第33話 悪魔の考え

 桜はすでに苦痛から解き放たれているようでした。苦悶に歪んでいた表情は、あらゆる苦痛や苦しみから解き放たれた安らかなものへと変わっています。


 もう、桜の時間は、尽きる寸前でした。

 濁った瞳のまま、幸也の腕に抱えられ、空を見上げていました。

 力の無い手をゆっくりと伸ばします。震える手が、幸也の頬に触れます。涙をそっと拭います。桜が口をばくばくと動かしました。それはまるで、砂漠で迷ったひとが水を求めるような仕種でした。


 桜は夢でも見ているかのように、視線を宙にさ迷わせます。

 幸也の涙が桜の真っ白な顔を濡らします。


「……………………」


 桜が空を見上げ、何かつぶやきました。幸也は、そこで初めて闇の中、天からひらひらと舞い落ちるものに気がつきました。

 雪、です。

 真っ白な、汚れの無い、羽毛のような雪が、ひらひらと降ってきたのです。

 あっという間に視界一面真っ白に染まります。


「さくらッ! 見ろ! 雪だ! 雪が降ってる! 見えるかっ?」


 幸也は一生懸命桜に問いかけます。桜は、微かに本当に微かに微笑みます。


「きれい」


 それが桜の最後のことばでした。


 幸也の頬に伸ばされていた腕が、ばたっと倒れます。

 少女は、瞳を閉じていました。

 口元だけが、わずかな微笑みを、『生きた証』を浮かべていました。けれど、それだけです。それはただの思い出です。もう、二度と桜の綺麗な顔には、表情が刻まれることがないのです。

 それが、死ぬということなのです。


「さくら?」


 幸也は笑顔の残ったままの顔で少女の体を揺すります。肩を強く揺らします。でもすでに機能を停止した少女の肉体は、幸也の揺らした方向に人形のように動くだけです。


「………ーーーーーつつつつ」!


 声にならない叫びが、小さな街の片隅の、誰も居ない夜の学校の、静かに雪の降る屋上に響き渡りました。


 幸也は、どんどん冷たくなっていく桜の体を抱きじめ、ほおずりしました。まるで、自分の体温を分け与えるように。そうすれば桜が生き返るかのように。降りしきる雪の中、少年はいつまでもいつまでも冷たい少女の体を抱きしめるのでした。



 ◆



 悪魔は、遥か上空からその叫びを聞いていました。悪魔だけが、その小さな世界の小さな命が振り絞った小さな叫びを聞いていました。

 悪魔は何かつぶやきます。

 でも、傍に居る使い魔にも、その声は聞こえません。


「最初から、知ってたんですか」


 使い魔はなんだか怒ったように言いました。そんな自分の声音には自分自身で気がついていません。何かが、使い魔のなかで変化しつつありました。


「色々繋がったのは途中からだ」


 そう静かに言ったきり、悪魔は黙ります。

 悪魔秘書が持ってきたファイルに、桜と幸也の名前が記載されていました。

 運命は変えられません。それでも、何か出来る事があるかも、と悪魔は考えました。そして、悪魔秘書もまた、悪魔のそんな性格を知って、その仕事を持ってきたのでした。

 使い魔はどうしていいか分からず、ただ悪魔の隣に黙って浮かんでいました。


「思い出ぐらい残してやろうと思ったんだけどな」


 しばらくして悪魔は言いました。

 使い魔は悪魔の顔色を伺います。

 悪魔はなかなか口を開こうとはしませんでした。


「俺さ、余計なこと、したのかな」


 そんな悪魔の寂しそうな声を聞いていると、使い魔はなんだか泣きそうになります。

 けれど、悪魔はその場所を動こうとはしません。悪魔は何かを待っているようでした。

 親分があの子の最後の魂を取らなかったのにはきっと意味がある。

 使い魔はご主人様を心の底から信じます。

 きっと、まだ終わりじゃないんだ。


 そのとき、大きな鎌を持った黒ずくめの長身の男が、ゆっくりと学校の屋上に降りていくのが遠目に見えました。

 悪魔の顔が厳しく引き締まります。

 口元には細い月のような笑みが浮かびました。


「なあ。ハチ。おまえ言ったよな? 子供の透き通るくらい純度の高い魂は、悪魔にものすごい力をもたらすって」


 使い魔は悪魔の横顔を見ます。

 胸がどきどき高鳴り始めます。


「過去。未来。思い出。時間。ひっくるめて、魂。…なんで、あのクソッタレは、人間の命にそういう訳わかんねーあやふやな枠組み作ったんだろうな」


「きっと親分みたいな悪魔が居るからじゃないでしょうか」


 使い魔は思わずそう言いました。胸が張り裂けそうです。


「あの子の信じられないくらい綺麗な命。そして、あいつらの信じられないくらい美しい思い出。ま、すげえ魂だよな。それくらい俺にも分かるぜ」と悪魔は唄うように楽しげに言いました。「全部使えば、奇跡だって起こせるかもな」


 使い魔は、自分のご主人様を見て、ため息を吐き、わざと疲れたような口調言いました。


「……まあ私は、あなたのしもべですからね。あなたが、とんでもない事しでかしたって、文句は言いませんよ」


 そこまで言って、使い魔は自分も不敵な笑みを浮かべていることに気がつきました。


「どうぞ、お好きなように。私はどこまでもおやぶんについていきます。来るなって言ったって駄目ですよ。ハチはあなたの所有物なんですから」


 悪魔は、にこっと優しい笑みを投げかけます。

 どきっとして真赤になった使い魔に、悪魔は「さんきゅっ」と言いました。


「起こしてみるか。奇跡ってやつを」


「起こしましょう。奇跡ってやつを」


 悪魔は、学校の屋上めがけて飛び立つそぶりを見せました。


「あ」そういえば、と忘れてたことを突然思い出したかのように止まります。


「?」という顔で可愛らしく首を傾げる使い魔の女の子を横目で見て、こう付け加えました。


「おまえさ、短いほうが似合ってるぜ」その髪。


 使い魔は潤んだ瞳で顔を真赤にしながら、照れ隠しのようにぷいっと飛んでいく悪魔のあとを、あわてて追いかけるのでした。

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