第2話
青葉が二個目のパンを平らげたところで、小さなコップを手渡された。黒くて軽いそれを受け取り、青葉は一気に飲み干す。
わずかな酸味の後に苦みが広がる、覚えのないお茶だった。この宮殿で栽培されているとも思えないので、どこかの特産品だろう。
「シンこそ休まなくて大丈夫か?」
胡座をかいて一息吐いたシンへ、遠くから滝がそう声を掛ける。シンは自分の分のお茶を注ぎ終えると、肩越しに振り返った。
滝は何故かあちこちに散らばっている毛布を回収している様子だ。もしかすると、動いていないと落ち着かないのかもしれない。
「オレは平気です。夜はちゃんと寝ましたし。滝さんこそちゃんと休んでないでしょう?」
「この状況でオレが休めると思うか?」
そう答えられて、シンは返答に窮したようだった。うーんと唸りながら困ったように笑っている。
青葉の知る滝なら、まず休まない。しかもレンカが上に連れていかれたまま戻ってこないのだから、ますます休めるわけがなかった。しかし、だからといって動き続けるのも体に毒なはずだ。
「それは、そうですけど……」
シンがそう言葉を濁した時だった。再び戸をノックする音が響き、青葉は慌ててコップを籠に戻す。誰がやってきたのか、気を探る必要もなかった。
「梅花!」
この気配は間違いようがない。脳裏にその名が浮かぶと同時に、声となって飛び出してきた。
扉を開いて恐る恐る中を覗き込んできたのは、やはり梅花だ。目が合った彼女は一瞬だけ瞠目する。ついで安堵したような呆れたような、何とも捉えがたいため息を吐いた。
「青葉、起きたのね」
後ろ手に戸を閉めた梅花は、足音を殺して近づいてきた。見たところ顔色が悪いわけでもないし、足取りもしっかりしている。リンの監視下で休んだというのは本当のようだった。
「もう平気なの?」
「ん? ああ、たぶん」
青葉はやや気まずい思いで片手を振った。どうやら彼の方が気遣われるべき立場にあるらしい。
シンの後ろで立ち止まった梅花は、床に置かれた籠を見下ろした。軽く束ねられた髪が揺れるその後ろから、滝が小走りに近寄ってくる姿が目に入る。
「梅花、何かわかったか?」
やや焦りの滲んだ声が空気を揺らす。滝へと視線を転じた梅花は、何か言いたげに口を開いた後、大きく嘆息した。彼女が発言を躊躇うのは、何かよくない知らせがある証拠だった。それも、とびきりの。
眉根を寄せた青葉は水筒を手に取る。緊張感の増す中、お茶を注ぐ音が場違いに染みた。
「順に話しますが。レンカ先輩についての情報は得られませんでした」
「――そうか」
「それに、どうも面倒なことが起ころうとしているみたいです」
気にするなと首を横に振った滝へ、ついで梅花は不穏な言葉を投げかける。籠に布を掛け直していたシンが「え?」と声を漏らした。
青葉は再びお茶を飲み干した。予想通りだ。既に現時点でも十分に面倒な事態だと思うが、それ以上の何かが生じるのだとしたら口にもしたくなくなる。青葉もできれば聞きたくはないが、しかし耳を塞ぐわけにもいかなかった。
「色々探ろうと歩き回っていたら、釘を刺されまして。神技隊は明日の夜まで、この宮殿を決して出ないようにと言われました」
続く梅花の言葉は、瞬時には頭に入らなかった。「は?」と思わず素っ頓狂な声を上げてから、青葉はもう一度脳裏で繰り返す。
それは妙だ。宮殿を出るなという命令だけならば「上にありがち」で片付けてもよいが、期限付きというのに違和感があった。
上からの待機命令は大概ぼんやりしている。いつまでかはっきりとせず、ずいぶんと苛々させられた。それが突然「明日の夜まで」とはどういうことなのか。
「それって、何か変じゃないか?」
「そう、変なの。だから心配なのよ。明日の夜まで、しかも決してと念を押してくるなんてただ事じゃあないわ。今までの待機とは、たぶん意味が違う」
青葉が疑問の声を上げると、梅花は相槌を打った。彼女が引っかかっている点もそこらしい。いつもの上らしくないことに彼女は敏感だ。だから面倒ごとが起こるのではと懸念しているのだろう。
「なるほど」
