11/ 魔女と狼 1

東の塵ダスト・イーストに現れた二体目の遺変<オルト>が闇に逃げ去った後――一行は市民公園に車を止めた。夜の公園に人気はなく、変わりに薄汚れた野犬が餌を求めてうろついていた。

 黒衣の女はベンチに腰掛けている。都市の冷たい夜の中、流行りから外れた服の上には、シャノのケープ付外套インバネスコートを羽織っていた。


「良かったわ、樹脂製プラスチックのボトルを使っていて。硝子瓶ならきっと途中で割れていたもの。科学の進歩って便利ね」


 空になったボトルを黒衣の女の指がつまみあげる。どこにでも売っている、安っぽい大量生産マスプロダクトのボトルは、とてもその中に不可思議な力が詰まっていたとは思えない。シャノは揺れるボトルを見ながら、口を開いた。


「改めて。わたしはシャノン・ハイド。こっちはグリフィンとジャック。貴方は?」

「私はただの魔女よ」


 魔女は言った。装飾的文様の耳飾りが揺れる。


「……と普段なら言っているのだけど。貴方達には借りがあるものね。……ドロシーよ。ドロシー・フォーサイス妖精丘のドロシー。……人に名乗るなんて久し振り。田舎じみた名前よね」


 女は――ドロシーは、少しの躊躇いの後に名を告げた。


「ハイド。貴方たちは怪物退治の専門家なのかしら」

「ああ、そんな所だよ」


 夜空のように深く黒い瞳が彼らを見る。姿も、面持ちも違う、服装すら何一つ似たところがない三人を。


「そういう人達って、もっと物々しい姿だと想像していたわ。物語の吸血鬼退治みたいに」

「わたしたちのこと、あんまり頼もしく見えない?」

「いいえ。そういうものは見た目ではないもの」


 ドロシーの黒い髪が、目元に影を落とした。


「……私、あの怪物に追われているのね」

「そうだ。怪異――遺変<オルト>。夜闇に人を殺す怪物だ」


 紺白のフードに覆われた、グリフィンの銅色の仮面が街頭の明かりの下にゆらりと歩み出た。


「あれは何故、私を?」

「確証はないが――遺変<オルト>が一人を付けねらう理由は多くない。君のような人間を殺すことが、あの怪異の行動原理に根差している可能性もある。だが――最も有りるのは、君があの遺変<オルト>元型・・だということだ。遺変<オルト>は架空から現れた怪異にして、故にこそ無からは生まれない。奴は人の嘆き・・を素材に、そして一人の人間を参照して奴らは自らの形を作り出す。その参照された人間が元型というわけだ。しかし奴らが模倣コピーである限り、幻想から現実には成れない。故に、元にした存在を殺すことで、現実に自らの形を根差そうとする」


 幻想から生まれ、現実へと生まれようとする、存在なき者。それが――遺変<オルト>だ。

 恐怖を掻き立てる獣の耳と牙、防毒マスクのごとき赤く大きな目。不気味な白き包帯をぐるぐると腕に巻きつけたその姿は、まさしく暗闇の中の空想のように、非現実的だった。怪異とは、即ちそういったものだ。


「つまり、あの怪物は私の写し身ということね。……随分と、醜いこと。人を蝕んで、愉快げにして。……どうしてあの怪物は、私を選んだのかしらね」

「それだ。君は魔女ウィッカンと言ったな。それは本当か?」

「ええ、本当よ」


 ドロシーは肯定した。グリフィンは銅色の仮面を懐疑的に傾けた。


「魔女とは。実際にそう名乗る者に会うのは初めてだな」

「魔女って言うと、薬を作ったり、箒で空を飛んだりする、あの?」

「――魔女ウィッチ。原初には、自然物を扱う民間治療者のイメージがあるとされる。山や森を訪れる孤独な知恵者。だが、その正体の知れない技術わざや知恵に呪術的なイメージが結びつき、やがて不幸を撒く者として表現されるようになった」


