サンクチュアリ

「お母さん、どうしたの?」

「ああ、あのね、アレが、ほら、アレアレアレが」

「アレ?」

 部屋のなかを女性が忙しなく歩き廻っている。緩くウエーブをかけた淡いブラウンの髪に整った目鼻立ち、美しい人だがどこか虚ろな目をしている。地味でもなく派手でもないパープルのスカーフが彼女の人柄を現わしていた。

「あれじゃわからないよ、お母さん落ち着いて。ほら、息を吸って、吐いて」

「だからほら、ええと、アレよアレッ」縋るように見つめてくる。

 ジッ、と見据えされ後ずさる。そう言われても、アレじゃわかるはずもない。

「お兄様」と背後から声がした。「お母さん、お薬を飲んでいなかったかもしれません」

「あ、薬か」会得する。プラスチックの薬箱を確認すると、やはり数が減っていなかった。

「薬だったんだね。ほら、もう大丈夫だよ。飲んで、落ち着いて。出かけるんでしょう?」

「だめ、だめだめだめよ。だめだと思う。それ効かないんだもの、ねぇ、どうしよう、どうしたら」

「だいじょうぶだよ」背中をさすってやる。「お医者さんが出して下さったものなんだから。それにこれまでだって大丈夫だったでしょ。ほら、落ち着いて、息を吸って、吐いて。今夜はパーティーに行くんだったね。そうだね、やっぱり今夜はおうちにいるようにしようか。仕方ないよ、体調が悪いんだから。うん、きっと皆さんもわかって下さるから。心配ないよ。うん、じゃあ僕の方から村山さんに電話しておくね。うん、うん、大丈夫だって、お父さんだってわかってくれるから。まったくもう……薬は飲んだね、うん、えらいえらい。じゃあベッドに横になって、僕とチコは行くからね。それじゃあおやすみお母さん、いい夢を――」


     *


 硬く閉ざされた扉の前で立ち止まる。

 目を閉じ、深呼吸をし、脈打つ心臓を鎮める。

 …………。

 しばしの間の後、ノックをした。

「入れ」

 目を開き、扉を開ける。

「失礼します」

「なんだ、忙しいから手短に言え」ぶしつけな声が飛ぶ。書類から目も話さずに言い放った。

 部屋を見廻す。四方の壁は本で覆われ、部屋の中心には大理石の机が置かれている。今も父はそこで仕事をしていた。

 悪趣味な部屋だ。どうして机が大理石なのだろうか。引き出しもないし、木の机のほうが機能的で美しいのに。

「何を呆けている。二度言わせるな、何の用だ」

 あ、はい。と姿勢を正す。

「実は、お母さんの状態がまた思わしくないんです。先程も少し取り乱してしまって、部屋のなかをぐちゃぐちゃにしてしまいました。今日のパーティーにも行けそうにないので寝かし付けたところです」

「またか」ギイィ、と椅子が鳴る。背もたれに体をあずけ眼鏡を外した。

「薬は、飲ませたのか」

「はい、飲ませました。ただ、本人は飲んでも効き目がないと言っています」

「まったく、また病院を変えるかあのヤブが」深く息を吐く。

「いえ、薬は効いていると思います。飲んでからしばらくは落ち着きますし、それに、あの、お、お医者さまがどうこうといった話ではないと思うんです」

「じゃあなんだ」

「それは……」口籠もる。

 父は無表情にこちらを見ている。

 ぎゅっと拳を作り、震える膝を足指に力を込めて抑え付ける。

 唇を噛み、もういちど視線を捉えた。

「生意気を言うようですが、もっとお父さんがお母さんの傍にいてあげられれば、結果も違うのではないかと、そう考えます。きっといい方に向かうと思うんです」

「ほう」父は体を前に倒し、机に肘を突いた。「それがお前の意見か。この家の長男としての意見なんだな」

「はい」

「そうか」

「…………」

「…………」

 沈黙が降りる。

「あ、あの」

「なんだ」

「い、いえ」どっと汗が噴き出している。沈黙が重い。

 額を拭う。

「とにかく、お前の意見はわかった。もういいぞ」

「…………」

「なんだ、まだ何かあるのか」

 いいえ、小さく呟いて部屋を後にした。


     *

 

 廊下を歩む。汗でシャツが張り付いている。

 と、上階から女性が降りて来た。洗濯物の籠を抱えている。

「坊ちゃん」トントントンと階段を降りてくる。「そんなしょげた顔をして、どうしたんです?」

「坊ちゃんはやめてよ、こそばゆいよ」

 苦笑して返すと女中も笑った。

「本当のことなのに。ねぇカラスくん」

 カラスと呼ばれた少年ははにかむ。彼は名前を呼ばれるとどうにもこそばゆくなってしまう。産みの母が付けてくれたものなのだと聞かされている。父ではない、母なのだ。大切な名だ。

「ふむん、また旦那さまと喧嘩したな」

「まあ、ね」

 さすがに鋭い。

 女中はやれやれと首を振りガクッとうなだれるフリをして見せた。子どもっぽい仕草だが、心が暖かくなるのを感じる。

 彼女の名は楓という。年の頃は三十代前半で、この家で雇っている唯一の女中だ。

 いつも英国風の給仕服をヒラヒラと靡かせて歩いている。

「ん? どうしたの、じっと見つめてきたりして」

「見てないよ」

「あ、ははーん。この服に見とれてたんでしょう? 気が付いちゃったか、新調したんだよ、これ」クルリと回ってみせる。スカートがめくれて黒のニーソックスが覗いた。

 正直なところ微塵も気が付いていなかったが、期待を裏切るのも悪いと思い頷いてやった。ほころんで「よっし!」とガッツポーズを決めた。 

 しかし英国風の給仕服を着ているといっても、特に決まりがあるわけでもない。彼女は自発的にこの格好をしていた。

「だってこんな立派なお屋敷なんだもの、せっかくだし満喫したいじゃない」

 というのは彼女お決まりの弁だが、その為だけにいくら費やしているのか、なにはともあれ、その執着には頭が下がる思いだ。

 変わったひとだが、楓の存在がこの家にあって救いとなっているのは間違いなかった。

 この家は、暗すぎる。

「で、今回の発端は?」楓がズイと近づいた。

 カラスは説明した。

 母の状態、父への説明、その返答。

「そっかぁ」洗濯物の籠を降ろし階段に腰を降ろした。

 手招きをされカラスも隣に腰を降ろす。

「難しい問題だよね。でもたしかに旦那さまは少し仕事にかまけすぎだと思うな。政治家として大切な時期なのはわかるけど、やっぱり奥さまのことももう少し気にかけてあげないとね。奥さまには旦那さまだけが頼りなんだから」

 こくりと頷く。その通りだ。

 あの病は、父にしか治せない。

「奥さまは本当に旦那さまを一途に見ていらしてるから、端から見ていてもつらいよね。夫人としての活躍もままならなくて、旦那さまの心が離れてしまうのを心から恐がってる。でも、そのなかでもまだ旦那さまから手を差し伸べられるのを期待してるんだと思うな。大丈夫か、俺がいてやるぞって」

 そう、母は昔、父に救われた。 

 底なし沼に沈むまさにその瞬間、砂から出た指先をかろうじて掴み掬い上げたのが父だった。


 ――今の母、父の再婚相手の女性は、元々父が弁護を務めていた女性だった。

 彼女は夫を刺し殺したのだ。娘の目のまえで、深々とその懐に包丁を差し入れた。

 長いあいだ、折檻を受けていた。結婚当初は優しい夫だった。しかし娘が生まれたあたりから徐々に気が荒くなり手を出すようになっていった。次第にそれはエスカレートし、激しいドメスティックバイオレンスへと発展した。

 逮捕されたときの彼女は骨と皮だけの風貌で目も虚ろだった。その瞳はどこも捕らえていなかった。どこからどう見ても老婆にしか見えなかった。

 食べ物すら与えられず正常な思考回路は奪われており、その犯行も極めて衝動的なものだった。

 夫が、娘に性的暴力を加えようという瞬間を見てしまったのだ。

 気が付けば彼女は包丁を握り締めており、目の前で男が血溜まりに倒れていた。彼女は娘を支えに現実に留まっていたといえる。糸が、切れてしまったのだ、

 この悲劇的な事件は世間を賑わせた。ワイドショーの格好の的となり、「痛ましい」「正当だ」「彼女は悪くない」と連日連夜騒がれた。注目の悲劇、その国選弁護人に指名されたのが父、直道だった。

 状況が状況で、無罪を勝ち取るのはそう難しいことではなかった。捜査の段階で彼女が現場を目撃した際に激しく暴行を受けたことが明らかになった。それであるならば正当防衛といえ、心神喪失でもあるのだ。世論も味方している。誰が弁護に立ったところで結果は見えていただろう。異例の早さで判決は出た。

 しかし、父はそこからが見事だった。

 彼は彼女を妻に迎え入れた。既に彼女は父に心酔していたため泣いて喜んだ。彼がいたから今の自分があるのだと思い込んでいた。いや、もしかしたら父にそう思い込まされていたのかもしれない。入れあげた女性は誰の聞く耳も持たないものだから。

 父はわざわざ会見を開き、こう言った。

「私はかつて妻を失いました。けれど、息子だけを生き甲斐にこれまでやってきました。彼女も娘だけを支えに生きてきました。彼女の悲劇は支えてくれる人がいなかったところにあります。私にも、今は支えと呼べる人がいるかどうか……。私にももろく崩れてしまいそうになる瞬間があります。ですが、もう大丈夫です。これからはもうそんなこともないでしょう。私たちは、お互いの支えを見つけました。これからは4人で支え合って生きていきます」

 会見の後、母はコメントを貰いに訪れた多くのカメラの前で大粒の涙を流し、嗚咽を上げた。

「ありがとうございますっ、ありがとうございますっ」

 誰に向けたものなのか、何度も何度もお辞儀をし、そこには人間の心からの涙と感謝があった。それは見る者の心を深く揺さぶらり、皆が共に涙を流した。その一幕は父を慈悲深い正義の男に仕立て上げた。

 全ては父の思惑通りだったのだ。

 その後、しがない一介の弁護士は積年の願いであった政界への進出を果たすこととなる。

 

「お父さんは、お母さんを利用しただけだから」とカラス。「結局、お父さんはお母さんのことなんてどうでもよかったんだ。元々愛情もないんだから、厄介なことになったら面倒臭がるのも当然だと思う」

