第2話

「まあ、何とか、なるだろ……」

「本当に? それならいいけど。じゃあ場所を説明するわね」

 扉から背を離した梅花は、青葉の側を擦り抜けて奥へ向かう。その先には、棚と呼ぶのも憚られるような小さな白い箱状の物があった。角に置かれているので気にも留めなかったが、中に何か入っているらしい。

 梅花は戸を開けるとそこから紙とペンを取り出す。そして青葉の方を一顧だにせず机に近づいた。

「今いる会議室は、第二棟の三階、小会議室十一なの」

 紙にペンを走らせながら梅花は説明を始める。青葉も机に寄っていき、彼女の肩越しに覗き込んだ。さらさらと書き出されている地図を見ていると、何だか嫌な予感がしてくる。

「一階と二階に第三棟へ行く通路があるの。二階は行き止まりが多いから、まずはこの廊下の先の階段で一階へ下りて。フライング先輩たちがいるのは第五北棟。だから第三棟を通り抜けて第四北棟に入ってそこから第五北棟に抜けなきゃならないんだけど」

 地図を書きながら、ちらと梅花は青葉へ視線を寄越した。彼は顔が引き攣っていることを自覚しつつ、続きを促すようにと相槌を打つ。この宮殿のややこしさは想像以上らしい。

「第三棟はこの道の通りに進めば第四棟の入り口に辿り着くんだけど。第四北棟に入るには、右手の階段で二階にいく必要があるの。それから――」

 こんな複雑な地図をすらすら書けるのは慣れているからなのか。それにしても、すっかりいつもの調子だ。無世界での出来事などなかったかのような様子を見ていると、そこはかとなく不安になってくる。

「この突き当たりを左に……って聞いてる?」

 突然、説明を途切れさせて梅花が振り向いた。心が別の方へ飛んでいきそうなことに気づかれたのかもしれない。

 彼女が顔を上げたため、黒い双眸が間近に迫る。ふわりと雨の匂いが漂ったような気がして、青葉は唇を引き結んだ。

「迷って困るのは青葉なんだけど。もうすぐラウジングさんが来るかもしれないし――」

「大丈夫じゃないなら言ってくれよ」

 机に乗せられている華奢な左手に、青葉は指先だけで触れた。言葉尻を飲み込んだ梅花は、目を丸くしてから視線を逸らす。頭を傾けたせいで、揺れた髪が肩を滑るようにして机の上に落ちた。わずかに見えた首筋の白さが彼の目を引く。

「そんなに、大丈夫じゃないように見える? リューさんは気づかなかったみたいだけど」

「普通に見えるから心配なんだよ」

「……そう」

 安堵とも落胆とも取れるため息を、梅花は吐いた。顔は背けられているので表情ははっきりしない。それでも先ほどよりも弱々しい印象を受けた。纏う気が変わったせいだ。複雑な感情を宿したそれが、揺らめいている。

「私は青葉に心配かけてばかりね」

「それは、お前が悪いと言うよりは、その……」

「何?」

「いや、何でもない。単に、当たり前に思ってた世界の違いだろ。そんなのはどこにだって誰にだってあるもんだ」

 本音を口にしかけて、慌てて青葉は言い直した。今ここで伝えるべき内容ではない。このタイミングで梅花を動揺させるのは不本意だし、ますます事態がこじれるだけだと思われた。

 この一年間、彼女を見てきてわかったことがある。彼女はとにかく、あらゆる意味で、好意に弱い。

 不思議そうに振り向いた彼女は、途中で腑に落ちた表情を浮かべた。ほんの少し、彼女を包む気が柔らかくなる。怪訝に思われなかったことに、彼も密かに胸を撫で下ろした。

「そんなものかしらね。って、ラウジングさんが近づいてきたわ。ここに辿り着く前に、青葉は出ないと」

 だが不意にはっとしたように、梅花は青葉の腕を掴んできた。彼はまだラウジングの気を覚えていないが、彼女はもう記憶してしまったらしい。胸に押しつけられた地図を見下ろして、彼は顔をしかめる。

