第47話 影すら置き去り

 その場に立ち止まっている蒋師仁は、去り行く驢馬の尻と尻尾を見送った。劉嘉賓を乗せて、青みがかった驢馬の足取りはゆっくりと東を目指す。


 それとは反対に、西に向き直った蒋師仁には、強い風が待っていましたとばかりに吹き付ける。


 両目を細める。だが、完全に閉じてしまうことはない。


 風上に向かって、小走りで隊列を追い抜いて行く。途中で軽く駱駝たちと馬たちの様子も確認したが、お互い離れた場所に配置されているため、特に騒動は起きていなかった。


 これが普通なのだ。


 この使節団には最初から劉嘉賓は存在しなかったのだ。居ない状態が普通なのだ。


「はぁ、はぁ」


 少し、息が切れる。風が強く、口を大きく開けて呼吸すると砂が入ってしまうので、小さな呼吸しかできないからだ。


「あ、蒋副使。後ろの方で何が起きていたのかしら? それに、劉嘉賓の姿が見えないようだけど、どうなっているのかしら?」


 長い黒髪を、頭の高い位置で馬の尾のように結っている王玄策正使が、戻ってきた副使を迎えた。


 部下の当然の働きとして、蒋師仁副使は上司である王玄策正使に一部始終を報告した。


 蒋師仁の話を聞いて、王玄策は表情を険しくした。


 目に宿した光が氷のように冷たくなる。ふっくらした唇を堅く結ぶ。


「まっ、そういうことで。劉嘉賓は、驢馬に連れられて長安へ帰ることになったようです。騒がしいヤツではありましたが、過酷な旅の途中で息絶えるよりは早めに見切りをつけて長安に戻るというのも、賢明な選択だったのではないでしょうか」


 報告を聞いて事態を把握してから、王玄策が考慮に使った時間は、さほど長くはなかった。


「分かったわ。東に向かっている劉嘉賓に追いつくためには、迷っている暇は無いわね。今すぐ、私が行ってくる!」


「……え? ……ええええ?」


 蒋師仁が事態を理解する前に、王玄策は動き出していた。


「私が居ない間、使節団をどうするかは蒋副使に任せるから!」


 言い残して、王玄策は西からの風に背中を押されるようにして走り去って行った。


 東へ。


「あ、あああ、待ってください王正使……って、行っちゃったか……」


 ようやく蒋師仁が声を出した時には、もう遅かった。王玄策の黒髪は風に靡きながら既に遠くに走り去っていた。この場所から叫んだとしても、もう声は届かないだろう。


 一瞬、自分も王玄策の背中を追いかけようと思ったが、足を踏み出そうとして思い留まった。ここで副使の蒋師仁も不在になってしまっては、使節団全体に迷惑をかけることになってしまうだろう。


 困惑の表情をなるべく押しとどめるようにしながら、蒋師仁は周囲を見渡した。


 長身の劉仁楷がいる。焦ったような表情をしているようだ。


 黒ずくめの王令敏がひっそりと佇んでいる。いつもは王玄策の背後に影のごとくぴったりと寄り添っているのだが、今はその王玄策に置き去りにされた形だ。心なしか、その場に立っているだけで居心地が悪そうだ。


 他の兵士たちもいる。ここに居るべき人物で、王玄策だけが居ない。


 ……どうしようか?


 悩んだら上司に相談して判断を仰ぐべきだということは蒋師仁本人も勿論認識しているが、この場面においては、その上司本人が影すら置き去りにして東へ逆戻りして行ってしまったから困っている。


 本来ならば、西への旅を継続すべきところだろう。


 たった一人、劉嘉賓という正規の使節団員ですらない離脱者のために全体が迷惑を被ってはならない。あってはならない事態だ。


 だから、副使として、蒋師仁はこれからどうするべきか、決断をくだした。


 隊列の先頭に立って、西から吹き付ける風に背を向ける。

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