原稿行方不明2

 ***


 また、原稿をダメにしてしまった。今度は水を掛けられた。手書きの原稿は全滅。また書き直さないと。水浸しの原稿用紙の束を隠すように抱く。

 虐めはどんどんエスカレートしていた。ついに原稿まで手を出してきた。まだ文芸部のみんなは知らない。隠し通さなきゃ。

 そう思っていたのに。

「夜鷹?」

 聞き覚えのある声に足を止めてしまった。振り返ることができなかった。一番知られたくない人だったから。

「何でこんなに濡れてるの? 池に落ちたみたいじゃない!」

 その日は晴天。全身ずぶ濡れで彼女にすごく怪しまれた。彼女の名前を呼んだ途端、すぅっ、と涙が零れた。


 ***


 夜鷹は理科室にいた。机の中、実験用具の戸棚、鉱石標本が入った抽斗。全部見てもなかった。

「そんな……」

 これで探せる場所は全部探したことになる。胸がぎゅっと縛り上げられるようだ。入り口の骨格標本が、空っぽな眼窩で夜鷹を見ていた。

「ねぇ。僕の原稿見なかった?」

 骨格標本に訪ねる。答えが返ってくるわけでもない。これはファンタジーじゃなくて、現実なのだから。

「…………なんちゃって」

 ふと、教卓に目を向けた。綺麗に片付けられているテーブルの上。それなのになぜか夜鷹は違和感を感じた。近づいてよく見てみると、すぐにわかった。

 マッチが無造作に放り出されていた。

 夜鷹は ばっ と踵を返して、生徒用のテーブルに足を向けた。テーブルに二つずつ置いてある缶の中を確かめた。銀色の大きな缶は使用済みのマッチを捨てる灰入れだった。

 まさか……

 胸がざわざわとさざめいている。見ちゃダメだよ。そう言っているような気がしてならない。六つ目の缶に手を伸ばしたとき、他の缶とは違う重さに気づいた。そっと、両手で持ち上げて、恐る恐る中を確認する。

 不安定な心の盤上で、二人の夜鷹がいて、それぞれ声高に叫んでいる。早く中を確かめてよ。知りたいんでしょ?一人の自分がそう語りかけてくる。それからもう一人の自分までもがささやいてくる。見ちゃダメだよ。もしここに原稿があったら、耐えられるの?

 その缶だけ、黒くなったマッチと灰が大量に入っていたのだ。そしてその灰の中に、灰になることを逃れ、小さくなった紙切れが何枚か入っていた。

 夜鷹は震える手でそれを拾い上げた。紙切れからさらさらと灰がこぼれ落ちる。脈が大きくなっているのがわかる。とくん、とくん、と指の先まで、脈が伝わってくる。

 すべすべした紙質は、授業のプリントで使われているものとは違う。指先でつまみ上げた時点で、夜鷹はそれが何か確信した。

 マスが見える。その中に文字が書いてある。この字は、夜鷹のものだった。

 突然暗闇の中に突き落とされたような気分だった。一気に身体から力が抜ける。缶を持ったまま、夜鷹はその場に膝から崩れ落ちた。その衝撃で缶の中の灰が舞う。

 何度も原稿を盗まれたことはあった。そのほとんどが帰ってこなかった。それでも今回みたいに燃やされたのは初めてだった。

「…………なんだ、こんなところにあったんだね」

 気丈に声に出してみるけれど、声はすっかり震えていて情けなく理科室の壁や床に反響する。

「ごめんね。最後まで書き切ってあげられなくて……燃やされて、痛かったね……ごめんね……」

 言葉とともに、雫も零れ落ちる。制服の袖口で涙を拭う。それでも止まらない。今まで我慢していた分も、まとめて流れ出ているみたいだ。拭いすぎて、今度は目の下が痛くなってきた。顔も火照っていて、涙の通り道は熱い。

 前は、この涙を拭ってくれる人がいた。ほっそりとした、少しひんやりとした指先で、そっと夜鷹の頬を拭い、大丈夫、と声を掛けてくれた。


 ***


「夜鷹がいつも提出が遅かったのは、原稿を書き直していたからなのね」

 図書室の一角で、彼女は水浸しの原稿用紙を悲しそうな目で見ていた。

「気づかなくて、ごめんなさい」

 濡れた夜鷹の顔を拭き、彼女は謝った。

 彼女は優しい。優しいから、みんなの分傷ついてしまう。天使みたいで、実は片翼しかない。もう片方の翼は、彼女が傷ついた分剥がれ落ちて、ぼろぼろだ。

 彼女は、汚れた翼を持つ夜鷹よりも美しく空を舞うことができるのに。彼女の優しさを目の当たりにするたびにそう思ってしまう。

 二人とも飛ぶことができないのなら、いっそのこと、その優しさを全部ぼくのために使って、翼をぼろぼろにしてしまいたいと、なんとも醜い考えが頭をよぎってしまう。

 夜鷹は彼女の名前を呼んだ。

「大丈夫です。ぼくがしっかりしてなかったんですから。気にしないでください」

 醜い考えを笑顔に隠して、夜鷹はへらりと笑って見せた。それを見た彼女の眼差しは、さらに悲しげに見えたのは、錯覚だろうか。


 ***


「…………愛衣ちゃん先輩っ」

 苦しげに呼んでも、彼女はもういない。

 

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