21/ 燃殻通りの闇市場 3

 粘りつく闇のように。生まれ落ちた虚ろから声がする。


 ――死を。死を、死を、と。


 無数の声がそれを求める。無数の願いがそれを求める。

 その理由を、炎は知らない。

 何も分らぬままに、願いの走狗として駆け、夜の門戸に立つ――。


 ◆  ◆  ◆


 黄炎が目を覚ますと、暖かな光が部屋を満たしていた。彼の異形の炎とは違う、橙色の炎が暖炉で赤々と燃えている。目を覚ます、という表現は厳密には正しくないかも知れない。彼の首から上には、凡そ頭部と呼べるものは存在せず、ただこの世ならざる黄色い炎が揺らめいているだけなのだから。


 首のない男は上体を起こす。身体を支えようとついた手が、柔らかな羽毛布団に沈んだ。それは彼の知らない感覚であったが、同時に彼はそれが何であるか識っている。人間という生き物が夜の闇の中でも安らかな眠りにつける場所。ベッド、というものだと。


 身を優しく包み込む布団は高級なものだ。よく磨かれたベッドに、一昔前の流行を取り入れた優美な壁紙。幾つもの腕を持つ豪奢な照明は埃一つ見当たらない。覚えのない、場所。


 首のない男の記憶は、一人の人間と切り結んだ所で途切れていた。日の光より尚眩しい煌びやかな明かりを無数に灯した建物で、青鷺のごとくけたたましく鳴く刃を携えた人間が立っていた。人間は首なし騎士を見ていた。刃をただ彼というものに向けていた。それまで、声の導くままに虚ろであった首なし騎士の前に――。


「――ああ君、起きていたか!」


 扉を開け放つ音に、首のない男は頭部に位置する黄炎を向けた。それは――あの赤毛の人間ではない。彼が今まで死を告げた人間でもない。まるで見知らぬ男だった。黒い癖毛を揺らし、大きな目をぎょろつかせて、男は急速にベッドへと近づいた。


「フムウ! やはり、燃えている! 一体どうなっている? 肉体は人間そっくりだというのに、頭というものがすっかり存在せず、代わりに不思議な色の炎が燃えている。何とも不可思議だ! 君、私が見えているかね? 呼吸はどこで? もっと近くで見せてくれ給え!」


 首のない男は思わず身じろぎし、顔を近づける男を押しのけた。


『我が身は、告げねばならぬ、死を――』


 ベッドから一歩足を踏み出し、しかし不明瞭な感覚に襲われ膝をつく。倒れこむ燃え盛る頭部の男を、黒い癖毛の人間が支えた。不思議とその黄炎は幾ら近づこうと触れようと、彼を燃やすことはなかった。


「まあまあ、落ち着き給え! 別に今ではなくても良いだろう?」

『今で……なくとも構わない……?』


 人間の言葉を、首のない男は鸚鵡返しに繰り返した。


「そうとも、君は昨晩道に倒れていたのだよ。それを私とエッタが拾い、家にまで連れてきたのだ。幸い、我が家は広い上に使用人は全て父と共に長期旅行中だ。息子が科学技術会合に出るという週だというのに、テムシティに居ないとは、困った父だが」

『そう、か……』


 黄炎の怪物は何か言おうとしたが、それを表す言葉を持ち得なかった。


「しかし、意思疎通の可能性は高いと踏んでいたが、こうも流暢に人の言葉を話すとは! もしもと思い用意したスケッチブックは無駄になってしまったが、大変興味深い」


 そこまで言ってようやく黒い癖毛の人間は自分が最初にするべきことをしていないことに気付く。


「――そうだ、挨拶を忘れていたな! 私はスラー・セジウィーク。君は?」


 男は――スラーは快活に笑った。首のない男はその見た目通り、陰鬱に呟く。


『我が身に名はなく、必要すら持ちあわせぬ』

「成程? しかしそれでは君を呼びづらい」

『何人も、我が身を呼ぶことはない』

「とんでもない、君がここに居るのなら、私が君を呼ぶとも!」

『……我が身は……ここに在る……』


 首のない男は戸惑うように言葉を返す。虚ろであるはずの身の中に、さざ波が立つような錯覚。


「そうとも! よく見たまえ、君は間違いなくここに居る。私の目の前に、この屋敷の中に。そしてこの大都市テムシティに! 君は確かに存在しているのだとも!」


 首のない男もまた、己を見下ろした。

 黒い手袋に覆われた二つの腕に、二輪用ツナギレーシングスーツめいた黒服に覆われた体。人と似た姿ではあるが、それは首から下までのこと。その頭部は彼が人ならざる身であることを示す不燃の黄炎が燃えている。


