4

 とぐろを巻いた倦怠感がまとわりついて俺を離さない。喧噪、喧噪、喧噪。誰かが誰かを口汚く罵っている。争いの火種はもう手の施しようがないほどに燃え盛っていた。諍いの中心だった二人はもうどこに行ったのかすらわからない。おそらくは、もう関係がないのだ。密閉された空間で静かに育まれていた狂気の種が芽吹き、方々に拡散している。俺はただ、人の少ないほうへと逃げ惑うばかりであった。


 ただの置物と化した冷蔵庫の白い体躯がぼんやりと暗闇に浮かんでいた。無用の長物となった台所にはどうやら俺のほかに誰もいないようだった。やっと見つけた安寧の場所に、ふいに涙腺が緩みそうになる。俺はシンク下から水の入ったペットボトルを取り出して、恥辱とともにそれを飲み干した。ともすればひざまずきそうになる心を励起し、これからどうすればいいか考えた。


 信者たちのストレスは受け皿すれすれにまで膨れ上がっていた。小さな喧嘩程度なら今まで何度もあったが、ここまで大規模なものは初めてだ。これは前兆ではない、もう事は起こってしまっているのだ。静められるのか、俺に。教祖でもない、砂上の楼閣にこわごわと鎮座しているだけの、矮小なトップでしかない、この俺には。無理だ。


 ならばこれ以上火が燃え盛るのを防ぐしかあるまい。こと一番に対処するべきは、当然花村一家の死体であった。あれが他の信者に見つかってしまいでもすれば、もはやこの場所は根本から崩壊してしまうだろう。帰るはずのない教祖を待ち続ける虚ろな城ではあるが、死者が跋扈するこの世界においてはこれ以上にない俺にとっての安全地帯なのだ。


 ちょうど台所に来ているのも、もしかしたら俺は無意識のうちに行動を選択していたのかもしれない。暗闇にもう一度耳を澄ます。玄関のほうからは絶え間なく誰かの怒声が響いていた。近くには誰もいない。半ば自分に信じさせるように念を押しながら、俺は裏口の扉の鍵を外した。


 藍色の空が俺を見下ろしていた。夕暮れよりも、少しだけ踏み込んだ時間。マジックアワーだ。写真が趣味だった大学時代の友人が話していたのを思い出す。影が消え去り、魔法のような写真が撮れることからそう呼ばれる時間帯だ。淡く儚い幻想的な光景であるはずが、それが今のおれには余計に不安を覚えさせた。


 足早にバッカンへと駆け寄り、窪みに足を掛けようとしたときだった。液体が跳ねているような異音。耳障りな粘着質の音に、俺は全身が総毛立つのを感じる。教祖の油汗にまみれた苦悶の表情がフラッシュバックする。生きたまま、脇腹を齧られていた。俺へとすがる手が押さえつけられ、その指ごと奴らに噛み千切られていた。ゾンビだ! 蠢く亡者が死体を貪る、あの音だ!


 敷地内に侵入されていた。門を閉じ、高い塀で囲っているこの中に。もう充分に混乱しきっていた俺の頭をさらにかき混ぜたのは次に聞こえた音だった。


 ごほっ、ごほっ。


 辛いものを啜った時に出るようなせた咳だ。あまりにも自然に聞こえていたせいか、俺はその意味を悟るのに少しばかり時間がかかった。そしてそれを理解して、戦慄する。


 ゾンビが咳などするだろうか。


 専門家でもない俺には分からないが、奴らは人間的な仕草などしないだろう。あるのは猛獣じみた本能だけ。ただ人を食すことだけに道標を立てて奴らはこの世にしがみついている存在だ。ならば、このバッカンにいるのは何者だ。咀嚼音は絶え絶えになりながらも続いていた。時折混じる、嗚咽じみた咳きこむ声。


 俺はこのとき、すぐさま逃げ出すべきだった。倒れかけた張りぼての安全などにすがりつくべきではなかったのだ。しかし、その時の俺に到来していたのは避けようのない義務感だった。異物を確認すべきだと、これ以上の歪みは許してはいけないのだと、奇妙な恫喝が俺を支配していたのだ。


