第11話
目前に迫った黒い鞭の先が、透明な膜に弾かれて跳ねた。短剣を振りかざそうとしていたリンは、固唾を呑んで瞠目する。
この結界は彼女のものではない。彼女はつい直前まで、黒い触手の動きに気づいていなかった。
それでは誰の技なのかと肩越しに振り返れば、カイキの体を支えたシンが息を呑んでいるのが見える。その隣では青葉が緊張に顔を歪めていた。つまり二人の技でもないらしい。
青葉にもたれかかっている梅花に何かできるとも思えなかった。そうなると一体誰なのか。
「技使い、無事か!?」
答えを求め空を見上げようとしたところで、シリウスの声が降り落ちてきた。やはり今の結界は彼のものだったのか。
声の方へ視線を向けると同時に、シリウスが音もなく地に降り立つ。ふわりと風を含んで舞う青い髪がやけに目を引いた。
「あ、はい。大丈夫です」
リンが短剣を握る手に力を込めると、シリウスは振り向きざまに右手で空を払った。背後から迫っていた黒い鞭の先端を、その手刀が切り裂く。
単に手を使っただけではないのだろう。強化したというよりは一種の精神系の技のようだ。見慣れたものではないが、精度の高い技であるというのは察することができる。
「しつこい奴だな」
シリウスは舌打ちした。神と思われるこの青年は、何故だかリンたちを守ってくれるつもりらしかった。少なくとも現時点ではそうだ。
今までの上の者たちの言動を思い返すとその理由が想像できないが、助かっていることには間違いない。リンは辺りへと視線を走らせながら、端的に問いかける。
「状況はどうなってるんですか?」
「あの性悪魔族が撤退した。同時に半魔族も消えた。だからあの暴走気味な半魔族の狙いがお前たちに切り替わったんだろう」
背を向けたシリウスはため息混じりにそう告げる。尋ねて普通に答えが返ってくるありがたみを噛み締めつつ、リンは彼の言葉を脳裏で繰り返した。
――撤退した。その一言を飲み込むのに時間がかかった。それはつまり、あの凶悪な魔族――ミスカーテがいなくなったということか?
「魔神弾のでたらめな動きはミスカーテの思惑を崩すからな。分が悪いと踏んだんだろう。しかし、これは厄介なことになったな」
ぶつぶつ独りごちるようにぼやいたシリウスが、もう一度肩越しに振り返った。そしてあからさまに顔をしかめた。その気には今までにない訝しげな色が滲んでいた。
彼にそうさせる原因が思い当たらずリンは首を傾げる。カイキたちを助けたことを怪訝に思っているのか? しかしぱっと見ただけでは、カイキと自分たちの区別はつかないはずだが。
「……レンカ先輩、大丈夫でしょうか」
と、そこで梅花がか細い声を発した。リンははっとする。まだ余力のあったレンカは、倒れた滝の元へ駆けつけているはずだった。
ここからさほど離れてはいないが、この黒い鞭が巻き起こす粉塵のせいで肉眼では捉えにくい。魔神弾のでたらめな気のせいでそちらも当てにならなかった。確かに、巻き込まれていなければいいのだが。
「レンカ先輩ならまだ技が使えるから大丈夫だろ。少なくともオレたちよりは元気だ」
閉口するリンたちの傍で、答えたのは青葉だった。半分は自分たちに言い聞かせるような言葉だが、確認する術がない以上そう信じておくしかないか。レンカは結界にも長けているから、リンたちよりもずっとうまく対応しているだろう。
リンが頷くと、前触れもなく地響きのようなものが足下から伝わって来た。また黒い触手の大群が迫っているのか?
視線を巡らせども土煙が邪魔ではっきりとはわからない。それでも腹に響く重低音は徐々に大きくなっている。そしてしばしの間を置き、右手から不意に黒い鞭が顔をのぞかせた。
「鬱陶しい奴だな」
再びシリウスは片手を振り上げた。その手のひらから生み出されたのは緻密な結界だった。薄く均等に張られた透明な膜が、迫る黒い筋を次々と弾き返す。
ばちりと火花が爆ぜるような音を立てつつ、地に落ちた触手はのたうつように跳ねた。結界に触れただけだというのに、ずいぶんとダメージを負ったようだ。やはりシリウスの技は尋常ではない。
しかし考えてみると、それだけの実力者が守る一方というのも不思議な話だった。気の強さだけでは判断できないが、魔神弾よりもミスカーテの方が強いことは明らかだろう。そのミスカーテを追い返したシリウスが魔神弾に手こずるはずもない。
リンたちが邪魔と言えば邪魔なのかもしれないが、どことなく違和感がある。
「あっ」
そこで不意に梅花が声を上げた。唐突なタイミングだった。慌てて気を探ってみても、先ほどと特段変わりがあるようには思えない。魔神弾の攻撃ではないのか。
大体、よく考えると奇妙だった。梅花の気に含まれていたのは不安や喫驚ではなく、何か別の――たとえば安堵や祈りに近いものだ。
その意味がわからず梅花へと一瞥をくれれば、彼女の双眸が空へ向けられているのがわかる。その真っ直ぐな視線を、リンはやにわに追いかけた。
灰色の空で、小さな光が瞬いた。ついで何もなかったはずの空間に忽然と白い光が現れ、それはすぐさま人の形をとる。――レーナだ。
「えっ!?」
リンは眼を見開いた。黒髪をなびかせ風を纏いつつ地に降りたレーナは、その反動を利用するように跳躍する。軽やかな動きは重力を感じさせないものだった。しかしどことなく左手の動きが不自然だ。
