるというのは、言葉通りの意味だったか。深読みしていたら墓穴を掘るところだった。

「たまにはこうして話し相手になってくれる?それとも迷惑かな、せっかく英語に慣れてきたのに」

「そんなことないよ。いつでもどうぞ」

「ありがとう。新藤君って優しいのね」

「いや、そんなことないって」

「やっぱり男の子は日本人がいいな。最初はアメリカ人の方が優しいと思ったけど、気持ち分かってくれるのは同じ日本人だよね」

「そう?」

「うん。ねえ、クリスマス、どう過ごす?」

考えてもいなかった。多分ジェイスに任せておけばいいのだろう。あ、プレゼントを用意すべきだろうか。

「アメリカ人はみんな家族と過ごすでしょ。私たちは日本に帰るわけにもいかないし、友達がみんな帰っちゃったら淋しいでしょ。一緒に過ごさない?」

「えっと」

「それとも日本に彼女がいるとか?」

「いや、そうじゃないけど。あの、まだ予定立ってないから。もしかするとどこかのパーティーに呼んでもらえるかも知れないし。そしたら君も一緒に行こうよ」

「そう?そうね。また後で決めましょうか」

「うん」

僕は少しびっくりしていた。日本人の女の子にしては結構大胆に誘うじゃないか。それとも今ではこれが普通なのだろうか。それにしても日本人の男の子なら他にもいるのに、わざわざ恋人のいる僕を誘わなくても…いや、彼女はジェイスと僕が恋人同士とは思っていないのだから仕方ないか。


 図書館で勉強をしているとジェイスがやってきた。

「帰る?」

「区切りのいい所までやっちゃえよ。そしたら一緒に買物して帰ろうぜ」

僕は言われた通り勉強に戻った。まだ時間も早い。いつもならまだジェイスは帰ろうなんて言わない時間だった。ジェイスは僕の向い側に腰掛けた。何かをするというのではなく、じっと僕を見ているようだった。僕は気になって顔を上げた。ジェイスは少し切なげな目で僕を見ていた。僕と目が合っても表情を変えず、また何も言おうとせず、じっと見つめているのだ。

「何?」

「やっちゃえよ」

ジェイスは顎で書物を差した。僕はなんとなくまた勉強に取りかかった。それでもジェイスはまだこっちを見ている。気が散って仕方がない。勉強と言っても急ぐものではないし、僕は終わったことにした。

 僕がパタパタとノートなどを閉じて鞄に詰めると、一足先にジェイスは立ち上がった。僕も立ち上がり、出口に向かおうとすると突然ジェイスに腕を引かれ、本棚と本棚の間に引っ張り込まれた。ジェイスは僕を本棚に押しつけるといきなりキスをした。僕はもう少しで鞄を落っこどし、大音響を立てるところだった。キスが終わるとジェイスはさっさと出口へ向かった。僕は何が何だか分からずポカンとして突っ立っていた。少ししてジェイスは振り返った。そして手招きをするのだ。その仕草ときたら超絶品。これ以上かっこいい人間の型があるだろうか。僕は今更ながら胸をときめかせて小走りにジェイスの側に行き、思わず、本当に思わず右腕をジェイスの左腕に絡めてしまった。

 ジェイスは、おや、と言うふうに少し眉を上げた。それで僕は自分がしてしまった恥態に気づき、パッと手を放してうつむいた。ジェイスは僕の腕を掴んでぐいぐいと外まで引っ張り出した。

「く~っ、可愛いい。顔がにやけちゃうぜ」

「え、誰が」

「優輝に決まってんだろ」

「えっ」

僕は赤面してちょっとうつむいた。しかしジェイスがやっと笑ってくれたのが嬉しくてニコッと笑った。ジェイスはハッと真顔になった。

「その笑顔、もっと見せてくれよ。俺に」

そしてジェイスはフッと微笑んだ。「俺に」とはどういうことだろうか。やけに強調していたけれど。僕はいつも笑っているつもりだった。けれど本当には笑っていないのだろうか。

 買物をして帰り、ジェイスが夕食を作ってくれた。僕は食事の後、洗濯をした。洗濯物を干しているとき、ジェイスがしきりに机で何か書いていた。もちろんいつもジェイスは勉強しているけれど、何か背中を丸めていつも以上に熱心に書いているようだった。

「何してるの?」

どうも気になって机を覗き込むと、なんと、ひらがな表とひらがなだらけのノート。お世辞にも上手いとは言えないひらがながたくさんノートに書かれていたのだ。

「どうしたの?ひらがななんか」

「日本語覚えようと思って。まずはひらがなだろ」

「まずはカタカナだと思うけどな」

「え、そう?」

「カタカナの方が易しいと思うよ、君にとっては。英語をカタカナで表す場合もあるし、君の名前だって、カタカナで「ジェイス・ラッセル」と書けば、日本人は誰でも分かってくれるよ」

