幕間

第112話 出会いと別れ

「どうして目を覚まさないの?」

 黒に染まったショートボブヘアの彼女は、心配そうな表情でベッドの上で眠る女を見下ろした。

 医療都市、ムクトラッシュにある個室病室の窓から照らされた月明りは、あの森の中で人面樹にされていた若い女の穏やかな顔を照らした。


 ベッドの傍で意識が戻らない姉を見守っているアソッド・パルキルスは、彼女の右手を優しく握った。


「森の中で人面樹に変えられて、怖かったよね? 長い時間、ひとりぼっちで寂しかったよね? でも、大丈夫だよ。もう独りじゃないから」


 必要な処置が施された女は、緑色のローブを着せられた状態で、今も眠り続けている。それでも、アソッドは優しく語り掛け続けた。

「アビゲイル。大好きだよ。あの日、攫われそうになった私を助けてくれたこと、ちゃんと覚えてる。突然のことで怖かったけど、アビゲイルがいてくれたから、安心できた」


「アビゲイル」と優しく姉の名を呼ぶ妹の涙が、彼女の右手の甲に落ちても、二重瞼の茶色い瞳は開かない。

 その直後、アソッドの目の前のドアが開き、白いローブに身を包む桃色ショートカット少女が姿を見せた。

 耳を尖られたその少女、リオは心配そうな表情を浮かべるアソッドに視線を向ける。


「リオさん。教えてください。どうして、アビゲイルは目を覚まさないのですか?」

 事情を知っていそうなヘルメス族の少女にアソッドが頭を下げる。すると、リオは首を縦に振った。

「大丈夫です。眠っているだけなので、いずれ目を覚ますでしょう。その前に、リオはアソッドをヘルメス村へ連れて行かなければなりません」

「えっ」とアソッドが目を丸くする。それから、彼女は慌てたように両手を左右に振った。


「ちょっと待ってください。せっかく会えたアビゲイルと離れることなんて、できません!  それにまだ、お母さんとも会えていません」

「リオも気持ちは分かります。しかし、まだ会うわけにはいかないんです」

「それってどういう意味なんですか? 会いたいのに会えないなんて、おかしいです」


 アソッドの疑問の声を耳にしたリオが深く息を吐き出す。


「この街、ムクトラッシュを訪れたいと提案した時に言ったカリンの言葉、覚えてますか?」

「何かを取り戻すためには、何かを犠牲にしなくてはいけない」

「そう。このままアビゲイルと一緒にいたら、少しずつ記憶が戻り、ルスによって与えられたチカラも弱まっていく。そうなれば、大切な人も守れなくなります」

「でも……」と納得しないアソッドの元へリオが歩み寄る。


「違和感があるのでしょう? リオには分かります。与えられたチカラを使えば、すぐにでも最愛の姉と感動の再会ができるはずなのに、あれから数時間経過しても目を覚まさないなんておかしいって。それが証拠です。アビゲイルのことを思い出してしまったから、チカラも弱くなったんじゃないかって、心のどこかで思っているようです」


 そして、右隣に並んだリオは、彼女の背中に優しく触れた。


「大丈夫です。全てが終われば、すぐにでも会えます。あと1か月の辛抱です。まあ、アビゲイルはルルの手によって妹に関する記憶も奪われたようですから、何も覚えていないかもしれませんが……とにかく危険です」


 リオの声に反応を示したアソッドは強く首を縦に動かし、ベッドの上で眠る姉の右手を優しく握った。


「アビゲイル、ごめんなさい。私、行かなきゃいけないみたいだから……」


 優しく語り掛ける妹は、ヘルメス族の少女と手を繋ぎ、病室の中から姿を消した。


 それから一分が経過し、仰向けでベッドの上で横たわる女は、重たい瞼を開けた。

 少しぼやけた女の瞳は、薄暗い病院の天井を映し出す。


「ここは……」と呟く女、アビゲイルがベッドの上で上半身を起こし、右手で自身の額に手を置く。


 なぜここにいるのだろうか?


