第9話
「よう! 急いでっ!」
駆け出した梅花は、肩越しに後ろを振り返った。草を掻き分けながら走るようの足取りは、お世辞にも円滑とは言いがたい。
元々彼は走るのが苦手な方だが、ここは足場が悪すぎた。下生えも邪魔だし、ぬかるんでいる土では強く足を蹴り出すこともできない。
「待ってよ梅花!」
それでも彼女が速度を緩めることができないのは、前方に感じた気の存在故だった。二つの気配が対峙しているが、どちらも梅花には覚えがあるものだ。だからこそ一触即発の危機だと察せられる。
こんな時にこんなところでと、つい愚痴をこぼしたくなる。しかし今はその一刻も惜しい。
これだけ空間が歪んでいる場所で、何かが起こってしまうと本当に手遅れになりかねない。その直前で食い止めなければ。歯噛みした梅花の耳に、かすかに女性の声が届いた。
「あなた誰よ!」
間違いない、この声はカルマラのものだ。気に対する記憶の確かさを噛み締めながらも、この場合は安堵していいところなのかどうか梅花は逡巡した。正直に言えば、カルマラであって欲しくなかった。
それにしてもいつの間に追いついてきていたのだろう? 梅花は眉根を寄せた。まさか上の者が時折使っているあの技を使用したのか? 確か以前に上の者の一人――ミケルダが口にした、転移の技とやらを。
「お前に教える必要はない」
「あー、なにその態度。腹立つ! どこかで見たような気がするんだけど気のせいだったみたいね。腹立つ奴は忘れないから」
カルマラと相対しているのは、おそらくアースだ。声は青葉と同じだが、この言い様は青葉ではない。どうしてまたこの二人が対面してしまったのかと頭を抱えたくなるが、そんなことを考えている暇はなかった。
追いついてくる様子のないようを待っているのも惜しくて、梅花は軽く身に風を纏わせる。これだけ木々の多い場所で飛ぶことは危険極まりないが、跳躍を補助する程度の力であれば体勢を崩すこともあるまい。
「私の邪魔するなら遠慮しないからね」
カルマラの声が、忽然と硬くなった。間に合わなかったかと梅花が諦めかけた時、視界が開けた。木々の数が減っていき、草原が現れる。いや、その向こうには泉があった。
「ほう、遠慮が必要だと思っていたのか」
「うるさいわねっ!」
泉の手前で向き合っていたカルマラとアース。最初に動いたのはカルマラの方だった。掲げた手のひらの気が膨れあがるのを感じ取って、梅花は声を上げる。
「カルマラさん!」
しかし、一歩遅かった。黄色い光が球の形へと収束し、カルマラの手を離れる。それとほぼ同時に、彼女の双眸は梅花へ向けられた。見開かれた胡桃色の瞳が梅花を映す。
「交戦禁止って聞いてますよね!?」
張り上げた声が、開けた空間にこだました。身を捻って光弾を避けたアースの眼差しも、ちらと梅花を捉えたようだ。複雑そうな表情をしたのは、どういった意味なのか。
だがそれを問う暇も惜しい梅花は、まず真っ直ぐカルマラの下を目指した。相変わらず季節感のないノースリーブにショートパンツ姿のカルマラは、不思議そうに瞳を瞬かせる。
「梅花じゃない、久しぶりー。前に見た時とちょっと変わった?」
「三年前と比べてるならそうでしょう。それよりカルマラさん、ここでは交戦禁止ですから。ラウジングさんからも聞いてますよねっ?」
カルマラへと詰め寄った梅花は、まなじりをつり上げる。無論、意識はアースの方を警戒したままだ。
すると、ぺろっと舌を出したカルマラは顔を背けながら首をすくめた。お得意の仕草に、梅花はつい目眩を覚えそうになる。
「これくらいは交戦しているうちには入らないでしょ? ああいうむかつく奴には一撃入れないと」
語気を強め、笑みを深めたカルマラの手が空へと伸びた。その指先から生まれたのは小さな光弾。しかも複数。それらは梅花が止める間もなく、次々とアースの方へ向かっていった。
