第60話 ジョギング
「はぁ、はぁ……」
夕暮れ時、学校近く川沿いの土手をゆりかは走っていた。
どうして私はこんなことをしているんだ。
朦朧とする頭の中で今の状況に至った経緯を振り返る。
終礼が終ったとともに悠希が教室のドアの前に現れ、ゆりかが逃げないようにとそのまま家まで連行されて、着替え終わるとすぐさまこの河川敷にやってきた。
入念な準備運動の後、走りだしたのだが……かれこれ2キロは過ぎたところだろうか。
悠希のペースに合わせて走ってきたせいもあり、さすがにしんどくなってきたところだった。
呼吸をするのが苦しくて、呼吸のリズムがわからない。
「も、もう……だめ……」
「まだ2キロちょっとしか走ってないぞ」
隣で歩調を合わせて走る悠希の顔からは余裕がうかがえ、このジョギングにゆりかを半ば無理やり参加させた当事者である悠希を恨みがましい目で見てしまう。
本当は文句をたくさん言ってやりたかったが言葉が出てこない。
もはや口から出てくるのはゼーハーゼーハーという荒い呼吸だけだった。
「……肺が……痛い……もう無理……」
そう言いながらゆりかは足を止めようとすると、悠希がゆりかの腕を掴む。
「いきなり止まるな。
しばらく歩いてから止まるんだ」
「っはぁ~……」
悠希に腕を引かれ、ゆりかが深く吐きながら歩き出すと、ゆりかたちの後ろにいた集団も足を止めて、ぞろぞろとゆっくりと歩きだした。
そう、ゆりかと悠希の後ろにはぞろぞろとお供が付いていた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
お供の中の一人である狩野が声をかけてきた。
さすがに狩野はゆりか専属の護衛も兼ねているだけあって、齢四十にしても息切れひとつしていない。
「狩野、余裕ね……」
「そりゃあ、お嬢様をお守りする為に毎朝走ってますから」
「毎朝?」
「ええ、朝5時半からお屋敷の周りを走ってますよ。
ちなみに隼人御坊ちゃまもその時間に一緒に走っているんですよ」
そういえば、よく兄が朝早くにランニングから帰ってくる姿は見ていた。
朝日が差し込む屋敷の廊下をタオルで汗を拭きながら歩く兄の姿がやたらキラキラ眩しくて、さすが攻略対象者と言わんばかりのオーラをまとっていた。
さらに、その姿が妙に艶めかしいのだ。
思わずドキリとしてしまったのは胸の中にしまっておく。
これはおばちゃん的女の勘かな〜。
お兄様は何かあったのだろうか。
いや、ヒロインと対面するまでになにかあるわけもないな。
でもあの外面良くてイケメン兄様がなにもないのもおかしい…………ま、自分より5歳も年上なんだし、色々あるよね!うん、そうゆうことにしとこう!
自由恋愛!付き合った女性が何人かいようが問題なし!
……あれ?でもお兄様って許婚いなかったか?
私は会ったことがないけど、確かいたような……ま、いっか。今度聞いてみよっと。
「じゃあ、狩野はこれから二度も走ることになるのか。
大変だったら、うちの護衛だけでもいいぞ」
悠希の声にゆりかははっとして、スウェット姿の狩野を再度見つめる。
よくよく見ればスウェットの上からでも引き締まった身体をしているのがわかるが、ぱっと見は中肉中背の普通の中年男性といった風貌の狩野に、ゆりかも思わず心配の声をかけてしまう。
「狩野、無理しなくていいのよ」
「いえ、私はちっとも大変じゃないし、無理もしてないですよ。
ジョギングなら10キロくらいは若い頃から毎日走ってますから」
「毎日10キロ?!」
ゆりかがあんぐりしていると、悠希も「俺と貴也も土日の朝はジムで5キロ一緒に走ってるぞ」とさらっと言ってきた。
なんですと?みんなジョギングブームなの?
あ、そもそも悠希君が誘ってきたから、彼のブーム?
