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 ゾンビどもから逃れて施設に泊まり込むようになってから、夢を見ることはなかった。瞳を閉じて意識が遠のいて、気がつけばもう朝だ。緊張のためか、眠りが浅いのだろう。たっぷりと睡眠時間は取ったはずなのに、目覚めは最悪で、靄がかかったかのように頭が重かった。


 個室から出ると、ベニヤ板を貼り付けた窓の隙間から朝日が漏れている。宙に舞った埃がチラチラと光っていて、換気の一つでもしたいものだとため息が出そうだった。2階の窓なのにも関わらずここまで厳重なのには辟易する。しかし、屋根伝いにゾンビが侵入しかけたこともあったため、念には念をと信者たちに窓の封鎖を命じたのは自分だったことを思い出し、俺は馬鹿らしくなって舌打ちをした。


 廊下には信者の一人が座り込んでいて、どうやらその窓のバリケードを修繕しているようだった。手に持っていた金槌を傍らにおいて笑顔で挨拶してくるのに、俺もなんとか笑顔で返した。朝から熱心なことだ。


 夜中よりかは幾分かは明るいが、それでもどんよりとした薄暗さが漂っている階段を手すり頼りに慎重に降りると、玄関前のホールで女たちが朝食の準備をしているのが見えてくる。朝食とは言っても乾パンや缶詰の中身を使い捨ての紙皿に並べているだけの非常に質素なものだ。ガキどもが母親たちにもうビスケットは飽きたと文句を言っている声が耳にうるさかった。


「あ、亀田さんどうぞ」


 降りてくる俺に気がついた中年の女が紙皿片手に駆け寄ってくる。俺は感謝を述べながらそれを受け取る。そしてすぐさま、バレないようにそれらをゴミ箱へと投げ捨てた。部屋にはもう少し質の良い食料が隠してあるからだ。それで少しだけ胸がスッとした。ただ与えられた餌を貪るこいつらとは格が違うのだ。


 気分がいいまま、辺りをぐるりと見回した。40数名の信者たちが各々バラバラに座って名ばかりの朝食を食べていた。ほとんどがハルミたちのように家族連れだったがポツポツと独り身の奴も混じっている。俺は出来るだけそいつらとは近づかない位置に陣取って地べたに座った。家族でハマっている奴よりも、独身でハマっている奴の方がいかれ具合が段違いだからだ。朝から宗教談義など聞きたくはなかった。


「おはようございます、亀田さん」


 頭上から降ってくる声に見上げるとハルミの顔があった。薄手のシャツにカーディガンを羽織っていて、今日はどこか大人びて見える服装だった。彼女は右手に持ったバインダーと俺の顔とを交互に見ると、満足そうに頷いてそのバインダーに挟んだ紙へと何事かを書き込んだ。


 毎朝実施している人数確認だ。当番制で、今日はハルミの日のようである。封鎖した建物にいるのだからあまり意味がない行為だが、心配性の信者が万が一に備えてとやり始めたものだった。


「ハルミちゃん、ご苦労様です」

「いえいえ、日直みたいなものですから」

「それでも文句ひとつ言わずにやってのけるのは大したことですよ。聞くまでもないかもしれませんが、全員揃っていますか」

「えっと、あと少しだけですね。亀田さん、末堂さんってどこかで見かけませんでしたか?」


 末堂、末堂。ああ、さっき廊下で窓を直していた奴か。


「ここに来る前に二階で会いましたよ。そろそろ降りて来るんじゃないでしょうか」

「ああ、よかった。じゃああと3人だけです。家族全員いらっしゃらないから、もしかしたらみんなでお寝坊さんなのかもしれませんね」


 くすくすと口元を押さえてハルミが笑う。この少女はたまに、こうして年頃には似合わない妙に艶めかしい仕草をするのが油断ならない。芽生えそうになる劣情を誤魔化すために、俺は少し早口でハルミに言った。