「そんなこと言っちゃだめ」驚いて振り向くと、楓が真顔で見据えていた。「思っていても、口に出しちゃだめ。悲しいな、お姉さんは」

 お姉さんという年でもなかったがそれは黙っておいた。

「だけど楓さん、本当のことだよ。お父さんはよく僕の本当のお母さんを引き合いに出してこう言ってるもの。『アレが生きていればもっと助けになってくれただろうに』って。そしたら政治家になれたかどうかわからないのにね」

「でもね、それでもね、旦那さまはカラスくんたちのことを守ってくれてるんだよ。色々不満もあるだろうけど、それはどこの家庭だって一緒にこと。養ってもらってるうちは感謝すべきだって、わたしはそう思う。それはごく当然の考えでしょう?」

「…………」言葉に詰まる。

 そうだろうか。それが世間一般の考えなのだろうか。

「それにカラスくんは知らないかもしれないけど、旦那さまは色んなところで陰口を言われているの。奥さまのことでね。挨拶もできない女だ、とか人殺しの女だ、とかね。だから旦那さまはそんな人たちを黙らせる為にも人一倍仕事に打ち込んでらしてるのよ。議員になった経緯が経緯だもの、旦那さまへの注目度はふつうの新人の比じゃないから。嫉妬だってあるの。こうして当選した後も地元に足繁く帰ってこられてお仕事されて、こんなにも地元行脚するなんて珍しいことなのよ。毎日のほほんと生きてるカラスくんにはわからないだろうけど」

 少し驚いた。これまで楓からこんなに辛辣な物言いを受けたことはない。何か気に障ったのだろうか。そんなに親のことを悪く言うのがいけないことなのか。

「子には、親の気持ちなんてわからない。気にかけようともしない。ただ私たちを非難するだけ。育ててもらった恩も忘れてね」

「ご、ごめんなさい」あまりにも決まりが悪くなり頭を下げた。

 楓はカラスの頭をガシッと掴んだ。髪をクシャクシャにする。

「なーんて、ごめんね。八つ当たりだね。実は今ちょっと娘と喧嘩しててさ、それにしたってカラスくんに当たることはないのにね。ごめん、こっちこそごめんね」

「い、いえ」

 そのまま胸にかき抱かれた。

「ねぇカラスくん。子には子の、親には親の悩みがあって、苦しみがあるの。親は『自分が育ててやってるのに』って思ってるし、子どもだって『親は選べないんだから』って思ってる。血の通った親子だって擦れ違うし、大嫌いになってしまうことだってある。だから無理して仲良くすることもないけど、仲良くできるにこしたことはないでしょう。心を閉ざさないで、決めつけないで、いつかはわかりあえるって信じていれば、ほら、どこかでなにかがうまく繋がることだってあるかもしれない。だからわかった気になって世界を決めつけないで。これが嘘偽りないお姉さんの、母としての願い」

 はい、とカラスは答えた。


 でも楓さん。

 僕は思うんですけど、誰も彼もがそんなに強いわけではないんです。

 心を閉ざさなくちゃどうにもならない子供だって、いるんです。

 ざんねんですけど、これも本当のことだから。

 だから――。

 

 途中、妹の部屋に立ち寄った。

「チコ」

「お兄様っ」

 しがみついてきた。

「お兄様、お母さんもう限界です。このままじゃ、本当にダメになってしまう、心が、腐り落ちてしまいます。ねぇお兄様、なんとかお父様に、なんとかお願いをして、お母さんの介抱に参加して頂くことはできないのですか? お父様しか、お父様しかお母さんを喜ばせてあげられないのに……」

 頭を撫でると肩を落としてうな垂れた。

 ぎゅうっとシャツの背を握られる。

「わたくし、わたくしもう、こんなに息苦しいのは嫌なんです。息が詰まって詰まって、家に帰りたくないなんて思いたくはないんです。もっとふつうに、みんなで楽しく暮らしたいだけなのに」

 ――もう、すべてを投げ出してどこかへ消えてしまいたい……。

 チコは最後に掠れる声でそう呟いた。


 今でもカラスの胸のなかでその言葉はたゆたっている。



 カラスの通う中学校は名門と呼ばれる私立校だ。地方の学校にも関わらず都市圏の名門校へ毎年かなり数の生徒を送り出している。

 カラスは中学二年生にも関わらず副生徒会長を任されている。父の権威からではなく、その実力を皆に認められていた。

「カラス君は、どこの高校に行くの?」ボサボサ髪の少年が書類に目を通しながら聞いた。どこかぼんやりした目をしている。

「僕ですか?」カラスは書類から顔を上げた。

 放課後、開け放たれた窓から運動部の威勢のよい掛け声が入り込んでくる。穏やかな風がプリントを揺らし、陽光が眠気を誘う。うららかな春の一コマだ。

「そうですね……近くの、N校になるでしょうか」

「N校! もったいない。もっといいところに行けるでしょうに。東京には出ないの? あ、東京行ったことある?」

「ないんです。東京タワーに昇ってみたいんですが」笑う。「でも家の事情で東京の高校へはちょっと……妹も幼いですし。そういう会長こそ本当にこの町に留まるんですか?」

「あー、うん、そうなんだよね」頭を掻く。「そうなるかなぁ。まぁ俺は仕方ないよ。東京になんて出たら身体壊しちゃうからね、空気のキレイなとこにいないと」

「そうですか……よくなるといいですね、その、お身体」

「うーんまぁ咳が出るだけなんだけどね」笑う。

 咳が出るといっても吐血することもあるという。

「それに、おじいちゃんの後を継いで土木やろうと思ってるから、身体弱いからアレなんだけど、まぁ昔なじみのひとばっかりだし指示を出す立場としてなら、ね。ここを出たら修行するよ」

「さすがです。僕は将来のことなんかまるで」

「お父さんの後は継がないのかな。お父さんから薦められない?」

「…………」言葉に詰まる。

 もしかしてあの男は、それを望んでいるのだろうか。

「まぁ、こればっかりは自分の意志だからね。無理して継ぐものでもないし、いいんじゃないかな。ただカラス君の場合はお父さんの存在が大きいだろうから、潰されないようにしっかりしておかないとね。この町ではキミのお父さんのお世話になってないひとを探す方が難しいくらいなんだからさ。何をするにしても、自分をしっかり持って、周りの意見に振り回されないようにね。なんだったらこの町を出たっていいんだし」

「そうですね……ありがとうございます」恐縮して小さく頭を下げると、ハハハと笑われた。

 カラスは彼のことを気に入っていた。いつも自然体で嘘がなく、やりたいことをやれる範囲で好きにやっているように見えた。だから助言も染み入る。そんな彼だからこそ人望厚く生徒会長に推されたのだ。自然に皆から好かれるその人格、世渡りもうまく大人からも信頼されている。

 フッと視線を逸らした。

 そんな彼に、あこがれがないといったら嘘になるから。


     *


 家にはまだ帰りたくなかった。

 父は仕事だし、今日はチコも絵画教室へ行っているはずだ。時間はある。

 ただ、どこへ行けばいいのかがわからない。

 どこへも行けない気がした。

「あ」

 パッと顔を上げる。

 廃校というのはどうだろう。昔よく遊びに行ったあの廃校は、まだあのままに佇んでいるのだろうか。いつのまにか遊びに行かなくなってしまったけれど、小さいころは秘密基地のように大切にしていた場所だった。

 軋む床、錆び付いた蛇口、指で撫でると黒く染まる机、割れた窓に、蔦の絡まった壁。

 とてもいい思い付きに思えた。

 埃臭いあの匂いまで感じられるようだ。

 ――行ってみよう。

 笑みを抑えきれない。心臓が踊り始めた。

 こんなワクワクは、いつ以来だろう。 

 地を蹴って走り出す。

 僕だって童心を忘れたわけではないのだ。


「う、わぁ」

 果たしてそれは変わらずに佇んでいた。

 夕焼けを背にした後者は見事に朽ち果て、伽藍の堂だった。何も変わっていない、あの頃のまま。

「でも」そう、変わって感じられるものもあった。小さく感じられるのだ。

 考えてみればそれも当然だ。僕だって成長しているのだ。

 ひとりごちて昇降口へと向かう。割れた窓ガラスを踏み鳴らし歩くと、まるであの頃のまま、白昼夢の世界へと入りこんでしまったかのようだった。

 ゆっくりと、一歩一歩踏みしめるように一階、二階と見て廻る。廊下は夕闇に染まり、光が差し込んで埃がキラキラと水面で輝く陽光のように踊っている。森のざわめきも心地よい。

 この感覚、しばらく忘れていたこの感覚、そうだ、僕はたしかにここに病みつきになっていた。

 三階音楽室の前で立ち止まる。

 ここが僕の家だった。廃校に来たときはここに入り浸るのがお決まりだった。ピアノが置かれていて、日がな一日好きな曲を弾いて過ごしたものだ。といっても、調律は狂い『ビョンビョン』と変な音しか出ないのだが。でも、それが面白くて笑い転げていたっけ。

 ――子どものころの僕との邂逅、か。

 ギギギッ、と立て付けの悪い戸をスライドさせる。こちらは日差しとは反対で薄暗くうまく物を認識できない。ゆっくりと歩を進める。ギシィ、ギシィ、ギシィ、と床板が鳴る。僅かに沈む感触が癖になりそうだ。でも、抜けないように気を付けなければ。

