ココヨリトワニ

玉鬘 えな

天使と悪魔が踊る夜


「もう死のう」


 生きているのが辛い。苦しい。寂しい。

 いいことなんて今まで何も無かったし、これから先、起こる予兆も感じられない。


 街で一番高いビルの屋上でキラキラとまたたく星たちをぼんやりとした眼で見つめながら、私は他人事のように落とした自分の呟きを聞いた。それから靴を脱いで、かかとの履き口を指でちょんと摘まんできちりとそろえた。

 ひたりと冷たいフェンスに手をかけ、建物外壁の縁へと身を乗り出してみる。ひょうと風が吹いて、地味な焦げ茶色のスカートが風に煽られてちらりと揺れた。

 このビルは何階建てだっただろうか。遠く下界には深夜だというのに光り輝く摩天楼が見える。それは誰かにとっては夢のような世界であるらしいが、私にはうるさすぎる世界。明るく華やかでいて、そのじつは身を切るほどに厳しい、残酷な世界。


 この世に未練などない。後悔も申し訳なさも、何も持ち合わせていない。そんな執着を残すような関係など、誰とも築くことのない人生だったのだから。

 すうと深呼吸を一つして、いざと目を開けたその瞬間。

 目の前の中空に現れたのは一対の――という表現が正しいのかどうかはわからないが――天使と悪魔。


「おやおや全く驚かないね。こりゃあ相当お疲れのようだ」


 絵に描いたように、全身白づくめの男と全身黒づくめの男。かたや純白の翼にきらめく頭上の輪。かたやてらてらとした蝙蝠こうもりのような漆黒の羽根に鉤爪かぎづめの尻尾。見るからに、いかにもそうとわかるついした二人組。

 彼らは口々に、ぽかんと目を見張るばかりの私に対してこう言った。


「お嬢さん、世をはかなむのはまだ早くはないかな? 生きていれば、この先まだまだ楽しいことも嬉しいこともたくさんあるんだよ」

「やめやめ。むやみにこの世に希望を持たせるような真似は。お嬢さん、今日までよくやったな。さぞ疲れたろう。せめて安らかに、眠るがいい」

「なにを言ってるんだ! 死んだら何もかもなくなってしまうんだよ。好きなものを得たり、素敵な彼氏と恋愛したり、美味しい料理を味わうことも絶対にできなくなる。さみしいよ」


 私は二人を交互に見比べて、どちらにともなく問いかける。


「ええと……二人は自殺を止めにきたの? すすめにきたの?」

「止めにきた!」

すすめにきた」


 相反する答えは同時に。なるほど、返ってきた言葉もその表情も、いかにもらしい。

 私は、ほう、と感嘆の息を吐いた。


「こういうのを“天使の囁き、悪魔の誘惑”っていうのね」

「いやぁ、ほんとに落ち着いてるんだね。さぞかし大変な人生だったんだろうなぁ。君はよくやったよ。どうだい、せっかくだからこの際、もう少し生きて頑張ってみては?」

「やめろって。これほどに潔く決意をしている心に、いらぬ夢を抱かせるな。あるかなしかの希望にすがりつくのは辛かろう。我が力ですんなりと苦しまずに、あの世へ送ってやろう」

「早まっちゃ駄目だよ。やる気になればなんでもできる。人生まだまだこれからなんだよ」

「無責任なことを言うな。そんな保証がどこにある? この世には、悲哀と憂苦が蔓延している。死はむしろ、救いだ」


 代わる代わるの言葉を聞いて、私はよく考えた。とてもとてもよく、考えた。

 そして思ったのだ。


 天使さまの言うことは真にいちいちもっともだ。

 やはり悪魔の言うことなんて、信じちゃ駄目なのだ。

 私は決意を新たにした。

 生まれ変わろう。そのために、今よりここから、勇気を持って足を前に踏み出そう。



 そうして私は、夜の虚空の中に大きく一歩を踏み出した。



 願わくは、次の世では鳥に生まれたい。何にもとらわれたりせず、自由にいきたい。

 そんなことを考えたのが、確か最後の記憶――。



          * * *



「お前ってさ、いつからそんなになっちゃったの?」

「なにがだ」

「なにがって……ほら、ふつう天使だったら『生きるって素晴らしいよ』だの『いのちは大切』だの言うもんじゃないの?」

「そういうのは綺麗事。まさしく甘言てやつじゃないか? だからそれらは、悪魔のセリフなんだ」

「そーゆーもん?」

「生きていればいいことがあるなんて、無責任じゃないか。世の真理を告げるとするならば『生きることは真実、苦しいものだ』だろう?」

「ふーん」


 とかく恬淡として気のなさげな悪魔に、天使はまことに優しさに満ちた切ない眼差しで語る。


「彼女はとても頑張っていた。文句のつけようもなく真面目に努力をして正直に生きてきた。その彼女に、もっと頑張れと? 粉骨砕身してまだ励めと? 必ず運が好転する保証もしてやれないというのに――。それにそもそもだ、君が生にしがみつくことを強く勧めるのも、先々堕落していく可能性が高いと計算してのことだろう?」

「うーん、まぁそーだな」


 好きなものを手にする夢や憧れは物欲を、異性との素敵な恋物語は嫉妬や淫欲を、美味しい食事を求める愉しみは暴飲暴食を、得てして産み出すもの。


「人間は生きていてこそ、悪魔にとって餌食となりうるからな」


 あーあ、お前のせいで今日も獲物を逃しちゃったよ、と悪魔は黒い尾をそよがせた。





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