 音を出さないよう、一挙手一投足を慎重に、バッカンを登っていく。朽ち果てた世界に風はなく、滞留した生ごみの腐敗臭があたりに充満していた。頂上に近づくにつれてそれは強烈に鼻腔を刺激し、いよいよ喉元を吐き気がせせりあがってきた。前に花村一家を見つけた時はそれほどでもなかったのだが。精神が衰弱しているせいか、感覚まで機敏になってしまっているのか。


 バッカンの縁に手をかける。音は止まらない。気づいていないのか。俺は肘をついて、ゆっくりと中を覗き込んだ。


 夜へと変わる消し墨のような暗がりの中、花村一家の死体は昼に見た時と変わらずそこに横たわっていた。だがもうひとつ、花村サツキの体に覆いかぶさるようにして動く影があった。頭だけを、サツキの腹に突っ込んで上下に小刻みに。ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ。雪原に飛び散る土くれのように、それが動くたびに血しぶきがあたりのゴミ袋を赤黒く染めていく。


 ごほっ、ごほっ。


 影が動きを止めて、咳きこんだ。口元から一塊の肉片がこぼれおちる。糸を引いているのは血管だろうか、髪の毛だろうか。サツキの顔がこちらを向いていた。臓物を掻きまわされている痛みも悲しみも、そこからは読み取れない。だけど、魔法にかけられた時間の明暗がそう見せるのか、口元がわずかに助けを求めて動いているように見えて、俺は思わず窪みにかけていた足を滑らせてしまった。落ちる。本能的に、俺は強くバッカンの縁を叩きつけるようにして掴んだ。


 影が振り向く。まるで無邪気な子供がチョコレートケーキに顔を突っ込んだかのように、口元が汚れているのが暗がりでもはっきりと見て取れた。「違うんです」血肉にまみれた口を動かしてそいつが言った。震えた、怯えた声色だった。


「僕が殺したんじゃないんです。たまたま見つけて、それで……」


 若い男の信者だ。名前が思い出せない。いや、脳が拒絶反応を起こして無理やりにでも記憶を閉じ込めているような、痛みを伴う震えが考えをうまくまとめさせてはくれなかった。ちりちりと火の粉が舞うような眩暈。太陽が沈みゆき、闇の領域が増していた。精神を飲み込んでしまいそうに、黒く、黒く。


「死にたくなかったんです。こうして死体を食べれば僕だって強い肉体を身につけられる。教祖様だって死んでしまったのかもしれないんでしょう! あいつらに勝つには、あいつらのように不死身を手に入れないといけないんですよ。教えにもあったでしょ、ねえ、亀田さん」


 母親に怒られて言い訳しているような早口で男は話し続ける。口から飛ばす唾は血が混じって薄くピンクに濁っていた。笑ったかと思えば怒り出し、そして泣く。感情が暴発しているように見えて、俺には目の前の男が空っぽになってしまったのではないかとも思えた。理性を放棄し、狂気に身を任せた獣の立ち振る舞いだ。


 俺が何も話さないのを彼は肯定だとでも受け取ったのだろうか。それならあまりにも身勝手すぎるが、マシンガンのように連続していた男の戯言はふいに止まり、そしてまた彼は食事へと戻った。花村サツキの未成熟な腹部を爪でかき分け、臓物を摘み、口へと運ぶ。またもや噎せながらも、男はただ無表情でサツキの死体を嚥下していた。


 もはやこれ以上俺の中に慟哭が起こることはない。受け入れられる感情のキャパシティをとうに超えてしまっていて、そしてついに限界が来る。


 頭が揺れる。スイッチが切れたみたいに目の前が暗くなり、俺は墜落した。臀部に強い衝撃が走り、腰骨が軋む。冷たい地面の感触がじわじわと体から熱を奪いだしたが、俺は起き上がることすらできなかった。チカチカと視界が明滅し、記憶のかけらが埃のように雪のように、俺の心へと降り注いできた。教祖やサツキ、死んでしまった奴らの顔が浮かんでは消え。それを塗りつぶすかのように血と肉と骨が俺の網膜を犯していき。最後に淡く光る窓を覗き込むと、そこには心配するようにこちらをかがんでいるハルミの顔があった。


 せめて彼女だけは、助けなければ。彼女のためではなく、俺のために。でなければ俺も、狂気に飲み込まれてしまうだろうから。


 彼女の顔に手を伸ばそうとして、そして結局指先一つ動かせずに、俺の意識はそこで途切れた。

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ゾムニバス 〜Zombie omnibus〜 パンドさん @pandsan

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