 大きなシルエットに歩み寄る。

 ピアノは変わらずそこで彼を待っていた。

 嬉しくなって手を伸ばすと、

「んあぁっ!」

 と声が響いた。

 ビクゥッ、としてどすんと尻餅を付いてしまう。

「ん~? 誰か来た~?」

 目を細め見上げると、ピアノの上で誰かが上半身を起こすのが見えた。

 人だ、人が寝ていたのだ。

「ん~……」頭をフラフラとさせしきりに目を擦っている。長い髪が揺れる。「んぁー、良く寝た……寝過ぎたかも…………んー」

 もう一度倒れ伏した。制服の短いスカートがめくれ太ももが露わになり、ハッとして目をそらす。

 高校生だろうか……。

「ここさー、ひんやりしてて気持ちよくてさー」眠たげな声が飛んだ。「それになんていうか、ピアノの上って妙な背徳感があってさ、いい感じなんだー」

「は、はぁ」間の抜けた返答しか返せない。いい感じとはどんな感じだろうか。

 思考が追いついていない。

「キミは迷い猫ちゃんかな?」寝そべったままで彼女は訊いた。顔を逆さにこちらに向けており、その為にブラウスの隙間から綺麗な鎖骨とブラジャー覗いている。

「え、ええと」しどろもどろになってしまう。「迷ったといいますか、遊びに来た、感じです。昔によく遊んだ場所なので……」

「あ、ここってキミの場所だったんだ」ジュルッと腕で涎を拭った。「そっかぁ。家主がいたんだぁ。ざんねん、気に入ってたんだけどな、ここ」

 カラスは立ち上がり尻の埃をはたく。心臓の鼓動が早い。妙に世界が浮ついている。

「ねぇ家主さん。ここさ、ワタシも好きな場所なんだ。もしよかったらでいいんだけど、これからも来させてくれないかな、ここ」

「あ、は、はい」姿勢を正して、「それはもちろん、ここは誰のものでもありませんし、僕にしたってずいぶん長いこと来ていなかったですから。むしろお姉さんに僕が許可を貰わなくちゃいけないくらいで」

「お姉さん?」きょとんとされる。「お姉さんって言った、今?」

 あ、はい、とカラスは答える。マズかっただろうか。

 するとチョイチョイと手招きをされた。

「?」近づくと、

「んーっ、お姉さん! お姉さんかぁ。そっかぁ、お姉さんかぁー。んー、お姉さん! いいねぇお姉さん! うわー、たまんない!」きつく抱き締められカラスは固まってしまう。

「あ、あの」

「ひひひひひっ! んー、いいねこういうの! ワタシさ、キミみたいな子、好きだよ」

「あ、ありがとうございます……」

 いったい何を言っているのか。

 何がどうなっているのか。

 頭がのぼせて目が廻る。顔はやわらかな双丘に収まっている。

「じゃあさ、こうしよう。キミが大家でワタシが店子。ふたりで一緒に使おう。ね」

「は、はぶ」

「え?」

 胸に押しつぶされてうまく声を出せない。

「なぁに?」

「はぶっ、はぶっ」

「あ、そうか」彼女はカラスを解放した。

 世界は揺れている。

「で、答えは?」

「は、はい。わかりました」

「あは、ありがと」

 ドキッと心臓が弾む。

 ――なんて綺麗なひとなんだろう。

 彼女はピアノから飛び降りた。

「じゃあこれからここはわたしたちの家。でもさー」うーん、と顎に手をあてて「寝ている女の子にイタズラしようだなんて、お姉さんは感心しないなぁ。なぁに、太ももに触りたかったの?」

「え……あっ」意味に気が付いた。「ち、ちがいます。僕はただピアノを弾こうと」

「僕だって!」ブフッと吹き出される。「かわいぃいい! うわーたまんないなぁ!」

 また髪を掻き乱される。目の前には殴ったら折れてしまいそうな鎖骨が覗いている。

「あ、ごめんねごめん」やっと身体を離した。「悪い癖でさー、かわいいもの見ると見境がなくなっちゃうの。迷惑だったよね、ごめん」

「迷惑だなんて、そんな」

「でもそっか、ピアノ弾きたかったんだね。じゃあお姉さんが一曲リクエストしちゃおうかな」

「リクエスト、ですか?」

「そ。簡単なのでいいからさ。じゃあ『蛍の光』でもどうかね」

「それはかまわないんですが……」ピアノに目をやり、「調律が狂っているので、あんまり聴き心地はよくないと思います」

「そんなのかまわないよ」部屋の隅に向かう。パッと暖かな光が部屋を覆った。ランタンだ。「もう暗いからね、常備してあって、これ」

 陰影がかった振り向きざまの笑顔に息を呑む。

 カラスはピアノの蓋を持ち上げた。彼女は近くの机に腰を降ろして足を組む。横目で見るとまた太股が露わになっていた。目を逸らす。

 鍵盤の埃を払い、そっと撫でる。

 ふぅ、ひとつ呼吸を置き指を置いた。

 ボァン

 形容し難いゆるい音が響き、やはり調律の狂いは如何ともし難いものがあった。

 頬が緩んでしまう。彼女も笑っていた。ドレミファと打鍵していく。

 ボァンボァンボァンボァンボァンボァンボァンボァンッ

 ふたりでケタケタと笑い合った。

「わたしの名前は紅葉もみじ、紅葉っていうの」

「僕の名前はカラスです」

「カラス?」目を丸くされる。「カラスって、あのカラス?」

「たぶん」

「そっか、変な名前」

 あははと笑う紅葉を横目にゆっくりと指を踊らせる。蛍の光。

「ほーたーるのーひかーぁり まどのゆぅきーー」

 紅葉の歌が暖かな淡い光に包まれた室内に反響し、カラスも弾きながらそれに続いて口ずさんだ。メロディは原曲とは遠くかけ離れていたがなんとか聴き取れる範囲内で、カラスは知らず自分の身体が音を取っていたことに気が付いた。

 ピアノを弾くのがこんなに楽しいだなんて、いつ以来だろう。

 歌う紅葉を見ると、目を細めて微笑まれた。



 不思議だった。

 胸が高鳴っている。

 自然と足が向いている。

 苦しい。

 胸が、苦しい。

 なんにも手に付かないのだ。

 気が付けば考えているのだ。

 どんな話をしようか。

 どんな物を持って行こうか。

 ――恋人は、いるのだろうか。

 悶々として身もだえる夜。

 それが楽しいだなんて、末期だ。

 ふぅううううう。

 ゆっくりと息を吐く。

 震えている。

 息だけじゃない、体だって。

 ああ、これがそうなんだ。

 これが、

 きっと、


「その子は誰?」

 紅葉はいつものようにピアノの上で寝そべっていた。

「妹の、チコです」チコの背を押す。「ほらチコ、ご挨拶」

「わたくし、冬木チコと申します。いつも兄がお世話になっております」ペコリと小さく頭を下げる。

「…………!!」

 途端、紅葉の顔が紅潮する。表情がパァアアッと明るくなりピョンと飛び降りた。

「んはぁー! かわぁいいいいいいい!」チコの肩を激しく揺さぶる。「なんてことなの、どうしよう、どうしたらっ」

「ちょっ、やっ、あっ、ああああっ」チコは頭を揺らしている。

「紅葉さん、チコが目を廻してますよ」

「あ」いけない、とでも言うように口に手を当てた。「あちゃーごめんねー、ちょっと自制が」

 既に息遣いが荒い。

 もしかしてこのひとはバイでもあるのだろうか?

「ふむぅ、そっかそっかぁ。さすがはカラスくんの妹、カラスくんカッコいいもんね。妹さんもかわいいなー」

 不意を突かれた。 

 「カッコいい」と言われたこと、「カラスの妹だから」かわいいと言われたこと。

 カラスの黒目が大きくなる。

 と、チコがそっと近寄り囁いた。

「伺っていた以上におもしろい方ですね」

 思わず苦笑する。否定できない。

「いやー、チコちゃんの服かわいいよねー。たまんないなぁそれ。ワタシの趣味にばっちしだもん。ワタシだってチコちゃんみたいな妹がいたら着させてみたいもんなぁ、それ。自分で選んだの?」

「あ、これはですね」自分の服を摘んで見せる。

 カラスにはよくわからないがいわゆるゴシック調のヒラヒラとした服だ。これはチコにとってもお気に入りで、前に「曇天がよく似合う服だな」と伝えたら渋い顔をされた。

「家のお手伝いさんが下さったんです。絶対似合うからって、それで」その頬は朱に染まっている。嬉しいのだろう、心持ち声のトーンも高い。「こういったものは少し子どもっぽくでどうも恥ずかしいんですけど……」

「メイドがいるの? ほぇーすごいね。まるでお屋敷だね。どういうおうちなの?」

「あ、兄は伝えていなかったんですね」ちらりと視線を寄越され知らん顔をする。

「実は、わたくしたちは、冬木の家のものなんです」

「…………」

 僅かに表情が曇ったように見えた。だから嫌だったんだ、とカラスは心のなかで舌打ちをする。

 この町ではこの名を口にすると誰もが同じ顔をする。

「ああ、あの政治家のかぁ。なるほどねぇ……う、うん、そっかぁ」明らかに反応に困っている。

 助け船を出す。

「でも紅葉さん、お手伝いと言ってもそのひとしかいませんし、別にふつうの家庭と変わりはないんですよ。うちのお父さんの仕事のこともあるし、お母さんだけだと何かと大変でお世話になってるひとなんです。ただどうにもおかしなひとで、まるで紅葉さんみたいな――」

 口に出してハッとする。

 ああそうか、重ねて見ているのかもしれない。

 惹かれる人間なんて、だいたい同じなのかもしれないな。

「紅葉さんみたいってなにさ」苦笑される。

「ですけれどすっごい素敵なかたなんですよ。もうひとりのお母さんのように思っています」チコが付け加えた。

 カラスも頷く。

「そっか、慕われてるんだねそのひと。なんだか気が合いそうだな、服のセンスまで似てるんだもの」

 三人で顔を見合わせて笑った。

「でもチコちゃん、本当にかわいいよ。お人形さん、っていうのはまあ使い古された表現だけど、やっぱり、うん。そんな感じで」 

「あは。ありがとうございます」耳まで染まるチコ。俯いてモジモジしている。「紅葉さんもとてもお綺麗ですよ。その、スラリとしてらっしゃってまるでモデルさんのよう。制服もこの廃校の雰囲気にピッタリで、まるで校舎に住まう少女の幽霊のようで――ぁ」 

しまった、と口を塞ぐ。

「これじゃあ褒め言葉になっていませんね。申し訳ありません」

「そんなことないよ、ありがとう」ニコリとして、「それならたぶん中身も貞淑淑女な感じなんだろうね、やわらかくておしとやかで。でもこんなだからなぁ。噂を聞いて探検に来たみんなをガッカリさせちゃうね」

「いいえ、そんなことはないと思います。紅葉さんは紅葉さんのままでとても素敵ですもの」

 カラスも心のなかで深く頷く。

「いいよフォローしてくれなくても。人なんてそんな簡単に変われるものでもないしね、どうせワタシはワタシだしこれで満足してるよ。そんな真面目にフォローされたらそれこそお姉ちゃんヘコんじゃうよ……」

