多言語集訳装置・バベル

 人々に語り継がられる伽話には二種類ある。


 荒唐無稽にして、奇想天外の伽話。


 荒唐無稽にして、尋常一様の伽話。


 前者は多くの人々を楽しませる娯楽として語り継がれ、後者は多くの人々を戒める寸鉄として語られる。


 話の展開や登場人物は星の数ほど種類があろうが、その寓意となるとそこまでの数はない。古来より人々は様々な言葉、音色、色彩を用いて勧善懲悪、時々必要悪などを語ってきた。


 これは人間の宿痾とも呼べる「悪」を語る原初の伽話。


 だが悲しいかな、この物語に奇想天外という枕詞は相応しくない。


 尋常一様、ありふれた「悪」の、いつの時代においても必ず訪れ、やがて忘れ去られる「悪」の物語だ。


 あるクニに、農家の下働きとして働いている男がいた。男の肌は浅黒く、その図体はずんぐりむっくりとした巨漢であった。その男は大きな手で小さなリンゴをつまみ上げては、リンゴをじっくりと眺め、傷がついていないか、虫がついていないかを調べていた。


「うむ。傷もなければ虫の姿も見当たらない」


 次に男はそのリンゴを大きな手のひらで握った。その男はリンゴの大きさを調べるのに自分の手のひらを使う。


 手のひらの肉で挟めるくらいの大きさならまだまだ小さい。

 指の中ほどまで使って握るサイズならまだ小さい。

 指の先まで使って握るサイズならちょうど良い大きさ。


 男は長い間そこで働いていたので、いちいち秤の皿にリンゴを乗せなくても自分の手のひらを使えばいいと気づいていた。


 男がリンゴをひとつずつ、たっぷりのろのろと時間をかけてそんな事をするのにはある理由があった。

 彼の働いている農家の旦那はこのクニではその名を知らない者がいないほどの大地主で、その旦那の作るリンゴはそのクニの王様に献上されるほど、信頼され評価されていた。


 だから、下働きとして働いている男はこの旦那さまの信頼を損なうことのないよう、ひとつひとつじっくりとリンゴを調べる必要があったのだ。


 こうして毎日リンゴとにらめっこしている男にはある夢があった。


 この納屋からずっとずっと北に向かったところにある、別の名を持つクニに行ったとき、大きな街の通りにある色とりどりの鮮やかな花を飾ったお店を見つけた。店先には花とともに風に唄う可憐な女の姿があった。その女を見て、男はなんと美しい女性なのだろうと思った。一目惚れをしてしまったのだ。

 男はさっそくプレゼントを用意して、自分の想いを伝えようと思い立った。だが、男はろくにお金を持っていなかった。

 仕方がないので、男はさっさと自分の納屋に戻ってまたリンゴとにらめっこを始めた。この仕事を続ければいつかはあの見目麗しい女に素敵なプレゼントを渡せる。いつの日か自分の想いを伝えるべく、男はこれまで以上に熱心に働くようになったのだ。


 せっせ、せっせと働いているある日、旦那さまが納屋にやってきてこんな事を言った。


「今日は王様のいらっしゃる御城にリンゴを献上する日だ。だが私は北のクニで開かれる、かわいいかわいい娘の結婚式に出てやらねばならない。だからでくの坊、お前が変わりに城にリンゴを届けてこい。門の前にいる兵士にリンゴを入れた木箱を渡せばいい。ちゃんと出来れば、七回分の報酬をやろう」


