第17話

「まるで子供ん時からここに住んでるみたいだな。」

 地べたを打つなっちの腕さばきは、つい数日前まで「チャカマカチャン」を知らなかったなんてとうてい信じられぬほど、なめらかになっていた。その上達ぶりに一太はしきりと感心したが、なっちはひとかけらも不思議とは思っていなかった。一太の特訓の時間だけでなく、細工場で銀と一太が作業するのを見ている間も、頭の中でずっと太鼓を打ち続けているのだから。寝ている時だって、夢の中でバチを振り回している。

「まだ一度も本物の太鼓ではたたいてないけどね。」

「地べたでそれだけ出来りゃ太鼓でもおんなじだよ。」

 体の奥にずしんと響くあの音を鳴らすのは、どうやら本番までおあずけらしい。「ちびっこ会」では祭り前の二週間、毎日本物の太鼓を打っていた。だから最初のうちは、一太たちのやり方が信じられなかった。けれども数日一緒に過ごして、ようやく分かってきた。ここでは大人だけでなく子供たちも、一日中細工場で働いている。しかも天井を突き上げるような大きな火と、熔けた鉄を相手にする危険な重労働だ。わざわざ太鼓を引っぱり出す時間も体力も、仕事の後に残っているはずがないのだ。きっとその分、お祭りは爆発するみたいに盛大にやるのだろう。初午。ハツウマ。

「いよいよ明日だね。」

「いや、祭りは今日からだ。」

「ええっ? だって初午は明日だって……」

「太鼓は宵宮からたたき始めるんだよ。」

「ヨミヤ?」

「初午の前の日の事だ。」

「つまり…… もう今日、太鼓打てるのね!」

 なっちの顔が光に照らされたようにパァッと明るくなるのを見て、一太は満足そうに微笑み、うなずいた。

「その前に風呂に行くぞ。」

「そういえば一度も入ってなかったね。一太のうちのお風呂、壊れちゃってるの?」

「また変な事言ってんなぁ。あんな長屋に風呂が付いてる訳ねえだろ。」

 こういうやり取りにはもう二人とも慣れっこになっていたので、気にも留めずに笑い合い、風呂屋に向かった。それぞれ自分用のてぬぐいを持って。

 太い文字で「ゆ」と染め抜かれたのれんの下をくぐると、暗い、がらんとした空間が広がっていた。一太が一段高い所に座っている女の人にお金を渡している。

「タダじゃないんだ。」

 あきれて何も言わない一太に手を引かれて中に入ると、奥の方にもうもうと立ちのぼる湯気が見えた。どうやら湯船も床も全て木製のようだ。なっちは家族旅行で行った温泉を思い出した。

「そういえば私、一太と一緒で良かったのかな?」

「父ちゃんと来たかったか?」

「そうじゃなくて……」

 話はあとあと、という感じで、一太はバサバサと着ている物をかごの中に放り込んだ。なっちは少しためらったが、恥ずかしがるのはかっこ悪い気がしたので、いさぎよくシャツもパンツも脱ぎ捨てた。

「風呂場ですべって転んだりするなよ。」

 一太はなっちの方に振り向いてそう言った後、しばしの間固まった。

「お前、女だったのかよ!」

 なっちは一太と同じくらい目を大きく見開いて、叫んだ。

「知らなかったの?」

「だって髪は短いし、太鼓打ちたいなんて言うし。」

「自分の事『私』って言ってたじゃん!」

「確かにしゃべり方が変だなあ、とは思ってたけど、他にも変な所がたくさんあるから気付かなかった。」

 男と女だ、と意識してから向き合ってみると、妙な気分だった。何せ二人とも素っ裸なのだ。なっちはどこに目をやったら良いのか分からなくなって、一太の体以外の場所に視線を泳がせた。一太はそのぎこちない空気から逃げるように、湯船の方へと走っていった。

「走ったりしたら危ないよ。一太こそ転んじゃう。」

 ぬるぬるして冷たい風呂場の床にこわごわ足を進めつつ呼びかけたが、一太は何も答えない。

 嫌われてしまったのだろうか。私が女だから。

 ぼんやりとした不安がなっちの心をしめつけた。それは「ちびっこ会」のおじさんに抗議した時とも、暗闇の中を一人で歩いた時とも違う、今までに感じた事のない苦しさだった。