 疑問に思った彼女は周囲を見渡した。その先に広がるのは、どこかの病院の個室病室。

 下着の上から緑色のローブを着せられていた女は、状況を理解できず、首を捻った。


 その直後、右側にあるドアが開き、黒い後ろ髪を三つ編みに結った小柄な少女が顔を出した。

 少女は、アビゲイルと顔を合わせ、目を丸くする。


「あっ、目が覚めたみたい……って、どこに行ったんでしょう? この病室でお姉ちゃんが目を覚ますのを待ってるって言ってたのに。もしかして、トイレかな?」


 首を傾げる少女が、右手の薬指を立て、空気を叩いた。すると、天井に記された魔法陣が発光し、薄暗い病室が明るく照らされた。


「あなたは……」と少女と顔を合わせたアビゲイルが目をパチクリとさせ、ベッドの端に座る。その後で、少女は首を縦に動かしながら、アビゲイルの元へと歩み寄った。


「初めまして。ミラ・ステファーニアです。あなたが目を覚ましたことを報告する前に、少しだけお話がしたいです」


「ミラ。教えて。私が目を覚ますのを待っていた人のこと。あなたの言動から、その人が弟か妹だってことくらいわかるけど……」


 突然の疑問の声に、ミラは「えっ」と声を漏らす。


「もしかして、覚えてないのですか?」

「はい。さっきまでアビゲイルって呼びかけてくれた子がいたような気がしたけれど、その子が誰かまでは分からない」

 申し訳なさそうに頭を下げる女の前で、ミラが深く息を吐き出す。

「メルって人が言ってたこと、ホントだったんですね。大切な妹に関する記憶まで奪われ、全てを失い、絶望しながら姿を変えられた女騎士さん。それがあなたです」


「妹……」

 ボソっと呟いたアビゲイルの体に衝撃が走る。急に痛み始めた頭を両手で抱えた女騎士は、目を大きく見開く。


 その脳裏に浮かび上がるのは、白い影の集団に妹が連れ去られる場面。


「助けて。アビゲイル」


 自身に向けて右腕を前に伸ばす妹の顔は、アビゲイルの目に映らない。



「はっ、アソッド」

 もやもやとした記憶の世界から戻ったアビゲイルが妹の名を口にする。それを近くで見ていたミラはジッとアビゲイルの顔を見つめた。


「思い出したようですね。アソッドのこと」

「いや、顔は分からないけど、私にはアソッドっていう妹がいた。でも、何だろう。何か大切なことを忘れているような気がする……あっ、もしかしてアソッドなら何か分かるかも……」

 そうに違いないと目を光らせるアビゲイルの近くに立ったミラが首を縦に動かす。

「そのはずなのですが、姿が見えません」


「ところで、ミラはアソッドの友達なの?」

 そんな彼女の疑問に対して、ミラは首を縦に動かす。


「出会ってから半日くらいしか経ってないけれど、私は友達のつもりで接しています」

「そっか。ミラはアソッドのこと、何も知らないんだ。私が目覚めるまで何をしていたのか知りたいんだけど……」

 深く息を吐き出すアビゲイルに対して、ミラは強く首を横に振ってみせた。

「そんなことありません! 知っている範囲でお話しすると、記憶喪失になっているアソッドは、五大錬金術師のアルカナさんとヘルメス族のリオっていう人の三人で旅をしているようです。そして、どういう経緯かは分かりませんが、アソッドは旅の仲間と共に、故郷であるこの街、ムクトラッシュを訪れました」


「なるほど。アソッドは故郷のことを思い出して、この街を訪れたみたいね」

  アビゲイルが納得の表情を浮かべると、ミラが深刻な顔になる。

「ここで残酷な事実をお伝えします。この街に住んでいる人々は、全員、アソッドのことを覚えていません」


「えっ、どうして?」と取り乱したアビゲイルが、ベッドから勢いよく立ち上がる。


「落ち着いてください。経緯は分かりませんが、この街に住んでいる人々から、アソッドに関する記憶が消されました。アソッドは、記憶や思い出、帰るべき場所を奪われたのです。本人は、自分の名前とテルアカという言葉しか覚えていないようですが……」


「消された……」


 その言葉を耳にした時、アビゲイルは、どこかから少女の声を聴いた。


 「あの術式を打ち破る実力を持った女剣士の存在が、みんなの記憶から消されるなんて……」

 

 不意にあの日聞いた言葉が蘇ると、アビゲイルは目を大きく見開く。


「アイツだ。アソッドを攫おうとしたあの女だ。絶対に許さない!」


 憤るアビゲイルが怖い顔になる。一方でミラは眉を潜めた。

「最後に、アソッドは不思議なチカラで、あの森の中で植物の姿に変えられていたあなたを助けました。あのチカラは聖人が使える異能力のひとつ、癒神の手ですね。私が知っていることは、これが全てです」


「森の中……姿を変えられて……あっ」


 その瞬間、アビゲイルの頭の中で、因縁の記憶の扉が開いた。


 

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