第30話 LIBERTY

「ねえ。ゆうちゃん」と、しばらくして、桜は言いました。寂しそうでした。寂しそうに、桜は言うのでした。


「あたしね、ほんとうは、すごおーく恐かったんだ」


 幸也は、何も言わず、屋上の階段に続く小屋の壁を背に、肩を寄せ合って体操座りしたまま、顔だけ桜のほうへ向けます。

 桜は幸也の視線を察して、少しだけ笑顔を作りました。そんな桜の健気さは、余計に幸也の寂しさを煽ります。


「あたしの病気のこと、知ってる?」


 幸也は黙って首を横に振りました。

 知りません。知ろうともしていません。そして詳しくは知りたくない事でした。


「お医者さんがお母さんと話しているの、聞いちゃった。あたし、血液の病気で……」


 本当は、幸也はそのさきのことなんて、聞きたくなかったのです。今まで通り、学校のこととか、キャンプのこととか、将来の夢のこととか、あのサンタのこととかを話していたかったのです。


「……それで、難しい病気で、どんどん悪くなっていって、もうずっと治らないかもしれないって」


 桜の声に、だんだんと湿り気が含まれていきます。


「もう外にも出られなくなるって。歩くことも出来なくなるかもしれないって。それどころか」


 桜の声はもう、ほとんどかすれています。鳴咽しながら桜は自分の顔を両手で覆いました。


「……それどころか、あたしね、もう、病室のベッドから二度と起き上がることも出来なくなるかもしれないって」


「さくらはきっとよくなるよ」なんだか言い訳するような言い方で幸也は言います。なんとか、元気づけてあげたい、それだけを望みます。「ぜったいによくなるよっ」

「ならないもんっ!」


 桜は泣きながら、幸也の顔を見据えました。

 驚いた茶色の瞳が、大きく見開かれた桜の黒い瞳と重なります。


「あたしね、わかるんだっ。一日ごとに体が悪くなっていくのが。あたしの血がだんだんと腐っていくのが、わかるんだっ!」


 感情の防波堤がとうとう決壊しました。声を上げて、桜は泣きじゃくります。幸也はどうしていいかわかりません。

 桜は幸也にしがみついて、えんえん泣きます。

 鳴咽します。

 そして、ほとんど消え入りそうな声で言うのでした。


「自分の……体が…壊れていくのが……わかるの……」


 ずきん。

 幸也の胸に激しい痛みが走りました。

 その瞬間、幸也は目眩めまいのような感覚に襲われました。座っているはずのコンクリートの床がぐらぐらと波打ちだし、空気の冷たさも、寄っかかったざらざらの壁も、固い空も、やけに響く音も、何もかもがぐるぐると回り、闇に包まれ、消えて無くなっていくような感覚。

 幸也の胸に吐き気が込み上げてきます。

 後頭部に杭を打ち込まれたような感じがします。

 心臓が、ぼくばくと、破裂しそうです。


「こわいよ、ゆうちゃん」涙声のまま。幸也にしがみつきながら。ぎゅうっと抱いて。「あたし、こわいよ!」


 目に涙をいっぱい溜めて幸也の顔を見ます。「あたしはね、このまま、ひっそり居なくなるんじゃないかって。誰もあたしのこと、知らないで、気にしないで、このまま消えていくんじゃないかって!

