12/ 魔女と狼 2
冷たい都市の風が、裏通りを走り抜ける。
それは石造りの道路を駆け、建物の壁を撫でて、雨風に剥き出された欄干を冷やす。
そのアパルトメントの最上階の階段からは、遠く都市の光が見える。それは上層都市の華やかなネオンではない。下層都市の夜のぼやけたオレンジ色の明かりだ。
向かい合った建物の屋根越しに、それはちらりちらりと瞬く。
それは街の明かりだ。人々の生活の糸遊だ。温かな光は遠く、けれど確かにそこにある。薄汚れたこの下層都市に人は生きている。
灰色がかった夜を眺め一人佇むシャノは、錆びた階段の立てる軋んだ音に顔を上げた。
「――シャノン」
白紺の外套と銅色の仮面が夜闇に現れる。今や見慣れたその姿にシャノは首を傾げた。
「何かあった? 外、結構寒いのに」
「いや、逆だ。暇を持て余したから来た。いつも何を見ているのかと気になってな」
「大したものは見えないけどね」
シャノは苦笑した。グリフィンはその視線の先を追う。あまり高くはないこのアパルトメントから見えるのは僅かな光だけだ。
「身体の方は大事ないか。先程の戦闘は激しかった」
「幸いなんともないよ。あの
「死を齎す腕か……難儀な相手だ。より力をつければどうなるか……次の遭遇で決着を付けたい」
「うん。これ以上――誰かが死ぬ前に。ドロシーも、キールもね」
通りから
「この辺りも随分夜が明るくなったんだよ。子供の頃はイーストサイドはどこも、大通りですら薄暗くてね。それが、シックスローズ地区から段々と街灯が増えて、今はこのウッドウェルでも賑わいが見える」
「……君は人が好きなんだな」
「んー。人が好きというより、人を見るのが好きなんだ。歩いて、食事をして、友人と語らって、お金を稼いで、楽しいことをして。怒ることも悲しむことも、笑うことも出来る。そういうのを見るのが好きだよ。そういうことが、ずっと続けば良いと思う。酷い運命に阻まれることなく」
「だから君は、人を助けるのか」
「きっと、そうなんだろうね」
シャノの横顔は穏やかだった。その瞳には、夜の光がきらきらと小さく瞬く。多くのものを見ても尚、灰色の目は街のオレンジ色の明かりを映している。
グリフィンが息を吐いた。夜気に晒された呼吸が白く染まる。
「……シャノン。君は――何故ここにいる」
シャノは不思議そうにグリフィンを見た。そして苦笑した。
「ジョンおじさんから何か聞いたろ」
「……詮索をしてすまない」
「気にしないで、おじさんから話したんだろ。あの人、世話焼きだからなぁ」
シャノの口調に咎める所はない。それはブロディに対する信頼でもある。
「君は……何故彼から離れて、ここで一人、探偵をやっている」
グリフィンは躊躇いながらも言葉を続けた。グリフィンから見て、彼らは互いを思いやり、考えることもなく信頼しあっていた。まるで昔からの家族のように。その間に何かしらの断絶があるようには見えなかった。それでも――彼らは距離を置いている。それが互いの領分を守る距離だというように。
「それは、わたしがおじさんほど善人でも、忍耐強くもなかったからかな」
シャノは微笑んだ。感傷を含んだ表情は、己を憂うようだった。
「おじさんはとても立派な人なんだ。仕事の中で毎日、悔しいことも悲しいことも沢山見ているのに、いつだって諦めないし、投げ出さない。自分の立場ですべきことを守れる。……でもわたしはそうじゃなかった。わたしは我慢が出来なかったし、正当な手段から外れてでも、何かをしたかった。だから、一緒には居られなかったんだよ」
「それは……」
「勿論、おじさんが嫌がったわけじゃないよ。今何してるかも言ってないしね。もしコネリーと縁があることがバレたら、カンカンに叱られるね」
シャノは困った顔で笑った。それから静かに言った。
「おじさんとのことは――わたしがただ、自分を恥じたんだ。おじさんみたいに立派で居られない自分を」
シャノン・ハイドには、秀でた能もなく、財もなく、権力もなく。それでも弾丸のように突き進んだ。振り返ることもなく進んだ。そうするしか出来なかった。そんな己をシャノは恥じている。愚かなことだと解っていた。正しい道順が他にあると解っていた。――それでも。
「それでも――己を恥じても、悔いるところがあっても。君はその道を選ぶのだな」
「うん。決めたことだから」
「そうか――」
少しの静寂があった。やがて意を決し、グリフィンが口を開いた。
