プロローグ2

「お前の今は、過去と未来を捨てるだけの価値があるか?」


 人生の思い出を差し出せ、と最初に悪魔が持ちかけた時、それはたいした事じゃないと思えた。それよりも、いま目の前に居る女の子を助ける事のほうが自分には大事だ。


 契約が執行され、思い出は巨大な古い石橋が崩れていくようにゆっくりと消えていった。

 悲しいかな、と想像していたがそうでも無かった。それがあった事すら忘れてしまえば悲しみようもない。それに、やはり目の前の女の子に笑っていてもらった方が良いという予感は正しかった。


 卒業式に仲間たちと通学路を歩いて帰った思い出。入院した母親を見舞いに行った病院の食堂で、父と食べたトンカツ定食の味。なんで自分を、と思った初めてもらったラブレターと顔を赤くした名前も知らないクラスメートの顔。


 そんなものと引き換えに悪魔は願いを叶え、後はもう死ぬだけだったはずの女の子の命を繋いだ。それでも、まだ足りないらしい。

 命を救うほどの願いには代わりの命そのものが必要。確かに理にかなっている。喜べよ、と悪魔が言っていた。それでもお前の魂は誰かを救うに充分足る、と。がくるのは珍しいんだ。


「お前の今は、過去と未来を捨てるだけの価値があるか?」と念を押すように悪魔が聞いた。


 答えは決まっている。ただ、笑っていて欲しいだけだ。


「契約は成立だ」と静かに悪魔はささやいた。「彼に幸せを」


 自分の中で大切な何かが失われる感覚があった。子供の頃、優しかった祖母に日当りのいい縁側で頭をなでてもらった思い出だ。その翌々日に、眠るように祖母は息を引き取った。

 これだけは残したかったけど、しょうがない。

 目の前の女の子は、涙を浮かべた目でにらみながら、食いしばった歯の間から叫んだ。


「ばっかみたい」うつむいて肩を震わせる。「わたしに、そんな価値無い」


 ぽたぽたっと涙が地面に落ちた。

 堰を切ったようにわめく。


「アンタがわたしにどんな夢見たか知らないけどね、わたしがここまで来るのにどんな事してきたか知りたい? 自分の父親くらいのオトコの…」


 そっと手を伸ばして女の子の頬に触れる。女の子はビクッと一瞬体を硬直させたが拒絶している様子は無かった。

 この子の為に悪魔と契約し、過去の思い出の大部分と、幾ばくかの将来を失ったのだから、頬に触れるくらいは良いだろうと自分で自分を許した。


「笑っててほしかったんだ」


自分でも驚くくらい優しい声が出せた。「その為に、色々無くしちゃったんだから、そのくらいしてよ」


 女の子は虚ろな表情でその言葉の意味について考えているようだった。涙はもう止まっている。

 事情を説明するだけで長い物語になる。

 そんな会話を積み重ねていく未来は、失われた過去の代わりとして十分に思えた。

 なんとなくこちらを見ているだろう悪魔の方を見ずに、


「ありがとう」と礼を言った。


 音もなく悪魔が宙に浮かぶのが見ないでも分かった。


「いいさ」と柔らかな男の声は頭上から聞こえてくる。「それが契約だ」


「けどまあ、今回も大赤字」


 ちょっと呆れた可愛い声が、後に続いて聞こえてきた。

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悪魔のメリークリスマス タキ @taki20170319

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