閉じ込めた心

 その夜、夜鷹はなかなか寝付けなかった。ベッドの中でごろりと寝返りを打つ。

 暖房のない屋根裏部屋はひんやりと寒くて、吐く息も白く見える。そのため、ベッドにはホットカーペットとふわふわのカバーが備え付けられる。ほんのりと暖かい毛布で身体を包んでも、眠気はやってこなかった。

 嵐志の言葉が頭に過ぎった。


「確かに、閉じこもるにはいい場所かもね。でも、閉じこもっているだけで、ほんとにいいのかな?」


 ぼくは、閉じこもっているだけなのだろうか。

 胸がどくどくと早く脈打ち始める。どうしてこんなに痛むのだろう。

 ―――そんなこと、わかっているくせに。

 と頭の中で声が響いた。その声の主を夜鷹は知っている。心の奥に潜んでいる、本音の夜鷹の声だ。

 ―――本当のことを言われて、図星なんでしょ。怖いんでしょう。

 夜鷹は飛び起きた。本当は、自分でもそう思っている。いずれはあの『逃げ場所(アジール)』から飛び立たなくてはいけないのだ。前の先輩たちもそうだったじゃないか。けれど、それを夜鷹は怖いと言っているのだ。

 両手で顔を覆う。

「………………『ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやそのまえにもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。』」

 夜鷹はすっかり覚えた『よだかの星』の一節を口ずさんだ。わけもなく泣きたくなってきたのは、どうしてだろう。

『よだかの星』のよだかには、翼があった。だから遠く遠くの空の向こうへ飛んでいくことができた。

「飛び立とうにも、」

 夜鷹は背中からベッドに倒れた。

「翼がなくちゃ、飛べないよ」


 ***


 新しく書き直した原稿が入ったファイルを抱えて図書室に向かう途中、夜鷹は誰かが言い合う声を聞いた。そこは図書室へ行くには必ず通らなければならない道で、夜鷹は足踏みをした。こっそりと覗くと、三対一で対峙していた。一人は三人よりもずっと背が低い。声はどっちも聞いたことがある。一方はクラスメイトの岸谷浩二。もう一方は嵐志少年だった。

「てめぇ……もう一度言ってみろよ」

「だから、夜鷹の兄者を虐めるのはやめろってさっきから言ってんだよ! よく吠える割には犬って耳悪いのな! 兄者がそう言ってたのは事実なんだな」

「なにをっ!」

「ほらまた吠えたー!」

 嵐志少年は相変わらず敬語を使わず、友達と話しているような言い方だった。彼らが話しているのは夜鷹のことだった。嵐志は浩二たちに夜鷹に関わるなと言っているのだ。

 夜鷹はこのとき、胸にもやもやしたものが広がっていくのを感じた。嵐志の言葉ははっきりしていて、見ていてすっきりした。けれども、それとは別の感情が夜鷹の心に溜まっていく。

「おまえさ、そうやって英雄気取りか?」

 浩二が一歩前に出た。嵐志はそれでも引かなかった。威勢のいい声で言い返す。

「ヒーローでも何でもいいよ。俺が許せないから言ってるだけだ。おまえらこそ、結局自分に自信がないからそうやって集団を作るんだろう? 姉者がそう言ってたぞ」

 浩二が片方の眉を吊り上げた。

「兄者姉者って……おまえは本当にそいつらの言葉を信じているのか?」

「……は?」と嵐志は呆気にとられたような顔をした。浩二の言葉を理解していないようだ。それに被さるように浩二は続ける。

「兄者がー、姉者がー、って口癖みたいに……それはつまり、おまえ自身の考えじゃないってことだろう?」

 そこで初めて嵐志は口を閉ざした。大きな目でじっと浩二を見返す。

「そんなこと……」

「ないとは言わせねぇよ。高が兄弟の言葉を底まで信じるなんて、かわいそうだなって。信じ込まされているのか? 勝手に盲信して、間抜けだな」

「…………姉者たちが、嘘言ってるって言うのか?」

 浩二が答えた。

「そうだよ。君はそれをずっと信じ込んでいるんだ。哀れだね、惨めだね。可愛い子ぶって、綺麗事抜かすなよ、偽善者の弟くん! 君が見ているのは、偽善で固めた兄弟の姿だ、そんな動機で、人を断罪するな?」

 嵐志はしばらく黙っていたが、きっと目を鋭くしたかと思うと、また浩二に向かって牙を剥いた。

「兄者たちのことを馬鹿にするなッ!」

 気がついたら、夜鷹は飛び出していた。嵐志の背後から手を伸ばし、肩を掴んで、自分に引き寄せた。

「やめて」

 夜鷹は片手で嵐志の両目を隠し、浩二たちを見据えた。

「やめて。この子には手を出さないで」

 言い放ってから、夜鷹はしまったなぁ、と心の中で呟いた。浩二は面食らったような表情で夜鷹を見ているが、ここからどうしようかと悩んでいた。 

「なんだ、倉敷。庇うのか?」

「そうだよ。いけない?」

 喉咽が震えるのを必死に堪える。今まで反抗してこなかった夜鷹の、ほんの少しの抵抗は、浩二たちを怯ませるには充分だった。夜鷹は続けた。 

「お願いだからこの子は巻き込まないで。ストレス発散なら、ぼくがいれば、君たちはそれでいいでしょう?」

 それだけ一口で言い切ると、夜鷹の心臓はばくばくと盛大な音を立てていた。全速力で五十メートルを走り終えた後のようだ。

 浩二がごく穏やかに嵐志を見て、それから夜鷹を見た。

「おまえさ、そいつが言ってる姉者って、誰か知ってるのか?」

「え?」

 今度は夜鷹から呆けたような声が出た。嵐志を見る。彼の姉なんて、会ったことがないのに。

 会ったことがない? 本当に?

 夜鷹は今までの記憶を掘り返した。そういえば、ずっと気になっていた嵐志の言動。言葉や行動の一つ一つに、今まで夜鷹は引っかかりを感じていた。一番初めに助けてくれたときにも感じた違和感。

 まさか。

 瞬きをする。夜鷹がある一つの仮定にたどり着いたとき、浩二が口を開いた。

「おまえが崇拝する一之瀬先輩だぞ」

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