第80話寄り道2

 初めて殺した相手がダッチワイフだったというひーとんの落とし噺は、その情景を思い浮かべると凄くシュールで、後から後から沸々と笑いを彷彿させていた。この子にはギャグじゃ勝てない、俺は笑いで彼に挑むのは止しておく事にする。

 しかし、いくら面白い話とは言え、中々の下ネタをぶっ込みやがったので、あんずのレスポンスが気になった。今の話の説明をせがまれたら何て答えればいいのだろう。ダッチワイフとかマスターベーションとか、あんずにはまだ早すぎる、っていうか知らなくていい事だ。そんな俺の心配を他所に、彼女は車窓から見える景色にゾッコンだった。俺の焦燥は杞憂なものに終わった。


「今ちゃんはどうなの?氏家が言うには、俺なんかより面白い人生を送ってるらしいじゃん」


 ダボハゼのヤツ、余計な事言いやがって。と思いはしたが、詳しくは教えてないみたいなので、セーフって事にしといてやる。

 確かに俺の半生は、あまり類を見ないくらいはドラマチックかも知れない。だけど、聞いてて面白いかと問われれば、否定せざるを得ない内容だ。それでも、自分のプロローグを語ってくれたひーとんには、俺の話を聞く権利がある。仕方ないので自分語りをする前に、一つだけ了承を彼から得る事にする。


「話してもええけど、多分ビミョーな空気になるよ?」


 それでも聞かせて欲しいと言う彼に、手水政策を受けるまでの事を、静かに語り始めた。


 俺は至って平凡な家庭に生まれた。親父は大工の家系の出自だったせいか、若くして一級建築士の資格を取り、大手ゼネコンに勤めていた。料理が得意なお袋と、少し歳の離れた兄貴を持ち、俺は何不自由なく円満な家族の元、幸せに暮らす…はずだった。

 歯車が狂い始めたのは、俺がまだ物心のつく前だ。親父が突然姿をくらましたのだ。借金があるとか、仕事でミスをしたとか、そんな在り来たりな原因はなく、失踪した理由は今でも分かっていない。捜索願も出したし、尋ね人のビラも撒いたりしたが、結局梨の礫だったそうだ。

 何の進展もないまま時は過ぎ、失踪から7年経ったある日、親父の親類から『死亡届』を出すようゴネられた。勤勉で真面目な性格だった親父は、その当時でもある程度の貯えを残してくれていた。親父の死亡を承認すれば、その遺産は親父の兄弟にも分配される。それがヤツらの目的だった。しかしお袋は首を縦に振らなかった。いつか必ず親父は帰ってくると信じていたからだ。

 丁度その頃、高校受験を控えていた兄貴は、大学までエスカレーターで上がれる有名私立を目指していた。学費は少し嵩むが、良い学校に入り良い会社に勤めれば、俺やお袋を養っていけるという考えからの選択だった。そんな理由もあって、親父の死亡届を出すワケにはいかなかったのだ。

 それに業を煮やした親父の親類は、あの手この手を使ってありとあらゆる嫌がらせを始めた。俺たちの親族を名乗りながら宗教団体を装い近所で悪質な勧誘をしたり、兄貴の通う学校や塾に出向き大きな音を鳴らして授業を妨害したり、ウチの玄関の前に小動物の死体を置いたりなんてのもザラにあった。そこまでして金が欲しいのか、と俺は呆れていたのだが、兄貴の方は深刻なダメージを受けていた。元から気丈ではない兄貴は、完全にノイローゼに罹っていたのだ。そんな兄貴の受験が成功するワケなく、滑り止めの学校にすら受からない悲惨な状況に陥った。

 弟の俺が言うのも何だが、兄貴は要領の悪い人だった。別に公立の高校からだって就職口はいくらでもあるし、兄貴が働かずとも慎ましく生活する分には親父の貯えもある。お袋もパートに出てたし。そんなに悲観しなくとも、なるようになるだろうと子供ながらに考えていた俺とは違い、受験に失敗した兄貴は自らを絶望の淵に追いやっていたのだ。