「規模の問題じゃないですって!」
あいている方の腕に梅花はしがみついたが、時既に遅しだ。一方のアースは気怠げな表情のまま、迫ってくる光弾を軽い身のこなしで避けている。意味のない攻撃だった。ならばなおさら止めさせなければ。
カルマラの腕を揺さぶりつつ睨み上げていると、今度は後方から名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「梅花っ」
ようだ。肩越しに振り返った梅花は、草の間から顔を出したようを見て眼を見開く。
「よう! 後ろ!」
弾むような足取りで近づいてくるようの背後で、黄色い光が瞬いていた。それが技による何かであると察知した梅花は、慌てて警告する。
「え?」と振り返ろうとしたようは、その弾みで石にでも躓いたらしかった。体勢を崩した彼の頭上を、黄色い光弾が通り過ぎる。――それは真っ直ぐ、梅花たちの方へ向かってきた。
「ちょっと!?」
カルマラが素っ頓狂な声を上げる。息を呑んだ梅花は、左手を突き出して咄嗟に結界を張った。小さな黄色い光弾が薄い膜に弾かれて消える。だが息を吐いている暇はなかった。今度は右手から迫り来る気を感じて、梅花は身を捻る。
「なになにこれ梅花!?」
しかし普段とは違い、カルマラが横にいる。動きの幅がない。間一髪目の前を通り過ぎていった光球を見送り、梅花は喉を鳴らした。
一体誰の仕業なのか? 梅花が避けた光の球はそのままアースに向かって進む。そして舌打ちした彼の剣によって叩き切られた。つまり、彼の攻撃ということでもないのだろう。
「ちょっと今の何!?」
カルマラは混乱しているらしく、四方へ視線を彷徨わせている。こうなったら落ち着くまで頼りにならない。次なる技の気配を感じた梅花は、今度は左手に結界を張った。
左方から迫ってきた光弾はアースの横を通り抜け、梅花たちの方へ迫ってくる。だがひたすら真っ直ぐ進むのみの単調な動きだ。これなら結界で容易に防ぐことができる。
しかし、安堵している暇はなかった。光球が結界にぶつかろうというまさにその直前、今度は右手と後方に気が出現した。おそらく同じような技だろう。
結界に弾かれた光球が耳障りな音を立てる中、梅花は視線を巡らせる。まずい。右手からも後ろからも複数の光弾が向かってきている。数が多い。
衝撃への覚悟を決めて、梅花は体を捻った。霧散しつつある光球を視界の端に捉えつつ、右手に向かって結界を生み出す。精度を犠牲にすれば間に合うかもしれない。
いつの間にやら腕を掴んできていたカルマラを突き飛ばし、梅花は歯を食いしばった。だが想定したような衝撃は訪れなかった。肩越しに振り返った彼女の視界に、思わぬ人物の背が映る。
アースだ。跳躍と表現するにしては長い距離を飛び越えてきたアースが、彼女の背後に回り込んだ。そして迫っていた三つの光弾を次々叩き切る。黄色い光の残渣が、視界の端で瞬いた。
「おい、そこの女。お前のせいだぞ!」
再度舌打ちしたアースは、剣を構えながらカルマラの方を見下ろした。倒れそうになるのをすんでのところで堪えたカルマラは目を丸くする。
梅花は右方からやってきた光弾を結界で弾き、もう一度辺りを見回した。草むらの中に埋もれていたようが、よろよろ体を起こす様が見えた。今のところさらなる攻撃の気配は感じ取れない。けれども油断は禁物だ。
「ちょっと、何で私のせいなのよ!?」
「あれは、さっきお前が放った技だろ」
「それがどうしてあちこちから襲ってくるのよ!?」
「知るかっ」
カルマラとアースの怒号が飛び交った。梅花は瞳をすがめる。すぐ傍で繰り広げられる言い合いが、耳というよりも頭蓋全体にずしりと響いてきた。彼女が額を軽く手で押さえていると、また前方に光球が出現したのが感じ取れる。やはり複数だ。
