第12話
「ねぇ、本当に大丈夫なの?」
行き交う人々の喧騒が煩いのか、ライラは声を張り上げた。場所は先日来た市場だが、今度は買う側ではなく売る側として朕達は市場の片隅に小さな店を構えていた。
「心配はいらぬ。昨日練習したであろう。その通りに描けば良い」
朕の言葉にライラの渋相が一層深くなる。
「そうじゃなくて、お客さん、本当に来るの?」
場所は市場、日は既に中天に差し掛からんとする頃。
市場の活気はそこそこでは有ったが、朝のそれに比べれば既に人はまばらである。
「心配はいらん。客が来るまで其方はトゥグラの練習でもしているが良いぞ」
ライラは朕の言葉に疑わしげな目をしながら、渋々家から持ち出した小さな木箱に羊皮紙を広げ、トゥグラの書き取りを始めた。因みに、ライラには朕が少々手を加えてオドを流しながら書くと、オドをインク代わりにペンの軌跡が暫く可視化される――緑色に淡く光る――特製ペンを与えてある。インクが勿体無いからの。
ちらり、とライラが見やった視線の先には小さな板切れに焼字で『筆事、お承りします』と書かれた簡素な看板があった。
朕が喋ることに成功してから、4日が経った。
事の発端は、昨夜。インクの瓶が遂に底を晒したのだ。
ライラは朕がトゥグラを与えてからというもの、写本をしつつもトゥグラの練習をしていたのだが、その事実にライラは顔面蒼白になった。それはそうだ。写本は未だ三分の一しか終わっていない。だから言わんこっちゃない。
まぁ、インク無しでも羊皮紙に文字を書く術は色々とあるのだが、本の途中からインク無しで書いたとすれば、一目で解ってしまうし、そもそもライラはその術を知らなかった。
また一から書き直すにしても今度は羊皮紙が足りなくなるであろう。そう朕が告げるとライラはこの世の終わりでも来たように意気消沈してしまった。金が無いから買い足すことができんしな。
で、窮したライラに朕はある知恵を授けた。言わず物がな、書字師の商売である。
書字師とは読んで時のごとく、字を書くことで金を貰う者達のことだ。この職業は一般的には代筆屋などとも呼ばれ、綺麗な字を書ける者が手紙などを代筆する事で金銭を得るのだが、これをオドのコントロールが出来る碩術師が行う場合は少々毛色が変わってくる。
トゥグラがそうであるように、文字とはある意味で軌道の集合体である。軌道であれば、その通りにオドを運動させ、周囲のマナの運動を制御して――水を張った器の中を混ぜ棒でかき混ぜれば、混ぜ棒の軌道に沿って周囲の水は運動する。それと同じ現象がオドとマナの間にも起きる。――やれば短い間であり微弱ではあるが様々な効果を発揮させることが出来る。
つまり、文字を書いた札を作成することによって簡易的な
一流の碩術師には必須の技能であり、また駆け出しの碩術師のアルバイトとしては格好の仕事である。
まぁ、この数日を見るに、ライラのオドコントロールが殊の外長けていると言うか、トゥグラ等の基礎を知らなかったにも関わらず数度の試行でチャージを成功させたのを鑑みて、試しにライラに古ファーティマ語からいくつかの文字を教えてみたのだが、これが面白い様に効果を発揮するものだから新たな稼ぎ口に、と考えてみたまでだ。
かつて、朕の生前は市場や人通りの多い街路を歩けば必ず駆け出しの碩術師が小さな露天を開いていたものだが、この街ではそういった所を一向に見かけない。
この国では殊更、碩学の軍事傾倒が激しい様であるから、もしかしたら普及率が低いのかも知れぬ。ウネルマに
碩学を志す者、一度は通る道にもかかわらず、その存在すら知られていないとはこの国の碩学は先が思いやられるが、逆に他にその様な事をする者が居ないとなれば、それは独占市場である。やらない手はない。
もしや宗教上の理由などで禁止されているのかも、と心配もしたのだが、ウネルマ曰く「そんな事が出来る事自体、聞いたことがないので、禁止もされていないのでは?」との事だったので、大手を奮って店を開いたというわけだった。
と言っても、場所は市場の隅っこ。空いたスペースにライラの家から持ち出した麻の下敷き――麻袋を割いただけである――に、小さな木箱を置いただけの露天とも呼べないような店構えである。
勿論、道行く人々の中にはそんな店構えを一瞥し、看板を見て首をかしげる者ばかりだ。
