5

 学校の裏手にある小さなアパート。入り口が小さく、バリケードを組むのに適していたため、僕らはここを根城にしていた。


 3階建ての一番奥、僕らの前には年季の入った、ボロボロの脚付マットレス。その上で、荒い呼吸のまま瞳を閉じている少女がいた。年端も行かない少女の腕には、不釣り合いな包帯が巻かれている。まるでコーヒーに溶け出す甘いシロップのように、包帯を変えても変えても、染みてくる出血は止まらない。すべてを流しだしてしまうかのように。


「やっぱり、血が止まらない」

「そんな……! まだこんなに小さな子どもなんだよ。それなのに、どうして!」

「ユウ、声が大きい。ボリューム絞って」


 下ろしたブラインドの隙間から、窓の外を見る。玄関周りに動く気配はない。ゾンビたちは血の匂いに反応しているようで、少女が奴らを引きつけないか心配だったが、どうやら大丈夫なようだ。傷口が浅かったからだろうか。


 だけど、傷の大小など関係ないのだ。彼女はいずれ、奴らと同じ存在になる。それこそ、奇跡でも起きない限り。


「これから、どうする?」

「どうするって、どういうこと」

「この子だよ。ユウだって分かってんだろ。これは、治せない」

「そ、そんなの分からないじゃん! もしかしたらさ、私たちがこうしている間に、政府の人とかが何か特効薬みたいなのを発明してるかもしれないし」


 ユウが言う可能性は確かにゼロではない。だけど、噛まれた人間がゾンビになるまでの猶予は、せいぜい1日程度だ。今からでは何もかも遅すぎる。


 正論だ。笑ってしまうような正論だ。それを突きつけてもどうしようもないことはわかっていたけど、何故だか無性に腹が立った。


 苛立ちを収めるために、とりあえず空腹をなんとかしよう。調達して来た鯖缶を開けて、流し込むように食べた。もともとお酒のつまみ用だからだろうか、喉が痛むほどに味が濃い。思わず、むせてしまった。


「ん、んん……」


 僕の咳き込む音に反応したのか、うめき声とともに少女の瞼がピクピクと動いた。わずかに肌があわ立つ。僕は鯖缶をゆっくりと置いて、膝をついたまま後ろに下がった。ユウに小声で「バットを構えろ」と囁いたが、なんと彼女は逆に少女へと近づいた。嘘だろ、おい。


 少女はゆっくりと目を開ける。あどけなさが残る、大きな黒目だった。嫌になる程拝んできた、黄色く濁った瞳ではない。まだ彼女が人間である証だ。


「ここ、どこ? パパと、ママは?」


 舌足らずな、かすれた声。ユウが背中を支えて、少女を起き上がらせる。まだ意識がはっきりとしていないのか、熱に浮かされたような表情のまま、少女は繰り返す。パパとママはどこ? 答えを持たない僕らは互いに目を合わせる。居場所が分からないと告げるのは簡単だが、それは彼女の境遇を考えるとあまりに残酷だった。


「大丈夫、パパとママはもうすぐ戻ってくるから。ゆっくり休むんだ」


 苦しそうに顔を歪ませながらも、嬉しそうに少女は微かに笑った。反対に、ユウは明らかに嫌悪感を滲ませた視線を送ってくる。どうして嘘をつくのか、そう問いたいのだろう。答える必要はない。君だって分かっているはずだ。


 それからポツポツとだが、少女は自分のことを話し始めた。花村サツキという名前で、どこそこ小学校の1年生で、バレーを習っていて。町がおかしくなってしまってから両親と一緒にある建物に立てこもっていたらしいのだが、どうやら何かのきっかけでそこにいられなくなってしまったらしい。そして建物から離れる途中で両親とはぐれてしまったそうだ。


「ちょっと待って、他に人がいっぱいいたの?」

「うん、知り合いのおじさんとかおばさんとかがいっぱい」

「場所は、分かる?」

「ずっと右のほうから歩いてきたの。おっきな学校があったよ」


 もう少し詳しい立地を聞きたかったが、サツキの説明は要領を得ない。だが、『おっきな学校』というのには心当たりがあった。駅から川沿いに歩いて徒歩15分ほどの場所にある私立大学のキャンパスだ。町の中心から離れていて、大きな建物といえば怪しい宗教団体の集会場がひとつだけあったぐらいだ。そこに立て篭もっていたのだろうか。


 考えても仕方がない。どうせ僕らに、ほかの生存者を探しに行く気などさらさらないのだから。


 それからしばらくは、ユウがサツキの相手をしていた。好きな食べ物の話や、近所で飼っている大きな犬の話。お喋り好きなサツキが咳込みながらも話し続けるのを、ユウが優しく宥める。そっと手を握って、コンビニから調達してきた飴玉を食べさせてあげた。激情にかられたようにゾンビをたこ殴りにするのとは正反対な優しい表情。白築ユウはいつもそんな顔をする女の子だったと、僕はこの世界がこんな風になってから初めて思い出した。


 部屋の持ち主が持っていた絵本をユウが読んでいる間に、サツキはまた眠りについていた。コンビニで出会った当初よりは落ち着いているものの、わずかに呼吸が荒く、額には脂汗が滲んでいる。時折、くぐもったうめき声を上げて、その度に僕は息を呑んでじっと彼女の様子を伺う。何事もなくまた寝息を立てるのを確認して、ほっとして腰を下ろす。そんなことを繰り返しているうちに、外はすっかり暗くなっていた。


 ユウがサツキの頬にかかった髪をそっと撫でる。


「アキラは隣の部屋で寝てていいよ。私がサツキちゃんを見てるから」


 細めた瞳はわずかに潤んでいる。優しさとは違う、別の感情がこもっていた。それでもどこか満たされているような、不思議な色合い。


「だめだよ、その子はおそらく、今夜が限界だ。日が昇る前にソンビになる」

「そうなったら、私がなんとかするから。それまではこの子を眠らせてあげたいの」


 嘘だ。サツキが起き上がった時だって、さっきから呻いている時だって、彼女はまったく警戒などしていなかった。むしろ、わざと無用心を装っているような節さえある。彼女にサツキは殺せない。要するにもう、腹を括っているのだ。


 ゾンビ狩りでいいじゃないか、と思う反面、それならそれで彼女らしいと僕は思った。ユウがことを選ぶのなら、文句はないはずだ。それでもどこか納得がいかないのは、僕の覚悟の問題だろう。ユウは僕なんかよりもよっぽど強く死にたがっている。あくまで生きたくないだけの僕とは違い、心の底から。


 情けないな、僕は。それこそもう、死んじゃいたいくらいに情けない。


 だけど、彼女の選択を止めることなんて当然できなくて。僕はそのまま、ユウとサツキをぼぉっと眺めつつ、部屋の隅っこで丸くなった。恥ずかしい自分を覆い隠すように、またずくずくと痛み始めた膝を抱えて。

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