第90話 距離(3)

夏希は念願の”出張”を経験して、月曜日元気に出社した。


「本部長! おはよーございます! 出張報告書にハンコください!」

勢いよく書類を差し出した。


「そんなに勢いよく出さなくても、」

志藤はしぶしぶハンコを取り出した。


「あたし東京に出てくるとき、母に言われましたから。 簡単にハンコ押しちゃいけないよって。 でも押すときは勢いよく押せ!って。」

屈託なく笑う。


「なんや、ソレ。」

志藤は笑ってしまった。


「ありがとうございました!」

一礼して立ち去ろうとすると、高宮のデスクが妙にきれいになっているのに気づく。



「・・あれ?」


その違和感に夏希は立ち止まった。


志藤は彼女の背中越しに、


「高宮。大阪行ったで。 今朝。」


と声をかける。


「大阪? 出張ですか・・?」

ゆっくりと振り向いた。


一昨日、電話で話をしたときは何も言っていなかったのに。



「ま・・出張かな。 半年間の。」


志藤の言葉に夏希は固まった。



「・・半年・・間?」



「そう。 常務が病気で倒れた大阪支社長の代理で行くことになったから。 高宮も連れて行きたいってことになって。」


やはり

コイツは知らなかった。


「そう・・ですか。」


夏希の心のメーターが目に見えて下がっていくのがわかり、志藤は声がかけられなかった。


ずうっと

糸の切れた風船のように

漂っている気持ちだった。


パソコンを打つ手は動いていても、それは自分ではない。

自分の意識は完璧に違うところにいっているのに。


「うそ! ほんま?」


「ん。」



南は志藤にかぶりつくように身を乗り出した。


「なんで、言うてくれへんかったの?」


「なんでって。 ジュニアにも口止めしてたみたいやで。 あいつ。 ちょっと長い出張ですから、とかカッコつけちゃって。」

タバコを灰皿に押し付けた。


「で、なんで加瀬が知らないの?」


一番の疑問はそこだった。


「わからん。 あいつ、どうしてる?」


「どうって。別に。 でも、いつもよりは存在感が薄いような。」

南は思い起こしてそう言った。


昼休みになり、

「あ~、加瀬。 なんか食べたいものある? おごってあげる、」

南は腫れ物を触るように夏希に言った。


すると、くるっと勢いよく振り向いた彼女は、ニコーっと笑って、

「じゃ。お寿司のランチでお願いします!」

いつもの彼女の声のトーンだった。


「すし?」


「自分じゃあ食べれませんから! あ~、お寿司久しぶり! ありがとうございます!」

嬉しそうに席を立った。


「あ~、やっぱヒカリモノさいこー。 あたし、シメサバ大好物なんですよぉ~。」

夏希はすし屋でも元気だった。


逆に

切り出せへんやんか。


南は高宮のことをつっこむこともできなかった。



いつものように

もりもりと食べまくる彼女は

元気そのもので。




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