 男は大いに喜んだ。それだけあれば、あの女にプレゼントを渡すことが出来る。男はすぐにでも会いに行きたいと思い、いつも以上の速さでリンゴを調べた。


 男は大きな手で小さなリンゴをつまみ上げては、リンゴを眺め、傷がついていないか、虫がついていないかを調べた。


「うむ。傷もなければ虫の姿も見当たらない」


 男はリンゴを握りしめ、大きさを確認し、すぐに木箱いっぱいのリンゴを調べ終わった。


「よし、すぐにでも行くぞ!」


 男は身支度を整えるなり、すぐに北のクニへと走り出した。


 えっさ、ほいさ。


 きらめく湖を通り過ぎた。


 えっさ、ほいさ。


 ひしめく森を駆け抜けた。


 えっさ、ほいさ。


 とどめく山を乗り越えた。


 走り続けた男はついに北のクニのお城にまで辿り着いた。


 息を切らしながら男は門の前にいる兵士に呼びかける。


「リンゴをお届けに参りました!」

「ほほう、リンゴか。して、お前は何処のクニの者か」

「南のクニです。旦那さまのかわりにここまでやってきました」

「そうか!あの南のクニか!王様は南のリンゴをたいそう好いておられる。このリンゴは私が王様に届けよう。ご苦労だった」


 仕事を終えた男はすぐに納屋まで走って帰った。

 その晩、旦那さまが納屋までやってきて、七回分の報酬をくれた。


次の日、男はすぐに街でプレゼントを用意して、北のクニの娘の元へ行った。


「美しい人、どうか結婚してくださいませんか」

「まぁ、なんて素敵なプレゼント!それにあなたがこの前リンゴを持ってお城まで走っていったのを見かけましたわ!私、一生懸命な人は大好きなの!是非、一緒になりましょう!」


女は男からのプレゼントに喜び舞い踊った。それから二人は一緒に暮らし始めた。花とリンゴに囲まれた幸せな毎日。

だが、突如として男のもとに兵士がやってきて、二人を離れ離れにしてしまった。


訳も分からず城に連れて行かれた男は兵士に殴られたり、蹴られたりした。


「何故だ、何故このようなことを!」


誰も座っていない玉座の隣に立っている髭を蓄えた男が喋る。


――――――――――――――――――――お前の持ってきたリンゴが腐っていたせいで、―――――――――――王様は亡くなってしまった―――、よって―――――――――お前を死刑に処す!」


男は相手が何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。ただ、喋りながらリンゴを指し示していたので、それが原因で何事か起こってしまったのだと思った。けれども、言葉がさっぱり分からない。男はなんとか許してもらおうと身振り手振りを交えて、こう言った。


「どうか、お許しを!私には大切な妻がいるのです!なんでもしますから!どうか!」


男は大声を上げて泣きわめいた。すると、それが通じたのか髭の男はこう呟いた。


―――――――許してほしいか!――――――――――――――――――――ならばお前の大切なモノを亡き王に捧げるのだ!」


男は何を言っているのか分からなかったがとにかく頷いた。


それを見た髭の男は部下にこう命じた。


「この男の妻を連れてこい!」


何も知らない妻が家から連れてこられた。男は何故自分の妻がこの場所に連れて来られたのか分かっていなかった。


妻は誰も座っていない玉座の目の前で平伏せられた。


髭の男が大声で言い放った。


――――――――――この者の妻の命を以て――――――――――――――我が王の安寧たる眠りを祈らん!」


男の愛する妻は、男の目の前で串刺しにされてしまった。


男も、串刺された妻も、最後まで相手が何を話しているのか分からなかった。


これを見ていた天上の神は大いに嘆いた。


「おお、愚かで悲しい人間達よ。言葉さえ通じていればこのような最悪の結末には至らなかっただろうに」


そこで、神は人々の話したバラバラの言葉を一つにまとめられる素晴らしい塔をこの世界に建立したのだ。


人々は皆、相手が何を言っているのか分かるようになった。見たことのない服を着た人間でさえも、心を通わせることが出来た。


皆は大いに喜び、その塔を「バベル」と名付け、全ての人間と会話を出来ることを天上の神に感謝したという。


父がこの話を語り終える頃には、既に陽が山の向こうに顔を隠し始めていた。


「このお話はね、確かに悲しいお話だ。だけどね、これは男がきちんとリンゴを調べていれば起きなかったことなんだ。その男が舞い上がらずに、いつも通りにリンゴをじっくりと調べていれば腐ったリンゴを食べて王様が死んでしまうこともなかったんだ」


父が私を抱っこしてくれる。


「このお話が言いたいのはね、分かってるからと言って、おざなりにしていい事なんてないんだよって事なんだ。分かったかい、ペトラ」


私が頷くと、父が頬に口づけをしてくれた。


「よし、良い子だ。それじゃあ、晩御飯にしようか。今日はね、山で採れた―――」


父が、家の扉が、風景が遠のいていく。


夢とは、いつか覚めるものだ。


では、人はいつになったら目覚めることが出来るのだろうか。


深い闇へ、私は静かに戻っていった。

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