「そうだ!だったら、悠希君は貴也君と走ったらいいじゃない。
私は狩野とお兄様と一緒に家の周りを走るわ。
そしたらみんなに迷惑掛けなくていいわね」
名案とばかりに、ゆりかが顔の横で人差し指を立ててニコリと笑うと、悠希が眉を顰めた。
「隼人さんの足を引っ張っるだけだろ」
「お兄様はなんだかんだで付き合ってくれるもの!」
「隼人さんの優しさに甘えるんじゃない」
「お兄様に甘えてなにがいけないのよ」
そうだ。兄妹の仲が良くて何が悪い。
仲が良いことは美しきことじゃない。
「ほら、隼人さんだってお前の世話ばかりしてられないだろ。色々付き合いもあるだろうし……ごにょごにょ」
「ちょっと!そのごにょごにょはなに?!」
まさかまさかお兄様の付き合ってる女性を知ってるの?
艶っぽさの理由を?!
家族の私が知らないのに?!
「お兄様がどなたかとお付き合いしているのを知ってるの?」
「ん?ああ……」
悠希が頬を掻く。
うひゃ!知ってる?!
「いや、知ってるっていうか………って、あー!もう!俺が言いたいのは、そうじゃなくて!」
悠希がずい近づき、ゆりかの顔の前に寄る。
「な、なんですか?」
「……ゆりかは隼人さんじゃなくて、俺に甘えろよ。
許婚なんだから。」
ん?
悠希の言葉にゆりかは一瞬動きを止める。
そのゆりかの反応に悠希が顔を背けて片手で顔を隠すが、恥ずかしいのか耳が赤くなっていた。
ゆりかの視界の端で狩野達護衛が空気を察したように、そろそろと二人から距離を開けていく。
ゆりかも面白がって悠希の顔をもっと見てやろうと覗きこむと、指の隙間から目が合った。
「こっち見るなよ。今ものすごくかっこ悪い」
「うふふ。可愛いわよ」
小鳥がさえずりのようなゆりかの含みを持った楽しそうな声。
その声から紡ぎ出された『可愛い』という言葉に、悠希は眉を顰めてあからさまに嫌そうな顔をする。
「それは馬鹿にしてるのか?」
ああ、そういえば可愛いはダメなんだっけ。
ふと昔、幼稚園時代に悠希に可愛いと言った時のことを思い出し、ゆりかは目を細める。
「小さい頃から変わらないわね。
可愛いは褒め言葉よ。ふふ」
楽しそうなゆりかに対し、ゆりかの言葉に悠希の顔は真顔に変わっていく。
「……ゆりかは俺のことそう思ってるかもしれないけど……変わったぞ、お互い」
悠希の顔を覆っていたはずの手がゆりかの顔に向かって伸びてくると、顔周りの髪に触れ、指で優しく掻きあげられる。
それに驚いたゆりかは一瞬目をぱちくりさせ、小首を傾げる。
「変わった?」
「変わった」
……どこが?
「背だって伸びたし、俺は声だって変わったし」
たしかに見た目はお互い変わったったな。うん。
中身は……人生経験が増えた分、さらにおばさん化したかも。
「ゆりかは……女になった」
ぶはっ!
悠希の言葉に驚き思わず吹きだしそうになるのをなんとか思い留まると同時に、ゆりかは自分の身体を守るかのように身体を抱きしめる。
「な、な、な、なにを急に……!」
女?!
おんな?!
何を言ってるのこの子!
てか、なんでそんな目で見てるの?!
確かに以前よりふっくらしてきた胸や、少し前から始まった生理で、ゆりかにも大人の女性に近づいてきた自覚はあった。
だが、悠希に異性として見られていたのかと思うと、急に何とも言えない恥ずかしさがこみあげてきた。
髪に触れていた悠希の手を振り払い、じりじりとゆりかは後退っていくと、悠希が顔色を変えて慌てたように訂正をする。
「いや、違うんだ!言い方がまずかった…………って、ちょっと待て!危ない!」
「え?なにが……ひゃっ!!」
「お嬢様!」
足が石か何かにぶつかったと思うと、途端に視界が傾き、身体が宙を浮く。
スローモーションのように悠希の手が延ばされ腕をつかまれたと思った次の瞬間、身体が草ムラの中に放り出され、ごろごろごろと二人で土手を転がっていった。
まるで漫画のように……。
「お嬢さま!!お坊ちゃま!!」
狩野をはじめとした護衛たちが叫ぶ声が聞こえる。
気付いたときには仰向けになり、夕焼け空を見上げていた。
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