81 スイトの憂鬱


 目を覚ますと、途轍もなく頭が痛かった。


 世界の全てが歪み、恐ろしく寒い空間に全身が震える。

 喉が異常に渇き、指一本もマトモに動かせない。

 凄まじい吐き気を催すが、胃の中は空っぽなのか、喉の奥からこみ上げて来るものは無い。


 身じろぎすると、びちゃり、と水の音が聞こえてきた。


 ……あ? 水?


「やほー。起きたね。ようやくだ」


 すぐそばで、誰かが声を掛けてくる。

 その声は弾んでいて、無邪気に思えた。


「うんうん、良い調子だよ。あー、今俺達が会話出来ているのは、きっと彼の悪戯だよねぇ。本当ならこんな不具合、起こらないはずだもん」


 誰だ、お前は。


 マーブル模様に歪む視界には、人のようなものは映ってくれない。


 誰、だ。


 誰だよ、お前は!


 俺は寒すぎて感覚の無い腕を、強引に振り上げた。


「うっわ、あっぶな! 気を付けてよ、俺達はある意味同じ存在だよ? 存在そのものがすり替わる一瞬に邂逅しているわけだから、俺が傷付いたらそのまま、君だって傷付いちゃう!」

「……は?」


 振り上げた腕は、偶然にも声の主の近くを通ったらしい。

 かなり慌てた声が、かなり近くで聞こえてきた。


 相変わらず視界はぐちゃぐちゃのマーブル模様。不規則に幾何学模様を描くそれに耐えられなくて、俺は何度も目を瞑る。

 光と違いその光景が眼に慣れる事は無かった。


 いや、待て。その前に、だ。


 こいつの言っている意味が、全く理解できないのだが?!


「いや、理解されても困るから」


 かなり冷静に返された。

 というか、何で俺の心を読んで――


「いやいや、ハルカにも言われただろうけど、君ってよく、心の声を外に出しているよね」


 あ。


「たった一文字ならむしろ声に出してもいいと思うよ?!」


 とても慌てた様子でまくし立てると、そいつはふぅ、と溜め息をつく。

 音の込められていないそれには、そこはかとない満足感が込められていた。


 姿は全く見えないが、俺との会話を楽しんでいるようである。


「うん、まぁ、俺から言えるのは1つ。がんば」

「は?」

「最初はね。うん、ちょぉおっと気分最悪になると思うけど! スイトなら耐えられるよ。多分!」

「ちょ、待って。状況が全く読めない」

「この状況を、大したヒントも無く読める奴は相当イカレた奴だろうね!」

「ヲイ」


 むしろ異常なほどに楽しんでいないだろうか。

 楽しむ、などの簡単な文字ではなく、愉しむ、などの難しい漢字に置き換えたい。


 いや、あまり意味は無いけども。

 気分的に、難しい方がより強く愉しんでいそうに見えるだろ?


「まったく、本当ならこんな話す時間すらないはずなのに、一体何やってんだか。これ絶対あれだよ。記憶の引継ぎとか、上手く行かないパターンだよね」

「……は?」

「あー、完全にこっちの話」


 頬の辺りに、温かな何かが触れた。

 子供の手、だろうか。


「ふふ、びっくりするだろうなー。驚くだろうなー。豆鉄砲食らった鳩みたいになるといいなー」

「それ、全部同じ意味じゃ」

「そうだけど?」


 クスクス、と、本当に楽しそうに笑う。手や声からして、10代前半くらい、だろうか。手が非常に柔らかく、温かく、かつ小さいから。

 どんな姿をしているのだろうか。


 というか、いつの間にか俺、落ち着いているみたいだ。

 頭痛も、眩暈も、寒さも消えていた。

 いつからだろう。


「あ、そうそう。最後に俺の名前、教えてあげる」

「うん?」

「スイトは身内だからね。こう呼んでよ――」


 俺は、彼の名を聞き終えると同時に、目を覚ました。




 目を覚ますと、気分は最悪だった。

 頭痛も、眩暈も、寒気だって無いのに、最悪だった。

 どう最悪かというと、とにかく疲労感がある。身体はむしろ絶好調のように滑らかに動くのだが、動くように命令する脳が、いつも以上に重く感じるのだ。

 「あいつ」の言ったとおりである。


 ……。

 あれは、ただの夢、だったのだろうか。


 彼は何者なのだろう。というか本物なのだろうか。俺が作りだした、夢の住人とかっていうオチじゃないよな?