全く持って、この国の碩学はどうなっておるのやら、と思ってライラに幼年学校での授業内容を聞いてみた処、この国の碩術師とは『ブランシュ』と呼ばれる道具を行使する為の専門教育が成されているようであった。
『ブランシュ』とは、簡単に言えば予め仕込まれた碩術回路にオドを通すことで碩術を行使する絡繰道具だ。元々は短いコマンドワードで特定の現象、例えば熱を発するコンロ等の様な絡繰道具として発展したものが、戦闘用に特化し、いくつもの碩術を一つの絡繰道具で行使できるようにしたものが『ブランシュ』である。
汎用性の高い物から一定の用途に特化した物まで様々あり、定形の形という物は存在しないが、この国では楽団の指揮者が使う指揮棒の様な形状のものが一般的であるらしい。
全てこの国の管理下に置かれており、その実力を認められた者、一般的には国軍への入隊時や、碩術を使用する公務員、その他碩術師として国から認められた者にその能力に合わせた性能の物が国から貸与されるのだそうだ。
ライラにも幼年学校在籍時には初級の『ブランシュ』が貸与されていたそうなのだが、卒業と同時に返却したらしい。
『ブランシュ』には学校や個人に貸与されるもの以外にも、家督などに貸与されて代々受け継がれるものが有り、幼年学校は既に専用の『ブランシュ』を親から与えられている者がちらほら居たらしく、一種のステータスだったそうだ。
そこまでライラの話を聞いて、朕は唸らざるを得なかった。
朕の生前でも碩術師とは貴重な存在であった。オドを制御する能力は一種の才能であり、誰かに教われば誰でも出来るものではない。
しかも、オドを制御できたとしてもその後修めねばならない碩術理論は物理学や量子論などと密接に関係する難解極まりないものであり、程度の違いはあれどウネルマがやっていた様な『励起』程度であれば行使できる者もそれなりの数が居たが、トゥグラ・サーキットによる印付などの制御ができる者はその中の一握りであり、さらにそれらを利用した様々な碩術の技や理論を修めて一般的に『碩術師』と呼ばれる者は稀有であったと言えよう。
しかし、『ブランシュ』の扱いのみを修めた者が『碩術師』などと呼ばれることは、終ぞ無かった様に思う。
朕の生前は『ブランシュ』などちょっと便利な道具、程度でしか無かったからの。
時の流れの中で碩術の奥義が途絶したのか、はたまた『ブランシュ』の様な便利な道具の登場と共に衰退したのかは解らないが、嘆かわしいことである。
まぁ、周りが『ブランシュ』に特化していようとも、それに習う必要性は微塵もない。ライラにはこの際、碩術の深淵の一端を修めてもらおうと思う。幸か不幸か、ライラはオドの総量が少ないせいで制御技術に長けておるようだから、尚の事『ブランシュ』なんぞ無用の長物。朕の眼に狂いは無かった。まぁ、その内、アクセサリーとしての『ブランシュ』を作ってやっても良いかもな。
ライラには昨日、幾つかの簡単な古ファーティマ文字や
書字師の書く
効果時間はどれだけの強度でマナを運動させられるかに寄る。具体的には正確な軌道の描画と最初にオドを流す術者の腕によって、オドで描いた軌道が散ってしまうまでの時間に差が出るのだ。
術者が思考分割などで延々その軌道を維持すれば効果は持続するが、札一枚一枚にそんな事はやっていられない。
まぁ、何度でも効果を発揮するものも、強力な作用を発揮する物も作れないではないが、それには高度な碩術的技術とそれなりの設備が要るし、なによりそんな絡繰道具は高価だし、駆け出しには無理な話である。
御札という形で簡易的な
さて、思い出話も程々にして、商売をせねばならん。
ライラに今回教えた記号や文字は簡単なものばかりだから、あまり大きな効果は期待できない。しかし、何事にも少しだけかさ増しが出来るかどうかだけで結果は大きく変わるというもの。
何かのキッカケで上手く自身の道を開いてくれそうな者を見繕えれば良い客になるのだが、まぁそんな輩がホイホイ歩いているわけもなく。
先程から道行く者達を観察しているのだが。
「そこな御仁。なにかお探しかの?」
唐突に朕が通行人に声をかけたのを見てライラが目を丸くする。
ライラよ。商売とは待っているだけでは客が来るわけではないのだぞ?