「そうか。よし、まずはカタカナだな」

そう言ってジェイスはひらがな表をひっくり返してカタカナ表を出した。

「何かあるの?やけに一生懸命だけど」

「今日さ、女の子と話してただろ。中庭で」

「え、僕?ああ、話してたよ。日本人の子で、森元啓子っていう子」

「優輝、楽しそうだった」

「ま、まさか、そんなことないよ」

「でもリラックスしてたよ」

「それは…まあ」

「彼女の方もリラックスしてたな。あの子いつも優輝のこと狙ってたの、俺知ってたんだぜ」

「ああ、あの子、ホームシックにかかっちゃってるらしいから、時々日本語しゃべりたくなるらしいよ」

ジェイスは何か言おうと口を開いたが、何も言わずに溜息をついた。

「とにかく俺は日本語を覚えるぞ。優輝と日本語で会話できるように」

そうか。ジェイスは嫉妬しているのだ。森元さんに。ジェイスもまた、言葉の壁に気付いている。僕はそっとジェイスを後ろから抱きしめた。

「いいのに。僕がもっと英語を完璧にするよ。だから僕に英語を教えてよ」

「教えることなんて何もないよ。優輝の英語は完璧だ」

「日本語は難しいよ」

「いい。やると言ったらやる。だから教えてくれよ、な」

「うん」

 僕は早速ローマ字で「こんにちわ」や「おはよう」などの日常会話を書き、それをカタカナとひらがなでも書いて表にした。ついでに一つの文章を文法用に用意し、SVOCなどの文法上の記号を当てはめて書いた。ジェイスが片言の日本語で「こんにちわ」などと言うとかっこいいイメージが崩れて可愛いい人になってしまうけれど、とても親しみが感じられた。

 夜ベッドに入ったのは二時過ぎだった。随分いっぺんに勉強したものだ。ベッドに入るとジェイスはボソッと呟いた。

「森元啓子とあんまり仲良くしないでくれよ」

「…ジェイス、君が不安になる必要なんか全然ないよ。ジェイスより魅力的な人なんているわけないんだから」

「でも、気になるんだよ」

「フフ、分かったよ。仲良くしないよ」

僕はジェイスの肩に頭を付けて眠った。


 翌日、大学ではクリスマスパーティーの話題が盛り上がっていた。クリスマスイヴからしばらく大学は休みに入るが、その前に寮でパーティーをやるというのだ。ジェイスと僕も元いたよしみで招かれた。もっとも、みんな何とかジェイスを誘いたいのだ。僕はついでかも知れない。僕はアメリカのクリスマスパーティーのことなどよく知らないし、プレゼント交換などはあるのかどうか心配になった。そこでカールを捕まえて聞いてみた。

「いろんなパーティーがあるからね。ダンスパーティーもあれば何か劇をやる場合もあるし。プレゼント交換の方法もいろいろだと思うけど、とりあえず自分が一つ用意しておけば、後は主催者に任せといて問題ないよ」

ということだった。僕はどうもプレゼントを買うというのが苦手だ。子どもの時以来買っていない。日本人男子ならそれが普通だと思うのだが。

 ジェイスが夕方、家―ラルフィーのところ―に電話してクリスマスのことを話しているのを見て、僕はふと、良いことを思いついた。僕は姉に電話をかけた。

「あら、優輝、どうしたの?」

「あのさ、頼みがあるんだ」

「なあに?」

「実はさ、ジェイスのクリスマスプレゼントを考えてるんだ。ジェイスは日本贔屓だし、何か日本らしいものを買って送ってほしいんだよ」

「そうねえ、何がいいのかしら」

「ジェイスは絵が好きかな。でも茶碗なんかもいいし。何でもいいから頼むよ。お金は…」

「お金はいいわ。その代り、私に何か送ってよ、クリスマスプレゼント」

「え?うーん、何がいいの?」

「何でもいいわよ」

まあ、こうなることは当然だろう。結局プレゼントを買うという手間は省けなかったが、日本で買ったものをジェイスにプレゼントできればそれでいい。

「優輝、日本にかけたのか?」

電話を終えるとジェイスが声をかけた。日本語なら分からないと思ってジェイスのいるところであのような会話をしていたのだ。

「うん。姉さんのところに」

「あのさ、クリスマスの予定あるか」

「別にないけど」

「俺、一応家に帰らないといけないんだ」

「ああ」

ギクリとした。「家」にはラルフィーがいる。しかもラルフィーだけがいるのだ。

「優輝も一緒に来ないか?」

「えっ、いいの?」

「もちろん。どうせ家族と言っても二人きりだし、優輝だって独りでここにいてもつまらないだろ」

「うん。そうか、君の家に行けるんだ。楽しみだな」

僕がそう言うとジェイスは嬉しそうに笑った。しかし僕は突然笑みを失った。忘れていたのだ、森元さんのことを。クリスマスを一緒に過ごそうと誘われていたではないか。誰かの家に招かれたら一緒に行こうと言ったはずだ、僕は。寮でパーティーをやると聞いたとき、森元さんも寮生だからこれであの約束もパーになると思ってほっとした。しかしあれはイヴの前日だ。みんなが家族の元に帰ってしまうのはその後。彼女が一緒に過ごそうと言ったのはクリスマス当日のことだ。僕がジェイスの家に呼ばれて行くとなると、それに彼女を誘わなくてはならない。でも、昨日ジェイスに彼女と仲良くするなと言われたばっかりだし。もしかしたら、僕が彼女に構っている間にラルフィーがジェイスに…。嫌だ。

「どうした、優輝」

「あ、いや、あの、…何でもないよ」

仕方ない。森元さんには謝ろう。

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