 ヨヨヨと泣く真似をして見せチコの口元が緩む。

「とこでさ」と紅葉、「毎日ここに来てるけどカラスくんは部活とかやってないの、大丈夫? けっこう遅くまでいるよね」

「あ、はい」姿勢を正す。「実は生徒会に――」

「ぜんぜん大丈夫じゃないんですよ」チコが口を挟んだ。横目で見るがその視界にカラスは入っていない。「生徒会に入っていて、副会長を負かされていまして、今は文化祭も近くて忙しい時期なのですけれど、お兄様ったら毎日ここに入り浸っていて困ってしまいます。実はお稽古までさぼっているんですよ? ピアノの先生を何度も待ちぼうけにして、それで気になって聞いてみたらやっと白状したのです。今はまだ大丈夫ですけれど、そのうちお父さまもおかんむりになるんじゃないかとハラハラしているのです」

 チコは嬉々として語る。

 カラスは苛立ちを隠せない。

 自分の言葉でうまく説明するはずだったのに。

「あらら、ダメじゃないカラスくん。お父さんに怒られちゃうよ」

「でも、生徒会は必要なときには顔を出すようにしていますし、会長がとても有能なひとなので特に問題もないんです。仕事もだいたい片付いていますし。それに……」少し言葉に詰まる。「それに、ピアノも、英語も、テニスも、習い事は、やりたくてやってることじゃ、ないですから」

 チコに横からジ、と見つめてられているのが感じられた。

「そっか、なるほどねー」明るい声が響いた。「ならいいんじゃないかな、やらなくて」

「いいん、ですか?」とカラス。

「うん、気持ちいいことだけして生きようよ。大人から押しつけられることなんてつまらないことばっかりだしね。ワタシもよくお母さんから『あなたの為を思って言って~』とか言われるけどさ、そんなの余計なお世話以外のなんでもないよね。将来なんて関係ない、今がどうかってことが大事なのに、大人はそこをわかってないんだよ。将来は今の積み重ねでできていくのに、その積み木の途中が歪んでたら高く積み上がったところでグラグラしちゃうのにさ、みんなはとにかく高く積み上げればいいって思ってるからね。ワタシたちに毎日綱渡りさせたいのかねー」

「…………」言葉が出ない。思わず聞き入る。

「でさ、積み木が倒れたときは自己責任でしょ。自分でそう仕向けておいてそれはないよね。でも自分でわかってないから怒るんだ、もう顔真っ赤にしてさ。あんな理不尽なことはないよホントに」

 チコが微笑んでウンウンと頷いている。

 紅葉はそれを見て頭を掻いた。

「いやー、ごめんねチコちゃん。ただの愚痴になっちゃった気が……」あははーと笑って、「あのね、ちがうの。ただちょっとアドバイスしてあげよっかなって思っただけでさ。ほら、ふたりの家はとりわけきびしそうだし、ちょっとでも気持ちを軽くしてあげられたらって思っただけ。チコちゃん、悪い大人の愚痴は真に受けないように」

「紅葉さんはまだ大人ではありませんよ」とチコ。

「そうかな」と紅葉。

「あ、申し訳ありません。これは褒め言葉になっていますか……? わたくしは内面のことを」

「あーあー、だいじょうぶ気にしてないよ。こどもっぽいのは自覚してるからね。でも自分では大人だと思ってるんだけどなー。ざんねんながら、もうワタシもあちら側の住人です」

「そうは仰いますが、わたくしは紅葉さんのお心はとても澄んでいて美しいように感じていますから」

「ありがとう」微笑む。

「僕もそう思います」とカラス。少し声が震えた。

「カラスくんも、ありがとう……」ぽつりと、「いつまでもこどものままでいられたら、いいのにね」

 一瞬、その表情がかげったように見えた。

「しかしチコちゃんはすごいね。そんなに丁寧に喋れて、ワタシ喋れるかな、そんなに丁寧に」

「あ、えと、これは」モジモジとして、「お父様の為に気を付けているんです。わたくし、こちらに住むようになったころは言葉遣いもわからずにお父様には社交の席で随分ご迷惑をお掛けしてしまって……。それで」

 特にチコの場合は常に皆の好奇の視線が付きまとった。殺人者の娘、虐待を受けていた娘、その素行はいかほどのものか。普通とは違うのだ、何も知らない小娘ではいさせてもらえなかった。以来チコは普段からこの喋り方を心がけている。

 だが、大袈裟に過ぎるとカラスは思っていた。正直に言えば、とても変だ。チコには似合わない、そんな言葉使いも上品な仕草も。チコの健気さを前にとてもそんなことは言えないが。

 その中身が外見とは裏腹にとても幼く甘えん坊だということを、カラスはよく知っている。まだ小学三年生なのだ。

「ほぇー、えらいね。お父さんの為なんだ」

「はい、わたくしたち親子は、お父様に恩返ししなくてはなりませんから」

「へ?」

「あ」口を塞ぐ。事件のことを言いそうになった。

「ところで」見かねて割って入る。「紅葉さんこそ大丈夫なんですか。毎日ここに来ていて、部活やなんかはされていないんですか」

「あ、うん、やってるよー弓道部。でもゆるいとこでね、週一くらいで顔出しとけばそれでいいの。そんなに真剣にやってるわけでもないし、時々試合にも出させてもらってるしそれでいいやって。あ、その顔、似合わないって思ってるでしょー」

「え、そんなことは」

「まあいいけどね、自分でも『内面が』って言ったばっかりだし。でも周りはけっこー褒めてくれるんだよ? 成績だって悪くないし、むしろ部で一・二を争う腕前なんだから。弓道ってね、集中してやってるとすっごく気持ちいいの。集中して集中して集中して、ギリギリって意識をねじっていくとね、自分の呼吸音がすべてになって、深海にいるような感覚になるの。周りはシンとしていて、物音ひとつしなくて、動作のひとつひとつがスローモーションに感じられて、弓を構えて、息を吸って、吐いて、射的準備に入ると筋肉の軋みが聞こえて、ギギギッて引いて、留めて、パッと手を離すと『カンッ』って音が聞こえてくるの。それがね、空間を切り裂いてる手応えが凄くて、的に当たった瞬間に世界がウワッて戻ってきて、眉間には汗が滲んでてね、フゥウッて息を吐くとたまんないの、すっごく気持ちいいの。ワタシ、気持ちいいことが大好きだからさ」

 カラスは弓道着を身に纏った紅葉が弓を構える姿を想像する。静まりかえった弓道場、張り詰めた空気、凛と背筋を伸ばし、足の親指には少し力が入っていて、筋張ったふくらはぎがピクッピクッと震える。

 似合わないなんて思わない、そんなこと思うはずがないんです。

「言ったけど、ふたりにも気持ちいいことどんどんやって欲しいんだ。それってとてもすばらしいことだから。まあ、それがむつかしいのは、よくわかってるけど……」


 ――だからワタシたち、ここにいるんだもんね。


 帳の落ちた帰り道、田んぼ横の道でチコが言った。

「わたくし、紅葉さんのこと好きになってしまいました。冬木と知っても変わらずに接して下さいましたし、なによりとても気の合う方ですよね」

「ああ、そうだな。でもチコ」

「なんですか?」

「俺が説明しようとしていたのに、横から奪っていくのはやめて欲しかったな」

「…………あ」しょんぼりして、「申し訳、ありませんでした……お兄様」

「ああ」

 チコの前を早足で行く。


 家に着くと、母が手首を切って倒れていた。



 幸い命に別状は無かった。

 不安定になると時々こういうことがあった。

「どこに行っていた」父がふたりを見下ろす。「どう責任を取るんだ、これは」

「旦那さま、これはおふたりの責任ではありません。私の」

「お前は黙っていろ」父の一瞥に楓はひとつ後ろに下がった。

「最近帰りが遅いらしいな。レッスンも立て続けに休んでいると聞いている。どういうことだ。俺に抗議をしていたわりに、母への気遣いが足りていないんじゃないか。遊びが楽しくてどうでもよくなったか」

「ちがいます」とカラス。屹然と、「そんなことは断じてありません」

「それじゃあどういうことだ。母が病気だというのに自分は遊び呆けていて、それで今回のことだ。楓だって毎日朝から晩までここにいられるわけじゃない、それをお前は知っている。知っていてこれだ。まさか母から逃げ出すとはな」

 グッと唇を噛みしめる。自分はどうなんだ。

「今回は知り合いに診てもらえたおかげで大事にならずに済んだが、次はわからん。俺の邪魔だけはしてくれるな」

 外に漏れれば世間の耳目を惹く。それをこの男は気にしているんだ、母の容態よりも。

「お母さん……」チコはベッドに横たわった母の手を握り涙を浮かべている。「ごめんなさい、ごめんなさいお母さん……」

「チコ」父が抑揚のない声で、「お前にも責任はある。特にお前は血の繋がりがあるんだ。しっかり世話くらいしてやらんでどうする」

「はい……」

「もっと冬木の家の者としての自覚を持て」吐き捨てた。「チコ、もうお前はあの薄汚いアパートの住人じゃない、それ相応の人格が求められる。お前の喋り方は大層立派だが、どうも中身が伴っていないようだな。それにな、今どきそんな喋り方をするな。それはなんだ、漫画ででも覚えたのか。流行言葉を話されるよりはマシかと思って黙っていたが、それも今後は改めろ。恥ずかしくて堪らん。馬鹿にされているように感じる」

「あ……」チコが目を見開き、瞳孔が開いていく。「は、い」

 母の腕に涙が滴る。流れて布団が濡れる。チコの小さな方が震えている。

 カラスは知らず立ち上がっていた。

「なんだその目は」

「…………」目を逸らす。

「反抗期か、まあそれもいいだろう」きびすを返し、「とにかく俺に迷惑をかけなければそれでいい。最近忙しくて構ってられんからといって好き放題するな。お前ももう子どもじゃないんだ、親に迷惑はかけんようにしろ。母の世話はお前の仕事だ。お前が放課後に何をしてるのかは知らんが、母の世話だけはしろ。それはお前の責務だ。この家の役に立て、少しは。それぞれの家庭にはルールがある。嫌ならお前が独り立ちしたらやめればいい。養ってもらってるうちは親に意見するな。お前は生かしてもらってるんだ、忘れるな、この事実を。政治家の息子として恥ずかしくない男になれ、冬木の家の嫡男としてな。お前は恵まれた環境にいるんだ、しあわせな環境に。頭を冷やしてこの事実を噛みしめろ」