 結局兄貴は中学の卒業式を待たずして、自ら命を絶った。俺が小学4年生の頃だ。俺は何が起こったか分からなかった。昨日まで一緒に生活していた兄貴が、物言わぬ屍となってしまった事を受け入れられず、『きっと何かの間違いだ、しばらくすれば兄貴は目を覚ます…』そんな風に考えていた。分別のつかないジャリガキの願いなど誰も聞き入れてはくれず、兄貴は小さな壺に収まってしまった。俺は『死』というものが身近に充満している事実を甚く痛感した。学校の同級生も先生も、近所のおじちゃんおばちゃんも、お袋も、俺でさえも、死の毒牙に常に狙われているのだと…。

 兄貴の四十九日も終わり、日常を取り戻しつつあった俺だったが、世界はどこか色を失った様に思えた。兄貴が死んでしまったにも関わらず、世界は何の変化もなくグルグル回っている。俺の身に起こった一大事を気にも留めない世界が、酷く薄情なものに感じられたのだ。

 ほんの子供だった俺は、自分の精神を平穏に保つのに必死で、目を離してはいけない存在にすら気づいていなかった。愛する夫と大事な長男を失ったお袋は、俺なんかよりもよっぽど心に傷を負っていたのだ。普段は見せない傷の痛みは夜になると疼き出すらしく、その痛みを堪えるお袋の泣き声を、俺は聞こえないフリで誤魔化した。

 そんな俺の愚行を、神さまとやらは見ていたのか、俺に再び処罰が下る事になる。傷口からの腐食が精神全てに行き渡り、お袋は兄貴の後を追いかけて行った。俺という存在だけでは、彼女をこの世界に繋ぎ止めておく事が出来なかったのだ。

 俺は何か悪い事をしたのだろうか。もし俺に落ち度があるなら、何がいけなかったのか教えてくれ。そして、できる事ならもう一度やり直させてくれ。何だってするから。お願いだから…、お願いします…。

 声にならない俺の悲痛な叫びは誰の耳にも届かずに、相変わらず知らんぷりでグルグル回る世界の上で、俺はタガが外れてしまった。道徳も善悪も常識も宗教観ですらも、俺にとっては何の価値もないものになってしまったのだが、不思議と自ら死を選ぶ事はしなかった。何もしてくれないこの世界で、何とかしなきゃ、と考えていたのだ。俺は中学には上がらず、親父が大工の家系だったって理由だけで、大工の職業訓練校に入学した。

 俺は特殊なケースだが、人口削減が公に行われている時代では、孤児になる子供は珍しくなかった。そういう子供たちに手に職を付させようと、有志で開かれる職校がいくつもあったのだ。俺は一人で生きていく事を決心し、残された親父の貯えも全て親類に叩きつけてやった。その代り二度と俺に関わるな、と念を押して。

 職校で紹介されているアルバイトで食い繋ぐ事もできたが、俺は博打に嵌り、金を得ていた。そっちの方が手っ取り早いし、何より楽しかったからだ。宵越しの銭は持たねぇっていう江戸っ子みたいな綱渡り生活の中で、俺は生きる活力が沸いていた。大工としての腕前もグングン身に着いて、何処かの工務店に就職でもするか、なんて思い始めた頃、俺宛てに一通の通知が届いた。『手水政策当選のお知らせ』だ。


「それらしい綺麗文句で、『拒否権はねぇぞ』って書いてあったもんで、取りあえず説明だけでも聞いとくかぁ、って思っとったらいつの間にか施行する日取りまで決まっとってよぉ。まぁ、いつでも死ねる覚悟だけはできとったで、抵抗も戸惑いもなかったなぁ」


 俺の身の上話を、ひーとんは少し悲しげな真顔できいていた。ほらみろ、ビミョーな空気になったじゃねーか。彼の反応は、想定の範囲内だったので良しとして、俺はあんずの方が気がかりだった。俺の話を理解できるとは思わないが、勘のいい彼女には内容のニュアンスが伝わってしまうんじゃないか、とヒヤヒヤしていた。あんずとはシリアスなムードになりたくないのだ。

 またもや俺の心配を他所に、車窓から見える景色に何かを感じ取ったあんずは、俺とひーとんの間に流れるビミョーな空気を、明るい声で切り裂いてくれた。


「たくちゃーんッ!もうすぐハクトちゃんのおうちですよーッッ!」

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