 そう思うと、たまらなくこわいよう……!」


 胸の中で震える桜のか細い体。

 幸也は思わず一緒になって泣きそうになりました。

 でも泣けません。

 ここで、自分が泣くわけにはいかないのです。


「だいじょうぶだよ。さくら。きっとだいじょうぶ。さくら良い子だもん。神様が助けてくれるよきっと」


 精一杯の笑顔を作り、桜にそう言います。そして、自分にも言い聞かせます。


「ちゃんと神様におねがいしてる?」


 桜は、目をごしごしこすり、一生懸命頷きました。


「だったらだいじょうぶだよ。ぜったいに!」


「……うん」桜は小さなこぶしで思い切り目をこすります。「うん」


「そうだ! おれ、さくらに良いものあげるんだった!」


 幸也はまるで他の誰かに言ってるみたいに、わざとらしく声を上げました。

 ふっふっふ、と笑いながらポケットに手を突っ込みます。

 桜が、えっ、という顔をします。

 よしよし、乗ってきたのってきた。


「プレゼント」


「えっ? プレゼント? なに? なに?」


「じゃあーん!」と言って、幸也はポケットから握ったままの手を、桜の前に出します。

 桜は、幸也の握った拳に身を乗り出しました。

 ゆっくりとゆっくりと、プレゼントの箱のリボンがほどかれるように、幸也の小さいけど筋張った男の子の手が開かれます。


 手の平のうえには、小さな銀色のコインが乗っていました。幸也は人差指と親指で、コインをつまみ桜の目の前にかざします。

 コインの表面には、いくつかの英語の文字と、数字と、羽根を広げた鳥と、変な髪型の男のひとの横顔が浮かんでいました。


 そして、ひとこと(二人には読めませんでしたけれど)、こう書いてありました。


 LIBERTY


「これ……」


「勇気のコイン!」幸也は叫びます。肌身離さず持っている宝物でした。遠い外国に行った、近所の大学生のお兄さんにもらったものです。幸運と勇気のコインです。木から落ちた幸也は、このコインのおかげでたいした怪我もせず、そして桜に出会うことが出来たのです。二人はそう信じていました。桜もそのコインの事は知っていました。どんなにそれを、幸也が大切にしているかを。


 桜は目の前のコインを触ろうと、恐る恐る手をコインに近づけて、そして引っ込めました。

 確かめるように幸也を見ます。

 幸也はにっこり頷いて、桜の右手を取ると、そこにそっとコインを乗せました。


「これをよい子のきみにあげよう。だからもうだいじょーぶ!」


 幸也はおどけてニカッと笑います。

 桜は、もう一度、ごしごしと目をこすって、それからコインを包んだ手にもう片方の手を重ねて祈るように組みました。


「こんな大事なもの、もらっていいの?」


「だいじなものだからあげるのっ」


 桜は、まるで透かしてみるように、目の前にコインをかざします。大事にだいじに。壊れ物でも扱うみたいに。

 それから、目を細めピンク色の唇の両端をくいっと持ち上げた優しい笑いを浮かべて、


「今日はゆうちゃんにいろいろもらっちゃった」と心から嬉しそうに言いました。


「え? おれ、そのコインしかあげてないよ」


 幸也はキョトンとします。


 ううん、と桜は心のなかで首を振りました。

 窓から覗くだけだった桜の人生に、風や、温もりや、ひとびとの息遣いや、高揚感や、美しい光景をくれたのは他でもなく幸也なのです。


 そうしているうちに日は完全に暮れ、あたりにはいつのまにか冬の闇が広がっていました。

 空に上った月は、透き通るような夜空の中で、眩しく輝いています。

 暗さに慣れた幸也の瞳には、コンクリートの壁や地面や桜の白い顔が、変に青白くほのかに光って見えました。

 夜の学校はとても暗く、とても寒く、とても静かで、黙って目をつむると星の光が瞬く音すら聞こえてきそうでした。星はあまり多くは見えませんでしたが、冴えるような冷たい夜空にオリオン座が明るく輝いているのは見えました。


 冷たいコンクリートはどんどん体温を奪っていきます。じっと座っていると、体の芯から凍えてきそうです。

 けれど、桜も幸也も、この場所から動こうとは思いません。

 冷気の塊のような風が走ってきます。

 シャツ一枚の幸也は、派手なくしゃみをしました。桜がそっと自分の体をくっつけてくれました。桜の温もりをはっきりと感じます。

 幸也は闇の中にぼうっと見える幻のような桜の微笑みをじっと見つめました。

 本当に、このままでずっと居られたら。

 そう、思います。


「帰りたくないね」

「帰りたくないな」


 二人同時につぶやきました。そして、顔を見合わせ、くすっと笑います。


 ‥‥‥きーんこーんかーんこーん‥‥‥‥。


 そのとき、ちようど、チャイムが鳴りました。静寂に満ちた、何も動くもののない校内に響き渡ります。その鐘は、驚くほど大きく、たっぶりと余韻を残しながら、頭の中にまで鳴り響いてくるようでした。それはまるで、何かのメッセージのようでした。

 チャイムが鳴り終わるのを黙って聞いていた幸也は、ふと、ひとの気配を感じて闇の中を振り返りました。


「さ。そろそろ時間だ」


 いつのまにかそこに立っていた悪魔は、二人に向かってそう言うのでした。

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