テムシティ・チョコレート災害 1
テムシティにも冬は訪れる。科学栄えし大都市といえど、燃料が齎す温風の庇護を得られるのはあくまで室内に限られている。
寒さに首をすぼめて歩く人々は、当然、その寒さを乗り切るためのものを求める。例えばそれは、湯気の立つ紅茶やスープ、熱く喉を焼くウイスキー。それと――チョコレート。
かつて、新大陸から齎されたチョコレートはこの国でも一世を風靡した。貴族のみならず、一般市民でさえもコーヒーハウスに通い、飲料チョコレートを楽しんだ。その後、チョコレートは多くの人間の手によって進化を経た。はじめは飲料であったチョコレートも今や固形チョコレートが主流だ。
最初のチョコレートブームから二百年程経った今、テムシティでは再び、チョコレートが密かな人気を得ていた。理由は簡単で、十年程前に国外にて固形チョコレートの新たな製法が確立したのである。それによって生まれた滑らかな舌触りの固形チョコレートに、テムシティ住民も魅了されたのだ。
甘く苦く蕩けるチョコレート菓子。冬の空の下、じわりと舌に溶けるその味は体を内から温めてくれる。元は強壮薬としても用いられていただけあり、栄養補給としてポケットに数個のチョコレートを突っ込んでいる労働者もいる。
特に、今は二月。冬の最後の月ともなれば殊更、長く続く寒さに滅入った人々が最もチョコレートの甘みに手を伸ばす時期なのだ。
……だが――。
■ ■ ■
「王室御用達チョコレート?」
「はあ。これ、本物じゃないだろ?」
「当然。
探偵の言葉に、目の前の相手はにやついた笑みを浮かべて答えた。肩までの黒髪に端正な顔立ち。首には派手な柄のスカーフを巻いたその男は、ウル・コネリー。風を纏う黒犬の看板を掲げる地下酒場を根城にし、テムシティ下層の闇を知り尽くした男である。
「で、偽のブランド品がどうしたんだよ」
灰色の目をした若い探偵、シャノン・ハイドは怪訝そうだった。
エンボス印刷された金の箔押しのロゴは、かつて上層へと移転した有名チョコレートブランドのものである。
下層において、
勿論、大抵の下層民はそれらが
「ヒヒヒ! どうしたかなんて、決まっているじゃあないか、シャノン・ハイド」
――そう。闇組織の一つ、
「困ってるんだよ」
コネリーは目を細めて言った。その指が低品質な箱の表面を撫でる。
「
コネリーはその可愛らしい箱を取り上げ、床に落とした。
「邪魔なんだよなァ」
コネリーの靴が薄桃色のチョコレート箱を容赦なく踏みにじる。箱が歪み、中から潰れたチョコレートが滲み出た。酒場の床を、茶色く甘いチョコレートが汚してゆく。
「つまり――この王室御用達ブランドの偽チョコレートを作っている奴を見つけたい、ってことか?」
「そういうことだとも! ヒヒヒ、すっかり話が早くなったじゃあないか、シャノン! 何せ……この
闇を支配する悪辣な顔をした男は、それからふっと力を抜いた。
「ま、それだけじゃあない。何より腹立たしいのは――これだよ」
面倒臭そうに肩を竦め、指差した。壁から垂れるチョコレートを。
チョコレート、である。普段は酒と樽の香りに満ちた酒場ブラックドッグの壁に、香り高く、甘い、茶色の液体がゆるゆると、流れ落ちている。シャノが酒場に入った時から、その壁はこうなっていた。
「これ――新しい内装とかじゃなくて?」
いつになく、コネリーの笑みが、深くなった。
「ははあ、シャノン。アンタも大分とこっちらしい冗談が言えるようになってきたじゃあないか」
どうやらあの、常にのうのうとした態度しか見せぬコネリーが、本心から怒りを湛えているらしかった。シャノはこれ以上藪をつつかぬことにした。
「なら、何でこんな所に……チョコレートが?」
通常、チョコレートは壁を流れ落ちるものではない。カップに溶かして飲むか、齧るものである。しかし現実に、チョコレートはこの
「やられたんだよ」
目の奥に冷たいもの湛えたコネリーが続けた。
「この酒場の隣の建物でやっていたのさ、偽チョコレートの密造を。当然、届け出一つ出しちゃいない。オレの隣で違法行為をやるなんて、大胆なヤツも居たもんだよな。まあ上手いこと隠れて、日がなぐるぐると大鍋かき混ぜて、偽ブランドチョコレートの製造に勤しんでたワケだ。が――」
