第七十話 夜に響く叫び声
聖印京付近の森でのことだった。
時刻は、丑の刻。夜になった頃。あたりはすっかり真っ暗だ。
こんな時間に人の気配があるはずがない。
だが、どういうわけか一人の男性が、必死に逃げるかのように走っていた。
男性は息を切らして走り続ける。その男性の背後に妖らしき影が男性を追うかのように迫ってきている。
逃げても逃げてもだ。
足がもつれ、転倒しそうになりながらも男性は走り続ける。逃げ切るために。
男性はようやく、闇に紛れ、逃げ切ることに成功したようだ。
息を整えて、妖が追ってこないことを確認する。
この男性は、街で出稼ぎに行っていたのだが、気付けば夜になってしまい、急いで都へ戻ろうとしていたところであった。
そのため、現在立ち入り区域となっていた森に入ったのだが、運悪く妖と遭遇してしまったらしい。
逃げ切ったのはいいものの都から遠ざかってしまった。
「こ、ここまで逃げれば、追ってこれないはずだ。早く、都に戻らないと……」
男性は、あたりを見回し、動こうとする。
森を抜けて、都へ戻らなければ。
そう、思った時であった。
なんと、逃げ切ったはずなのだが、男性の背後に妖の姿があった。
「ひっ!」
妖に気付いた男性は、驚愕して尻餅をついてしまう。
立ち上がらなければならないのに、体が震え立ち上がれそうにない。
恐怖で身が硬直してしまったようだ。
妖は、恐怖におびえる男性に近づく。
一歩一歩、ゆっくりと。
「嫌だ……助けて……死にたくない!」
男性は恐怖で涙を流し始める。
だが、妖は容赦なく、口を開けた。
口から見える牙は、月明かりに照らされ、ぎろりと光り、刀よりも太く見える。
妖は男性に食いかかろうとしていた。
「あ、ああ、ああああああああっ!」
妖は男性を食べ始める。
男性の断末魔のような叫び声が森に響き渡る。
だが、誰もいないため、助けてくれる人間はいない。
男性を食べる音、飛び散る血や肉の音、無残な不協和音が森に響き渡った。
妖は男性を食い殺すと、闇の中へと消えていった。
その森に残されたのは、男性の食いちぎられた腕のみであった。
夜が明け、日がたった。
あの男性の家族が、男性の帰りが遅いため、聖印寮に捜索願を出した。討伐隊が、男性を捜索したところ、食いちぎられた男性の腕を発見。
直ちに、勝吏に報告した後、勝吏が、柚月達に調査をするよう命じた。
柚月達は、現場に駆け付けるが、男性の無残な姿に絶句してしまった。
「……」
「ひどいわね」
「ああ。ほとんど食われているな」
「はい。綾姫様、大丈夫ですか?」
「ええ。少し、気分が悪くなりそうだけど。朧君は?」
「景時が見ている。透馬もついていてくれるしな。九十九も何かあったら知らるように伝えてある」
男性の腕を見た朧は吐き気がしてしまい、気分が悪くなってしまう。
勝吏と透馬に支えられ、柚月達から遠ざかった。
柚月達は、こう言う状況を何度も見たことがあるが、朧は初めてだ。男性の姿を見た朧は涙が止まらず、嗚咽を繰り返していた。
柚月は、朧を気遣って遠ざからせたが、何か起こる場合もあるため、狐に化けた九十九に警戒してもらうよう頼んだのであった。
「今回の妖は、人食いのようですね」
「そうね。これで、三人目……。情報は一切わからない」
「九十九も知らなかったようだしな」
これで被害者は三人目であった。
出現場所は特定されていない。どのような妖なのかは人を食べるということしかわかっていない。
九十九でさえも、不明のようだ。
そのため、夜の外出を控えるよう注意が促され、特に聖印京周辺の森や山などは夜は立ち入り区域としていた。