「空間の歪みのせいですかね」
そう結論づけるしかなかった。やり過ごした技が歪められた空間を擦り抜け、四方八方から迫ってきているのか。そうなると避け続けるだけでは埒があかない。消滅させるしかない。
「ちっ、厄介だな。本当に迷惑な女だ」
何度目になるかわからないアースの舌打ちが空気を揺らす。ようの横を擦り抜けて向かってきた光弾三つを、梅花は結界を使い無に還した。
何故だかわからないがアースが協力してくれるのなら、じきにこの攻撃も収まるだろう。肩を怒らせるカルマラの腕を掴みつつ、梅花はアースへ双眸を向けた。
「どうして助けてくれるの?」
そもそも何故リシヤの森にアースがいるのかもわからない。
答えを期待せずに問いかけると、心外だとでも言いたげにアースは視線を寄越してきた。呆れたような諦めたような、それでいて自嘲気味な眼差し。青葉とは違う表情に新鮮みを覚えていると、アースは右の口角だけを上げた。
「お前に怪我などさせたら、レーナが怒るからな」
返答は簡潔なものだった。やはり、レーナなのか。薄々勘づいていたことではあるが、彼らの行動を左右しているのはレーナらしい。だが、ならばどうして当初はいきなり襲ってきたのか?
疑問に気を取られているうちに、今度は左方から気が迫りつつあった。それでも慌てる必要はない。不機嫌顔のカルマラの張った結界が、瞬く間に光球を消滅させる。混乱から立ち直ったようだ。
技と技が干渉し合う際の独特の高音が、かすかに空気を震わせた。
「それならどうして私たちの邪魔をするのよ」
問いかけるというよりもぼやくような疑問が、梅花の唇からこぼれ落ちる。
再び振り返ったアースは何かを口にしかけ、けれども寸前で飲み込んだようだった。どこか哀れむような、同情するような、それでいて嬉しげでさえある複雑な気が、彼から感じ取れる。
「あいつから何も聞いていないというのなら、われが答えるわけにはいかない」
どこまでもレーナの意思を尊重するつもりらしい。徹底した姿勢には、感嘆の息が漏れそうになる。何かを得るためにはやはりレーナに直接尋ねるしかなさそうだ。早朝の彼女の笑顔を思い出し、梅花は前途多難な今後を案じた。
今すぐ空へ上がるべきか否か。アサキたちとはぐれ一人きりになった青葉は、しばらく思案していた。
そうしているうちに、どこかで技が使われた気配を察知した。誰かが技を放とうとする時に感じる、独特の気の膨れあがり。それが波のように伝わってくる。
しかしその源がどこにあるのか、はっきりしなかった。丹念に気を探ってみても、前方にあったかと思えば今度は右手から感じられる。目を閉じてしまうと方向感覚さえ怪しくなるような、奇妙な状態が生じていた。
「空間が歪んでるせいか」
そうとしか考えられず、青葉は唸った。技の気配があることはどこかで戦闘が生じているという由々しき事態の証拠なのだが、駆けつけることもできそうにない。そもそもどちらへ走っていけば正解なのか。闇雲に駆け出すのは危険だろうし。
「やっぱり空からか」
上空を見上げていても、誰かが飛んでいる様子はうかがえない。この異変に気がついているのは青葉だけなのか?
首を捻った彼は、「いや、そんなわけがない」と眉根を寄せる。梅花が気づかないはずがない。彼女がその戦闘に巻き込まれていれば話は変わってくるが。
――そう考えたところで背筋が粟立った。可能性は皆無ではない。すぐにでも一度空へ上り確認した方がいいだろう。
青ざめた彼がそう決断した時だった。後方に、それまで存在していなかった気が、突如として現れた。
はっとして振り返った彼の視界で、青々とした茂みが揺れる。気の正体に思考が及ぶのと、姿を確認するのはほぼ同時だった。
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