3

 廊下を走る乾いた足音が遠ざかっていく。追いかけようとは思わない。今の僕では足手まといにしかならないからだ。教室の窓から校庭を見下ろすと、雲ひとつない青空の下、亡者の群れが無秩序な軌道で行進していた。救いを求めるようにして、中空に手をかざす彼ら。何を考えているのか、そもそも意識はあるのか。分からない。だけど、ユウがこれからしようとする行為に対して、僕にはなんの罪悪感も芽生えなかった。


 上履きのまま、校庭のど真ん中に駆け出したユウを目掛けて、ゾンビたちの輪が収束していく。それはあたかも萎んでいく命の灯火のようで、そして実際に彼女は死ぬのだろうと、このときの僕は思っていた。彼女が死んだら、僕は本当に一人ぼっちになってしまう。だから、一緒に死のうとも。


 やたらめったらにバットを振り回し、ユウが抵抗する。ゾンビたちは避けようともしない。血や膿を撒き散らしながら、死者たちは校庭に伏せていく。しかし、数は減らない。わらわらと、体育館から、部室のほうから、生きている人間を求めて彼らは這い出してきていた。


 ユウが何かを叫ぶ。怨嗟の声? 聞き取れない。


「いっぱいきてるよ。本当に死んじゃうよ」


 僕が叫んだ声も、きっと彼女には届かない。同じような境遇なのに、僕らの距離は果てしなく遠いのだ。


 ゾンビをバットで殴り続けるユウを見て、ぼくはなんと運動神経が悪い子だろうと率直に思った。自分が物心ついたころから陸上をしていたのもあるのかもしれないが、それを差し引いても運動音痴といえるレベルだ。バランスも悪いし、足も遅い。おまけに力がないので、金属バッドの重さに振り回されているような状態だ。


 だけど、10分たっても、20分たっても、ユウはまだ校庭に立っていた。遠めに見ても満身創痍なのが伝わってくる。肩で息をして、もう走ることもできなさそうだった。綺麗な髪もぐしゃぐしゃに乱れて、真っ白だった肌には汚れていないところを見つけるのが難しいほどだった。しかしそれでも、ユウは止まらなかった。


 もうバッドを振るったくらいでは、ゾンビに致命傷を与えられなくなっていた。殴りつけて、ゾンビが倒れたところにねじ込むようにしてバットを振り下ろす。丹念に、何度でも。そうして次の獲物を見定めようと振り向いたところで、足をもつれさせて、転ぶ。何度目かも分からない横転だ。血と内臓の海に、ユウが背中からダイブする。どす黒い波しぶきがあがり、グロテスクな海面に隠れてユウの姿が見えなくなる。その隙に覆いかぶさってくるゾンビたちから逃れるために、死体の山を必死で描き分けて逃げる。なんとか立ち上がり、どちらがゾンビかも分からないほど血まみれなユウが、バットを正面に構えた。


 いつ死んでもおかしくない。それでも彼女は生き残っている。死にたいと思っているのに。まるで運命に縛られているかのように、彼女は生かされていた。


 僕は教室を出て、玄関を目指して走り出した。スピードは出せない。これ以上無理をすれば、膝がマグマに溶かされたように痛むのを知っているからだ。それでも、僕はギリギリの速度で走った。もっと近くで、彼女を、ユウを見たかった。


 校庭にたどり着いたとき、そこはもう、僕が知っている場所ではなくなっていた。腐臭と血煙が支配する、地獄の底だ。空ろな表情のユウが、バットを支えにして立っている。僕には気づいていない。その目は、僕ではないどこかを見ていた。


「――くん」


 聞き覚えのある名前をユウが呼ぶ。『彼』の名前だ。視線の先には、捩れた足を引きずりながら、獲物目指してにじり寄っている『彼』の姿があった。着崩した制服に、さっぱりとした短髪。中途半端に残った面影が、残酷さを水増ししていた。


 カラン。


 金属バッドが校庭に転がる。支えを失ったユウが、前のめりに突っ伏した。異様なほどに汗を掻いていて、スカートから伸びた足が小刻みに痙攣していた。誰の目にも明らかな、肉体の限界だった。あれだけの大立ち回りをしたのだ。体にダメージがないはずがない。


 『彼』の他にもう動いているゾンビの姿はなかった。僕も玄関前の庇から一歩も動けない。ユウにいたっては、意識があるのかすら怪しかった。この景色の中で、動いているのは『彼』一人だ。最愛だったはずのユウを、その歯で食い千切ろうとしている『彼』だけだ。幕切れとしては、おそろしく整っている。それほど、できすぎなくらいに。こんなことを考えてしまう僕はもうどこか心のネジが外れてしまっているのだろう。それでも、ユウと『彼』の物語が終わるのにはこの上ないタイミングだと感じたのだ。


 その空間に僕はそれ以上近づけない。これが僕とユウとの絶対的な距離だと感じた。あくまで、この物語の主人公はユウなのだ。恋人をなくして、失意のままにゾンビを狩り尽くす。僕はただ見てるだけ。傍観者だ。物語が終われば、観客も不要になる。この世界には、そこぐらいしか僕に居場所は残されていない。


 だけど、僕らはまだこの世界を去ることを許されなかった。


 ユウと僕はタイミングを逃してしまったのだ。


 ゾンビがどれくらい丈夫なのかは分からないが、見るからに『彼』は弱っていた。だから、ユウにたどり着く前に息絶えてしまったとしても、それは自然なことだった。だけど、僕は仰向けになったまま動かなくなった『彼』を見て、思わず呟いてしまう。「それは、ないだろう」答える人は誰もいない。


 ユウは泣いていた。『彼』と死別したことへの悲しみか、酷使した肉体の疲労からか、あるいは死ねなかったことへの後悔か。ユウの嗚咽だけが校庭に響いていた。


 決して彼女は死にたいとは口にしない。代わりに、それから毎日のようにゾンビ狩りを繰り返した。上っ面では、「ゾンビを減らして平和な世の中にするために」と笑いながら。僕はといえば、初めてのときと同じように、離れた場所からただ彼女を見守っている。「故障のせいで走れないから、せめてユウが危なくなったときに動けるように」と誤魔化しながら。物語が終わるそのときまで、僕らはお互いに仮面を被る。そうする必要は本当はないのかもしれない。だけど、やっぱりこう思うのだ。


 せめて、死ぬときくらいは人間らしく。 

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