「シャノン。先に言うが、少し怒る」
「えっ」
「……実は、ずっと考えていた。君の無鉄砲な行動は……確かに無駄ではない。それに何度も助けられた……だから、口出しすべきではないとも、考えた。だがやはり……無茶をしすぎている」
グリフィンは仮面の下で息を吸った。それから胸に溜めた言葉を言いあぐね、結局何も言わずに息を吐いた。
「ムゥ……それらしく大きな声で叱りつけてみようと思ったのだが……加減が難しいな……」
「ええと、無理しないで……、って怒られる側が言う方も変か……?」
「いや、有難い。そうするとしよう。慣れないことはするものではないな」
グリフィンは格好がつかない様子だったが、改めてシャノに向き合った。
「案じている。君が――いつか、取り返しのつかない結果を身に受けることになるのではないかと。<切り裂きジャック>に出会った時、既に君は大きな痛手を受けている」
切り裂きジャックの幻想を纏った
「そう……そうかぁー、確かに、ウン、そうだよね、わたしは」
「……それほどまでに、君を動かすものは何だ」
グリフィンはシャノの背に視線をやった。魔女を追う時も、
「最初に会った時も言ったけど……誰かの力になりたかったんだよね」
遠く、輝く街の明かりをシャノは眺める。
「――探偵になる前にね。大勢が死ぬのを見たんだ。……病気でね。いや……病気じゃなくて、事件だったのかも知れないけど。とにかく、亡くなったんだ。沢山ね。沢山の人が死んでいた。沢山の人が白い布団の中で、一人ぼっちで」
(――それは……)
住宅街での大量死。病原菌の流出。死者二十三名。図書館で読んだ記事がグリフィンの頭を過ぎた。
明かりに照らされた瞳が、憂うように伏せられる。
「今日も、そうだった。
最期の時にも、誰にも寄り添われずに死んだ人々。
誰かが――たった一人でも、彼らに手を差し伸べられたなら
「……それは、キールを救いたいのと同じことか」
「うん、そう。きっとそうだね。彼も、手を伸ばされない誰かだろうから」
「――そうか」
グリフィンは得心がいったように頷いた。そしてゆっくりとその銅色の仮面を動かし、黒孔の奥からシャノを見た。
「君の行いは、正しくないかも知れない。けれど――それで救われる者がいるなら。私はその行いを、尊いと思う。君が……私の手を取ってくれたように」
あの夜に、愚直な探偵は手を取った。得体も知れぬ仮面の男を信じた。だから、今彼らはここに居る。
「一つ、私から言えることがあるとすれば――どんな理由があれど、大事なものから距離をとるのは勧めんぞ」
グリフィンの言葉にシャノは顔を上げた。それから、困ったように苦笑した。
「うん、そうかも。次は気をつけるよ」
シャノから見上げる仮面の男の表情はいつもと同じく、解らない。その顔は厚いフードと頑健な仮面に覆われている。けれど十分だった。シャノは仮面に開いた六つの黒孔の向こうを見つめた。
「もし――わたしが一人で進み過ぎたら、今度はグリフィンが手を取ってくれる?」
「ああ、勿論。そうするとも」
グリフィンは頷いた。表情が見えなくてもそのことは真実だった。
その時、風に乗って階下から声がした。
「お前ら、そろそろ戻らねえと体冷えるぞー」
それは一人待ちくたびれたジャックの声だった。古びた金属の階段を登る音がし、特徴的な赤毛が顔を出す。その手には温まったワインが二つ、湯気を立てていた。
「何だそれは」
「ふふん、ホットワイン。気が利くだろ」
アルコールの香る赤い液体を揺らし、ジャックは自慢げに二つのカップを手渡した。器の温度は程よく、夜風で冷えた手に温もりが染み入った。
一口、口をつけると、喉にじわりとワインの熱が通るのがわかった。
「ジャックって、結構甲斐甲斐しいよね」
苦笑するシャノにジャックは堂々と胸を張った。
「当然、こうやって地道に好感度を稼いでおくんだよ」
「差し入れはあざと過ぎるんじゃない?」
「あざといくらいがウケが良いだろ? とくにこういうモテない堅物相手には」
「何をしようが、貴様への感情が変わることなど一切ない」
ジャックは自信ありげだったが、グリフィンの態度は堅牢なまま、びくともする様子はなかった。期待が外れ、ジャックは不満げに口を尖らせる。
「気に食わないなら、そのワイン返せよー」
「渡されたものは返さん」
「貰うだけ貰ってそれか! こいつズルくねえ?」