 そう言い残して父は出て行った。

 カラスは立ち尽くし、チコのすすり泣く声がシンとした部屋に響いている。

「カラスくん、あんまり気にしちゃだめよ」そっと肩に手をかけられた。「どこの家にだって親子喧嘩くらいあるんだから」

 振り返ると楓は片目をつぶり、

「チコちゃんを守れるのはキミしかいないんだからね」

 頷くと、優しく微笑んだ。

「でも、旦那さまの言うことも一理あるのよ。キミは恵まれてるんだから、きちんとしないとダメっていうのも本当のこと。ガッカリさせちゃだめよ、みんなをね」

 楓は静かに部屋を出て行き、ふたりが残される。

 カラスはチコを抱き締め慰め、やがて妹は母の隣で寝息を立て始めた。カラスは電気を消し、チコの隣に寝そべる。

 そしてふたりの寝顔を見つめる。


 ――瑞季さん。

 僕の、ふたり目のお母さん。

 僕はあなたのことは好きですが、ある意味では憎んでもいます。

 どうしてあなたはそうなってしまったのですか。

 どうしてチコの為に現実に留まろうとは考えなかったのですか。

 あなたは心を駄目にしてしまったけれど、結局それはあなたの都合でしかないと僕は思います。

 あなたが本当にチコのことを想っていたのなら、あなたの心は繋ぎ止められていたはずだ。

 チコにはあなたしかいなかった。

 僕じゃあなたの代わりにはなれないことくらい、あなたにだってわかっていたでしょう。

 チコはあなたを求めています。

 けれどあなたは未だに男を求めている。

 結局、あなたの目は自分にしか向いていなかった。

 じゃあ、僕たち子どもはどうすればいいんですか。

 置いてけぼりにされた僕たちは、どうすればいいんですか。

 荒野で右も左もわからず、飢えて凍えて、さみしいと叫んだって誰にも届かず、ただ毎日闇雲に砂埃の中を行く。

 前なんて見えない、何も見えない。

 なら、肩を寄せ合って生きていくしかないじゃないですか。

 どうにかやり過ごして、生きていくしかないじゃないですか。

 でもね、僕たちだって、夢を見るんです。

 誰も与えてくれないのなら、どこにもないのなら、自分たちの手で、自分たちの居場所を、作るしかないじゃないですか。

 ねぇ瑞季さん。

 僕の、ふたり目のお母さん。

 僕はあなたのことは好きですが、もうこれ以上はどうにもなりません。

 だから、僕たちは行きます。

 ごめんなさい、でもわかってください。


 これはある意味で、あなたのせいでもあることを。


     *


「ふむ、それで家には帰りたくないと」

「はい」

「ふむ」

 布団にくるまった紅葉はカラスを見上げる。紅葉は布団まで常備していた。他にも色々と保管しているらしかった。やっぱり隠れ家だ。

「チコちゃんはそれでいいの?」

「あ、は、はい」ちょこんと椅子に腰掛けて、「あの、お兄さまが、これはチャンスだからって」

「チャンス?」

「は、はい。お父様にご自分を見直していただくいい機会だからと……。一度きちんとこういう形で訴えておくのも有意義なことだからと」

「ああなるほどねー。抗議の形も取ってるんだ」

 紅葉はカラスの顔を見るが、カラスは視線を合わせない。少し動悸がする。

 チコにはそう言ったが、もうあの家に帰る気などない。

 本当のことを伝えたらチコはどんな反応をするだろうか、母を置いてはいけないと泣き出すだろうか。

 でも、もしそうなっても――。

 カラスはチコの横顔を見やる。

 僕はチコを連れていく。それが、兄としての責務だ。

「うちは大丈夫ですから」とカラス。「話した通り、母の世話は信頼の置けるひとがやってくれていますし、なによりそんなに長期間とは考えてないですから。少し困らせてやろうっていうよくある反抗期です」

 ハハハと笑って見せるが紅葉の視線は真剣だ。

「…………」

「…………」

 頬が引き攣る。

「ねぇカラス君」

「は、はい」

「キミは、それでいいんだね?」

「…………」

 視線が絡まり見上げる紅葉の瞳が吸い付く。

 瞳孔は揺れ、呼吸が乱れる。

 息が、苦しい。

「は、い」

 紅葉はニヤリと笑みを浮かべて、

「ふぅん」

 と言った。

 どっと弛緩する。張り詰めていた空気も霧散する。

「よし。お姉さんも応援しよう、ふたりの戦いをね」勢いよく立ち上がった。「実はね、暖めてたアイデアがあるんだー。前に『ぼくらの七日間戦争』って古い映画を観てたら唐突に閃いたんだけどさ、家出だけじゃつまらないよね。いい機会だから実行してみようよ。それっていうのはね――」

 そうして作戦は決行されることになった。



「紅葉さん、準備、できました」とチコ。

「オッケー」と紅葉。

 チコが椅子に腰を降ろす。緊張で顔が硬い、膝が震えている。

「それじゃあ、いくよ」紅葉は袋からヘリウムガスを取り出し、勢いよく吸いこんだ。「……あーあー、アメンボ赤いなあいうえおー」

 宇宙人のような声音に変わっている。プリペイド式の携帯電話を握っており、随分昔に購入したもので絶対に足は付かないと聞かされた。

 青ざめた表情のチコが振り向く。紅葉が頷くとチコも頷いた。


 ――狂言誘拐をしよう。


 それが紅葉の提案だった。

 最初、カラスはきょとんとしてしまった。けれど次の言葉に心を揺り動かされた。

「お父さんの、本当の心が見たくはない?」

 本当の、心。

 あの男の本当の、心。

 あの男は、果たして僕たちのことを心配してくれるのだろうか。どういう反応を見せるのだろうか。そうなったときに、父としての役目を、全うしてくれるのだろうか。

 心臓が高鳴った。

「これは試験だよ。大人に向けた試験、子どもからのね」

 試験、子どもからの。

「どう、興味あるでしょ?」

 けれど問題もある。

「ですが紅葉さん、警察沙汰になってしまいます。狂言誘拐だってわかったら僕たちがマズイことになってしまいます」

「それは大丈夫」紅葉は胸を張った。「ワタシを誰だと思ってるの、紅葉お姉さんだよ。ぬかりはなし」

 ぬかりはなし、と言われても反応に困る。

「一度みんなで『ぼくらの七日間戦争』を観てみようよ。内容はぜんぜんちがうけどニュアンスは伝わるはずだから」

「これは紅葉さんにとってどんなメリットがあるんですか。まさか面白いからなんて理由じゃとても納得できません」

「メリットはあるんだなこれが。実はね」ペロッと舌を出された。「まあいいじゃんかそれは。ごくごく個人的なことだよ」

「なんですか」

「ないしょ」

「それじゃあとても話には乗れませんよ」

「そんな難しいことじゃないんだよ。ただみんなで誘拐されちゃったーっていう演技をするだけで」

「そんなかんたんに……」楽天的とでも言うのか、こういう性格なのか。「大問題になってなりえることです」

「だいじょうぶ、そのときはお姉さんがどうにかするから」

「…………」言葉を失う。この自信はいったいどこから出てくるのか。

 けれど話自体は冗談ではなさそうだった。

それならば、

「……わかりました。でもそれはきちんと計画を練って、やれそうだと思えたらの話ですよ」

「うん、そうしよう。みんなで考えよう」紅葉は嬉しそうに言った。

 チコはひとりキョロキョロとしていたが、

「わ、わかりました。お父様に自分を省みていただく為に、そうしてみるのもいいかもしれませんね。大それたことですけど……」


 そして今日、翌日、

 決行に移されることになった。

「うちは一週間くらい家を空けてもどうってことないんだけど、カラスくんのうちはそういうわけにはいかないからね」

 一日くらいで父が騒ぎ出すとは思えなかったが、たしかに楓が心配するだろう。

 チコは紅葉に不信感を抱きつつあるようだった。一晩中ずっと警戒している様子が見て取れた。

 それも当然だ。こんな突拍子もない提案なのだ。 

「じゃあ行くよ」不自然な聞き慣れない声が響き、カラスはハッと我に還る。

 紅葉がボタンを押し、耳元に携帯を持っていく。

 プルル、プルル、プルル、

「…………主人はいるか」  

 始まった。

「そうだ、いるか。いいから代われ」楓とのやりとりだ、まさか母ではあるまい。

「しつこいやつだな。じゃあ言ってやる。お前の家の子どもたちを預かったから主人に代われと言っているんだ」 

「そうだ、よし、ああ、早くしろ」

「よう、お前が政治屋の冬木か。単刀直入に言う、息子たちは預かった。金を用意しろ、2千万でいい、出せない額じゃないだろう」

「あ? 警察か、好きにしろ。ただその場合は子どもたちの安全は保証しない」

「子どもたちなどどうでもいいというのか?」

「……たしかに本当だという保証はないがな。よし、ちょっと待て」

 紅葉がチコに携帯を渡す。

 チコは震える手で受け取り、息を大きく吸い、吐き、口元へ持って行った。

「お、お父様……お父様、申し訳ありません、申し訳ありません。お兄様が、お兄様が大変なことに、こわい、殺さ、殺され」

「おっとここまでだ」紅葉が携帯を奪う。「本気だということはわかってもらえたと思う。ちなみに娘は既に犯してビデオに撮った。お前が警察を頼ったり金を用意できなかった場合はこれもネットに流れる手はずにしておこう。それと、この会話は録音している。これもお前が警察を頼ればマスコミに流れる手はずになっている。意味がわかるな? お前は子どもよりも金を優先したことになる。お前が子どもを案ずる慈悲深い男であることを祈るよ」

「あ? そんなことは知らん」

 ――また連絡する。

 そう言って紅葉は電話を切った。

「やれやれ」額を拭う。「なかなか迫真だったでしょ」

 チコは気が抜けたように放心している。その脇は汗でぐっちょりと濡れている。

「別に私たちは本当の誘拐犯じゃないんだし、これくらいでいいよね。本当ならもっとうまくやるんだろうけど、少なくともこれでふたりのお父さんの反応は見られるよ。警察を頼らずに一人でお金を持って来てくれるかどうか、危険を承知でね。あれだけ脅したんだもの、お金を渋ったり警察を頼ったりしたら本当に子どもに危害を加えるかもしれないと少しは思ってくれたはずだよ」