「・・・まさか、今の声は君かい?喋る猫とは珍しい。お譲ちゃんの使い魔かな?」
朕が声を掛けたのは身なりのいい五十路に差し掛かったくらいの口髭が豊かな初老の紳士だった。ツイードのスリーピースに揃えのボーラーハットを身に着け、左手には黒檀のシンプルなステッキを下げている。高位の者、と言うよりはジェントリ階級と見たほうが良いだろう。お付きの者も居らんようだしな。
彼は先程から何度もライラの店の前を通っているにも関わらず、何か買った様子はない。時々立ち止まっては宝飾品――と言っても天然石や卑金属製の装飾品類――の露天の品を見ている。何処もかしこもこの男の見た目にはあまり釣り合わない価格帯の店ばかりだ。
まぁ、それなりに見栄えの良い紳士がそんな子供の玩具程度の物を至極真剣に悩んだ様子で見て回っているところを見るに、何か訳ありのようではある。まぁ、大方検討はつくがの。
「その通り。朕はこの、書字師ライラの使い魔だ。一筆、如何かの?」
紳士は不思議そうな顔で朕とライラと「筆事承ります」の看板を順番に見る。
ライラは突然の客とも知れない紳士に見られてカチコチに固まっている。
「書字師?とは聞いたことがないな。何をする店なんだい?」
むぅ。やはり、書字師はメジャーでは無いらしい。まぁ、であれば新たな市場の開拓と行こう。
「読んで字のごとくさな。筆事全般を扱っておる。筆事以外にも、ライラは碩術師でもあるからして、簡単なタリスマンであれば幾らか都合することはできようぞ」
「タリスマン?そんな高価なものが作れるのかい?」
「貴殿の想像するタリスマンがどのようなものかは解らぬが、あまり大層なものではない。簡易的なお守りのようなものよ。と、言っても効果は折り紙つきであるよ」
「簡易的、ねぇ。どんなことが出来るんだい?」
興味深そうにライラを覗き込む紳士。その瞳には単なる好奇心に混じってなにか退っ引きならぬ期待の色が見て取れる。釣れた、な。
「……ふむ、そうさな。貴殿、先程からここら一帯を行き来しておるようだが、もしや何かプレゼントでも探しておるのかの」
朕の言葉に初老の紳士の目が見開かれた。
「……判るのかい?」
よくよく観察しておれば推察できるというものよ。
「まぁ、当てずっぽうじゃがの。どれ、では貴殿にピッタリのタリスマンをこのライラが作ろうぞ」
と、朕が言った瞬間、ライラが朕を抱えて紳士から隠すように後ろを向いて、朕だけに聞こえるように囁いた。
「ちょっと、ちょっとまって。私、話が見えないんだけど。それに私、どんな文字を書けば良いのか皆目検討つかないわよ!」
「何、心配するでない。星、水、それに聖者の印を描け。理由は後で教えてやろうぞ」
ライラは疑わしそうに朕を見ながら、間違いがないようにゆっくりと丁寧に一画一画確認するように紙片に印を書いていった。
因みに、今ライラが使っているペンは、先程オドの軌跡が可視化出来る朕特製のペンだが、これはオドをより強く込めると、書いたものに軌跡を焼き付けることが出来る代物である。インクが無いので、インク無しでも書けるペンを用意したというわけだ。込めるオドの強さとその均一性によって黒から茶色の間で色ムラが出来てしまうが、オド制御の練習には良いだろう。
タリスマンを書き終えると、ライラは緊張したのか大きな溜息とともに、自信なさげに出来上がったタリスマンを初老の紳士に差し出した。
「……どうぞ」
「珍しい、見たことのない文字だが、これで終わりなのかい?」
紳士は拍子抜けしたようにタリスマンを受け取って、その紙片をマジマジと眺めた。
「貴殿がどんなタリスマンを想像したのかは定かではないが、書字師のタリスマンとはこの様なものであるよ。絡繰仕掛けの道具に比べれば非常に簡単では有るし、効果も知れてはいるが絡繰道具に比べて抽象的な効果が強いのが特徴だ。きっと貴殿の役に立つであろ」