「返事を聞く前に渡したジャックの負けだよ」
二人のやり取りを横目に、シャノは楽しげに自分のワインを煽った。
「さ、また身体が冷える前に部屋に戻ろうか」
「ああ、そうするとしよう」
「ちぇ、次はどーすっかなぁ」
「諦めないねえ」
「こういうのは、しつこいと言うんだ」
グリフィンを懐柔する新たな策を練りながら、ジャックは階段を降りる。その後にシャノとグリフィンも続く。先程まで静謐だったアパルトメントの階段は、今や賑やかな声に満たされていた。
「
「魔女に会いに行こうと思う。学生街の方ならここから近い」
「あの魔女も来いと言っていた。それが良いだろう」
グリフィンは頷いた。今ある手掛かりは彼女のみだ。
「あとは、もう一度キールの行きそうな場所を辿り直して……」
「――待て」
シャノの言葉を遮ったのはジャックだった。ふざけた様子は鳴りを潜め、静かに顔を向ける先は、廊下の手摺の向こうだ。
「誰か居やがるな」
「ジャック!?」
一瞬のことだった。ジャックの体が手摺を越え、五階から飛び降りていた。叫んだ時には既にジャックの姿は二人の視界から消え、着地する音が聞こえた。
「追おう!」
「あ、ああ……!」
シャノとグリフィンも慌てて錆びついた金属の階段を駆け下りた。
「――オイ、お前」
「ヒッ……!」
シャノ達の方を見ていた男は、突如五階から降ってきた人影に悲鳴をあげ、逃げ出した。当然それを逃がすジャックではない。建物の間の、狭く汚い道に逃げ込んだ男にすぐさま追いつき、蹴り飛ばした。
「うわあああっ!」
男は情けない悲鳴を上げて地面に転げた。凡庸な若い男だった。身なりは清潔で不埒な輩には見えなかった。何かの組織に所属している訳ではない、小金を掴まされた一般人だろう。
「何でこっちを見張ってたんだ?」
「し、知らない、何のことかわから……ギャアアッ!?」
もごもごと言い訳する若い男の顎をジャックは蹴り上げた。口から血を流して呻く男を冷たい目で見下ろした。
「ア゛ッ、いだ、ひいっ……!」
「耐える根性もねえ癖に、手間を取らせるんじゃねえよ。誰からこんな下らねえバイト請けた」
「ウ、うう、誰も……ギャアッ!」
「ま~言えねえかァ、流石にしょうがねえな」
ここで殴られるよりも、怪しげな依頼主の怒りを買うことを恐れるのは当然だ。腹を蹴り上げられ、芋虫のように震える若い男の顔を再度蹴る。折れた鼻から血が噴き上がった。
「ア゛っ、ひ、すみません、やめ……!」
「あのなァ。お前、何て誘われたか知らねェけどさ、学費の足しにでもするつもりだったか?」
顔を抑える男の指の間から血が流れる。みっともなく泣く姿は哀れで、どうやら本当に運の悪いただの一般人のようだった。
「良い勉強になったろ。アブナイ儲け話っていうのが、どの位危険なのかってのがよ」
「ひ……ッ」
「……オイ。手前の依頼主がもし、身なりの良いジジイだったら伝えておけ。『俺を働かせたいなら座って待ってろ』ってな。他の奴なら、今のは忘れておけ。良いな?」
「はい゛……ッ! ハイィ……!」
「あっ! 居た、ジャック!」
若者が鼻血を詰まらせながらガクガクと激しく頷いた時、背後から足音がした。ようやく追いついたシャノとグリフィンが駆け寄る。
「どうだった……ってウワッ、酷いな……!」
「ダーメだ。こいつ、使い捨ての雇われ」
つまらなそうに報告するジャックをグリフィンの仮面が睨んだ。
「……やりすぎだ」
「いーだろ。考えなしの馬鹿でも自分がどーいう事に足を突っ込んだのか、解っただろ」
「それでも、やりすぎだ。不必要に甚振っている」
「ヘイヘイ、悪かったよ。これでもぬるくしてやったんだぜ?」
グリフィンはその挑発的な物言いには乗らなかった。
「……何をそう不機嫌なんだ」
「……別にー」
それ以上は続けず、ジャックはそっぽを向いた。グリフィンは男を介抱しているシャノの元へと近付いた。
「誰の差金だと思う」
「解らない。普通の人に見えるし、本気で監視するつもりでもない……もしくは単純にアシがつかない人間を選んだか。可能性としては……二つかな」
この現状で、監視や偵察をつけられる理由は多くない。恐らく
「決めた。明日、もう一つ……コネリーの所に行く」
コネリーの名を口にした時、シャノの表情がすっと剣呑なものになる。
「
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