第61話 不審者

 夕焼け空が真っ赤で綺麗――

土手から転がり落ちたはずなのに、硬く閉じたまぶた越しの光に、ゆりかは呑気にそう感じていた。


 「君たち、大丈夫!?」

突如頭の上から声がし、ゆりかが見上げると、一人の男性が立っていた。

逆光で顔がよくわからないが、長髪で髭を生やした眼鏡の男性というのはわかった。


 「だ、大丈夫です……」

起き上がろうとすると、悠希がゆりかの下敷きになる形で転がっている。

「あいたた……」

「悠希君?!大丈夫?!」

「ゆりかが重かった……」


 !!!!!

思わずそばにあった悠希の足をペチンを叩いてしまうと、悠希が「いてっ」と眉を顰めながら声を出した。

「そんな痛くないでしょ!」

ゆりかはぷんすか怒りながら悠希をにらみつける。

悠希が「いや、そうじゃなくて……」と本当に痛そうに顔を歪めながら、ジャージの裾を捲り上げた。

すると、現れたのは赤く晴れ上がった足首だった。


 「ああ、これは捻挫してるかもしれないな」

足首を見た瞬間に男性が声を発する。

ゆりかは悠希の足首と男性を何度も見返した。


 その男はとても普通とは言い難い風貌をしていた。

日焼けした肌に、乱雑に束ねられた長い髪。

目の下には濃いクマ、無精髭と眼鏡のせいか、その顔は年齢不詳に感じられた。

しかし浮浪者にしては着ているものはしっかりしている。

特に腕時計は高そうなものを付けているのがわかった。


 「ちょっと失礼」

男性はゆりかたちの隣に座り、悠希の足を触ろうとしたので、一瞬ゆりかは変態ではないかと警戒し、身構えてしまった。

悠希も同様に思ったのか一瞬身を硬くしたのが、ゆりかにもわかった。

ゆりかの色眼鏡を掛けなくても、世間一般から見たら、悠希は綺麗な顔をした美少年である。

この男が悠希にイタズラを働いたら、ゆりかは大声を出し助けを呼ぼうと思っていた。

小さい頃から悠希を知るゆりかとしては、元母親としての母性から守らなければいけない対象のように一応感じていた。


 男は悠希の靴の上から足を掴み、足首を動かす。

「これ大丈夫?」

「っ!」

痛みで悠希の顔が歪む。

「うーん、動かせるから多分捻挫だと思うけど……もしもっと腫れるようだったら、病院でレントゲン撮ってもらった方がいい」


 「お嬢様!お坊っちゃま!」

狩野たちが土手から駆け下り、駆け寄ってくる。

「お嬢様?お坊っちゃま?」

男性が不思議そうにゆりかと悠希を見た。


 まあ、普通、お嬢様、お坊っちゃまなんて呼ばれている人間が居たら、びっくりするだろう。

前世、一般庶民だった自分なら、間違いなく二度見しているはずだ。


 「お二人とも大丈夫ですか?!」

狩野たちが血相を変えて、ゆりかたちの元へやってくると、悠希の護衛の人が声をあげる。

「お坊っちゃま、足首が腫れてるじゃないですか!」

「騒ぐな。さっきそこの人も言ってたが、多分捻挫だと思う」

悠希が騒ぐ護衛を窘めると、皆が男に注目する。


 「こちらの方は?」

ゆりかの前にさっと手が出てきたかと思うと、狩野の身体が立ちはだかり、ゆりかを守りながら訊ねる。

どこからどう見ても不審者としか言いようのない風貌の男に、狩野が警戒してもおかしくない。

ゆりかにもよくわからない人物を前に、なんて言おうか考えていると、その人物が頭を掻きながらおもむろに口を開く。

「……ああ、別に不審者じゃないですよ」


 「えっ!」

ゆりかが素っ頓狂な声を上げると、男と目が合ってしまい、慌てて口を押さえた。

しまった!