 ――ああ、確かに。


「しかし――困ったものだな。人間と同様の手当てはしてみたものの、傷は塞がっていないのか」


 スラーは難しい顔で、首のない男の体を撫でた。黒くぴったりとした服の裂け目からは、血液の瘡蓋の代わりに、黄色い鉱石のような塊が張り付いており、時折ちろちろと燃える炎が漏れ出ているのが見える。零れ続ける血のように。


「全く、酷い傷だな! 一体何者がこんなことを? 大型の鰐にでも食いつかれたか、耕運機に耕されたかのような乱雑な傷口だ。全く、とんでもないロクデナシか野生動物の仕業に違いないな」

『傷、か……』


 首のない男は体の傷に触れた。触れた箇所から、自分の中身が徐々に失われつつあるのが解る。それを止める手立てがあるのか、彼自身にも解らない。必要があるかすらも。


 だというのに目前の人間は、いかにも大問題だと言わんばかりに顔をしかめている。何とも奇妙な光景だった。その時、首のない男はふと気づいた。怪物の手が、体を撫でまわすスラーの腕を掴む。


「む? どうかしたか――」


 スラーは首を傾げた。首のない男はスラーの袖から何か小さな欠片を取った。最初、それは小さな塩の粒のようにも見えた。食事中に誤って付着してしまったようなほんの僅かな結晶粒。それは暖炉の炎の明かりを受けて、緑色に煌めいた。――秘術<フィア>。知る者が見れば、そう呼んだだろう。


 首のない男は摘み上げたフィアの粒結晶を自らの傷口へと近づけた。すると――不思議なことが起こった。見る見るうちに、首のない男の傷が塞がり始めたのだ。


「君は、フライブレス蝶のはばたきを摂取出来るのか!」


 スラーは驚嘆した。フィアの粒結晶は首のない男の体に反応するように瞬き、やがてその傷が残り三分の二ほどまで塞がった所で、全てのエネルギーを使い果たしたように光を失った。


『この媒介素は、フライブレスと言うのか』

「ああ、私が研究していてね。いや興味深い!」

『もう一欠片ほどあれば……我が身の損傷は全て消えるだろう』

「成程! いや、しかし地下室外でのフライブレスの利用はクライアントが……ええい、構うものか!」


 スラーは叫び、部屋を飛び出した。隣室のソファで紅茶を飲んでいたアンリエッタが目を丸くした。


「スラー? どうしたの?」

「エッタ、彼が目を覚ました! それで、どうも怪我の治療にフライブレスが使えそうなんだ。今地下室から手頃な欠片を持ってこようと思ってね!」

「フライブレスの欠片を? スラー、そんなことをして、依頼主に見つかったら……」

「構うものか! それに彼らといったらそう丁寧に調べるわけでもない、足りない分は研究で使ったと言い張れば済む!」


 スラーはアンリエッタをも振り切り、地下室に飛び込むと、研究棚から手頃な緑色の石を掴み飛び出した。再びアンリエッタが座るソファを横切り、首のない男がいる部屋へと戻った。


「危ない橋を渡らないと気が済まないのはスラーの悪い癖ね」


 そのあわただしい背中を見送たアンリエッタは肩を竦め、紅茶のカップに口をつけた。


 飛び出した時と同じ勢いでスラーは部屋に飛び込んだ。興奮で息を切らしたスラーがフライブレスと呼ばれる緑色の合成石を首のない男の傷口に当てた。すると先程同様、瞬く間にその非人間的な傷口が塞がってゆくではないか!


 やがて傷は完全に消え、不可思議なことに同時に首のない男の纏う服も傷ひとつない形へと修繕された。


『消えたようだな』

「君は……素晴らしいな! 何故君がフライブレスと呼応を? いや興味が尽きないな!」

『これで、我が身は元の通りに――』


 首のない男は立ち上がろうとした――だが、バランスを崩し、再びベッドの中へとぽすり、と倒れこんでしまった。燃える黄炎が不思議そうに頭を上げた。


『ぬ、う……? 我が身は……』

「ははは、いや失敬、笑ってはいけないな。傷が治ったとはいえ、まだ完全に回復したわけではないのだろうな。もう暫く、君には療養が必要だ、ということだ」

『療、養』


 首のない男は何とか体を起こし、馴染みのない言葉を口にする。


「そうだ、名前のことだが、君に名がないというのなら、アーヴィングというのはどうだね? 中々君に似合うだろう? それにデュラハン、などと外で呼ぶのはいかにも怪しい!」

『……外?』


 その言葉に、黄炎は存在しない首を傾げた。スラーは美丈夫たる表情に満面の笑みを浮かべた。


「うむ。そうとも、 怪我人とはいえいつまでも室内で燻っていてはいけない。それでは回復するものもしない! さあ行こうじゃあないか、外出準備は整っているとも!」

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