「ですけれど紅葉さん」チコが口を挟んだ。「やっぱりこれではお父様が警察をお呼びになって、全てを明らかにされてしまう可能性が残されて」

「でもさチコちゃん、チコちゃんはそうなってもお父さんを慕えるの?」

「……え?」

「ワタシだったらムリだなぁ。だってこれで警察呼んだりお金渋ったら、それは自分を優先に考えたってことだよ。そんなの親とは思えないよ」

「…………」チコの目が泳ぐ。

「そうなったときはもう家のことなんか気にしないで好きにやったらいいと思う。もしかしたらお父さんのことを心配してるのかな? この事件が公になったらお父さんの活動に影響が出るって。でもそれだってもう気にすることはないよ」

「…………」俯いて押し黙るチコ。

「カラスくんはどう思う?」

「僕ですか?」

「うん、チコちゃんと同じ意見?」

「僕は……」僕は、「もうここまで来たんですから、今さら色々言っても仕方ないと思います。やり通すしかないです」

「その通りだね」

 ね、とでもいう風に紅葉はチコを見る。チコはこくりと小さく頷いた。

「よし、じゃあ受け渡し日時と場所を――」

 そしてもう一度電話をかけた。



 シンと静まり返った校舎、電気は通っていないため月明かりだけが頼りだ。

 幸い今夜は月が煌々と照らし足下には不自由しない。新月だった。

「時間だね」

 紅葉が呟いた。三人は昇降口の真上の教室で外を窺っている。

「どう、誰か来る?」

 チコは首を振る。カラスも首を振る。この廃校への道は限られている。必ずここを通るはずだ。

「まさか警察に連絡しちゃってて、もう囲まれてるなんてことないよね……」恐る恐るという風に紅葉が首を回す。額は汗でじっとりと湿っている。「ちょっとワタシ、向こう側を見てくるね」

 そう言い残し教室から出て行き、ふたりは残された。


 ――深夜2時、ここでの受け渡しに決めた。

 外を出歩いて誰かに見られるわけにもいかないし、ここなら万が一にも人がこない。

 更にうまくいった際の二千万はこの学校の補修費に使うのだと紅葉は説明した。

「ここをさ、ワタシたちの家にしようよ。とびっきりの家にさ」

「家、ですか?」よく意味が飲み込めない。

「なぁにその顔。ウソウソ、ちゃんとポストにでも返しておくから安心して」


「――お兄様」チコが寄り添い肩に頭をもたせかけた。震えている。

「こわいか」

「こわいです」ぎゅうっと手を握られる。握り返してやると、ブルッと大きく震えた。「こんな大それたこと、子どもの私たちが、何が起きるのかわからないのに……」

「後悔してるか?」

「わかりま、せん。ですけれど、だって、お父様があんまりにもお母さんにひどいから、だから」

「そうだな」髪を撫でてやると一層の力を込められた。ひと束掴んで香りを嗅ぐ。二日風呂に入っていないため、もわんと香り立った。

「お兄様は落ち着いてらっしゃいますね。怖くはないのですか」

「どうなんだろうな」ぼんやりと、「ひとつ言えるのは、これは必要なことだって僕は心のどこかで思ってる。それとたぶん、僕は紅葉さんのことを信用してるんだと思う。ひとりの人間として、頼りにしてる」

「こんなにおかしな状況にワタクシたちを招き入れたのに、ですか」

「それはそうなんだけどさ、どこか似てる気がして、あのひとと僕は」 

「そう、でしょうか?」

「どうかな」笑う。

「もしかしてそう思われるのは……好き、だからじゃないのですか」

「どうだろう、やっぱりそうなのかな」

「わたくしは、わたくしだってお兄様のこと、好きです」

「ありがとう」

「お兄様はいつもわたくしとお母さんを助けて下さって、感謝してもしきれません。お兄様もご存じですよね、連れ子同士の結婚に問題はないのですよ」

「ああ」

「お兄様……」カラスの肩に手を回した。そしてそっと顔を近づけてくる。

 目が潤んでいる。睫毛を震わせ、吐息が触れ、そして―― 

「こら」押しのけた。

 チコはムスッと頬を膨らました。

「大丈夫だから落ち着け、僕がチコを守るから。」


 しばらくして紅葉が戻ってきた。

「やっぱり誰もいない。外にも出てそこらへん歩いてみたけど人っ子ひとりいないよ、居たら困るんだけど。そっちは?」

「誰も来てません」とカラス。

「そっか……」ちらりと腕時計に目をやる。

 時刻は既に二時を回り三時に近い。

「…………うっ、うぐっ」チコがしゃくり上げ始めた。

「チコ」

「だって、だって……」

 ダムは決壊し、止まらない。

「う、うぅぁ、うぅああ、うぅ、ううああああああああああんっっ!!」

「かわいそうなチコちゃん」紅葉がチコを抱きしめた。「泣かないで」

 だがチコの嗚咽は止まらない。静寂に包まれた校舎がチコの叫びを反響する。

「だいじょうぶだから、チコちゃんはここにいていいんだからね」

 ――今日からここを、私たちの家にしましょう。

 そんな言葉を聞いた気がした。  

 

     *


 午前も三時半を周り、チコはやっと落ち着いた。

「でもね、泣いてばかりじゃどうにもならないし、せっかくこんな大変なことしてるんだから、おこぼれくらいには預かりたいよね」

 ということで、家に様子を見に行くことになった。

 カラスにしても大いに興味はある。父がどんな顔で今この時間を過ごしているのか。

「イタズラだってバレた可能性は否定できないけど、それにしたって確認にも来てないからね」

 その通りだ。 

 深夜のあぜ道を行く。雲に翳る月はそれでも世界を煌々と照らしている。こんな満月の夜は人が狂うと聞いたことがある。その症状をなんといったか、ああそうだ、ルナシーだ。

 虫の鳴き声が耳に障る。

 チコは延々と涙を拭っている。足もとがふらつき、カラスはおぶってやることにした。

「ありがと……おにいちゃん」幼児のようにおぶさった。いつもとまるで違う。衰弱しきって地が出てしまっている。

 驚くほどに軽い。チコが頭をもたせかけてきた。すぐに寝息を立て始める。

「聞いてもいいですか」とカラス。

「なにー」

「前に聞きそびれてしまった、紅葉さんにとってのメリット」

「あー」間延びした声。「そうだねー、説明するのはとてもむつかしいんだけど……ただ、出会っちゃったからさ、カラスくんと。これはもう運命かなって」

「運命?」

「あ、ごめん今のナシ。何言ってるんだろワタシ……。これはワタシがしたくてやってる『気持ちいい』ことなの。だから、神さまに決められたことなんかじゃないね」

「紅葉さん、言いたくないことなんですか?」

「ごめん、ちがくて、自分でも整理できてないの。そういうことってあるでしょ、そうしたいけど、でもその理由をうまく伝えられないってこと。ないかな、それが自分にとってあんまりよくない結果を生んじゃうのは目に見えてるのに、そうせずにはいられないってとき」

「それは」カラスは考える。どうだろうか、あるだろうか。

 あるいはそんなこともあるのかもしれない。

「なんだろうね、ただワタシももう限界だったんだろうなぁ」

「紅葉さんがあの場所にいつも来ていたのは、やっぱり何かつらいことがあるからなんですか」

「そうだねー、ワタシにもカラスくんたちと同じで色々あってさ……特にお母さんとね。お母さんの苦労は知ってるし感謝もしてるけど、譲れないものって誰にでもあるじゃない? ずいぶん色々と考えてきたんだけど、ワタシあんまり賢くないから頭こんがらがっちゃって、もう何をどうしたらいいのかわかんなくなっちゃったの。疲れちゃってさー、そんなときにあの廃校を見つけたの。すごいな、って思った。この空気、たまんないなって。スウゥって染み渡るの。ただぼんやりしてるだけですごくホッとできた。カラスくんだって似たようなものでしょ?」

 カラスは頷いた。

「ここがいいって心から思えた。ここしかないって」

「僕もそう思います。僕もあそこは特別な場所だと感じています」

「そうだね、ワタシたちはとてもよく似ているから」紅葉は目を細める。月明かりに照らされたその笑みにドキッとする。「キミのことは他人とは思えないんだ。どうにかしてあげたいと思ってて、結局ワタシはどうにもできなかったけど、カラスくんには未来があるから」

 紅葉は屈んで桜のひとひらを摘み上げた。

 それを手のひらに乗せ 

 フッ

 と吹いた。

 ヒラヒラと舞い落ちる。

「生きるのって、むつかしいよね。特にキミみたいなガラス細工のように脆い子にしたら、どうやって身を守ったらいいのかわかんないよね。ちょっと気を抜くだけでパリンと割れてしまうんだもの、だから張り詰めて張り詰めて、それで疲れないなんてウソだよ。でもさ、そうやって生きていくしかないんだよね。そうしないと生きていけないから、張り詰めて張り詰めて、なんとかやっていくしかないんだ。……けどね、けど、ワタシはそんなの間違ってると思う。おかしいのはどっちかって聞かれたら、迷わずキミじゃないってそう答えたい。お姉さんはキミのことが好きだから、キミには気持ちよく生きてもらいたい。だって悔しいよね。そんなのおかしいよね。だから、だからそのために、あ、そうか」

 不意に紅葉が立ち止まった。カラスも立ち止まる。

 くるりと振り返り、言った。

「ワタシは、ワタシはキミのことが好きだからこんなことをしてるのかもしれない――」

 長い髪が流れた。

「キミに見てもらいたいんだ、ワタシのすべてを、ね」

 その笑みは、今でもカラスの心に焼き付いている。

「ね、腕組んでも、いい?」

 チコを背負ったまま腕を寄せると、腕を絡めてきた。

「えへへー」嬉しそうに頬を寄せる紅葉にカラスは耳まで朱に染まる。

「ね、ね、カラスくんは彼女さんいるの?」

「いませんよ」

「そっかー、いないのかー」

「お姉さんは、あ、あの、お姉さんはいるんですか、その、恋人は」

「あ、またお姉さんって呼んでくれた! えへへ、うれしいな……」


 ふたり月に向かって歩く。

 瞬間、その横顔が陰って見えた。



「いつ見ても大きな家だよね」

 先導する紅葉にこっちこっち、と手招きされる。

「ここからは静かにね」と紅葉。口元に人差し指を当てる。

 カラスはチコを降ろした。

「あ、おはろーおにいひゃん……」

 フラフラと足取りがおぼつかない。夢うつつに目をこすり、家だとわかると背筋を伸ばした。

 気配を消し窓際に近づく。父の部屋。

「暗いね」と紅葉。

 部屋に電気は付いていなかった。

 まさかもう寝てしまったのだろうか、それともちがう部屋にいるのか。

 カーテンは閉められていなかった。中を覗き込もうと頭を上げる。

 と、耳慣れた声が届いた。

 