腕組みした滝が唸った。ますます雲行きが怪しくなってきた。青葉はコップを適当に床に置くと、首の後ろを掻く。これ以上の厄介ごとは遠慮して欲しいのだが。
「私にそう言ってきたのは、見知らぬ上の人だったんです。普段は『下』に降りてこないような方です。これも変です」
滝へと一瞥をくれ、梅花はさらにそう付け加える。不穏の兆しとしては十分すぎる材料が集まっていた。目を伏せた彼女が何をどこまで考えているのかは知れないが、楽しい話ではあるまい。
「上は、明日の夜までに、何かをするつもりです」
断言する梅花の声には、静かな憂いが含まれていた。青葉は固唾を呑む。神技隊を待機させたまま一体どこで何をやるのか? 全く予測はつかないが、それが平和的な計画であるとは思えなかった。
「それが何かまではわかりませんが。上もかなりごたついているみたいなので、危ないですね」
天井の向こう側でも見透かすように、梅花は視線を上げる。まるで本当にそこに「上」があるかのようだ。緩く束ねられた髪が彼女の背で踊る。
「取り越し苦労で終わればいいんですけど」
囁く声は祈りのように響く。それを軽く笑い飛ばすこともできず、青葉は膝の上で拳を握った。
一人きりになりたい時に、訪れる場所というものがある。誰も通りかからない、邪魔をされることのない空間など『上』でも『下』でも希有だ。
しかもラウジングが出入りできるような場所となるとますます限られる。そのうちの一つである六の回廊の奥で、彼はたたずんでいた。この先には非常時用の「回復室」しかないため、ここまで足を運ぶ者はほぼ皆無だ。
それでもここに来ることを誰かに気取られてはいけないと、慎重に行動した。特にカルマラに見つかると厄介なので、彼女がアルティードの部屋を訪問しているタイミングを狙った。
彼女の言葉は彼の気持ちを揺るがす。そうでなくとも考えることはいくらでもあり、どれもが彼の心を乱しかねなかった。
精神を集中させようと目を閉じて息を詰めても、余計な言葉ばかりが脳裏に蘇る。腰に下げた短剣の重さが妙に気になり、彼は嘆息した。息苦しく思うのは気持ちのせいだろう。そもそも彼らに呼吸は必要ない。
「ラウジング!」
その時、背後から名を呼ぶ声が聞こえた。耳にするまで、近づいてくるその存在に気づいていなかった。慌てて振り返ったラウジングは眉をひそめる。真っ白な廊下の向こうから走り寄ってくるのはミケルダだ。気を隠している。
「ミケルダか」
大きく振られる腕に合わせ、柔らかい狐色の髪が揺れている。いつものほほんとしている垂れた目が、今は焦燥感の色を宿していた。
ミケルダがそんな様相を見せるのは、何か知ってしまった証拠だ。一体いつどこでどんな話を耳にしたのかと、ラウジングは顔を曇らせる。カルマラのしつこさとは種類が違うが、ミケルダのお節介もなかなか煩わしい。
「ラウジング、お前、ケイル様から頼まれたって――」
「もう聞きつけたのか」
いきなり核心に踏み込んでくるミケルダから視線を外し、ラウジングは肩をすくめた。そこまで知られたとなると、ごまかしても意味がないだろう。ラウジングは深緑の髪を耳にかける。
「相変わらず耳聡いな」
「ってことは本当なんだな!?」
ミケルダは焦っていた。そしてどこか怒っていた。アルティードを裏切ったとでも言いたいのだろうか。
ぐっと息を呑んだラウジングは、声を荒げたいのをどうにか堪える。ミケルダとてケイルの仕事を手伝っているというのに、自分は別枠とでも思っているのか。
「ミケルダが何をどう聞いたのか、私は知らないが。ケイル殿から仕事を頼まれたのは本当だ。しかし、どうしてミケルダがそんな顔をする?」
「ラウジングこそ、何でそんなに落ち着いてるんだよ」
「何が言いたい?」
「アルティード様の意志をちゃんと確認したのかって言ってるんだ」
語気を強めたミケルダの眉間に、かすかに皺が寄る。彼がそんな顔をするところを、久しぶりに見たような気がした。一体何を懸念しているのだろう。大きな動きがある時、上はいつも話し合ってから決断を下している。
「ケイル殿は、アルティード殿にも話をつけていると言っていた。いつもと同じだ。それに、魔族をこのままのさばらせておくわけにはいかない。それは明白だろう?」