――昨日、そのチョコレート用の大鍋が倒壊したのだという。原因は分からない。粗末な鍋の劣化かも知れないし、古い建物の一室という不適切な製造環境が招いた事故かも知れないし、単に作業員の一人が鍋にぶつかったのかも知れない。ともあれ、製造用の鍋は倒れ、大量の密造チョコレートが溢れたのだ。
酷いことに、大量の液状チョコレートの波は製造部屋だけに留まらなかった。古い床板の隙間からもカカオとミルクと砂糖を含んだチョコレートがどんどんと溢れ出し、道路までをも覆った。そして、それは水道や電気の配管用の経路を巡り巡って、隣の地下酒場ブラックドッグまでも辿り着いたのだった。
ぴちゃり。ぴちゃり。
チョコレートの粘り気のある音が、静かな酒場の中に響く。
「どうやら、染み込んだ地面のどこかにまだこの密造チョコレートが溜まっているらしくてね。このオレをもってすら、止められていない。地面をまるごとひっくり返すには、道路の使用許可をとらなきゃあならないし、衛生局は何週間かすれば止まるから諦めろ、と言う。ああ、全く。困ってるんだよ」
コネリーはわざとらしく嘆息した。そのおどけた態度の裏で、内心は製造の主導者の四肢を切った上で街を流れる川に沈めたいと思っているのは明らかだった。
この街で最も悪辣なるウル・コネリーが、甘いチョコレートに苛まれているなどと知れば、彼に敵対する者たちは大笑いしただろう。シャノは懸命にもコメントは差し控えた。死ぬより酷い目に合うのは御免だからだ。
「と、言うわけだ。シャノン。協力してくれよ、ちゃちな
「まるっきり悪事じゃないか! 駄目駄目、そういうのは手伝えない」
「そう言うなよ、オレの依頼ならもう何度も受けているじゃあないか」
「……あのさ、コネリー。わたしはあくまで探偵だ。その為にそっちを利用しているし、利用されている。その一線を越える依頼は出来ないよ。それじゃあ意味がない。わたしにはね」
人から見て同じことだとしても、シャノにとってはそうではない。己の決めたルールに従うことは、シャノにとっては誰よりも意味がある。
「それにそんなの、部下にやらせた方が良いだろ。わたしより手慣れてるし」
不利益を齎す商売敵や敵対存在を排除するならば、当然
「ところがだ、実は今、
「聞けば聞くほど頭が痛くなってきたな……」
仁義なき争いの片鱗を聞かされ、シャノは額を抑えた。
「だからさ、シャノン。今まで色々と貸しがあるだろう? 今回の依頼を受ける理由にはなると思うなァ?」
「一気に借りを返せるのは魅力的だけど。見え透いてる悪事に相乗りするのは御免だよ。せめて見えない所でやって欲しいよ」
「まあまあ、固く考えるなよ。結果的にオレがそれで儲かるとしても……
「う、ぐ、う、うう……だ、駄目だって、本当に、今回は!」
数十秒悩み、苦しんだ末――シャノはどうにか金の誘惑を振り切り、断言した。
耐えた。耐えきった。十五万リングという大金も大金の一点の曇もない魅力に耐え、打ち克ったのだ……!
「悲しいなァ、シャノン・ハイド。オレたちはもうすっかり運命共同体だと思っていたというのに!」
「大袈裟な。こんなの放っておいたって、
シャノは深く嘆息した。やや、名残惜しげに。
「ともかく。次は犯罪に直接関係ないか――そういうのがわたしにバレないように依頼をしてくれ」
そう言って、シャノは呆れた表情で酒場を後にした。バタン、と扉が閉まる音が聞こえ、コネリーはゆっくりと木製のバーカウンターへと体を預けた。
「やれやれ。以前なら素直に言うことを聞いただろうに。やっぱり半端に自信を持たせると面倒だなァ。それとも、あの仮面クンや殺人鬼の影響かな」
売り物の酒瓶を手に取り、磨いたグラスへと注ぐ。アルコール臭のする琥珀色の液体が、並々とグラスを満たしてゆく。
「さて。ということは――ヒヒヒ! 頼りになるのはお前だけってワケだ!」
ぬう、と。暗がりから長身の影が現れた。際立って大柄な体躯の男の顔には、大きな傷が一つ。見る者を震え上がらせる鋭い眼光で男はコネリーを見た。この巨躯の男こそは、ギブ・バイロン。ウル・コネリーの忠実なる腹心、
「ええ。命令とあれば」
バイロンは冷徹な声色で、そう答えた。
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