 案の定一太は湯船の前で右足をつるりとすべらせた。しかし転ぶようなへまはせず、その勢いでどぼんと湯の中に飛び込んだ。

「大丈夫?」

 返事はなかった。なっちが近付くと、一太は湯気の中でむっつりと横を向いている。早くそばに行かなければと、なっちはきょろきょろとあたりを見回した。

「ねえ、シャワーはどこにあるの?」

「……何さがしてんだ?」

 ようやく答えてくれた。一太がこちらを見ているのを確認して、なっちはほんの少しだけ安堵した。

「シャワーだよ。お風呂に入る前に体にお湯をかけたいから。」

「ほら、そこにおけがあるだろ。」

 一太が指差した先には、木製のおけが積み上げてあった。

「それで湯船から湯をくんで使うんだ。」

 一太に言われた通りおけで体にお湯をかけ、なっちは湯船に入っていった。思いの外冷えていたようで、足の先がじんとする。

「一太。」

 なっちは一太のすぐ隣に、ぴったりくっついて座った。お互いの腕が触れ合う。

「怒ってる?」

「怒ってねえよ。」

 その言い方は怒っているように聞こえた。しかし体を離したりはしなかったから、なっちの事を大嫌いになってしまったという訳ではないらしい。二人はそのまましばらく無言で湯につかっていた。

「……内緒にしてたんじゃないんだよ。」

「分かってる。」

 一太はなっちの方は見ずに、濡れた指で鼻の下をこすった。そして何かハッとしたような表情になって、風呂場のはしからはしまで見渡した。おじさんが二人、てぬぐいで体をこすっている。どちらも知らない人だ。

「お前が女だって、大吉たちに気付かれないようにしろ。」

「どうして?」

「また騒ぐに決まってる。『女が太鼓なんて打ったら、お稲荷さんが怒る』って。」

「ねえ、前に聞きはぐっちゃったんだけど。」

「何だ?」

「お稲荷さんって、何?」

 あまりにも基本的な質問に、一太は一瞬言葉に詰まった。 

「細工場のわきに赤い鳥居とほこらがあるだろ?」

「それは知ってる。うちのマンションの屋上にもあるから。」

「じゃあ何だよ。」

「どう言ったら良いのかな。あれをお稲荷さんって呼ぶのは知ってるの。中に神様がいるのも何となく分かる。」

 一太が湯にあごをひたすように、深くうなずいた。

「でもね、大吉が何であんなに大騒ぎするのかが分からないの。」

 マンションの住人で、お稲荷さんを気にしながら暮らしている人なんて一人もいなかった。大人はめったに屋上へ上がらないようだから、その存在自体を知らない人も多いのかもしれない。誰も手入れをしていないらしくボロボロで、怖いというより寂しい雰囲気をただよわせている。神様のはずなのに、捨てるに捨てられずそのまま忘れ去られた粗大ゴミみたいなのだ。

「お稲荷さんは火の神様で、細工場を守ってくれてるんだよ。火を無事に使えるようにな。初午もお稲荷さんのお祭りだ。」

「だから大吉は私に太鼓を打たせたくないのね。」

「あいつはちょっと騒ぎ過ぎだけどな……。」

 一太はくっくっと笑って、続けた。

「鋳物師にとってお稲荷さんが大切なのは確かだよ。なっちも俺たちの仕事を見てりゃ分かるだろ?」

 一太がひしゃくで運んでいた熔けた鉄は、金属に見えなかった。高い密度を保ったままさらさらと流れていく、火そのもののようだった。震えが来るほど美しく、恐ろしい。あの吹きの様子を思い出しながら、なっちはこくりとうなずいた。

「『ヤケ二十日』っていって、火で大ケガしてもそう長くは休めないしな。俺と父ちゃんなんて『ヤケ五日』ってとこだ。」

「ずーっと働きづめなの?」

「そんな事はないさ。明日の吹きは休みだ。」

「お祭だもんね。」

「初午の日に火を使うと火事になるからだよ。風呂も今日のうちじゃないと入れないんだぞ。」

「初午って、色々大変なのね……」

 どうか、私が太鼓をたたいたせいで細工場が火事になったりしませんように。なっちは湯の熱さでぼんやりしてきた頭と体で、お稲荷さんにお祈りした。幾重にも重なった赤い鳥居を思い浮かべて。

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