第14話 奇跡のはじまり

 桜の、途切れ途切れの意識がまた繋がります。寒くてさむくてたまりません。ずっと、何か夢を見ていました。でも、夢の内容は覚えていません。桜の大きな瞳には、涙がいっぱい溜まっていました。薄い桃色のパジャマは、汗でじっとり濡れています。

 眠っているのか起きているのか分からないような居心地の悪い気分のまま、ずっとベッドに横になっています。もうどのくらいの間そうしているのか分かりません。最後にお母さんと話したのはいつだったでしょうか。最後にお医者さんに見てもらったのはいつだったでしょうか。最後に幸也に会ったのはいつだったでしょうか。

 まるで、夢と現実の狭間でゆらゆら揺れているみたいです。そして、その区別が無くなったとき。それが桜の決して目覚めることの無い眠りになるはずなのです。


 苦しくてたまりません。

 でもそれは、体の苦しみというよりも、心の苦しみでした。

 頭がずきんずきんと痛みます。

 体は誰か他の人のもののように自由がきかないのに、苦痛だけはきりきりと自分の精神を締め上げるのです。それは、誰か知らない人の苦しみを肩代わりして背負っているような、そんな理不尽な苦痛でした。

 天井を見上げます。目に溜まった涙で、遠近感がありません。薄い毛布がまるで鉛のように、桜の華奢な体にのしかかります。空調は快適な温度に設定されているはずなのに、悪寒がします。なのに、頭の中は燃えそうなほど熱いのです。


 ぼんやりとした視界の隅に、サイドボードに立てかけられた小さなカレンダーが見えました。可愛い熊がスケートをしている絵と一緒に「12がつ」と描かれたカレンダー。その24日のところに、真っ赤なペンで、大きなマルがかかれています。

 クリスマス。今日は、特別な、大切な日。

 桜の体が痛みます。

 幼い頃から病とともに生きてきた桜は、年齢不相応な落ち着きを持っていました。それは『覚悟』と言ってもいいものでした。

 『死』とともにあった生活は、必要以上に桜の心を大人びたものにしていたのです。

 ずっと考えていました。

 自分がいつかこの世から消えるときを。

 自分が居なくなるそのときを。

 桜の心が痛みます。

 ……今日はクリスマス。特別な、大切な、約束の日。そして、たぶん最後のクリスマス。

 来年の今日、自分は。


 ……ゆうちゃんに会いたいな。

 ……ゆうちゃんに会いたい。

 ……ゆうちゃんに会いたい。

 ……神様。ゆうちゃんに会わせてください。


 桜は、ぼんやりとかすむ瞳で、桃色のカーテンを見つめました。厚いカーテンの向こうの、厚い窓のそのまた向こうの、寒い広い外の世界に、『いつも元気な男の子』は居るはずです。今日も元気に駆け回っているはずなのです。

「さくらーっ」

 ゆうちゃんの声が聞こえたような気がしました。でもきっと幻です。気のせいです。

 わたし、約束やぶっちゃった。さいていだな。

 声にならないつぶやきで、桜は言いました。

「さっくら!」

 ほら。また。聞こえます。桜を呼ぶ声が聞こえるのです。でも、そんなはずがありません。幸也の声が聞こえるはずがないのです。来てくれるはずがないのです。

 会えるはずがないのです。神様に頼んで願い事が叶うのならば、もうとっくに桜の病気は治り、幸也と一緒に、外の世界で元気に遊んでいるはずなのですから。

 こふっこふっ。

 桜は、せきをしました。体を起こして、カーテンを開いて、窓を開けてみたいけれど、体がうまく動きません。もどかしくて頭がへんになりそうでした。

 ……神様。ゆうちゃんに会わせてください。

 叶うはずがない。って、そう思うけれど、他に桜には出来ることはありません。神様に祈るほか、ないのです。

 クリスマスぐらいは。この、すべての子供達が祝福される特別な日だけは。桜はそうかすかに信じます。

 ……最後のクリスマスぐらいは。

「……ゆうちゃん」

 絞り出すように声に音が付いたそのときでした。

 ばたんっ。

 しゃあっ。

 窓とカーテンが、勢い良く開け放たれました。

 春風のように暖かく優しい空気が、部屋の中に流れ込んできます。

 桃色のカーテンがふんわりと揺れました。

 明るい日差しが暗い病室に差し込み、光で満たします。

 微かに、花の柔らかな甘い香りが漂ってきました。

 天井も壁も床もベッドも、もう無機質で冷たくて気の利かない白と灰色ではありません。ぱあーっと、まるで魔法の解けた眠り姫のイバラのお城のように、みんなみんな、甘いピンク色に染められていました。

 奇跡の始まりでした。

 そして、幸也はにっこりと笑ってこう言ったのです。


「メリークリスマスっ! さくら!」


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