第35話 梟盧五黒に叫ぶ
殺風景な部屋は薄暗く、油が焦げるにおいだけが微かな明かりの存在を主張していた。
「えっ? そんなに魏書体をバカにしているんですか?」
不機嫌そうな表情で賀守一が、笑った蒋師仁を咎めた。嘲笑されたと思ったらしい。
「魏書体を嘲って笑ったんじゃないよ。ちょっと、昼間の王玄策正使との会話を思い出してしまって、つい笑ってしまったんだ」
緩んだ頬を引き締め直しながら、蒋師仁は真面目な表情を作る。
「王正使が、そんな面白いことを言っていたんですか?」
「それは……」
書き終えた紙に軽く触れて墨の乾き具合を確認しながら、賀守一が少し身を乗り出して蒋師仁の言葉を聞こうとした。
その時。
部屋の板張りの壁を無理矢理こじ開けるような野太い大声が、隣の部屋から聞こえてきて蒋師仁と賀守一を驚かせた。
うぉぉぉぉぉぉ!!! と、喜んでいるような驚いているようなあるいは悲しんでいるような喚声だった。壁ごしに聞こえるものなので明瞭ではないが、一人ではなく複数人の声の合わさった結果のようだ。
まだ乾いていなかった墨が指先に付着してしまって渋い表情をしていた賀守一が怪訝な顔で首を捻る。その時には蒋師仁副使はもうこの部屋を出ようとしていた。
慌てて賀守一も立ち上がって蒋師仁の背中に続いた。隣の部屋を覗いて大声の理由を確かめるのだ。
「まったく、なんてことだ。宿舎に入ったら後はもう寝るだけで、何も騒動なんて起こらないとばかり思っていたのに」
物事はそう蒋師仁の思うように都合良くは進まないものだ。
自分に割り当てられた部屋を蒋師仁が飛び出した時には、少し息を切らしながらも劉仁楷が問題の隣の部屋に駆けつけて、踏み込んで行くところだった。劉仁楷の顔の広さは、行動の早さに裏打ちされているものらしい。
「そなたら、何をやっているのだ?」
長身の劉仁楷に続いて蒋師仁も部屋に入り込む。その時には既に劉仁楷が室内にいた者に事態の問い合わせをしていた。
後から室内に入った蒋師仁は、劉仁楷の左側に出て、前を覗き込んだ。
何も無い殺風景な部屋であることは、蒋師仁に割り当てられた部屋と同じだ。
板張りの床の上に、二人の若い男が胡座をかいて、間を空けて向かい合う形で座っている。
「なんだ。呉。それに李じゃないか。何をやっているのかね?」
穏やかな口調で劉仁楷が若者二人に問いかける。
「世話役どの。見回りご苦労様です。見ての通り、チョボです、チョボ」
若者のうちの片方が、床に散らばっている複数の四角い木片を示しながら答えた。
「……なんだ。博打をやっていたのか。元気の有り余っている奴らだな」
思わず蒋師仁が呟いた。五個のやや平べったい木片は賽子だ。表が出ると白、裏が出ると黒である。二人は賭博で遊んでいたのだった。
劉仁楷は肩を大きく下げて溜息をつく。
「あのねえ、君たち。問題を起こしたりしない限りは、博打を禁止するつもりは無いよ。長い旅であるからには娯楽や気晴らしも必要だろうからね。だが、寝る時にはきちんと寝て、体力を回復させるように努めないといけないよ」
「あっ、はい。分かっています」
「それと、さっき大声を出していたみたいだけど、周りの部屋では、もう寝ている人もいるんだから、迷惑になるようなことは控えないと駄目だよ」
「すいません」
「スゴい目が出たんで、ついつい興奮しちゃいました。申し訳ないっす」
呉と李の二人は床に座ったまま、劉仁楷の方に向かって軽く謝った。
「その馮陵とした意気込みの盛んさは、是非とも昼間の任務の方で発揮してもらいたいものだね」
「はい」
「明日から、世話役のお役に立てるよう頑張ります」
蒋師仁は若者たちと劉仁楷に背を向けて部屋を出た。結局、副使の蒋師仁からは直接若者たちには何も言わなかった。さっさと自分の部屋に戻る……戻ろうとしたが、室内には、見慣れぬ黒い影がいた。
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