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 白築ユウが死にたい理由はいたってシンプルだ。彼女は最愛の人を亡くしている。


 彼女と『彼』は誰しもが知る仲良しカップルだった。幼馴染で学校もずっと同じ。関わりの薄かった僕でさえ、その評判は耳がいたいほど聞いていた。


 ある時、通学の電車で二人にばったり出くわしたことを覚えている。部活で疲れきった彼が、うつらうつらと船を漕ぎ、彼女の肩にもたれかかった。ユウはちょっとだけ怒りながら、でも彼が起きないことを悟ると、黙ってそのまま肩を差し出した。そうして前を向いた時、向かいの座席に座っていた僕と目が合う。ふいに頰が赤くなって、誤魔化すようにユウは笑った。僕もなんとなく、笑い返した。


 でもそれは、あるいは幸福への羨望でもなく、気まずさを紛らわすためでもなく、ただ単に条件反射だったのかもしれない。何故ならその時には、僕はすでに死にたかったのだから。今と同じ、ただその勇気がなかっただけだ。


 神林アキラが死にたい理由はユウに比べるとわずかに混み入っている。正確に言うのなら、僕は単純に死にたいのではなく、生きていたくないのだ。


 昔から、走ることだけが好きだった。トラックを駆けているあいだは、周りのものが全て消える。隣で走るライバルも学校であった嫌な事も、全て置き去りにして、一歩先の時間で存在できた。そこには自分と足の裏から伝わる地面の感覚しかない。音すらも、後から付いてくるのだ。他のことでは感じることができない完全な自由がそこにはあった。


 その時間にもっといたい。だから僕は我武者羅に走った。走って、走って、走って、それがいけなかった。ハードワークによる関節の故障。定番といえば定番だが、まさか自分の身に降りかかることになろうとは夢にも思っていなかった。


 怪我をしてから半年は、肉体的な苦痛こそあれ、まだ希望があった。苦しいリハビリさえ乗り越えれば、また僕は走ることができるのだ。そう信じていたからだ。


 本当の地獄はリハビリを終えた後に待っていた。生活には支障がない、しかし、以前のように全力で走ることは、もうできない。そう告げられた時、やけに周りのあれこれが煩わしく感じた。医者のためらうような息遣い、白熱灯の眩しい光。時間に取り残されたのだと気付いたのは、しばらく経ってからだった。もう、あの自由な時間に足を踏み入れることは、二度とないのだと。


 それからというもの、僕はただそこに存在しているだけで、息苦しさを覚えるようになった。本番前に聞いていたお気に入りの音楽も、好物だったオムライスも、微塵も癒してなどくれない。僕は走っている以外の行為になんら価値を見出せなくなっていた。


 だからといって自殺しなかったのは、タイミング。そう、命を絶つタイミングを待っていたからだ。突然死ぬのはさすがに僕でも怖い。だから、ここがベストだという瞬間を探す。その目的だけで僕は生きていた。


 そんな矢先、『アレ』は起こった。


 静謐だった午後の学校が、突如地獄と化したのだ。あちこちで木霊する悲鳴。血しぶきが舞い、臓物が溢れでる。死んだはずの同級生がありえない角度に首を曲げながら立ち上がる。


 歩く死体、リビングデッド、ゾンビ。パニック映画の住人たちが急に世界を埋め尽くした。


 次々と命が失われていく中で、『彼』もあっけなくその生を散らしていた。ユウの愛した『彼』は片方の千切れかけた足を引きずりながら、クラスメートの背中に齧り付き、そしてそのまま窓の外へと落ちていく。


 この時、ユウはどんな表情をしていたのだろう。きっとそれは、僕が抱いた悲しみなんかより、ずっと壮絶で、彼女が壊れてしまうには十分すぎるものだったはずだ。見なくてよかったのかもしれない。もし目撃していたなら、僕はきっと、今とは違っていたはずだ。


 そんな惨劇がそこかしこで起こり、混沌とした校舎の中、僕らは逃げ遅れていた。走れない僕と、『彼』が死んで泣き暮れるユウ。教室の隅っこで、肩を寄せあうようにして僕らはただひたすら死の瞬間を待っていた。


 だけど、神様はいざという時に残酷で意地悪なものだ。半日経ってもそこから動かずにいた僕らは生き残り、校外へと逃げていった彼らは死んでしまった。原因はわからない。だけど、外にいた人は残らず動く死体の仲間入りをしていた。


 やがてあれだけ騒がしかった人々の悲鳴も消え去った。


 日が沈んで、また上る。


 どれくらいそうしていたのかは分からない。ずっとそのまま蹲っていたら、餓死はできただろう。だけど、それはあんまり綺麗なタイミングではなかった。僕にとっても、ユウにとっても。何も言わずに立ち上がったユウは、導かれるようにして教室の奥へ。擦り切れた皮製のスポーツバックから頭を覗かせていた金属バッドを彼女は掴んだ。それはあまりにもユウには似合っていなくて、笑えない状況なのにも関わらず、僕は奇妙なおかしさをこらえられなくなった。吹き出しながらユウに尋ねる。どうするの、それって。


 ユウは涙でべたべたになった顔を、不器用に微笑ませて、それでも精一杯の言葉を口にした。


「やっぱり、ゾンビが出たら退治しなきゃなって。それが定番だって、言ってたから」


 誰がとも、どうしてとも聞かない。分かりたくもなかったし、知る必要もなかったからだ。ただひとつ、彼女と僕には共通点がある。それを理解しただけで、僕には十分だった。たったひとりだと思っていた世界に、ユウがいる。彼女になら自分の命を預けてもいい。投げやりかもしれないが、確信を持って僕はそう思うことができた。


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