それでも、被害者は出てしまった。
何か別の対策を練らなければ、被害は拡大する一方だ。
柚月達は、他に何か手掛かりがあればと注意深く調べていた。
その時だった。
「柚月!」
譲鴛が柚月達の元へ駆け付ける。
男性を捜索していたのは偶然にも譲鴛達だ。
彼を発見した際、譲鴛は、勝吏に特殊部隊の派遣を要請した。
柚月達の実力を信頼して。
「譲鴛、そっちはどうだ?」
「妖気は残ってないみたいだ」
「そうか、これではどこに出現するか見当もつかないな」
譲鴛達も、周辺を調査していたのだが、手掛かりはつかめていないようだ。
捜査も難航している。解決の糸口は見つからないままであった。
「今夜、第三班に調査をさせようと思ってるんだ。まずは、情報を手に入れないとな」
「ああ。だが、気をつけたほうがいい。今回の妖は手ごわいようだからな」
「班長には伝えておく」
柚月と譲鴛は、うなずき合う。
かつての上司と部下であり、同期の間柄である彼らは、互いを信頼し合っている。
柚月が特殊部隊に移っても変わらなかった。
「俺達は、朧の様子を見てくる」
「そうだな。だいぶ、参ってたみたいだしな。よくなっているといいな」
「……ああ」
譲鴛と別れた柚月達は、朧の元へ駆け寄った。
朧は、景時に背中をさすってもらっている。
最初は、顔色が青ざめていたが、今はよくなっているようだ。
「景時、朧の様子はどうだ?」
「だいぶ、よくなったみたいだよ。ね?朧君」
「はい、ごめんなさい。兄さん」
「気にするな。お前も辛かっただろう」
「うん」
男性の状況を思いだしたのか、朧は目に涙を浮かべている。
よほど、つらかったのであろう。あんな無残に殺されたと思うと気分が悪くなるのも当然だ。その気持ちは柚月もよくわかっている。柚月も最初は同じように気分が悪くなってしまったから。
妖は、残忍な化け物だ。最初は柚月はそう思っていたのだが、今は違う。いい妖だっている。そう思うと複雑な心情だった。
「人食いの妖か、厄介なのが来たな」
「そうだな。もしかしたら、天鬼の差し金かもしれねぇな」
「……天鬼が動き始めたか。警戒したほうがよさそうだな」
「おう、そのほうがいいぜ」
九十九の言葉を聞いて柚月達はうなずく。
その直後だった。
柚月が青ざめてしまう出来事が起こったのは。
「柚月?」
「!」
柚月達が気付かないうちに、譲鴛達が柚月の元を駆け付ける。
柚月達は、驚いたように振り返った。
譲鴛達は、気付いてしまっただろうか。九十九が、しゃべっていたことに。さすがに、普通の狐がしゃべるなど考えられない。考えられるとすれば、妖しかいない。
そのことに気付かれてしまっては、朧も九十九も危険な状態に陥る。
柚月は、平然を装って、譲鴛に話しかけた。
「ど、どうした?譲鴛?」
「なんか、聞いたことない声がしたような気がしたんだが……」
「気のせいじゃないか?」
「そうか。とりあえず、俺達は都に戻るんだが、柚月達はどうする?」
「……もう少し、調べてみる」
「わかった。気をつけろよ」
何とか、気付かれずに済んだようだ。
譲鴛達は、聖印京へ戻るため、歩き始める。
柚月達は、未だ警戒心を解けていない。いつ、気付かれてしまうかと思うと、解くことができなかった。
「……」
春風は、朧の方をちらりと見る。
だが、誰も気付いていないようだ。
九十九も朧も、そして、柚月も……。
譲鴛達の姿が見えなくなるまで見ていた柚月達。
全員、一斉に安堵したように息を吐いたのであった。
「危なかった。気付かれたかと思ったぜ」
「一瞬ひやっとしたな」
「わ、わりぃ」
「いや、俺も注意すべきだった。すまない」