「ラウジングさんに見つかるとまずいのか?」

「止められるかもしれないでしょう? ラウジングさんは上の者なのよ。あんまり宮殿内部の規則には詳しくなさそうだけど、念のため」

 神技隊といえども宮殿内を勝手に歩くのはよく思われないことを、青葉は思い出す。何をするつもりなのかと尋問されかねない。

 だが廊下を歩いている分には、万が一見つかっても「迷った」の一言で回避できるだろう。注意されたとしても一瞬のことで終わるのは経験済みだった。

「おう、わかった」

「さっきの続き。突き当たりを左に折れたらそのまま真っ直ぐ進んで。奥から三つ目の部屋よ」

 地図を折りたたんで懐にしまった青葉は、扉へ向かった。これがあれば何とかなるだろう。近くまで行けば仲間たちの気なら何とか判別がつくに違いない。技使いが集まっていることは間違いないので、それが目印にもなる。

 わずかに微笑んだように見えた彼女を横目に、彼は部屋を出た。気のせいかどうか確かめる時間は、残念ながらなかった。




 青葉を見送り部屋へ入ろうとしたところで、梅花は呼び止められた。憂いと緊張の入り交じったこの硬い声はラウジングのものだ。振り返った彼女の視界に、急ぎ足で近づいてくる彼の姿が映る。

「ラウジングさん」

「ちょうどよいところにいた。話は聞いているだろう?」

「ほとんど聞いていないに等しいですが、ラウジングさんから聞けるということはうかがってます」

 深緑の髪を隠すことなく歩く様は、まさに上の者だった。無世界での様子とは違う。周囲の人間にどう思われてもかまわないという一種の傲慢さ、距離感が見て取れた。基本的に、彼らが気にしているのは同じ上の者の目だけだ。

 服装は、以前亜空間で見たものと同じだった。光の加減によって薄緑色に見える、一見したところでは薄灰色の上下揃いの服。上の者は何故だかほとんど同じ恰好をしていることが多い。

「そうか、それで十分だ。お前たちには、もう一度リシヤの森を調査してもらうことになった」

 聞き耳を立てている者がいないことを確かめ、ラウジングはそう告げる。梅花はわずかに眉をひそめた。

 彼の言い様には感じるものがあった。何か重要な物事が隠されている時の感覚に近い。根拠となる明らかな兆しを見つけたわけではないが、彼女の直感がそう主張していた。

「もう一度と言いますと、先日の調査でもわからないところがあったんですか?」

「――レーナたちに邪魔をされてな、十分調べることができなかった。だから今度はお前たちに行ってもらおうと思う」

 わずかな躊躇いの気配を見せてから、ラウジングはそう説明した。「お前たち」という響きから彼が何を言わんとしているのかを察して、梅花は「そうですか」と頷く。

 つまりフライングとピークスを行かせるつもりはないのか。人数が多くなると、何かあった時の対処が困難になるからだろうか。

「さらに歪みでも広がったんですか?」

「その可能性がある」

「では歪みの度合いを調べたらいいんですね? あとは緊急度と。私たちシークレットの五人で行けばいいんでしょうか」

「話が早い。助かるな」

 ほっとしたようにラウジングは相槌を打った。上が懸念することなら、梅花はおおよそ知っている。その一つがリシヤの森の空間の歪みだ。

 同じ境遇にあるナイダの空間も歪んでいるはずなのだが、何故だか扱いは違う。それは常々不思議に思っていた。しかし今ここで彼に尋ねたところで答えは得られないだろう。梅花はつと視線を外した。

「わかりました。ただ、一度無世界に戻って仲間たちを連れてこないといけませんね。……ゲートのこともありますし」

 今頃アサキたちは心配していることだろう。急いでいたので、簡単な状況しか報告していない。そこへいきなり「神魔世界に行くことになった」と伝えたらさぞ驚くに違いなかった。

