第37話 願い

 桜は、今日一日に起きた全ての出来事、心に刻み込んだ鮮明な思い出を、一つひとつ丹念に思い出しました。

 心に残った最後の思い出は、桜の胸の中で、黄金のように静かに輝きます。


 もうこれがあればどんなことにだって耐えられる。

 何が起こっても受け入れられる。

 もう他に何もいらない。

 …そう思えるはずでした。


 けれども、それを見ていると、決して手の届かない憧れを想うときのように、心が狂おしく揺れ動くのです。ベッドのうえでいつも思っていたのに、『それ』が手に入ったらあたし、たとえ死んだって悔いはない、そう思っていたのに、『それ』が手に入ったいま、桜の心は満たされない渇きと飢えに、狂おしいほど騒ぐのです。


 世の中の成り立ちが少しでも分かれば、


 世の中を構成する何かが少しでも手に入れば、


 世の中に吹く風の手触りを確かめたら、


 ……きっと死んだって構わないって、


 そう、信じていたけれど、それは違うんだ。ほんとうはちがうんだ。


 何かがちょっと手に入ったとき、何かを少しだけ知ったとき、何かをわずかだけ感じたとき、何を思うのか。

 世の中には、こんなにも楽しいことがあった。

 もっと欲しい。

 もっと知りたい。

 もっともっと感じたい。

 そういうことなんだ。


 悪魔の手の中で、桜の過ごした最後の時間、最後の魂はまだ残っていました。

 願いはまだ叶えられてはいませんでした。

 雪は、確かに降っていました。

 けれど、この雪は、桜のあの最後の願いではありませんでした。

 契約はまだ成立を待っていたのです。


 確かに素晴らしい思い出。

 だけど。だけど、だけど………。

 

 これっきりなんて


 いやだ


 いやだよ


 ゆうちゃん


 はなれたくない


 いろいろなもの


 もっとみたい


 いろいろなばしょ


 もっといきたい


 いろいろなひと


 もっとあいたい


 叫ぶ?


 ……何を?


 ……決まってる。


 

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