 今日は吸血城へ乗り込むのだから、あまり体調不良は起こしたくない。


 本当、不吉の予兆ってわけじゃないよな? なっ?


「おはよ、スイト君!」


 扉越しに掛けられる声は、聞き慣れた少女のものだ。非常に声が弾んでおり、朝から何かいい事があったのだろうか。

 俺は魔法:コスチュームチェンジで、寝巻きと外着を入れ替える。


 水色のパジャマが、一瞬で黒い服へと変化した。


「おはよ」


 とはいえ寝起きのため、俺は欠伸をしながら彼女と話すために扉を開いた。


「あのね、今日の朝食はスクランブルエッグだって! スイト君には及ばないと思うけど、シエラちゃんとシェル君の力作らしいよ! 楽しみだね~」

「そうか。それは楽しみだ」


 スクランブルエッグか。炒り卵と混同して考える奴もいるらしいが、全くの別物なんだよなぁ。

 とろとろの卵をパンと一緒に頬張る。あれは美味い。

 ツルは白米派だが、これは譲れない。


「全く別の話になるけどさ、スイト君って、目玉焼きには醤油? お塩?」

「胡椒に醤油」

「そっかぁ。私はお塩だなぁ」


 彼女はにこにこと微笑んで、黙り込む。

 ……あれ。え、この話、これで終わり?


「え、それだけ?」

「うん。ダメだった?」

「いや、別に。でも『ハルカ』がそんな事を聞くなんて珍しいな、とは思った」

「……ふぅん。そっか」


 ハルカは静かにこちらを睨みつけると、くるりと方向転換をする。


「スイト君、おはよ」

「うん? あぁ……。……?」


 おはよ、って。さっきも言ったのに、何で2回言ったんだ?

 僅かに声が弾んでいる気がしないでもないが、その理由を俺が知る事は無かった。




「じゃ、改めて調査の報告をします!」


 朝食の後、ハルカはみんなが食べ終わった頃を見計らい、挙手をした。

 彼女の声にあわせて発言したのはフユ先輩。

 さすが兄妹、息ピッタリである。


「ま、かなり単純な報告になるが、城に入る事自体は全く問題無い。別に見張りがいるわけでもなく、城門は施錠されているが、上から入れる。扉もただ重いだけで鍵はかかっていなかった」

「むしろ重い扉を開けなくても、窓が開いていたからそっちからも潜入可能だったよ」


 あ、マキアも吸血城への潜入ルートを捜索する班にいたのか。

 昨日外に出ていた人は、吸血城への潜入方法を模索する班、館の警備をする班に分かれていた。俺はどっちだったか。あれ? 記憶が曖昧?

 記憶力には自信があるのに……珍しい事もあるものだ。


「城に誰もいないのは……【強欲】のせいか」

「それは違うと思うなー」


 シエラがにこにこ笑いながら手を挙げる。

 どこと無くその瞳はキラキラと輝いており、不穏な空気を醸し出していた。というより、その空気はシエラの隣で、隠す気も無く面倒くさそうな表情をしたシェルだった。


「元々吸血族って纏まりが無いからね。女王の命令は絶対だけど、あいつらは元が強いから、別段城を守る必要性が無い。女王は要するに吸血族の真祖なわけで、その分強い。城1つが壊滅する事態に陥っても生き残るだろうから、門番とか衛兵を立てる意味が無い」


