第二部 疑念機密

第一章 戦線調整

第1話「しかし噂はかくも広まるものかな」

 生き物の気配のない薄暗い廊下を、イーストは悠然と進んだ。そのまま突き当たりにある空っぽの窓へと向かえば、砂利を踏みつける音が静寂を揺らす。

 足を止めた彼は、ざらついた灰色の壁をそっと指先で撫でた。わずかに砂っぽいこの感触が実に懐かしい。つい顔がほころぶのを自覚しながら、彼は窓から外をのぞいた。

 窓とはいっても、この灰色の塔にあるのは、ただ穴が開いただけのものだ。閉ざされた世界に風を送り込むための、飾り気のない無機質な穴。

 そこから眺める光景も決して心地よいものではない。ひたすら煤けた荒野が見渡せるだけで、味わいなどなかった。

「この目に映る景色はこんなに閑散としているのに、相変わらず世界は騒がしいだなんて。皮肉なことだね」

 苦笑したイーストは軽く目を閉じた。独りごちる声は、吹き込む生ぬるい風に乗って消えていく。

 この景色も、以前はもっと晴れやかだった。それがいつしかこんな風に色褪せたものになってしまっていた。いささか残念に思っているのは彼だけだろうか?

 どこまでも続くように見えるこの世界は、ともすれば失いがちな彼らの感覚をますます曖昧なものとする。それは時間に対するものであったり、空間に対するものであったり。

「しかし噂はかくも広まるものかな」

 ふいと彼は目を開けた。どこまでも単調で、終わりの見えぬこの世界にあっても、噂話はあっと言う間に伝わっていく。こればかりは彼にもどうしようもなかった。

 頬へと滑り落ちてきた髪を、彼はそっと耳にかけた。五腹心イーストの象徴たる「空色」の髪だが、それは目の前に広がる空のものではない。もっと別の世界に広がる、鮮やかで華やかな空だ。それは半ば自由の表徴のように扱われる。

「面白いね」

 ついつい独り言を呟いてしまうのは、傍に直属の部下が控えているのが常だったせいだ。長年のことだったので癖になっている。その部下も、今は外へと遣いに出していた。少しでも多くの部下を探し出し、統制を保つためだ。

 五腹心を失い、おそらく多くの魔族はそれぞれの判断で動いていたことだろう。統率のとれていない集団というのは恐ろしい。思わぬ事態を引き起こす可能性がある。それは彼の望むところではなかった。

「そう、だからまずは把握してから。そして、どうしようか」

 壁から手を離し、イーストはそっと前方へと腕を掲げた。灰色の世界の向こう、曇りがちな景色の中に、彼の白い腕が現れる。

 五腹心の復活は、魔族の間で瞬く間に拡散されたようだ。『手柄』を訴える者たちの声が、次々と彼の元へ届いている。中には耳を疑うような話もあった。それらがどの程度真実なのか、見極めるのは困難だ。

 もっとも、そんなことは彼にとってはどうでもいい。

 皆勘違いをしている。彼は同胞が少しでも多く、生きながらえることを目標としているだけだ。周囲を蹴落として誰かがのし上がるのを快く思ってはいない。仲違いが最も憂慮すべきことだった。

 魔族が簡単には増えないのは、神とて知っている。だからあの時ああして忠告したのに――。

「困ったね。レシガ、君ならどうするかな」

 イーストは眉尻を下げた。転生神リシヤによってラグナが封印された後、イーストは最悪の事態を予測して指示を出した。万が一五腹心が全員封印された際は、同胞の数の維持を最優先とするように。直属の部下を通じてそう言付けた。

 しかしそれはあまり意味をなさなかったようだ。混乱に乗じて主権を握ろうと動き出した者たちによる「悪事」については、かの面倒くさがりな科学者――アスファルトが、大儀そうな顔をしながら教えてくれた。

「悩ましいな」

 この大人数をいかに御し、無駄死にさせずに神を討つか。イースト一人で判断するのはなかなか荷が重い。

 転生神のいない今であれば、彼が全力を出して乗り込めばおそらく『鍵』を刺激することは可能であろう。

 だがそれを実行に移そうとすれば、神は死に物狂いで抵抗する。下級の魔族たちは、少しでも戦果を上げようと躍起になる。結果、多くの者が死ぬ。

 勝利した後に、同胞の大多数が消え失せているようでは意味がなかった。全ての終わりに無と荒廃が広がることを、誰も望んでいない。ならばできる限り最良のタイミングをうかがうべきだろう。

「こんなこと口にしたら、プレインなら手ぬるいと言って失笑するところかな」

 イーストはやおら手を下ろした。ここは彼ら五腹心の中でも大きく意見の分かれるところだ。確実な勝利を優先するプレインに、同胞の犠牲を最小限とすることを目指すイーストとレシガの意見がいつもぶつかる。

 けれども、今ここにプレインはいない。橡色の軍師と呼ばれた男は、まだリシヤの封印の中にある。

 次に蘇るとすれば、イーストの直前に封印されたレシガだろう。イーストが最初に目覚めたのは、おそらくリシヤの力が尽きようとしていた時の封印だったからだ。

「でもここは、私のやり方で行くよ」

 イーストはつと口元を緩めた。ついで目覚めるのがレシガであれば、意見の食い違いはない。そういった心配は不要だ。ならば今なすべきは、できる限りの情報収集だった。最善の時を逃さぬために、こちらも手はずを整えていくのが先決だ。