思わず声が出てしまった…。


 「よく職質されるんだよな。この身なりだから」


 だったらやめればいいのに。

ゆりかの喉まで出かかったものの、初対面で言うのは失礼かと、敢えて口には出さずになんとか言いとどまった。


 「夜勤明けで帰り損ねて、昨日のままなんだ」

男が無精髭撫でると、ジョリジョリと痛そうな音がした。


 ゆりかの父はそんなに髭が濃くない。

メンズエステでも行っているのか。

漫画の世界から飛び出てきたような優男風な父と髭面は無縁で、前世で見て以来のジョリジョリ髭に食い入るように見つめてしまう。


 そういえば、司はよくジョリジョリしていた。

毎朝、髭を剃っているせいで、肌荒れをして嫌だからと、土日は髭剃りをしない。

土日の司の顎はジョリジョリ痛くて、子供たちは司からのジョリジョリ攻撃を嫌がっていた。

でもそんなジョリジョリした司の顎を、ゆりかは触るのが楽しくて――――


 「夜勤明けですか?」

狩野が男に尋ねるその声にゆりかははっとし、現実に引き戻される。

「ええ、これでも一応医師をしてま……」

「えっ!」

またもや驚きから声を出してしまったゆりかは慌てて再び口を押さえた。

「……失礼しました。ちょっと意外で。ほほほ」


 まさか医者だったとは……。

人は見かけによらず……とは正しくこのことね。


 「通りで手馴れた感じだった訳だ」

悠希が納得したかのように呟くと、男が首を横に振る。

「いや、専門は心臓外科だから捻挫は専門外。

緊急時はなんでも診てはいるけど、異常があればすぐに専門の科に行った方がいい」


 「心臓外科ということは……失礼ですが、そこの総合病院ですか?」

狩野が少し考えながら質問をする。

心臓外科なんて科はこの辺りにある病院では限られている。

あるとすれば、今いる土手の近くにある総合病院くらいだった。

「ええ、そこで働いてます」


 あら?そういえば確かすぐそこの病院ってアレよね。

確か高円寺家が懇意にしているお医者様の病院。

院長先生が高円寺家お抱えの医師なのだ。


 「あそこは……うちが懇意にしている院長の病院ね」

「そうですね」

「あの医者か?図書館での一件のときの」

「そうそう、そのお医者さま」


 そんなゆりかたち会話に男が反応する。

「うちの院長の知り合い?」

「知り合いというか、我が家のお抱え医師というか。

なにかあったときはいつも来てもらうんです」

「へえー……うちの院長がお抱え医師とは。

それはそれは……」

男が何かを考えるかのように顎をさすりながら呟く。


 その時、今までやりとりを伺っていた悠希の護衛が「さあ、そろそろ日が沈んで来ます。

お坊っちゃまはお怪我なさっているのだから、早くお屋敷にもどりましょう」と、悠希を気遣うかのように声をかける。

ふと周りを見渡すと、夕日がだいぶ沈んできてあたりが暗くなろうとしている。


 「ああ、わかった」

護衛の言葉に悠希が返事をすると、側に寄り添っていた護衛の肩を借りて立ち上がる。

しかし悠希は足首が痛いのか、眉を顰めて、一瞬よろけた。

「……っ!」

咄嗟にゆりかも悠希のもう片側の腕を掴んで、悠希の腕を自分の肩を回す。

そしてひらりと悠希の傍らに回り込んだ。

「悠希君、大丈夫?」


 自分がさせてしまった怪我だ。

責任は感じていた。


 心配気なゆりかに悠希の目が見開く。

「悠希君?」

ゆりかが不思議そうに悠希を見つめると、悠希ははっとしたように「……あ、いや、なんでもない」と、ゆりかから視線を逸らし、数秒間をあけて、今度はいつも通り、いや、いつもよりもしっかりした表情で男性の方を見直した。


 その顔は社交場で見る和田財閥の御曹司、『和田悠希』の顔となっていた。

悠希が悠希でないような、大人な顔をした悠希。

突然スイッチがオンになる。

そんな悠希に不思議な感覚を覚えながら、ゆりかは見いってしまう。


 「助けていただいて、ありがとうこざいます。

今度礼に伺います」

礼儀正しく頭を下げた悠希に男は驚いたように顔をしつつ、「お礼なんて大層なことしてないから」と断った。

そして「そろそろ、私も行きますね」と男は軽く会釈をし、数歩歩き出す。

しかしその歩みは数歩で止まり、「そうだ」と、ふと思い返したように振り返った。


 「もし、異常があったら、病院を訪ねてください。

責任持って他の医師を紹介しますよ。

ま、院長の知り合いなら、必要ないかもですが」


 男の言葉と同時に、少し強い風が吹く。

男の長い髪がなびき、顔の周りの束きれず顔を隠していた髪が舞う。

その瞬間、ゆりかの目にイタズラ気に口端を少し上げて笑う男の顔が映る。

そのイタズラっ子のような表情に、今度はゆりかが目を奪われた。


 ドクンと心臓が大きく鳴った。


 記憶の中のある人物の顔とかぶる。


 ――え……?


 「そういえば、名前を伺っても?」

ゆりかの横の悠希がたずねる。


 ゆりかの心臓がドクンドクンと鳴り、次第に口が渇いていく。

大きな目をさらに大きくし、男をじっと見つめる。


 この男はゆりかの頭に思い浮かぶ人間の姿とは全く違う。


 ―――こんな無精髭を生やして、眼鏡で、ロン毛で、浅黒くて、目の下に濃いくまを作ったこんな不審者まがいな医者は知らない。

まさかこんなことあるわけない……。


 男が上げていた口元をふっと緩ませる。

そしてゆりかがまさかと思っていた名を口にした。


 「真島です」と――――――


 ゆりかが呆然とする中、真島と名乗る男はそのまま前を向き、颯爽と歩いてその場を去っていってしまった。

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