現実問題3
それは体育の授業が終わったときのことだった。
男子は教室で着替えることになっている。夜鷹は一瞬だけ固まって、それから微かに首を傾げた。自分の席から制服の上着とワイシャツがなくなっていたのだ。
忘れた、なんてことはない。制服を着て登校したのだから。そこまで頭を回転させること約五分。夜鷹はようやく盗まれたと認識したのだった。
まさか制服がなくなるなんて。夜鷹は目をぱちくりさせた。体操服がなくなったり、切り刻まれたりするのは何回かあったけれど、制服がなくなったのは初めてだった。
今日は外でサッカーの日で、転んでばっかりでジャージは泥だらけだったが、仕方なく夜鷹は残っているパンツだけを履き替えた。上はそのままジャージを着たままで次の授業に臨むことにした。
「男子ー、入ってもいいー?」
廊下から女子の声が聞こえた。女子更衣室で着替えてきた女子たちが、男子の着替えが終わるのを待っている。
「待って待って、倉敷がまだ着替えてるー」
そう答えたのは岸谷浩二(キシタニ コウジ)だった。彼はクラスの中でも容姿が優れていて、何かにつけては夜鷹の容姿を否定する対象だった。
「ちょっと、倉敷くん早くしてよー」
このハスキーな声は成見陽子だ。合唱コンクール以来、陽子はあからさまに夜鷹を見下すようになった。
陽子の声を始め、廊下からは女子が、教室内では男子が夜鷹に早くしろと罵声を浴びせた。
「もういいよ。着替えるものがないんだってさ」
そう言って扉を開けたのは学級委員長の茅野雅だった。雅は夜鷹の方をちらりと見ると、不快そうに眉を寄せた。今まで無関心だったクラスメイトたちまでが、夜鷹に手を出し始めていた。
「倉敷、制服はどうした」
鋭い声が教室に響く。理科の授業中。よりにもよって生活指導主任の授業だった。
「すみません、なくしました」
正直に夜鷹は事実を述べた。盗まれたことは言わなかった。それは直感で、夜鷹もまだ確信が持てていなかったからだ。しかし教師はつかつかと足早に夜鷹の席の前に歩いてきた。
「なくしました、じゃないだろう」
夜鷹は肩をすくめて教師を見上げた。この教師は、制服の乱れが風紀の乱れになると本気で信じ込んでいるのだ。
「本当になくなったのか?」
「はい」
「自分で隠したんじゃないだろうな。少しは受験生の自覚を持て。こんなことではどの高校でもやっていけないぞ。お前みたいなヤツは本当に邪魔なんだよ。クラスのみんなに迷惑をかけるとは思わないのか?」
教師としては信じられない言葉が次々と夜鷹に降りかかる。それらの言葉を夜鷹はじっと聞いていた。何も言えなかった。こういう教師は何を言っても「それは言い訳だ」としか言わないからだ。いくら正しいことを言っていても聞く気がないのだ。
「もういい、立て」
夜鷹は頭を上げた。一瞬何を言われているのかわからなかった。目をぱちぱちとさせていると「早く立て!」怒声が響く。椅子ががたりと音を立てるも、怒声と比べると気弱に聞こえた。
「廊下立ってろ。邪魔だ」
***
授業が終わった後、夜鷹は教師に生徒指導室に連行された。半ば尋問近い形で説教を受けること約一時間。生徒指導室から出てきた夜鷹はすでに疲れ切っていて、残りの授業を受ける気力もなかった。
「どうしたんですか、夜鷹先輩っ!」
背後から声を掛けてきたのは修司だった。「あはは……制服、なくしちゃって……」
修司は一瞬きょとんと目を丸くしたが、すぐに「それ笑い事じゃないですっ」と怒鳴り声を上げた。
「夜鷹先輩……それ、盗まれたんじゃないんですか?」
心臓が口から出てくるんじゃないかと思うくらいに飛び跳ねたが、夜鷹はそれを押さえ込んだ。修司は夜鷹を見上げる。つり目から覗く眼光は夜鷹をひるませるには充分だった。それは乾柊眞に睨まれるより、恐ろしいかもしれない。
「…………考えすぎだよ」
「そうですか。そうならいいんですけど……」
修司はそれ以上追求してこなかった。しかしどこか決まりが悪いように夜鷹から目をそらした。なにかしら考えているときの修司の癖だ。
チャイムが夜鷹と修司の間に響いた。次の授業が始まってしまう。修司は はっ と我に返り、夜鷹に頭を下げて教室へ戻った。こういうときでも走らないところが修司らしかった。
***
放課後。文芸部は何事もなく活動していた。テスト週間でも、部誌に提出する原稿の締め切りがなくなるわけではない。少しでも勧めておかないと、製本する時間がなくなってしまう。ましてや部員の数の製本を手作業で行うのだ。
図書室の扉が乱暴に開かれた。奥に陣取る部員たちは異変に微かに身構えた。荒々しい足音を立てて現れたのは、修司だった。
「なんだ、修司くんか」
「びっくりしましたぁ」
文乃や鐘花たちの声を無視して、修司はつかつかと夜鷹に歩み寄った。聞いたことのない低い声が、図書室の床を這った。
「夜鷹先輩。ちょっといいですか?」
「痛いっ、修司くん痛いよっ」
修司は夜鷹の腕を掴んで、廊下をずかずかと進んだ。
各々部活に向かおうとしていた生徒たちが、何事かと夜鷹たちの方を不思議そうに伺っていた。そんな視線もお構いなしに、修司は大きな歩幅で、階段も一つ飛ばしで、下っていく。
修司は一年生の教室がある階の、男子トイレに夜鷹を連れ込んだ。
「さっき、夜鷹先輩は『なんでもない』って言ってましたよね」
今まで何も話さなかった修司が、ようやく口を開いた。
「これを見ても、同じことが言えますか?」
修司は二つあるうちの、一番奥の個室の扉に手を掛けた。『使用禁止』と書かれた白い紙が張られてあった。
ギィ……と軋んだ音を立てて扉が開く。和式の便座の中を修司は人差し指を ぴん と立てて指した。
黒い布が丸めて捨ててあった。同じように白い布もくしゃくしゃになっている。よく見たら、名札が見えた。
夜鷹の背筋に ぞくり と寒気が走った。首筋がちりちりと痛くなる。思わずその場にしゃがみ込んだ。そこに修司の声が静かに覆い被さる。
「先輩の、制服です。澄と冬喜のクラスのヤツが、見つけたんです…………どうして……ッ、どうして、こんなことができるんだよ……ッ」
修司の声は已然、低かった。先ほどと違うのは震えていることくらいだろうか。頬を真っ赤にしながら、震えを押し殺している。夜鷹も口を手のひらで覆い隠した。悲鳴が出てこないように。
「夜鷹先輩が何したって言うんだッ!」
修司の両手が背中から回される。背中に額を押しつけて、修司は「チクショウ」と何度も零した。
回された修司の手に、自分の手を重ねることはできなかった。
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