 説明を始めたのは、シエラ、ではなく、シェルである。

 説明する気満々だったシエラはというと、ハムスターのように頬を膨らませていた。彼女はジト目でシェルを睨みつけているが、肝心のシェルは全く動じていない。


「何で全部言っちゃうのー!」


 と、シエラからポカポカと叩かれているが、シェルは難なくいなし続けている。

 さすが双子、息ピッタリである。


「けど窓が開いているなんて、さすがに無用心だね。何かあったかな?」

「いやー、吸血族さん達が軒並み狂っちゃってんだしさー、さすがに窓の数枚、閉め忘れがあってもおかしくないってー!」


 今度は満面の笑みで、シェルの肩をバンバン叩く。

 あぁ、なるほど。シェルにとってとんでもなく面倒くさい事になると分かっていたのか。そりゃ、あんな顔にもなる。

 顔中にシワが寄る様子は、小さな子供にしか見えないシェルのかわいらしさを完全に失わせていた。


 子供らしくない。

 大人らしくも無い。


 人って、あんな顔も出来るものなのか。

 ……よし。変顔レパートリーに加えとこ。


「途中で吸血族に会ったら、血液水で惹きつけて」

「その間に通る、だったよねー! 単純な作戦だよね!」

「うんうん。シエラでも理解できる、作戦とも呼べないほど簡単で単純な作戦になってよかったよ」

「なにおう!」

「はいはいそこまで~。時間が押しているわけだし、続きはまた今度、な?」


 ナユタがじゃれあう双子を間に立って仲裁する。


 いつの間にやら黒い短髪になっているが、俺達に合わせたのか? 日本人は染めなければ大抵が黒か茶髪だからな。

 そういえば神様になる前は人間だったらしいし、日本人だったのか。


 あー……記憶が曖昧になっている気がする。

 俺が悶々としている内に、シエラ達のじゃれあいは止まっていた。シエラは既に、鼻歌を歌うほどに気分転換を成していた。


 え、早っ。


 シェルはというと、俺の横に座ってボソリと呟く。


「シエラがあのやりとりを忘れるに一票」

「あ、俺も」


 残念ながら、シエラの記憶力は出会ったばかりの俺達の信用さえも失うほどらしい。

 あ、そうそう。シェルに答えたのは俺じゃなくて、ナユタである。

 俺達よりも付き合いは短いのに、躊躇い無く賛同されるとはな……。


「おいお前ら……俺も一票」

「結局スイトさんも賛同しちゃいましたね」

「否定できる要素が何一つとして無いからな」


 ナユタに向かって、俺は頷いた。

 いやー、だって、フォローできないもん。清々しいほどに明るい性格で、その代わりとんでもないバカ、という印象が染み付いてしまっているのだ。

 こればっかりは仕方無い。うん、うん。


「あ、スイト、ちょっといい?」

「お?」


 シェルが裾を引っ張る。

 シェルのとろんとした海色の瞳が、下から目線で俺を覗きこんだ。


「エフ、って知っているかな」

「エフ?」


 エフって、あのエフか? 元ウルルの。


「白くてちっちゃい女の子で、何か舌っ足らずの」


 あぁ、エフだわ。

 今はたしか、ツル達と一緒に城で待機しているはず。


 ……。

 …………。

 ………………。



 ―― 何でシェルが知ってんの?