それでもレーナはひらりと身を翻すようにしながら、迫る黒い触手を剣で切り裂く。いつもの不定の刃ではなく細身の長剣だった。
その珍しさに瞳を瞬かせているうちに、レーナはリンたちの前まで辿り着いた。ふわりと音もなく着地すると、尾のような長い髪がたおやかに揺れる。
「来たか」
その来訪に、リンよりも早く反応したのはシリウスだった。敵意も好意も混じらぬ淡々とした声音だ。
体勢を整えたレーナは、一度彼へと一瞥をくれる。そして無言のまま状況を確かめるよう視線を巡らせた。その眼差しが梅花たちに向けられたところで、たちまち顔がほころんだ。傍目にもわかりやすい変化だった。
「カイキたちも助けてくれたんだな、ありがとう。無理をしたようだから心配したぞ」
その声掛けは梅花に対してのものか、それともリンたちも含まれているのか。判然としないが、何と答えるべきかわからずリンは口をつぐんだ。カイキたちに助けられたのはリンも同じだ。礼を言われるようなものではない。
「……それは、自分の姿を見てから言った方がいいんじゃない?」
誰も何も答えなかったためか、梅花がまずそう指摘した。梅花自身もぐったりとした様子で座り込んだままだが、それでも返す声には力が戻っていた。精神の方は回復してきたのかもしれない。
するとレーナはきょとりと首を傾げ、自分の姿を見下ろす。
「あー、まあ、ひどいな」
どこか出血しているわけでもないし、手足が折れているような様子もないが、しかし気を探ればわかる。ミスカーテの技で負った傷はまだ癒えていないのだろう。
「オリジナルほどではないが」
「確かにずいぶんと満身創痍だな」
眉をひそめるレーナを凝視し、シリウスがまた口を挟んだ。再び結界を張って黒い鞭を弾きつつ、気安い口調で感想を述べている。
そこでようやくレーナは彼の方へと向き直った。二人の間の距離は大人の足で十歩ほどだろうか。それでも交わった視線の強さは、まるで真正面から睨み合った時のそれと同じだった。
冷たく澄んだシリウスの眼光に宿っているものが何なのか、リンには読み取れない。一方のレーナは相変わらずの微笑をたたえており、やはりそれだけでは何を思っているのか断定できなかった。
ただ一つ確かなことがあるとすれば、二人は互いを知っているのだろうというものだ。
「そうだな、色々と事情があってな」
頭を傾けたレーナは、答えになっていない答えを返す。彼女にはよくあることだが、ここにきてもまだ貫くつもりらしい。それを知ってか知らでか、シリウスは苦笑もせず肩をすくめるに留めた。
「そうか」
「そっちこそ、あんなのに手こずるなんて腕が鈍ったんじゃないか?」
レーナは長剣を地に下ろし、そのまま突き立てた。そして黒い触手の群れへと一瞥をくれる。それらはどこからともなく現れては弾かれ、のたうち回り、引っ込み、そして飛び出してくるという一連の動作を繰り返している。
本体である魔神弾がどこにいるのか、気だけでは判断がつかなかった。這いずり回る触手からも魔神弾の気が感じ取れるせいだ。
「ほぅ、わかっているくせに尋ねてくるとは性格が悪いな。暴発させたくないからに決まってるだろ。あの危うさに気づかないとは、まさか言わないよな?」
「そうだな、あれは危ういなぁ。餌も大量にあるしなぁ」
悪態を吐き合っているように聞こえるが、二人の間にあの憎悪はなかった。魔族と神が対峙する時の独特の緊張感、突き刺さるような空気が感じ取れない。
一体どういうことなのか。リンには皆目見当もつかなかった。今まで彼女が知る神と呼ばれる存在は、レーナたちのことをずっと敵視していた。知り合いという時点でも奇妙だったが、それ以上の違和感がある。
リンは二人の顔を交互に見比べた。こうしている間も、結界に弾かれた黒い鞭が空中で踊っている。
「じゃあシリウス、魔神弾を適当な亜空間にもでも放り込んでくれないか?」
顎に手を当て考える素振りを見せてから、レーナはあっさりそう口にした。断られるはずがないという自信に満ち溢れた言葉だった。まさかの発言にリンは呆気にとられる。シリウスも呆れたように片眉を跳ね上げた。
「私にお願いとは、お前らしくないな」
「そうか? あれを暴発させたくないのはこっちも同じだからな。心配しなくとも、人間たちなら守っておく。これで問題ないだろう?」
レーナは手をひらりと振りつつ笑みを深めた。彼女の言い振りから推測するに、やはりシリウスはリンたちを守るつもりだったらしい。信じがたいことだが。
リンは思わずシンと目と目を見交わせ、首を捻り合ってしまった。状況が悲惨なことに変わりはないのに、急に緊張感がなくなってくる。――もう死を心配する必要がない。そんな根拠のない思いが、確実に奥底から湧き上がってきていた。
「私に面倒な役目を押しつけているだけだろ」
「そちらが先にやったことだろう? 交換交換」
レーナはくつくつ笑い声を漏らしながら、剣を引き抜いてゆったりと歩き出した。リンたちの方へさらに近づいてくる足取りには躊躇いがない。シリウスがこの条件を呑むことはもう確信しているらしかった。
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