「ちなみにそのお寝坊さんはどなたたちですか?」

「花村さん一家です。ご両親と、あとサツキちゃん。いつもはお腹を空かしたサツキちゃんに引っ張られて朝一番にやって来るんですけどね」

「もしかしたら、そのサツキちゃんが体調を崩しているのかもしれませんね。少し心配です。見に行って来ましょうか」

「あ、それなら私もご一緒しますよ。確かサツキちゃんたちは一階の会議室で寝泊まりしていたはずです」


 ハルミに連れられて会議室へと向かう。俺以外の信者たちは何部屋かに別れて雑魚寝をしている。机を片付けた会議室は敷いているカーペットも上物で、花村一家のような小さな子供がいる家族に割り当てられていた。


 開け放されていたままだった扉から中を覗き込む。廊下と同じくまるで廃墟のような陰気じみた暗さだったが、人の姿がないことだけはわかった。花村一家はどうやら寝坊していたようではないらしい。再び玄関ホールに戻って信者たちに聞き込みをしてみるが、皆一様に首を横へ振るだけだった。それから一階、二階と思いつく場所を探し回って見たが、彼らの姿を発見することは叶わなかった。


「あとは外のゴミ捨て場くらいですけど……」


 自分で言いながらも信じたくない空気がハルミから伝わって来る。ゴミ捨て場とは施設の裏口から出てすぐのところにある放置されたバッカンのことで、本来であれば今週末に開催されるはずであった大きなパーティに備えて俺が手配したものだった。もうトラックがそれを引っ張っていくことはないのだろうが、大きな容量があるため使わない手はなかった。排泄物や生ゴミなど、室内にどうしても貯めておけないものを毎日一度、そこへ投げ入れているのだ。当番の人間が複数で警戒しながらその日課を行う以外はゴミ捨て場に行くことは禁止されているはずだった。周囲をぐるりと高い塀に囲まれているとはいえ、外であることに変わりはない。


 小さな子供連れが朝からゴミ捨て場などに行くはずがない。大方、夜のうちに一家で逃げ出したのだろうか。花村一家はここに集まっているメンバーの中では新参である。まともな神経を持っていれば、参ってしまうのも無理はないのかもしれない。


 だがしかし、そんなことを口に出してしまえば俺の威厳に関わってしまう。だから俺は、信者を心配するふりをして形だけは一生懸命彼らを探さなければいけないのだ。ハルミと若い男の信者を引き連れて外に出る。眩しい朝日が俺たちを出迎えて、網膜が焼かれて目の奥がくらくらした。ゴミ捨て場は扉から目と鼻の先だ。幸いあの歩く死者たちの姿はないようだった。そして、花村一家もそこにはいない。


 当然と言えば当然だ。やはり逃げおおせたのだろう。俺がその事実をどう捻じ曲げて話そうか頭を捻っていると、ハルミが不意に声をあげた。


「亀田さん、あれ! サツキちゃんがいつもつけてる髪飾りですよ!」


 ハルミが指差す先を見ると、バッカンの淵に安っぽいゴム製の髪飾りが引っかかっていた。俺もなんとなく記憶に残っている。逃げる時に引っ掛けたのか、と一瞬考えたがすぐにそうではないと分かった。バッカンの高さは2メートルくらいで、背の低い花村サツキはもちろん、彼女の両親だろうと届かない位置に髪飾りがあるからだ。


 誰かが投げ捨てた? それとも……。


 静まり返った異質な空気が、首筋へとまとわりつく。暑くもないのに、こめかみから一筋の汗が流れた。虫の知らせ。いくら超常的な能力がない俺でも狂いたくなるくらいに理解できてしまう。これは良くない兆候だった。


 しかし俺には確かめる義務があった。ハルミの視線を背中に感じる。その視線に突き動かされるようにして、俺はバッカンの窪みに足をかけ、中を覗き込んだ。

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