 は、ん……。


「――――」

 硬直する。 

 

 あ……ああ、いや…………あっ

 

 チコはそんなカラスの様子をみてきょとんとしている。

 紅葉が中を覗き込んだ。

「うわー、まさかこんな夜に……」

 カラスもそれに続いた。そっと中を覗き見る。

 そして眼前の光景に直面した。


 裸のふたりが絡まっていた。

 くんずほぐれつ汗を滴らせていた。

 片方が上になり、もう片方が下になっていた。

 腰を振るその表情は苦悶に歪み、受け入れるその表情は恍惚に輝いていた。女は涎を垂らしている。


 はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ ああ…………


 男の低い声が響く。


 あ……ぅううう…………はぁああああん あぅう ああぅ


 猫の鳴き声に似た声が脳を刺激する。

 ふたりは姿勢を変え、男が後ろに回る。顔がこちらを向く姿勢になった。すぐさま頭を下げる。

 月夜の差し込む部屋で男は女を後ろから突く。

 女の嬌声が一際高くなり、脳を掻き乱される。

「あ」見れば、チコが背伸びをして覗いてしまっていた。

「チコ」頭を下げさせると壁に背をあずけ呆けた。

「…………」ぼんやりしている。

「チコちゃんって三年生だよね。この状況理解できるの」紅葉が囁いた。

「どうだろう、そこまではわかりません」

「かわいそうなチコちゃん」

「紅葉さん、紅葉さんは父のことを知っていたんですか」

「どうしてそう思うの?」

「だって、あまりにもこの家の構造を知っていたから」

「ああ、そっか」頭を下げ壁に背中をあずけて、「お母さんがねー、カラスくんの家でメイドやってるから。ほら、こんな絡みつくような声を上げてるひと」

「え」


 はぁぅうううぅううぅあぁああぁぁああううぅううぅううんっ!!


「あのひとね、愛人なんだ、キミのお父さんの。キミはあのひとに気を許していたみたいだけど、陰ではこんなことしてたんだよ」

 ハッとする。たしかにこのふたりは似ていた。重ね合わせることもあった。

「カラスくんのお父さんもスゴイけどね。奥さんが病気で苦しんでるのに夜な夜なこんな火遊びして、自分のせいで苦しんでるっていうのにね」

「紅葉さんは……」言葉を探す。「紅葉さんは前から知っていたんですか、その、このことを」

「うん、知ってた。あのひと、お母さんね、突然あんまり帰って来なくなってね、問い詰めても教えてくれないから後を付けたらこんな感じで。バカなひとなの、聞いてないかな、あのひとの元旦那さん、ワタシのお父さんのこと。ワタシのお父さんね、ワタシが産まれたその日に浮気相手のひとと蒸発しちゃったんだって。お母さんはその日までずっと自分が愛されてるって信じ込んでたみたい。だけど……どのみちそういうひとに捕まっちゃうみたいだね、あのひとは」

「…………」

 三人壁に背をあずけ座り、行為が終わるのを待った。


     *


「――でも、本当によかったの」と、楓の平静と同じ声が響いた。

 衣擦れの音も聞こえる。服を着ているのだろう。

 耳を澄ます。

「良いも悪いもない」と父。「現場に行くなどありえん。要求は金だが、それが本当とは限らんからな。政治絡みでの恨みつらみなら数え切れんほど買った。行ったら刺されるということもありえる話だ。俺はどうも嫌われてるらしいから、な」

「でも、これじゃあふたりが」

「これからすぐにでも警察に届ける。仕方ないだろう、こんな状況では。少しは迷ったが、万が一を考えればこれが最善だ。バッシングを受けたらそのときはそのときだ、うまく立ち回ってみせる。なに、俺だって被害者だ。懺悔の記者会見で涙でも見せれば同情も買えるだろう、特にカラスたちが本当に殺されていればな。むしろ好感度がアップするかもしれん」

 ハハハと笑う。冗談のつもりなのか。

「俺はまだ新人の部類だが、ただの新人じゃない。マスコミからの注目度は随一だ。これまでの仕事だって評価されている。こんな狭い田舎の主で終わるつもりはない」

「……ふたりの安否は、どうでもいいっていうの」

「阿呆が、寝ておいてよくそんな口が利けるな」

「…………」

 沈黙が降りる。

 ガチャ、と扉が開く音が聞こえた。次いで玄関の方からスクーターのエンジン音が響いた。

 楓が帰ったのだ。

 チコは膝に頭をうずめていた。小さなからだがガクガクと震えている。

 頭を撫でてやる。

「ふたりとも、落ち込むのは当然だけど、きちんとこの光景を目に焼き付けておくの。これがふたりの望んだ答えなんだよ」と紅葉。少しきつく。

「こんなの…………こんなのうそ」

「チコちゃん、逃げちゃダメ」

「は…………はぅ、は……はっ、はっ、はぅ、はひっ、ひっ」チコの鳩尾が大きく脈打つ。

 いけない、過呼吸気味だ。

「チコ、ゆっくり吸って、吐いて」

 背中をさすると、

「ひぅううううううううっ!」

 チコの呼吸音が静寂を破った。

 ガタタッ、と中で音がした。

「おい、誰か、誰かいるだろう?!」父の怒声。恐れが混じっている。

 ガタガタと中で音が響き渡る。武器になる物でも探しているのか。

「ねぇ、カラスくん」ジッ、と視線を捕らえられた。

 生暖かい吐息が顔にかかる。玉葱のような匂いが香る。

「言ったよね、ワタシ、キミに見てもらいたいの。ワタシのすべてを。だから、見ていて。目を逸らさないで、見ていてね」

 ――――。

「おいっ!」

「…………」

 ス、と紅葉は音もなく立ち上がった。

「ワタシだよ。ごめん、驚かせちゃったかな」

「お、お前っ」父に動揺が走る。

「見ちゃってさ、隠れてて。ちょっとショックで独り言が」あははー、とあどけなく頭を掻いてみせる。

 窓を開け、よいしょ、と足を伸ばし窓枠を上った。

「おじゃましまーす」小声で。

「そうか、そうだったか」その声で胸を撫で下ろしたのがわかった。

 カラスはそっと中を伺う。

「疲れた」ギシィ、とベッドがかしぐ。父が腰を降ろした。「まったく今夜は疲れた」

「そりゃああんだけ激しくしてればね」と紅葉。

「そうじゃない、子どもたちがさらわれたらしい」

「えっ」

「これからどうなることか、面倒なことになった」

「それで、それでふたりは」

「知らん」

「知らんって……」

「指定場所には行かなかった。わかるだろう、それがどれだけ危険なことか。利権絡みだと人は簡単に道を踏み外す。これから警察に届ける。するなと言われているがな」

「だけど、だけどそれじゃあ二人は」

「神のみぞ知る、ってところだな。俺としてはどちらでも構わない。死んだら死んだでもし糾弾されたときに役に立つ。諸刃の剣だが、うまく立ち回ればどうってことはない」

「危ないのはその通りだけど……でも、ふたりはきっとあなたのこと待ってるよ。それなのに」

「俺だって心は痛いさ。情もある。チコは俺の子じゃないが、カラスは俺の子だ。似ている部分だってある。しかし、な、あいつはことある毎に俺に楯突くようになってきた。別にいなくなったらなったでそれでもいい」

「…………」

「今さらそんな顔をするな。俺がこんなだっていうのはよく知っているだろう」

「べつに、ショックなんて受けてないよ。ただ、きちんと確認させてあげたかっただけ」

「確認、させてあげたかった?」

「あ、ううん、したかった」

「なぜ」

 ギシィ、とベットがかしぐ。紅葉は父の隣に腰を降ろした。

 その首に腕を回し、首筋を舐める。舌がなめくじのように跡を引く。

「お母さんって本当にバカだなって、笑えるから」

「酷い娘だ。親不孝者にも程がある」

「なぁに、病気に苦しむ奥さんを放っておいてあんなことしてるひとに言われたくない」

 父の一物がビクンと跳ねる。父はまだブリーフを穿いていない。

 紅葉は舌を下へ下へと這わせる。へその辺りを丹念に舐める。

「お母さんの味がする」

「今夜はだめだ」と父。「時間もないし、気力もない」

「目のまえのこれを見て、信じられると思う?」

 そそり立ったそれを指でつつく。

 やれやれ、と父は溜め息を吐いた。

「母との行為を見たあとで誘惑とは、心が壊死してしまっているんじゃないのか」

「そうかもね」と紅葉。「いつからだろう、こうなってしまったのは」

「なにを言っている」父が紅葉の顎を掴んだ。顔を上げさせ、唇に吸い付いた。

「あぶっ、んっ、ぶぶっ、うぶっ」

 紅葉が目をつむる。

 ジュルッ、ズジュルッ、ジュブブブブッ、

 父が紅葉の腔内をまさぐる音が響く。

 そしてそのまま上に覆い被さった。

「待って」紅葉が父を制した。口周りがよだれで光っている。「ちょっとやっぱり……恥ずかしい、かも」

「ぶはっ」盛大に吹き出した。「今夜は本当におかしいな。今さら恥ずかしがって、何が恥ずかしいというんだ……お、なんだ、本当に頬が赤い」

「…………うっ」紅葉の顔がみるみる染まっていく。耳まで染まり、目が潤んでいる。「だって、見られてると思うと、なんだか……」

「童女のようだ、初めてのときを思い出す」と父、真顔で。「これはいい……そそる」

 父が静かに顔を近づける。吐息が紅葉の顔に触れる。紅葉は上目遣いに窓を見る。カーテンの隙間からカラスの顔が覗いている。目が合う。紅葉の瞳は潤んでいる。カラスは紅葉をじっと見つめる。紅葉もじっと見つめる。

 すぐに紅葉の顔は父の頭で隠れた。

 父が紅葉の口を口で塞ぎながら制服を脱がしていく。しかしその体勢ではうまく脱がせられず、ボタンがひとつふたつはじけ飛ぶ。そのうちにもどかしくなったのか動作が荒くなり破ける音まで聞こえる。鼻息が荒い。