譲鴛達の元へ駆け付けた当初は、九十九の存在に気付かれないように警戒していたのだが、調査していくうちに警戒心を解いてしまったのである。
以前の柚月ならあり得ないことであっただろう。
気付かれなかったからよかったものの、今後は注意すべきだ。
朧と九十九を守るためにも。
柚月は、そう心に決め、九十九を責めることはしなかった。
「俺達も戻ろう」
「そうだね」
柚月達は、聖印京へ戻り始めた。
だが、彼らは、気付いていなかった。
彼らの様子を遠くから奈鬼が見ていたことに。
「九十九?」
奈鬼は、九十九の気配に気付いたのであろうか。
柚月達のことを姿が見えなくなるまで見ていたのであった。
時刻が立ち、夜になった。
真谷は、自分の部屋に閉じこもり何かをしているようだ。
彼は、あの黒い石を手にし、何かを見るように眺めていた。
「次は、討伐隊を派遣したか。これで被害が拡大すれば、兄者は動くはずだ。さあ、食い殺せ。妖よ」
「……」
真谷は黒い石を眺め、不敵な笑みを浮かべていた。
女性が真谷の様子を見ているとは気付かずに……。
そのころ、討伐隊・第一部隊・第三班が調査をしていたのは。
場所は、森の中だ。あの男性が食い殺されてしまった付近を調査している。
もしかしたら、再び出てくる可能性があると考え、この場所を選んだようだ。
討伐隊は、警戒しながら歩き始めていた。
「この辺りに出現したんだよな?」
「みたいだな。気をつけろよ。いつ出てくるかもわからないしな」
班長はあたりを見回す。
妖はいつ、どうやって出てくるかわかっていない。
十分警戒が必要だ。
用心して歩いていた。
「ねぇ、班長?」
「どうした?」
「ここで、妖を討伐したら、柚月様、俺達のこと褒めてくれるかな?」
「そんなこと言ってる場合じゃ……」
「いいな。まぁ、討伐できなくても情報さえ手に入れれば、十分かもな」
彼らも柚月に憧れ慕っている。
それは、柚月が特殊部隊に移っても変わらない。
自分達が成長したことを柚月に見せるいい機会だと思っているのだろう。
その為に、情報を得たいと隊士達は、気合を入れているようだ。
班長も同じように考え始めた。柚月の手助けになればいいと思って……。
「……まぁ、そうだな。でも、危なくなったら退避するぞ」
「はっ!」
隊士達はうなずく。
だが、その時だった。背後に妖が忍び寄ったのは……。
彼らは、そのことに気付いていない。
すると、突然、妖が隊士を襲い始め、隊士は妖に一瞬で食われてしまった。
「ぐぇ!」
「!」
叫び声が聞こえ、班長、隊士達は後ろを振り向く。
目の前に広がった光景は残酷な光景だった。
突然、妖が自分達の背後に現れている。
だが、それだけではなかった。
部下が妖に胴体を食われている。
部下は、目を見開いたまま、ぐったりとしており、動かなかった。
「さ、
妖は佐々波と呼ばれた隊士を無残にも食い殺した。
彼らの眼の前で、血と肉が飛び散り、彼らは目を見開いたまま、動けずにいた。
「よ、よくも!」
「よせ!」
隊士の一人が怒りを露わにし、妖に斬りかかる。
班長が止めようとするが時すでに遅し、彼もまた、同様に妖に食われてしまった。
「あああああっ!」
彼の断末魔が響き渡り、血と肉が飛び散る。
あっという間の出来事だ。
一瞬で二人も食い殺されてしまった。
何もできずに……。
「あ、
篤巴と呼ばれた彼の姿はもうどこにもいない。
妖が食べつくしたからだ。
妖は、目を光らせ、隊士達をにらみつけていた。
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