 ゲートについては、様子を見るしかないという結論に至っていた。

 現時点では今まで通りの状態に戻ってしまっているし、調べようとすることそのものが刺激となりかねないという懸念もあった。宮殿側でも注意深く観察し、何かあれば即時対応するという方針だ。

 その方が神技隊の負担も減るので助かる。無論、ゲートを通る際には今まで以上に慎重に行かなければならない。

「ああ、それはかまわない。調査にはこちらからも一人出すことになったしな」

 ラウジングはどこか言いにくそうな顔でそう続けた。上からの人員と聞いて、梅花は瞠目する。

 よほど上はこのことを重く受け止めているらしい。しかし一体誰が行くのか? こういった事態が生じた時に動ける者というのは、上では限られているはずだ。

「その言い方だとラウジングさんではなさそうですね」

「……そうだ」

「ミケルダさんですか? カルマラさんですか?」

 ぱっと思いつく名を梅花は挙げてみる。眼を見開いたラウジングは一瞬だけ辺りを気にして、ついで肩をすくめた。

「カルマラだ。よく知ってるな」

 間を置いてからラウジングは微苦笑を浮かべた。どうやら言いにくそうだったのはそれが原因らしい。納得した梅花は「まあ」と答え、知った顔を思い浮かべた。

 陽気な二十代女性といった風体のカルマラは、自由闊達すぎるのが問題とされている。有り余るほどの行動力を好奇心に費やすことが多く、振り回されている者も多いらしい。この表情を見る限り、ラウジングもその一人なのだろう。

「それじゃあカルマラさん対策をしないといけませんね」

 カルマラがいつも宮殿にいるわけではないことは、梅花も知っている。暇をもてあましている時は『下』にもやってくるので、いるかいないかはわかりやすかった。

 しばらく顔を見かけていないから遠出しているのだと思っていたが、いつの間に帰ってきていたのか。帰還したばかりのカルマラは羽目を外しやすいので要注意だ。

「そうしてもらえるとありがたいな。ああ、聞いているとは思うが、リシヤの森では交戦は禁止だ。あいつにも言っておいてくれ」

「それはかまいませんが。私が言うよりもラウジングさんが言った方が……」

「もちろん、私も注意しておく。ただ複数人で言っておかないと効果が薄いだろう?」

 ラウジングのため息には、今まで積み重ねてきた苦労が滲み出ているようだった。忠告をなかなか聞き入れてもらえない経験は、梅花にも大いにある。彼の言葉はもっともだ。

 梅花が同意を示すと、彼は何とも言えぬ顔をした。『下』の者にまで理解されてしまっていると思うと嘆かわしいのか。それでもあからさまには表出せず、「それでは後ほど」と言って彼は踵を返した。

 ――いや、そうしようとして途中で足を止め、肩越しに振り返る。

「カルマラの準備が整い次第出向いてもらうことになるので、それまでに仲間たちを連れてきてもらえると助かる」

 準備というのは、カルマラにこちらの事情と状況を理解してもらう作業のことだろうか。彼女も性格は悪くないし、分け隔てなく誰とでも話せてしまうある種の才能の持ち主だった。

 ただ、一緒に仕事をする身となると大変だろうとは察せられる。頭が悪いわけではないのだが、やや強引で楽観的で衝動的だ。

「わかりました」

 返事を確認してから、ラウジングは再び歩き出した。深い緑の髪が左右に揺れる。彼の背中を見送りつつ、梅花は肩を落とした。

「カルマラさんを引っ張り出すってことは、相当上は焦ってるのね。ちょっと情報収集が必要かしら」

 こぼれた呟きは、白い廊下の中に染み込んでいった。遠ざかっていくラウジングの姿は、いっそう気怠げに見えた。

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