 魔女は呪いを操り、悪魔と交わり、他者に害をなす。教義や学問で解明出来ぬ恐ろしい出来事は、全て魔女の仕業だと。学問と言っても今よりも更に未熟な時代。明らかにされていない世の理は多く、説明のつかぬことなど幾らでもあった。その不確かな恐怖に対する矛先を求められ、魔女は悪となった。魔女のイメージは独り歩きし、薬学とも呪術とも無関係な、社会的弱者やマイノリティ、恨まれ疎まれた誰かへと向けられるようになった。


「――曰く、魔女は怪しげに笑い、悪を為し、無辜の人々へと疫病を齎す」

「それが、今回の遺変<オルト>の持つ幻想?」

「可能性の一つとしては」

「待てよ。だったらなんで、あれの姿は魔女じゃなくて狼なんだ?」


 先程現れた怪異の姿はグリフィンが当初予想した通り、人狼を思わせるものだった。その姿は防毒マスクと包帯を纏い、奇妙に引き攣れてはいたものの、魔女かと言われれば、到底そう見えるものではなかった。

 ジャックの疑問に、グリフィンは紺白のフードを揺らし、頷いた。

 

「その通りだ。そも、魔女にまつわる話の大半は創作だ。極端なことを言ってしまえば、本来魔女など存在しない。殺人鬼と違ってな。もう一度聞く。――君は本当に魔女なのか?」

「そうね、確かに、箒で空は飛ばないわ。でも、居ないとまで言われると心外ね」


 それまで静かだったドロシーの端正な眉が、僅かに動いた。


「仮面の彼の言う通り、お伽話の魔女のようなことはしないわ。お菓子の家も、城を閉ざす呪いの力もない。魔女たちに出来るのは、大地に満ちた力を集めて、少し手を加えるだけ。魔術クラフトと私たちは呼ぶわ。それは太陽の輝きや、頬を撫でる風や、緑の草木。様々なものから、私たちは力を集める。ただ、それだけ」

「――先程の、光の瓶のようにか。あれは、本当に太陽の光だと?」

「ええ、そうよ。何の特別なまじないもない、ただの昼の光を採取したもの。怪物を追い払ったのは、私の魔術クラフトじゃない。光そのものの力よ」


ドロシーの指が黒色のボトルを撫でた。怪異を立ち退けるちからを放ったそれは、今はただの樹脂ボトルに過ぎない。人が見れば、安価な化粧水ボトル程度にしか思えないだろう。


魔術クラフトで出来ることは幾つかあるけれど……でも大抵は、薬を売るだけね。今時多くのことは科学で賄えるから」

「薬?」

「科学的な製薬ではなく、採取した生薬を独自に組み合わせたものね。都会では評判が良いのよ」


 御伽噺と空想もうそうが地位を失い、機科学栄えしこの時代、昔ながらの田園地帯よりも都市部の方がそういった迷信じみたものへの需要は高い。法則と理が支配する街で、その力の及ばない所――即ち、定められたルールから外れた都合の良い抜け道ズルを見つけ出し、力を、救いを求める。

 そこに弱者も強者も関係はない。進退窮まった時、人は神秘に、奇跡に縋る。


「……他にはそうね、星を読むわ。そらの星は常に巡っている。変わり続ける星の位置を調べ、その日の星々の交わりから、依頼主の運命を測るのよ。貴方たちも興味があれば、初回は安く占うわよ」

「胡散臭いな」

「ハ、お前の秘術<フィア>だって大概だろうよ」


 くさすジャックに、銅色の仮面の下が気色ばんだ様子を浮かべた。


「貴様は何も解っていないな。秘術<フィア>は世界の理、法則の上に成り立っている。それはけして万能ではなく、この世に定められた物理法則、物質同士の関係性あってこそのものだ。望む通りに全てを為せるのではない。決まっている因果の元、のみ。――所詮、生物はこの星の構成要素の一つに過ぎん。塵、水、植物、動物、人間。どれも等しく惑星の細胞の一部だ。天の星の動きがたかだか一つの惑星の上で息をする人の運命を司るなどと――空を巡る無数の天体たちと、人間一人一人に因果などあるものか」


 グリフィンは一息に言った。ドロシーの黒い髪が鷹揚に頷いた。


「確かに、そうかもね」

「抗弁しないのか」

「私も魔術クラフトの理屈は知らないもの。引力の方程式を理解していなくても、物を落下させることは出来る。私はかつて誰かが見つけた法則と、生まれた技術を使っているだけに過ぎないから」


 野犬が物欲しげにベンチへと歩み寄った。油の失せた毛皮を、ドロシーの装飾的な指輪を嵌めた手が柔らかに撫でる。侮辱ともとれる言葉にも彼女が動じる様子はない。胡乱な仕事柄そういった扱いは慣れているのか、己への確固たる自身があるのか、それとも――そんな些事には囚われぬ遠いものを見ているのか。その夜半色の瞳からは読み取ることは出来ない。

 シャノは神秘的なその指をじっと見た。


「……遺変<オルト>のこともだけど、他のことも気がかりだ。例えば――あの仮面の女のこと」


 ドロシーの手についた細かな擦り傷。呪術を繰る指に似合わぬそれは、仮面の女――ネクロクロウに襲われ、地面に手をついた際の傷だ。

 ネクロクロウ。謎めいた銀色の仮面の女。遺変<オルト>の出現にも驚きを見せずむしろ予想していたかのような様子であった。あの女の目的も、正体も今は明らかではない。


 シャノはグリフィンを見た。その顔は仮面に覆われていて表情を汲むことは出来ない。――ネクロクロウの銀とは相反する、赤銅あかがね。その二つはどこか似ていた。グリフィンは、無言。

 そっと視線をドロシーへと戻し、シャノは口を開いた。


「何故貴方は、あの女に狙われている?」

「それは……きっと、ロイス・キールのことね」


 ドロシーの言葉にシャノは驚き、目を見張った。ロイス・キール、その名はシャノたちが追っていた男の名だ。怪異に関わる者の名が、怪異に襲われた者の口から出た。同一のようで、別々だった物事が今、繋がった。


「キールを……!」

「貴方たち、彼を知っているのね」

「ああ、最初は依頼でね。彼はこの事件に関わっている……遺変<オルト>への手掛かりとして彼を探していたんだ」

「そう……私も彼を追っていたの。仕事のものを盗まれてね」

「盗んだ? キールが何を?」


 シャノは訝った。ドロシーは三人を見た。


「貴方たち、知らないことが多いのね。――ウル・コネリーの顧客なのに」

「何故、彼のことを――」


 またも知った名がドロシーの口から出る。


「有名人でしょ、その道では。魔女だもの。都市の暗闇くらいは知っておかないとね」


 その神秘的な面持ちに似つわぬ薄汚れた話を口にして尚、ドロシーは静かだった。どこか現実離れした彼女の眼差しからは、その思慮を読み取ることは出来ない。


「依頼があったと貴方たちは言ったでしょう。ロイス・キールは普通の男よ。でも、彼は街の暗闇に足を踏み込んだ。そのせいで……コネリーは配下を何人か失ったようね。だから、キールのことで貴方たちに依頼があるなら、それは死体漁りの犬ブラックドッグしかいないでしょうね」

「キールはコネリーと関係がある、か。そんなことだろうとは思ってたけど……」


 シャノは眉を顰めた。依頼にあたって、コネリーはキールとの繋がりを示唆しなかった。あくまで怪異に纏わる事件の被害者としてキールの情報をシャノたちに渡したのだ。コネリーは情報を隠している。探られるのを避ける事情があるのか、必要がないと判断したのか、それともただこうして彼らが情報を追って足掻く様を面白がっているのか――理由は定かではないが、ウル・コネリーとはそのような男だ。


「だがあの胡散臭野郎、構成員は取引の矢先に、怪異に襲われたって言ってたぜ」

「コネリーが怪異に殺された、と言ったなら、それは事実のはず。そこをわざわざ騙るタイプじゃない」

「……怪異は人を殺し、人のをその身に集める。夜闇に紛れて活動している闇組織の連中が偶然、怪異に遭遇し襲われる――というのは当然、起こり得ることだ」

「キールも、遺変<オルト>による殺戮に関係している……?」

「彼女の言うことが事実なら、そうなるな」


 しかし、グリフィンはまだ引っ掛かるところがあるようだった。


「あの男、多くのことを隠しているぞ」

「……そうだろうね。コネリーはそういう奴だよ」


 シャノは溜息を吐いた。


「不幸ね、貴方たち。あの悪辣な男と取引しなくてはならないなんて」

「まあね。それでも、話は通じるから闇組織の中ではマシだよ」

「そういう見方もあるわね」


 コネリーのやり方に情はない。必要な人間を利用し、不必要な人間を殺す。そこにコネリー自身の情は含まれない。ただ冷徹に判断し、支配者のごとく生きる他者を取捨選択する。他の組織ならば、好感や繋がり、恩といった情をも大事にする。逆に言えば小さな切欠で不愉快を買ってしまえばいかに功を積み立てても殺される可能性もある。

 ただ理性的に冷徹に、お互いの利益だけを取引するなら、コネリーは悪くない相手だった。


「キールが私から盗んだのは、魔術クラフトで仕立てた商品よ。魔術施品クラフト・グッズと言ってね。ええ勿論、品自体は普通の魔除だけれど――ただの注文ではないわ。赤い荷馬車カッロ・ロッソのヴィヴァルディからの依頼でね」


 赤い荷馬車カッロ・ロッソ下層ダスト・イーストに蔓延る闇組織の一つである。フィリポ・ヴィヴァルディはそのボスだ。噂では外国からやってきて輸入業の傍ら組織を育てたという。暴力的で身内気質の強い、典型的な闇組織だ。


「そんな人間とも商売を?」

「裏の人には結構多いのよ、神秘的スピリチュアルなものに傾倒する人が。裏稼業に関わらず、心労の多い人は自分ではない超越的な何かに縋るから」



 都会では評判が良い、とはそういうことだろう。魔術クラフトという不可思議な存在が、不自由な心の支えになる。その力が嘘か真かは関係がない。信じ、身を委ねることが出来る象徴が必要とされるのだ。


「依頼人から預かった宝石を組み込んだ、特別な仕立てなの。紛失したなんて言ったら困った目に合うでしょうね。私も命は惜しいの。だからまだキールを追うわ。貴方たちは?」

「きな臭い連中のことも気になるが……我々の目的はあくまで遺変<オルト>だ。誰が関わっているにしろ、怪異を消滅させることが出来さえすればいい。そして、あの遺変<オルト>はまた君の元に現れる。我々としては、君には同行願う」

「待って。わたしはキールを追いたい」

「シャノン?」

「キールは遺変<オルト>の件に関わりがある。彼を追うことで、まだ見えない事実が解るかも知れない。それに――放っておけないよ」


 ロイス・キール。本来なら盗みなど働こうはずもなさそうな、小心で素朴な技術者。しかし、今は違う。キールは本来関わるはずのなかった闇の道に足を取られようとしている。恐らく本来のキールは薄汚い仕事が似合う人間ではないが、彼をそうさせる事情がある。テムシティ下層においては、そのようなことは――平凡な人間が闇に足を絡め取られることは――よくあることだ。だが、だからといってシャノはそういったことを看過しておきたくはなかった。少なくとも、関わった以上は。


「……それは君の"人助け"か?」

「……そうかな。そうかも。確かに……本当は遺変<オルト>のこととは関係なく、わたしはキールを助けたいのかも知れない」

「……君のやり方も理解する。手の届くものに、手を伸ばしたい。それは正しいことだと思う。だが、時間もないのも事実だ。遺変<オルト>の成長は著しい。悠長に様々なことに気を取られていれば、ますます多くの人間が死ぬ――それは望ましくない」


 グリフィンの言うこともまた正しかった。シャノは言葉を続けるのを躊躇った。

 ドロシーは僅かに目を伏せると、少しの間思案し、それからグリフィンを見た。


「では、一つだけ教えておくわ。キールは今、魔術施品クラフト・グッズを持っていない」

「何………?」

魔術施品クラフト・グッズは、恐らくあの仮面の女との取引に使うはずだったのでしょう。怪物が現れる前――私はキールを見つけた。私がキールを問いただしていた時、仮面の女はキールを守るように現れ、そして逃した」

「あの女は、最初から貴方を狙っていたのではなく、キールを守るために貴方を襲ったのか……」


 シャノは思案した。


「キールがその魔除を渡そうとしているなら……仮面の女は何故、それを欲しているんだろうか」

「奪われた魔除には何か特別な機能があるのか?」

「いいえ。私が依頼されたのは、あくまで魔除。不幸を祓い、持ち主を守護するもの。最初は宝石がついているから、金目のものとして奪われたのかと思ったけれど……あのネクロクロウとやらはそんなものを欲しがりそうにないわね」

「ハ、解らなきゃ解らないで良いだろ。怪異も仮面女も、どっちもブチ殺せば良い。死ねば何も出来やしねえだろ。万事解決、単純明快」

「人間の方は殺さないように」


 ジャックの明快シンプルなプランをそっとシャノは修正した。


「きっと、キールはデータを取り戻そうとするでしょう。使


 ドロシーのその言葉に、グリフィンは思い当たるところがあった。


「……ロイス・キールは武器を購入したらしい。私の知人がそう言っていた」

「武器……? それじゃあ……」

「ああ、どこかを襲撃するつもりだろう」

「事実なら――見過ごすわけにはいかないな」

「……そうだな。聞いてしまっては、放置出来まい」


 追うべき理由が明確であるなら、グリフィンも依存はなかった。


「でも、キールがどこにいるか、今のところ手掛かりはないな……」

「それなら、に導かせましょう」

「妖精ぃ?」


 理の当然の如く提案を口にするドロシーに、ジャックが疑わしげな声を上げた。


「いくら不可思議な術があるといっても妖精なんぞ、お伽噺じゃないんだから」

「居るわよ、妖精は」


 呟いて、ドロシーはベンチの後ろに植えられた木を見上げた。三人もつられて目をやった。そこには何も存在しない。


「……流石に気味悪くなってきたな」

「……我々には知覚出来ぬだけかも知れんな。。妖精と呼ばれるに値する超常的存在が在るとしてもおかしくはない」

「そうかぁ? おかしいだろ。さっきまで胡散臭いだの言ってた癖に、随分肩を持つじゃねえか」

「頭ごなしに全ての神秘を否定するつもりはない。科学はまだ未熟で、解明されていない物事は多い。理が解明される以前、雷は神のものであったように、まだ白日のもとに暴かれていない何かしらの神秘が存在するのは不思議ではない」


 ドロシーが立ち上がった。羽織っていた肩掛付外套ケープコートを脱ぐと、黒いロングスカートが夜風に棚引いた。

 夜のごとき黒い髪に縁取られた、どこか魔術めいた化粧はすぐ目の前だというのにどこか遠くに存在しているようだ。装飾的な銀の耳飾りと指輪が、霧けぶる夜から落ちる僅かな月光に光る。黒色の女は、ドロシー・フォーサイス妖精丘のドロシーは、ゆっくりと腕を広げる。

 力が、渦巻いた。目に見えぬ流れがその場を支配する。


 ――そこに、魔女がいる。


「さあ、おいで。屋根なき獣たち」


 ざわりと夜闇の公園が蠢いた。その木陰から、遊具の影から、柵の向こうから、野犬や猫といった生き物たちが一匹、また一匹と姿を表した。


「貴方は……」

「知らなかった? 魔女は獣を使役するのよ」


 美しい魔女は目を細め、微笑んだ。


「探し出して、迷子の彼を。導きは妖精に。彼らに背を貸して。報酬は一欠片の身にて」


 ドロシーは足元に大人しく座る獣たちに告げる。獣たちは理解したように、それぞれの方向に走り去った。数匹の獣が走る後ろ姿を、三人は不思議な面持ちで見つめていた。


「――これで、後は知らせを待つだけよ。余程巧妙に隠れていなければ、明日の昼には解るでしょう」


 もはや、ドロシーからは超常的な雰囲気は消えていた。今そこに居るのは、少し浮世離れしただけの女である。


「それじゃあ、ここでお別れよ」

「何?」


 グリフィンが止めるより早く、ドロシーは取り出した樹脂製プラスチックボトルを振るった。開け放たれたボトルの口から、黒い闇が広がった。それは煙や霧の類ではない。掴もうとしても塵さえ触れ得ぬが、たしかにそこにある闇。実体のない黒い靄が周囲に広がり、女を包み隠す。


「待て、逃げるのか!」

「いいえ、家に帰るだけよ」


 女は闇の向こうで静かに首を振った。


「フラットダウン地区墨角通り、『魔女の薬屋』。何かあったら、そこに来て」


 そう言って、女の姿は完全に闇に覆われた。不可思議な闇が晴れた時――そこには魔女の姿はなかった。

 非現実的なわざに、残された三人は手品に化かされたように立ち尽くした。

 遠く、ビルの向こうから野犬の吠声が聞こえた。


「……魔女に纏わる話の一つに、こうある」


 グリフィンが仮面の下でぽつりと呟いた。


「曰く、魔女とはけものに変ずる者だ、と」


 ◆ ◆ ◆


 ――魔女は、罪である。それは凡俗の手に余る知恵わざを享受する。

 ――魔女は、狼である。それは凡俗の忌避せし所業を看過する。


 魔女は人の営みに寄り添う者にして、人の営みから外れたもの。

 人の倫理の外から、人の世界の内に住まう者。


 故に――魔女は。ドロシー・フォーサイスはここに居る。

 機科学華やかなりし栄光のテムシティ。その影に置き去りにされたここ、下層ダスト・イーストに。


「待ち侘びたぞ」


 暗い裏路地の奥から男の声がした。ドロシーは無表情な目でその男を見た。

 街灯の明かりも差し込まぬ路地から、大柄な影が現れた。その酷薄な顔には、大きな傷と義眼が目につく。


「来なかったのはそっちでしょう、ギブ・バイロン」


 ――『猛牛』ギブ・バイロン。ウル・コネリーに付き従う死体漁りの犬ブラックドッグ幹部の一人。


「キールを見付けるのは私の仕事。捕らえるのは貴方の仕事。そういう話だったわよね」

「仕方があるまい。ウルは不必要に仕事の繋がりを嗅ぎ回られるのは望まん。貴様はあの時、探偵どもに追われていた。であれば、私が貴様のところに顔をだす訳には行くまいよ」

「あの男が、人のことは靴下の数まで嗅ぎ回る癖に、自分のことは隠し通す姑息な男だというのは解っているけれどね。協力すると契ったのだから、真面目にやってくれないと困るわ」

「ハハ、口の回る魔女だな。だが――調子に乗るなよ」


 瞬間、バイロンの巨躯が動き、その太い腕がドロシーの胸倉を掴み、壁に押し付けた。


「ぐ――っ……」

「ハ、こちらと対等なつもりか、魔女。愚かな小娘め。あの魔術施品クラフト・グッズが戻らなければ困るのは貴様だろうに」


 あの魔術施品クラフト・グッズだ。ただの魔除などではない。依頼主から預かった石を組み込み、注文通りに作り上げた換えの効かぬ逸品。


 苦しげに顔を歪ませるドロシーを見下ろし、バイロンは残忍に笑った。ドロシーの美しい髪がざらついた石壁に擦れる。


「良い面だ。気丈を装い、強いフリをしている弱者が追いつめられた時の顔が、私はたまらなく好きだ。体を潰し、心を潰し、終わってくれと願うまで甚振りたくなる」

「……私を殺せば、コネリーの大事な情報網の一つが失われるわよ」


 ドロシーは睨むように、己を抑えつける大柄な男を見上げた。バイロンは暫く締め上げる手を緩めなかったが――やがて苛立った様子で乱雑に突き放した。ドロシーはよろめき、壁に手をつく。


「フン、まったく強かなものだ。魔女とは全てそうなのか?」

「どうかしら。私だけかも知れないわね」


 細い腕が黒衣についた汚れをはたいた。それから、思い出したようにぽつりと呟く。


「……私、嘘をついたわ」

「正しいことだ。貴様にはウルの情報を隠匿する義務がある」

「そうね。狼は嘘を吐くのだっけ。そして羊や豚や女の子の肉でたっぷりと腹を満たす」

「流石魔女だ、良い台詞だぞ今のは」


 くつくつとバイロンは楽しげに笑った。


「探偵と出会ってしまったなら仕方がない。そのまま続けろ。貴様としては都合が良かろう。奴らなら無条件に貴様をあの化物から守ってくれるだろうよ。善良まぬけな連中だ」

「貴方たちは自分たちの利益以外は守ってなんてくれないものね。私としても彼らの方が良いわ」

「こちらは怪異の件さえ解決すればそれで良い。あんなものに彷徨かれてはおちおち悪事も出来ん。――けしてウルとの繋がりは悟られるなよ」

「ええ、解っているわ」


 ドロシーの髪が夜風に揺れる。路地の壁を這う金属パイプの上を、鼠が走り去っていった。


 ◆ ◆ ◆


 明かりのない倉庫の中で、ロイスは震えていた。

 何もかもが上手くいかなかった。仮面の女には見下され、追手までやってきた。最初は、ロイスも半信半疑だった。けれど、仮面の女の言う通りにコネリーの部下が死んだ時は、酷く興奮した。これでもう大丈夫だと、ロイスを囚える暗黒の呪縛から逃れることが出来ると――そう信じた。

 だが現実はそう上手くいかなかった。折角手に入れたモノは失われ、金をくれると言った仮面の女には今にも見放されようとしている。


「駄目だ、駄目だ、駄目だ……! このままじゃ駄目だ、俺は上手くやるんだ、また普通の生活に戻るんだ……!」


 ロイスは冷たいコンクリートの床へ額を擦り付けるほどに蹲る。折角見えたと思った未来が、また莫大な借金に潰される悪夢へと変わってゆく。金の話をする時の、奴の甚振るような笑みがちらつく。


「出来るな、クズ。アレを奪い返さなければ貴様は終わりだ。分かっているな」

「ああ、分かってる、分かってるさ」


 仮面の女の声に、ロイスは上の空で返事をした。解っている。これは幻聴だ。この場に仮面の女は居ない。ロイスの傍に居るのは、一丁の銃だけだ。浅ましくもコネリーの部下の死体から抜き取った金で買った、フロッグズ・ネストの特殊ライフル銃。


 噂にだけは聞いていた。そのライフル銃は弾もなく火薬もなく、しかして必ず人を殺すことが出来る摩訶不思議な銃だと。ロイスにはその理屈は解らない。印刷以外の機械には疎かった。けれど構わなかった。この窮地を乗り越える力でさえあれば、機械でも、魔法でも、悪魔でも構わなかった。


「リカ、もう少しだ、今度こそ本当なんだ。明日には必ずどうにかなる。待っていてくれ――」


 ロイスは家に残した妻のことを想いながら、深い眠りに落ちていった。

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