アユリの巨大結界は何のために存在しているのか。どうして今まで彼らは密やかに戦い続けてきたのか。考えるまでもないことだった。
今、この状況で、ここが破られるなんてことがあっては終わりだ。そのためにラウジングの力が必要だというのなら、惜しむ意味はない。
「あのなあ、そんな単純な話じゃないってのは……」
「単純? 何が単純なんだ? 何のために私たちは今までやってきた? ミケルダ。お前はずっと下にいるから忘れてしまったんじゃあないか?」
頭のどこかで、何かが切れる音がする。ラウジングは声を低くした。現状を保つのにどれだけの苦労があったか。絶え間ない努力が続けられてきた結果が、今だ。
無論、不確定要素の多いこの状況で後込みするのはわかる。しかし手遅れになってからではまずい。この結界の綻びについて、魔族に知られてはならなかった。そのために様々な犠牲を払ってきたというのに。
「はぁ? 忘れるわけないだろっ。だから人間を巻き込むことになっても、オレは、ずっと黙ってたんだ」
「二言目にはすぐ人間、人間、だな。気持ちはわかるが、しかし私たちが負けたらその人間も終わりなんだぞ?」
ミケルダは下に染まりすぎたのだと思う。人間たちとの接触が多すぎた。彼らの気は自分たちにも響いてしまう。人間たちの揺れ動く感情を目の当たりにしてしまうと、巻き込みたくないと思うのも当然のことだった。
しかしだからといって目的を見失ってしまうのは論外だ。この星を、神界を、宮殿を死守することは、ラウジングたちに託された使命だ。
「それは、そうだけど……」
「ならば彼女たちを野放しにはしておけないだろう?」
「でも、その彼女たちは、魔族ではないんだろう?」
「魔族じゃないとしても、魔族が生み出した存在だ。同じことだ」
ラウジングは相槌を打った。ミケルダの顔がますます歪むのがわかるが、ここは譲れないところだ。
魔族側の事情など、ラウジングの知るところではない。あちらにも色々と派閥があるのだと聞いたことはあるが、それが何だというのだ。いつどこでどのように情報が漏れるかわからないのに、放置などできない。――ケイルの判断は正しい。
「私は行く」
断言したラウジングは、腰から下げた短剣に触れた。それは先ほどケイルから直々に渡された物だった。
今までラウジングが見たどの武器とも違う。軽いのに重みがあるというと矛盾しているが、手にした瞬間染み込んでくる「何か」がある獲物だった。装飾一つない、見た目は地味な物だが。
「これ以上邪魔をしないでくれ」
「ラウジング、その……剣は?」
「エメラルド鉱石の短剣だそうだ。ケイル殿が使ってくれと」
かすかな躊躇いを覚えたが、しかし嘘を吐くわけにもいかず、ラウジングは苦笑と共に答えた。ミケルダが息を呑むのが伝わってくる。
その鉱石の名は半ば伝説的な扱いを受けていた。実物を見た者はほとんどいないだろう。
鉱石と呼ばれてはいるが鉱物ではなく、得体の知れない黒い固まりなのだという。その真っ黒な石を『加工』することで武器ができあがる。精神を込めた時の威力が他とは桁違いの物だ。精神系や破壊系の技と同等の力を有するという。
「ケイル様が……」
ミケルダは眼を見開いたまま喉を鳴らす。いまだ信じがたいとその顔は語っていた。そんな武器をケイルが隠し持っていたことへの驚きか、それともラウジングに手渡されたことへの喫驚か。両者かもしれない。
大仰に頷いたラウジングは、そのままミケルダに背を向けた。
「ここまでしていただいて、逃げ出すわけにはいかないからな」
「ラウジング!」
大股で歩き出したラウジングを、ミケルダは追いかけてこなかった。張り上げた声が白い廊下に響くのみ。それも次第に硬い靴音に飲み込まれ、空気へ溶け込んでいった。ラウジングはため息を飲み込む。
「汚れるなら私だけでいい」
たとえ誰かに恨まれることになったとしても。それでも「負ける」よりはましだった。ラウジングはもう一度短剣の柄に触れ、真っ直ぐ前を見据えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます