第116話 愛って(2)

「や、なんか。 なんでかなあって、」


夏希の素直すぎる質問に絵梨沙は笑いながら、


「最初はね。 彼のこと大っきらいだった。」


あっけらかんとそう言った。


「は?」


「私。 ピアノしかしてこなかったから。 ピアノ以外に楽しいこともなかったし。 ウイーンに住んでいたんだけど、両親が離婚して。 10歳の頃に日本に戻ってきたの。日本語もおぼつかなくて、友達もできなくて。 一人っ子で、母はずっと仕事だったし。 もうピアノやるしかなくって。 ジュニア時代からいくつもコンクールで優勝するくらいになって。 そして、ウイーンに留学した先で、あの人と出会ったの。」



絵梨沙は食後のデザートの手作りのプリンを出してくれた。



「最初は。 もう・・なんて人だろうって思ってた。 学校の課題ひとつまともにこなせなくて。 ほんと、下手だった。 よくこんなんで留学できたなって思うくらい。 私の父はピアニストだったんだけど。 その学校の講師を勤めていて、その縁で私は留学したの。 それで父が真尋の先生だったの。」


「絵梨沙さんのお父さんが、」


「ええ。 父は真尋のピアノを初めて聴いたときから、すっごく何かを感じていたみたい。 ほんと、ふざけてばかりで、私も彼が本気でピアノを弾いているところさえ見たことなかったのに。 ある時、ピアノデュオの課題が出されて。 父が私に彼と組むように言ったの。 ほんと、イヤだったんだけど。 二人で練習をしていくうちに、何だか。 すっごい不思議な気持ちになって。」


絵梨沙は遠い目をしてその頃のことを思い出しているようだった。


「この人は私が欲しくて欲しくてたまらないものを持ってるって。 思うようになって。 私は全てをピアノに賭けていたのに、彼はそうじゃなかった。 自分のやりたいことやりつくして、楽しいこともたくさん経験してきて。 いつも心に余裕があって。 うまくいえないけど、一度聴いたら耳から離れない不思議なピアノだった。 彼がピアノを弾くと、誰もが一瞬立ち止まるような。 ああ、この人『天才』なんだって。 いくら私が努力しても、叶うことのないものを持ってる。 いつしか彼のピアノをそばで聴いていることが幸せになって。 気がついたら離れられなくなっちゃった…。」


彼女の整った顔立ちが、嬉しそうに少し崩れる。


「真尋さんのピアノが好きってことですか・・?」


夏希は彼女が彼のピアノにほれ込んでいることはわかったのだが、それがイコール愛に繋がるのが不思議でたまらない。



「あの人、ほんとピアノを取ったら何もできなくて。 子供みたいに純粋で、いつも上ばかり向いていて。 自分の才能をわかっているのかいないのか、わからないけど。 いつも自然体で生きてる。 確かにピアノの結びつきは強いと思うけど。 私は真尋がいない世界はもう考えられないの。 自分にどれだけのピアノの才能があったとしても、それが彼のためになるのなら沢藤絵梨沙として、世にでなくても、北都マサヒロの妻としての私が存在していればもうそれでいいって。」


彼女の話に


鳥肌が立ってしまった。


『真尋がいない世界は考えられないの』


ドラマみたいなセリフ。


生で初めて聴いた。



すっごい


愛しちゃってるんだなァ。


あたしは


そこまで人を愛せるだろうか。


夏希はぼんやりとそんなことを考えていた。







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