「悪く思わないでくれよ」

 それは一体誰に対しての言葉だったのか、イースト自身にも定かではなかった。眼下の景色は相変わらず、くすんだ色を纏っていた。




 久方ぶりに目にするアパートというものは、大変狭かった。ここが窮屈な場所であることをすっかり忘れていたと、リンは思わずため息を吐きそうになる。

 扉の前でたたずんだまま現実逃避を試みるが、目の前の雑多な日用品がそれを許してはくれない。

「これを整理するのって難題よね」

 ぼやいた声は部屋に詰め込まれた家具や物に吸い込まれる。宮殿の何もない白い部屋であれば、むやみやたらと声が響いて困ったものだが。ここではそんな心配をする必要もない。

 よくこんなところで生活していたなと、しみじみと感じ入った。

「整理っていうか、あらかたは捨てることになるだろう? 持っていく物を選別するって感じだよな」

 立ち尽くし途方に暮れていたリンに、声をかけてきたのはシンだった。背後からのぞき込む彼の気も「こんなに狭かったか?」と疑問の色を呈している。

 ずっと平気だったのは慣れによるものだったのか。つくづく人間の適応能力というものには感心する。

「廃棄確実な物をまず捨てていかないと、その選別もできない気がするけどね」

 眉根を寄せたリンは腰に手を当てた。サツバと北斗が今朝、ローラインが先ほど出掛けてしまったので、今はシンと彼女の二人きりだ。面倒事を置き去りにされた気分になる。

 もっとも、別に皆がさぼっているわけではない。彼らが向かったのは職場だ。――仕事を辞めるために。

「確かに。オレたちが座るところしかないな」

「さすがに寝室を埋め尽くすわけにはいかないものね。まあ、持って行ける物なんて本当に限られているし、まずはゴミ出しから頑張りましょ。リサイクル店に持っていってもいいけど。……でもまさか、本当に神魔世界に戻ることになるとはねぇ。実感が湧かないわ」

 息を吐いたリンは、苦笑を浮かべながら一歩足を進めた。ついつい口数が増えるのは感傷に浸るのを避けるためかもしれない。

 このアパートでの暮らしも二年半となるが、じきにお別れかと思うと感慨深いものはあった。もうしばらくはここでの生活が続くものだと思っていた。こんなに早く無世界を離れることになるとは、考えもしなかった。

「ああ、いまだに信じられないな」

 肩越しに振り返れば、頷くシンもどこか複雑そうな笑みを浮かべている。神魔世界で死の可能性まで考えたあの戦いと、目の前に広がる光景。その落差に気持ちがついていかないのだろう。

 リンも同じだ。そして迫りつつある重い現実の予感に、胃の底でも炙られているような心地になる。得体の知れない焦燥感が、いつも胸の奥でくすぶっている。

 現在活動中の神技隊は神魔世界に戻す。それが上の決断――否、命令だった。

 今までのような一時的な帰還ではなく、拠点を神魔世界に置けということだ。魔神弾たちがいなくなり平穏が訪れたと思いきや、上はそう受け取らなかったらしい。

 あのミスカーテと名乗っていた魔族の来訪と関係しているのだろうか? 何の説明もないため、憶測を巡らせることすらできない。

「ええ。なんだか夢みたい」

 リンはミスカーテの妖艶な微笑を思い出した。あのとんでもない実力を持つ魔族は、戦乱の最中で不利を悟った途端に消え失せてしまった。

 だがおそらく諦めてはいないはずだ。この星を目指しているといったことを口にしていたとも聞く。きっと、いつか戻ってくるだろう。そう考えると未来は薄暗い。

「もうしばらく無世界生活が続くと思っていたからな」

「そうね。今度は一体何をさせられるのやら」

 視線を逸らしたシンへと、リンは相槌を打ってみせた。

 神魔世界に戻って一体何をするのか、詳しいことは聞かされていない。しかし自分たちに自由があるとは到底思えなかった。何らかの異変――十中八九、魔族絡みの――に対処する羽目になるのは間違いない。

「しかもレーナたちが仲間になるんでしょう?」

 加えて、気に掛かっているのはその点だった。状況がわからないまま傷を癒し、体調を整えていた神技隊らに言い渡されたのは、耳を疑うような事実のみ。

 何故そうなったのか、いつから何がどうなるのかは不明確のまま、決定事項だけを告げられた。上のこの一方的な姿勢は相変わらずだ。

「……仲間とは言ってなかったと思うぞ」

「えーと、休戦協定? そんな感じだったっけ?」

「実際のところはわからないが、たぶんそんな感じだ」

 戸惑いを滲ませ苦笑するシンに、リンは曖昧に頭を傾けた。あの時の記憶は朧気だ。皆が皆ぎりぎりの状態で余裕がなかったし、上の説明も雲を掴むようなものだった。

 大体、にわかには信じられない話だ。上はレーナたちを殺そうとしていたし、そのことでアースたちも上を敵視していた。いきなり休戦できるはずがない。

 梅花たちがいなければ、また上が何か企んでいるのだと思い込んだところだろう。しかし彼女は端的に説明してくれた。あのシリウスとレーナのやりとりから、上の話に間違いはないだろうと。何らかの駆け引きがあったらしい。

「わけがわからないけど、まあ元々私たちに決定権なんてないからねぇ」

 リンはやおらその場に座り込んだ。そして慣れ親しんでいた座卓をそっと指先で撫でる。部屋の主の長期不在を象徴するような埃っぽさに、自然と苦笑がこぼれた。

 何のために無世界で違法者を取り締まっていたのか。そしてこれから何のために神魔世界に戻るのか。この身が危険に晒されているというのに、何一つ知らされずに動かなければならないのは癪に障る。

 それでも文句を言う気になれないのは、ミリカの惨状がすぐに思い浮かぶからだ。

 もし魔族たちが現れたのがミリカでなかったら? 例えばウィンだったら? 考えるだけで心臓が凍り付いたようになる。あんな事態が繰り返されるようなことがあってはならない。そのために自分にできることがあるならと、つい考えてしまう。

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