「ちょ、待て。何で魔王城にいるはずのエフをお前が知って」

「あー……、やっぱり誰にも知らせていなかったかぁ……」


 シェルは気まずそうに、あるいは面倒くさそうに頬を搔いた。


「実は昨日、エフに会ってね。警備担当のスイトを探しているようだったけど、迷子になっていたから。そっか、結局会えなかったみたいだね。どうりで」

「お、おい。まさか、エフがここに?!」

「あぁ、そこからの説明になるか。うん。どうやって来たのか、裸足で薄着だったけど、今は何故か、僕の部屋で寝ているよ……」

「……は?」

「あ、安心して。僕は昨日から自分の部屋じゃなくて、シエラの部屋に攫われていたから」

「えっ」


 爆弾発言が多いな……。


「朝ごはんの時間だから呼びに行ったけど、ふてくされて涙声で返事してきたよ」


 それは、朝ごはんの時間なら俺にすんなり会えると伝えればよかったのでは。と思わなくも無い。しかし非常に眠そうにしている彼には、そんな気は毛頭無いらしい。

 はぁ、仕方無い。


「……行ってくる」

「いってらー」


 後ろでシェルが手を振っている。

 大して俺を見ずに見送る彼は、非常に面倒くさそうに大きな欠伸をかいた。

 そんな気だるげな彼を一瞥して、俺は彼の個室へと向かう。




 どれが誰の部屋なのかはすぐに分かる。


 扉も部屋の構造も変わらないので、普通は分からないだろう。だからこそ、ネームプレートがかかっているのだ。

 俺の部屋にはスイト、シエラの部屋にはシエラと書かれている。


 ちなみに全部ナユタの字だ。

 非常に綺麗な字である。まるでパソコンで書いた文字のよう。


 自分の文字にやや自信を失くすようなレベルの綺麗さだ。その中でシェルの文字を見つけ、俺は扉をノックした。


「エフ、いるか?」

『――……!』


 がたり、と部屋の中から音が聞こえてくる。


「俺だ、スイトだ。出て――」

「スイトおにいちゃぁあーーん!!!」


 バーン! 勢い良く扉が開かれ、俺は反射的に後退した。

 あ、危なかった。一瞬反応が遅れただけで、扉の角がクリーンヒットする所だった……!


 しかし次の瞬間、地味な危機を回避した俺の鳩尾に、何かがクリーンヒットした。

 ぐふっ……!


「うわぁあーん!」

「お、おぅ……久しぶりだな、エフ……っ」


 くっ、油断した……。

 油断なんて、ツルと同い年くらいの年齢の子には大敵だというのに!


「お、落ち着け、エフ。ほら、俺はここにいるから。な」

「あうぅ……」


 エフの顔は、女の子とは思えないほど腫れていた。

 まさか、ずっと泣いていたのか?


 とりあえず、回復魔法で腫れた目を治して、と。


「で、どうしてここに?」


 どうやって、とは聞かない。元々行く場所は言っておいたからな。方向さえ合っていれば、瞬間移動でどうにでも出来る。

 問題は、何でここに来たのか、である。


「みんないなかったの」

「うん?」

「エフがね、おさんぽにいっているあいだに、みんないなくなっちゃった」


 ぷぅ、と頬を膨らませるエフ。元が白い肌のため、頬が怒りですぐ真っ赤に染まる。


「って、みんなって何だ」

「みんなはみんな。ツルもサトリもみんないなくなっちゃった! おきてがみにね、スイトおにいちゃんのとこにいくってかいてあったから、きたの。みんなよりもまえに!」

「……何だって?!」


 聞いていないぞ、そんな事!

 それはいつの事だ? 少なくとも、俺がツルに電話をかけた時より後のはず。ツルはあの時、ちゃんと俺の事を待っていると言っていた。

 あの声に嘘は混じっていなかったのだ。

 あの後すぐか、あるいは……。


「エフ、散歩から帰ってきたのはいつだ」

「えっとね、きのう」

「昨日か。で、いつまでならツル達はいた?」

「んぅ、いっしゅうかんまえだったら、いたとおもうよ?」

「そっか、いっしゅ……一週間?」


 一週間って。7日前だろう? 俺がツルに連絡するよりも前から、エフは散歩を楽しんでいたという事なのだろうか。

 うん、ちょっと待て。


「それはつまり、5日とか6日もの間、帰らずにずっと散歩をしていた、という事でいいか?」

「うん!」

「連絡は」

「していないよ!」


 うむ、元気でよろしい!

 って、そんなわけあるかぁー!


「散歩って、どこまで行って」

「んん、おっきなあなのあるとことか、まっくろなきがあるとことかだよ」

「穴? 黒い木?」


 本当、え、ちょっと待て。だ。

 穴ってまさか、例の『奈落』じゃないよな? 黒い木って、黒の森の事じゃないよな?!


「エフ」

「うん?」

「久々に会えて、嬉しいよ」

「うん!」


 キラキラと、エフは眩しい笑顔を向けてくれる。

 はは、眩しいよこの純粋な笑顔。


 俺は今から、この笑顔を消すかもしれない。

 時間が押しているとはいえ、これは譲れない問題だと思うんだ。


「……エフ」

「うん?」

「今から、説教だ」

「えっ」


 さすがに、エフの笑顔が引き攣った。

 5日間帰らなかったとか、連絡を一切していなかったとか。

 色々と、それはもう色々と、訂正する必要がありそうだよな。


 このため、俺達の出発は、ハルカ達の立てた予定より1時間ほど遅れる事となった。




 そういえば、俺っていつからハルカを呼び捨てにし始めただろうか。つい最近までさん付けだったような気がするのだが。


 うーん……。


 まぁ、いっか。


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