紳士は疑わしげに札をひっくり返したりしていたが、朕の言葉にそんなものか、と頷いた。
「幾らだい?」
「100ミルである」
「……ずいぶん高いね」
屋台物が10~50ミル程度であるから、高い屋台物の倍はする計算である。初めて見た人間にはその紙切れが食事二回分の値段には見えないかも知れない。
「碩術師がオドを練って作成したものだ。技術料と考えよ。効果の長さは……そうさの。今晩中は保証するが、明日になると効き目が切れるから、注意するが良いぞ。奥方にプレゼントをして、詫びを入れたいのであれば早い内が良かろ」
朕の言葉に紳士が目を見開く。
「どうして、私が妻に謝ろうとしていると思ったんだい?」
まぁ、今までの行動を見れば、のう。
「企業秘密じゃよ。あぁ、奥方へのプレゼントは別に小洒落た物である必要はなかろ。大事なのは誠意であって、物質的なものでは無い。そうさな、確か市場の中に花を売り歩いている少女が居たはずじゃ。朕の記憶が確かなら、彼女の売っている花の中にマーガレットが有ったはずだ。それを贈るだけでも十分に貴殿の誠意は伝わろう。色は白ではなく黄色系が良いぞ」
朕の言葉に目を白黒させながらも思うところがあったのか、紳士は素直に代金を払って去っていった。
「ねぇ、あのタリスマン、どんな効果があるの?」
小首をかしげながら去っていく紳士を見送りつつ、ライラが不思議そうに尋ねてきた。そう言えば、個々の印の意味は教えたが、相乗効果は教えておらなんだ。
「星、水、聖者が組み合わさると、周囲の人間に鎮静効果をもたらす。かの者にも、奥方にも効果が及ぶからちょうどよかろう」
と言う朕の言葉に、今度はライラが小首をかしげていた。
「あの者、かなり長いことこの辺りをウロウロしておった。しかも覗いている店はそれ程高価ではないが、あの者の格好からすればかなり格が落ちる類の装飾品を扱う露天ばかり。何かのイベントの為に事前に贈り物を準備すると言うよりは、何か退っ引きならない理由が有ると考える方が自然であるし、初老の紳士がプレゼント、しかも光り物の小物を突発的に探すとなれば、どうせ細君と喧嘩でもしたのであろう。不倫相手へのプレゼントの可能性も無くはないが、彼の者にそんな甲斐性がある様にはみえなんだし、見ている露天の品では安過ぎる。なれば、花束でも持って誠心誠意謝罪すれば、余程のことでもない限り細君も許してくれよう。上手くいくかどうかはあの者の誠意次第であろうが、鎮静効果の有るタリスマンはきっと役に立つであろう。喧嘩というのは何事も物の弾みであるからの。冷静になれば誰しも素直に謝罪もできるであろうし、誰しも素直に受け入れられようぞ」
「……私、そんな事全く考えずに、ただ印を書いただけだったわ」
客の要望を全く理解せずに言われた通りに書いただけだった事を恥じたのか、ライラが肩を落とす。
「気にするでない。今回は書字師の仕事としては邪道も邪道。本来は客の要望で筆事を預かるのが書字師の仕事ではあるが、今後の客引きも考えてのことであったからな。少し朕がお節介を焼いたまでよ」
「客引き、だったの?」
「そうさな。往々にしてこういう商売は評判が大事だ。あの者の
何より、姿位からして、この街の社交に暗い訳がない御仁であったし、とっとと細君と和解して方々に宣伝してくれることを期待している。
その後は市場を行き交う何人かに声をかけては同じ様な事を繰り返し、提示した金額を渋る客には割引どころかタダで
結局、一日中市場に座って客引きをし、
ライラは「スゴイスゴイ!」と喜んでおったが、獲った客の数からして、本来なら数クラウン以上、下手をすれば1テールは売り上げておらねばならんのだがのう。
まぁ、これも営業であるな。
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