沈殿

1

「それでは今日も1日、無事に過ごせたことを神に感謝しましょう。善行を積み、他人を幾つしむ心を忘れずに、共に歩めることを喜びましょう。私たちはみな、兄弟です。魂のつながりを大切に、助け合いの精神を胸に刻んで」


 歯の浮くような、クソッタレなセリフだ。誰か他人が喋っていようものなら胸ぐらを掴んで「神なんざいねぇよ」とガンをつけてやるところだが、他ならぬ俺自身の声帯を震わせている言葉なもんだから、余計にタチが悪い。いくら俺でも、自分に睨みを利かすなんて真似はしたくない。


 薄い消臭剤のようなお香の匂いがたちこめる。地面に裸で立てられた蝋燭の炎がゆらゆら揺れて、白塗りの壁に映し出された俺の影がぼやけて拡散していった。俺が話す声以外、何も聞こえない静かな夜。だが耳をすませば、戸外で蠢いている地獄の亡者どもの足音が反響して鼓膜を震わせるような、そんな底冷えする恐怖そのものが聞こえてくるような錯覚に陥る。


 あのゾンビどもがはびこり始めて、何度目の夜になっただろうか。毎日毎日、神経をすり減らしていく中で、俺がまだ正気を保てているのは、俺以上に狂った奴らが周りを固めているおかげに他ならない。宗教法人「グリュックリヒハイト」の信者たちは、みな俺に跪いてぶつぶつと念仏を唱えている。教祖がいない中、もっとも地位が高い幹部であるこの俺に、救いを求めて手を伸ばしている。信じるものは救われる。単純明快な教義に、この絶望の中縋り付いているのだ。


 それを見て、俺は安心するのだ。下には下がいる。少なくともこいつらより俺は、まともなのだと。


「お疲れ様でした、亀田さん」


 日課である祈りの儀式が終わり、皆が眠りにつく準備を始める中、顔なじみの少女がタオルを差し出してきた。ゾンビが入り込まないように建物を締め切っているので、室内は非常に蒸し暑い。しばらく立って講釈を垂れていたせいか、気づけば汗びっしょりだった。気の利くプレゼントに俺は礼を言いながら受け取った。


「ハルミちゃん、ありがとうございます」


 嵯峨野ハルミは両親が筋金入りの信者で、いわゆる2世というやつだ。ひなびた昆布のようなパーマがかかった茶髪はまさにイマドキの女子高生といった感じだが、物腰は落ち着いていて、何より美人だった。ここ数年は果実が熟すのを待つように特別親切にしてやっていたのだが、実りきる前に世の中がこんな有様になるとは、非常に遺憾である。


 それでも、他の信者どもとは違い、そこまで信仰に熱心ではない彼女は貴重な心の癒しであった。他の奴らは口を開けば神罰だの試練だの、同じ単語を延々リピートしやがって耳にタコができる。その点ハルミは煩わしい「教え」なんて口にしないし、こんな風にタオルを持ってくれるぐらいには気がきく。信仰心を抜きにして俺を慕ってくれているのは彼女くらいなものだろう。


 多くの信者にとって俺は代替品でしかないのだ。


「亀田さん、もしかして気にされています?」


 首を傾げながらハルミが尋ねてくるが、ピンとこない。彼女がタオルを見つめているのに気がついて、ようやく言わんとしていることがわかった。俺が汗を拭わないのは、清潔なタオルを使用することに躊躇しているからだと勘違いしたらしい。


「……ええ、水道もガスも止まっていますからね。私がこんなものを使っていいのでしょうか」

「幸い、備蓄がまだたくさんあるので。どうかお気になさらず、汗を拭いちゃってください。風邪、引いちゃうかもですよ?」

「そうですか。それなら遠慮なく使わせてもらいましょう」


 額に溜まっていた汗を拭う。まともに風呂も入れていないので、白いタオルの生地が垢で薄黒く汚れてしまった。綺麗好きな俺としてはかなりげんなりだ。温かいシャワーを浴びられないのは辛いが、また明日にでも水浴びをしよう。


 ハルミが言ったように、この施設には緊急時に備えた水や食料が大量に保管されていた。知らない風を装ったが、実際のところ俺はそれらの残数をきっちりと把握している。まだ余裕があるからこそ、信者どもにも平等に食料を分け与えているのだ。命綱を確認せずにバンジージャンプを飛ぶ馬鹿などいない。こればかりはあの豚野郎にも感謝しないといけなかった。


 最終戦争が起こった時のため。聞いているこちらの頭が痛くなるような理由であったが、奴が用意した備蓄はこうして役に立っている。預言者だとかほざいていたが、実際に世界がこんな混沌とした状態になってしまったのだ。少しくらいは信仰してやろうという気が……やっぱり起きないな。


「亀田さん、やっぱりお父さんたち、だんだん不安になっているみたいです」


 ハルミが目を伏せながら言った。藪から棒に、といった感じだが俺には彼女が何のことを言っているのか、すぐに分かる。毎日毎日、信者たちから投げかけられる疑問だ。おおかたハルミも、両親から俺に尋ねるように頼まれたのだろう。


「教祖様は、いつおかえりになるのでしょうか?」


 脂ぎった醜い阿呆面を思い出す。鈍重で低俗、おまけに趣味も悪かったが、あいつには一つだけ長所があった。悩める者たちの心に付け入り、自らを心酔させる、悪魔じみた求心力。その才能に目をつけた俺は、奴の右腕としてここまで教団を大きくするのに貢献してやった。県下では最大級といってもいい団体にまで成長できたのは、他ならぬ俺の力があったからだろう。それでも、信者たちが褒め称え、崇め奉るのは奴なのだ。


 自虐的な妄想が膨らむ。今この場で全てをぶちまけてやりたい。お前たちが教祖と崇めるあの男は、信者のことを金づるだとしか考えていないただの俗物だということを。そして、逃げ出す途中であっさりとゾンビに捕まり、殺されてしまったのだと。


 俺は意識しながら、優しく見えるように口角を上げてハルミに言う。


「あの方は今、脅威に抗うために戦っておられるのです。我々力なき者たちを巻き込まないよう、たった一人で。ハルミちゃん、私たちにできることは信仰の火を消すことなく、ただ祈り続けることだけなのですよ」


 内心をぐっとこらえて方便をぶちまける。ハルミは表情を和らげて、安心したように胸に手を当てた。あいつへの信仰は俺にとっても生命線なのだ。揺らいでしまえば今の地位が吹き飛んでしまいかねない。死んだとバレてしまうなどもってのほかだった。だからどれだけ不快だろうと、俺は自分の口から糞を吐き続けなければならないのだ。


 そんな堪え難い屈辱に唇を噛んでいたからだろうか。普段であれば気づけていたはずの変化に、この時の俺は全くといっていいほど無警戒だった。教祖の安否について今晩尋ねてきたのはハルミ一人だけ。普段ならもっと何人も、就寝前の不安を紛らわせるために俺の言葉を聞きにくるはずなのだ。しかしこの時の俺はそんなことなど気にも留めず、昂った胸中を鎮めるために一足でも早く個室にこもって眠りにつくことだけしか考えてはいなかったのだった。

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