第8話 幸也

 分厚いガラスの自動ドアがゆっくりと開くのを、幸也は、そわそわともどかしげに足踏みして待ちました。

 この場所に来るのは初めてではありません。それどころか幸也はこの場所の常連さんです。お見舞いの出来る日にはいつも、幸也はこのドアをくぐるのですから。


 この病院に、幸也と同じクラスの女の子「桜」が入院しているのです。

 二人は大の仲良し。

 桜は体がとても弱く、学校にもほとんど来れませんでしたが、幸也は桜のことが大好きでした。

 夏の終わりに桜が入院して以来、幸也は暇さえあればお見舞いにきているのです。

 看護師さんとももう仲良しです。

 お医者さんも、幸也が静かにしていれば親切にしてくれます。

 病院独特の冷たくて鼻にくる匂いにももう慣れました。


 でも、今日は不思議と変な気持ちになりました。

病院がいつもよりも冷たく感じます。ロビーも廊下も天井も壁も入院患者も、なんだかひどくよそよそしく感じます。

 そのせいか、幸也は嫌な気持ちで胸が一杯になりました。

 まるで、初めてここに来たときのようでした。

 ドアをくぐってすぐにある受付に居る看護師さんが、幸也の顔を見るなり、さっと不吉な表情をしました。

 まるで、電話で家族の交通事故を聞いた人みたいな顔でした。

 でも幸也は、そんなことに気がつきもせずに、いつもの調子であいさつします。


「こんちわーっ」

「………あ」

看護師さんは、無理やり口と目を動かしてぎこちない笑顔を作りました。「………ゆうちゃん」

 幸也は『ゆきや』っていうのですが、なぜか『ゆうちゃん』と呼ばれています。桜がそう呼ぶからです。

「………いらっしゃい」

「あ、そうか」幸也は、ちょっと考えこんで、嬉しそうに笑いました。「今日はメリークリスマスだった!」

 看護師さんは、必死で笑顔の形を維持します。

「………桜ちゃんに、会いに来たの?」

「うん」幸也は、ニカッと笑って手に持つ袋を見せました。

 クリスマスは一緒にケーキを食べる。

 それがずっと前からの幸也と桜の約束でした。

「……あのね。ゆうちゃん。そのね。桜ちゃんは、その、きょうは……」

 言いにくそうに看護婦さんが切り出すと、幸也は、もうじっと話を聞いているのももったいない、と言わんばかりの様子で、

「それじゃね」と短く言い残すと、いつもの廊下を走って、いつもの階段を昇っていきました。


『ねえ。ゆうちゃん』桜の言葉が思い出されます。『あのね、もしも良かったらだけど……クリスマスはね、あたしのところに来て欲しいな』

 真っ白な、雪のような肌を朱色に染めて、ぽつりぽつりと言葉を選ぶようにつぶやく桜の声が耳に蘇ります。


『ひとりぼっちは寂しいから』


 ここ一週間は桜に会えませんでした。

 大切な手術があるから、と桜のお母さんに言われたからです。幸也は一人ぼっちではありませんが、桜が良く言う「寂しい」という言葉の意味が、少しだけ分かったような気がしました。

 だから、今日。今年最後の学校のチャイムが鳴ると同時に急いで家に帰り、前々から用意していたプレゼントの袋と、青とピンクの靴下と(幸也は青。桜はピンク。それは二人の大好きな色でした)、持てるだけたくさんのお菓子を持って、病院へと急いだのです。

 約束したのですから。

 幸也はとても楽しみにしていたのです。

 廊下を走り、角を曲がり、つきあたりの一番奥の桜の病室へと急ぎます。

「あれ?」幸也は病室の前のベンチに座っている見知った顔を見つけました。

 桜のお母さんです。

「こんちは。おばさん」幸也は挨拶します。それからまた、思い出して「メリークリスマス!」

 桜のお母さんは、びくっと驚いて幸也を見ました。自分の中に沸き起こった二つの相反する感情を、どうしていいか分からない…そんな複雑な表情です。

「………ゆうちゃん?」

「なんで外に居るの? さくらは?」

 幸也は『大人の表情』には全然気づかずに、無邪気に尋ねます。「中? それとも図書室?」

「……来てくれたんだ」

「うん」幸也は手に持った袋を掲げます。「約束したから」

 桜のお母さんは、何も言わずにしばらくじっと幸也の顔を見つめていました。とても疲れた顔です。眼は腫れて充血してます。顔色は青ざめています。髪が乱れて額に張り付いています。唇は細かく震えています。

「あのね」

 桜のお母さんは、幸也の目の高さまでしゃがみこみました。

 幸也はなんとなく嫌な気持ちがしました。

 この大人の顔は知っています。

 幸也の誕生日に約束を破ったお母さんはこんな顔をしました。

 日曜日に約束を破ったお父さんは、テレビから目を離してこんな顔をしました。

 言いにくいことを子供に言うときの、大人の顔です。

「ゆうちゃん」

 目をまっすぐに向け、まるで自分に言い聞かせるように、桜のお母さんは言いました。

「あのね。ごめんね。本当にごめんね。桜、急に熱が出て、具合が悪くなって、今日は会えなくなったの」

 嫌な予感が当たりました。

「ええ! だって、約束したんだよ」幸也は納得いきません。

「うん。桜もすごく楽しみにしてたんだけど………。

 もし、桜の具合が良くなったら、すぐにお家に電話するから。ね。本当にごめんね」

 あんまり辛そうに言うもんですから、幸也も文句は言えません。大人なんて大嫌いですが、桜のお母さんは違います。いつも優しいし、アップルパイやスウイートポテトを焼いてくれたりもするのです。可愛い桜のお母さんだけあって若くて美人だし、それに、なんといっても大好きな桜のお母さんですから、言うことは聞かないといけません。

「………………」

 幸也は、とてもがっかりした表情で、無言のまま手に持った袋を前に突き出しました。

 お母さんが、とても辛そうに袋を受け取ります。

 「うん。分かったわ。渡しとくね」

 そしてもう一度「ごめんね」と絞り出しました。

 幸也の袋を受け取った右手も、幸也の頭に置かれた左手も、微かに震えています。目にはうっすらと涙さえ浮かんでいます。

 お母さんは、それっきり何も言わずに目をふせました。

「じゃあね。おばさん。さくら、はやく良くなるといいね」

 そう言い残して、幸也は病室を後にしました。

 幸也の姿が角を曲がり完全に消えると、桜のお母さんは、耳にいつまでも残る幸也の最後の言葉をどうすることも出来ないまま、袋をくしゃくしゃに抱きしめ、声を出さず、うめくように泣き始めるのでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます