-彼岸-

十七章「残された者の悲しみ」


パシンッ。

部屋に響く平手打ちの音に私は目を見開いた。

私は自分の腹部へ刀の切っ先をあてがい、そのまま力を込めて腹を貫くつもりだった。

しかし、そこへ駆けつけたお姉さまと霧ノ助によって阻止されてしまった。

刀は霧ノ助に取り上げられ、その代わりにお姉さまの怒りを頬に強く受けた。


「凪...何馬鹿なことをかんがえているの...あなたは、あなたはどうして...」


お姉さまの静かな怒りを感じ、私は虚ろな瞳で彼女を見つめる。

真っ赤に染まった顔。瞳には大粒の涙を溜め、目尻は赤く腫れ上がっている。

そこで私はやっと我に返った。

自分のしようとしていることの過ちを、自分と同じ気持ちをお姉さまや霧ノ助に味合わせることを、それがどれだけ人を傷つける行為なのか、私はよくわかっているはずなのに。


「鈴蘭、一度落ち着こう...」


「...大丈夫。私は落ち着いているわ」


霧ノ助はお姉さまの隣へ腰かけ、お姉さまは先と変わらず私の目をじっと見つめている。

私は何も言えず黙り、そして俯いた。

胸を酷く締め付ける行き場のない感情は私を苦しめる。そしてそれは皆を苦しめる。

負の連鎖となって人は落ちていくのだろう。

辻を失った私に、私は存在しておらず、誰からの愛情も受け付けることはできなかった。


「凪......ごめん、ごめんねっ...私の、せいで......」


怒りを露にしていたお姉さまは次に涙を零し、私の胸にしがみついた。

どうしたらいいのかわからず、私はただそんなお姉さまを見つめることしかできない。

霧ノ助も、私達に掛ける言葉が見つからない様子で、暫く黙り続け、次第に彼も顔を背けてしまう。


お姉さまのせいではない。

これは私の責任であり、私の問題だ。

しかし、今はそれを彼女に伝える気力すらなかった。

ぽっかり空いた胸にあるのは辻を失った悲しみと、絶望。

一体どうすればこの苦しみから解放されるのか、全く分からない。

助けて、と声を張り上げて叫びたい衝動に駆られるも、私の喉から洩れるのは嗚咽のような掠れた空気のみ。

もうこのまま全てを捨てて消えてしまいたい。

それすらも叶わぬのなら、いっそ壊れてしまえればいいのに。


「...凪、声が」


「......っ、な、ぎ...、ごめんね、ごめん...」


そんなに謝らないで。

そう伝えたいのに、私は悲しみに明け暮れる姉を慰めることもできない無力な人間だ。

大事な人一人守れぬ弱者だ。

謝られれば謝られる程、虚しくなってしまう。


「...鈴蘭、君は凪の傍にいてやってくれ。僕は巫女様の元へ行ってくる。あの方なら凪をなんとかしてくれるだろうし...頼んだよ」


「...えぇ、ありがとう...ごめんなさい」


霧ノ助は羽織を着て部屋を出て行った。

それからしばらくは沈黙が続いていたこの部屋も、再びお姉さまの啜り泣く声だけが響き、私は思考もままならぬまま、お姉さまの頭を撫でることしかできなかった。


空っぽの心に私はいない。

私は死んだ。

あの日、辻と共に私の心は壊された。

ここにいるのはもはや私ではない。

私の抜け殻だけがここにいる。


皆はどうして抜け殻の私を見て涙を見せてくれるのだろう。

もう私は私じゃないのに。

どうして私の抜け殻を凪と呼ぶのだろう。

わからない。

わからない。

わからないよ。


辻に、会いたいな。


「...凪、私は...貴方を守るつもりで、貴方を殺してしまった。貴方の心を、殺してしまった。ごめんなさい。私のことは恨んでもいい...だから、いつもの凪に...戻ってよ...」


その時のお姉さまはまるで子供のように駄々を捏ね、泣きじゃくっていた。

お姉さまのこんな顔は今まで一度も見たことがない。


「......なぎ、なぎ...っ...」


「......かない...ね...さま......」


私は枯れ切った声で必死に伝える。

誰もあなたのことは恨んでいないと、誰もあなたを責めてはいないと。

これは全て、私が村の掟を破ったために降り注いだ不幸なのだから。


「......なぎ、私は、私は...もうずっと貴方の傍にいる...だから、自分を殺めようなんてこと...もうしないでっ...」


「......かった...やく...く...する...」


涙でぐしゃぐしゃになったお姉さまの頬を撫で、精一杯の笑顔を作った。

もちろん、守れるかどうかもわからぬ約束だ。

それでも、今だけでも彼女が安心してくれるなら、それでいい。


私は胸に罪悪感を覚えながら、虚ろにただただ泣き喚くお姉さまを抱きしめる。


そんな私達の前に、お母様を連れて霧ノ助がやってきた。

お母様は相も変わらずのんびりとした歩みで、さもいつも変わらず穏やかな表情で私達を見据えていた。


「...霧ノ助と結婚させても尚、隠し通せないなんて...神様は薄情ね」


お母様が発した一言に私を除いた誰もが痛い表情を浮かべた。

お母様は私の隣へと寄り添い、私達姉妹を包み込むように抱き寄せる。久しぶりに感じる母親の抱擁は、私の心に空いた穴をほんの少し埋めるように、暖かく、とても優しかった。


「凪、鈴蘭。いつも肝心な時に傍にいてやれなくてごめんね。私は母親失格だ...貴方たちの悲しみを取り除いてやることすら私にはできないんだからね...」


「...お母様は、なにも...何も悪くないです...凪を守ると誓った私が全て悪いんです...私が、私が......」


「鈴蘭。あなたは何も悪くないわ。これはすべて私の責任。凪も鈴蘭も、あなたたちはよくやったわ。しばらくはお母さんに任せて、あなたたちは休みなさい」


お母様の一言は不思議にも眠りを誘い、気が付けば私達はいつの間にかお母様の腕に抱かれながら眠っていた。


それから目が覚めたのは翌日の夕方頃で、お姉さまと寄り添うように眠っていた布団は未だ暖かった。


「凪...、おはよう」


「...お姉さま、おはよう...」


昨日は散々枯れてしまっていた私の声もだいぶ良くなっており、その声を聴いたお姉さまは酷く安心したようで、久々にやさしい微笑みを見せてくれた。

しかし、私の体は未だ思ったようには動かず、立ち上がることもままならない。

肉体的ダメージは一切なかったはずなのに、体はちっとも言うことを聞かなかった。


「...あなたも疲れているのよ。しばらく家のことは私がやるから、あなたはもう少し休みなさい」


お姉さまは布団から立ち上がり、私に変わらず笑みを送りながら布団を片付ける。

その姿を眺めながらもう二度とこの部屋に訪れることのない辻の寝顔を思い出していた。

あの子と過ごした日々は夢のように輝いていた。

しかし、どれだけ夢を望めど、現実は変わらない。夢に縋り、自分を見失えば今よりもっと大切な人を失う。

立ち直るのにはまだ時間がかかる。胸に空いた穴は二度と埋まることはないだろう。それでも、私はお姉さまやお母様、霧ノ助のために笑って生きようと、そう思った。

いつか再び、辻と出会うことができるかもしれない。そのときは、いろんな話をしよう。

また、盃でも交わしながら、ね。


気づけば再び微睡みに酔い、翌日まで目を覚ますことはなかった。

お姉さま曰く、安らげな表情を浮かべたまま、死んだように眠っていたらしい。

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