 紅葉は腕を胸の前で交差している。顔を逸らし、初めての乙女のように縮こまっている。

 父はその腕をどけ、ブラジャーを上に持ち上げる。ピンク色の突起が露わになる。上向いて、ツンと自己主張している。はぁ、はぁ、と紅葉の吐息が聞き取れる。父は突起に吸い付く。紅葉のからだがビクンッと震える。

 父は胸に吸い付きながらも左手を下げ、足の付け根に持っていく。パンツに上からその部分をカリカリと掻く。そこは既に濡れている。

「すごい、すばらしい、なんでだ、今夜はどうして――」

 父が嬉しげに顔を上げ、その部分を見る。そしてパンツを脱がす。

 人差し指を差し入れ、引くと、糸が伸びる。

 紅葉は顔を腕で隠し、恥ずかしがるように身体をくねらせている。

 父は少女の浮き出た肋骨を掴み、ヘソに舌を差し入れる。そしてそのまま下に持っていく。

 熱く香り立つ湿地帯に唇を付け、舌を蠢かせる。

「はぁうんっ!」

 ビクンッ、と大きく紅葉の腰が浮く。

「あっ、あっ、あっ、あっ!」

 腰を浮かしながら左右に振る。足の指がピンと伸びている。父はそれでも顔を足の付け根から離さない。

 父の顔が紅葉の足の付け根から生えているように見える。

 ジュバッ、ジュル、ズジュルッルル、ジュズルッ、

 唾液音が響き渡っている。

「いたっ!」

 紅葉が腰を下げる。右足に毛深い手を添え悶え苦しむ。

「どうした」

「足が、足攣って」右足を攣ったようだ。裸のまま悶え苦しむ。苦悶の表情。涙がボロボロとこぼれ落ちる。

「…………」父はその右足を掴み、力を込めて握った。

「ひぎぃ!」紅葉が上半身を起こした。口を大きく開き、涎を垂らし、瞳孔を開いて父を見る。

 父が右足を強く揉む。

「はぅ、は、はぅ、ああそ、しおおおお、ぁあぁぃひああいおお」バタバタと身体を踊らせる。

 父の口元は歪んでいる。

 やがて落ち着き、


 は……はふ、は、ひ…………はぃ、はぅ、は、ひあ……あん、は、は、は…………………。


 紅葉はぐったりと動かなくなる。みぞおちが深く伸縮し、目も虚ろに涎を垂らしている。

 父はそそり立ったいちもつを少女の口元へ持っていく。黒くそそりたったそれの血管は浮き出て脈動している。

 少女はペチャペチャと音を立ててそれを舐める。目の焦点が合っていない。


 ペチャペチャ、チュルチュル、チュルルウウウッ、チュッ、チュッ、チュッ、


 先端の溝をピンク色の舌で刺激すると父が腰を引く。

 少女はそこを重点的に舌で責める。すると父は少女の頭を掴み、口内に深く差し入れた。

 少女が咥えながら咳き込む。


 あぶっ、ぶふっ、あむ、んむっ、


 父が腰を振る。少女はそれをなんとかくわえこむ。唾液が滴り顎を伝い鎖骨に流れる。そして小さな双丘を濡らす。少女は汗を掻きながら男の太く硬く黒く醜いものを必至に加えている。華奢なからだは濡れて月夜に反射している。少女の荒い鼻息が聞こえる。

 カラスは勃起している。

 父が腰を引くと少女の口から長く糸が伸びる。少女は口を拭う。体の力が抜けてぼんやりしている。

 父は少女の頬を張り、倒す。そしてその足の付け根に硬く長いそれをあてがう。腰を引き、入れる。


 あっ


 少女から声が漏れる。父は腰を前後に動かす。眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべる。


 はぅ、は、ん、あん、は、う、うぅううううううぁああぅうううっ、はっ、はっ、あっ、


 少女の瞳からとめどもなく涙が溢れ、何度も何度も拭うが溢れ、そのうちに嗚咽を上げ始める。

 少女は泣いている。男を中に受け入れながら泣いている。


 やがて父はそれを抜き、少女のからだを起こす。少女の目は赤く染まり、ゴシゴシと童女のように涙を拭っている。だが涙は溢れて止まらず、涙と鼻水と涎が顎を滴り鎖骨へ流れる。つぶらな胸を濡らす。

 父は少女の細い腰を掴み上にする。少女が父の上にまたがり、硬くそそり立ったそれをあてがい、腰をゆっくりと降ろす。


 は


 少女から声が漏れる。そして腰を回す。

 父から低い声が漏れ、少女は無心で腰をくねらせる。そして今度は前後に動く。何度も何度も涙を拭い、顔はくしゃくしゃになっている。

 月明かりに照らされて、少女が毛深い男の上で腰を振っている。小さな胸と長い髪が揺れる。汗が飛び、涎と涙でからだは濡れている。

 不意に、目が合った。

 そして少女は涙を拭い、目を細めて恥ずかしげに微笑んだ。


 ――――――あはっ。


 その後ろ、少女が男の上で腰をくねらせているその後ろに影が見えることに気が付いた。

 影は半開きの扉の向こうで佇み、ふたりの行為を見ていた。そしてすぐに姿を消した。

 カラスは頭を下げる。壁に背をあずけ、月を見上げる。

 妹は隣でずっと耳を塞ぎ震えていた。手を引き、場を離れた。

 甘い吐息とベットの軋みが遠ざかる。

 丸い月を見上げると、今にも零れてしまいそうに見えた。


 母を、捜そう。


 二時間後、チコが母を見つけた。

 倉庫の中、首を吊って死んでいた。



「やあ、来たねカラスくん」

 ピアノの上、紅葉がいつものようにカラスを迎えた。足をブラブラさせている。太ももがちらりと覗く。

 カラスが小さく頭を下げると紅葉は奥からお菓子とお茶を取り出してきた。

「粗茶ですが」

 お茶のペットボトルとポッキーを渡される。ポッキーの袋を開け、かじる。紅葉もポッキーを咥える。

「ふむぅ、なんかしけってるね」

「はい」

「最近会ってなかったけど、調子はどう?」

「おかげさまで」

「おかげさまで、とは」

「はい」

「はい、じゃわからん」笑う。

「紅葉さんこそ、どうなんですか」

「ワタシ? ワタシは、うーん、まあぼちぼちかな」

「ぼちぼち、ですか」

「うん、ぼちぼち」紅葉は大きく口を開けパクッとポッキーを口内に滑らせた。「お父さんはどんな感じなの?」

「連絡は取ってないんですか」

「取ってないよ、さすがにね」

「そうですか……大変です、色々と」

「まあ、そうだろうね」

「…………」

「…………」

 沈黙が降りる。

「あ、そうだ」と紅葉。バックから封筒を取り出した。「これあげる」

 受け取るとズッシリと重い。中を覗くと札束が詰め込まれていた。

「二千万だよ、カラスくんが受け取るはずだった。キミのお父さんの金庫から勝手に持って来ちゃった」もう一本ポッキーを口に運ぶ。「知ってたの、二千万保管してるって。それはカラスくんのもの、なんにも遠慮なんていらないんだよ。どう使おうが、それはカラスくんの勝手。なんでも買ってもいいし、家に帰りたくないならそれで家出すればいいし」

 カラスはひとつ大きく息を吐く。

「紅葉さんは、これからどうするんですか」

「ワタシ? ワタシは、東京へ行くの。お母さんがね、そう決めちゃって」

「東京?」きょとんとする。「東京、ですか」

「うん、たぶん一からやり直したいんだと思う。こんな片田舎でずっと育ったから、環境を変えてみたいんだと思う」

「そう、ですか」

「うん」

「…………」

「…………」

 沈黙が降りる。

「母が」

「え?」

「母が、死んでしまいました」

「あ……うん」

「チコが、引き籠もってしまいました」

「チコちゃんが?」

 カラスは小さく頷く。

「チコちゃんが、そっか、見ていられなかったんだね……」

「…………」

「カラスくん、カラスくんは見てくれた? ワタシのすべてを」

「…………」

 カラスは思い出す。あの夜の情景を。

「はい、お姉さんのすべてを見ました」

「…………うぅ」紅葉の頬が見る見る赤くなる。耳まで染まる。「その言い方、なんか、恥ずかし……」

 視線を逸らし、はぅううう、と息を吐く。

「でもそっか、見ててくれたんだね。よかった」

 照れて笑った。

 チョイチョイと手招きされ、歩み寄ると抱きしめられた。やわらかな胸の感触に包まれる。目をつむる。

「帰ってきてくれますか、ここに」とカラス。

「うん、いつかね。いつか帰ってくるよ」優しい声。頭を撫でられる。

「いつですか」

「いつかね」

「ほんとうですか」

「ほんとうだよ」

「約束してください」

「うん、約束する」

 チュッ、と額にキス。

 顔を胸のなかで転がす。

「この甘えん坊さんめ」紅葉の心臓の鼓動が聞こえる。「まるで子どもだね」

「ぼくは子どもです」とカラスは答える。「おろかでやせっぽちの子どもです」

「うん、そうだね」子をあやすように。「でもお姉さんは好きだな、そういう子。応援したくなっちゃう」

「僕も、お姉さんのことが、好きです」

「ありがと」

「…………」

「ワタシにはできなかったけどさ、カラスくんにならできるよ。こんな世界でも、ちゃんと立派に生きていくことができる。お姉さんは、そう信じてる」

「…………」

「それはとっても、むつかしいけどさ」

 紅葉が身体を離す。ふわりと花の香りが鼻孔をくすぐった。

「つかれたなぁ。ほんとうにつかれた」んんーっ、大きく伸びをする。

「あの、待ってますから。お姉さんのこと、ここで待ってますから」

「うん、ここはワタシたちの家だもんね」と紅葉。ピアノから降りた。「でもカラスくん、ここは仮初めの家でしかないんだよ。ワタシたちの家は、ほんとうは他にあるの」

「え」

「誰の目にも届かない、深い深い森のなかに、ね」

「それはどういう――」

 目を細めて、

「だって、ここじゃいつか見つけられちゃうでしょ? そんなもろい家なんて、楽園とは呼べないよ。三匹の小ブタのように、いつかワタシたちの家をワタシたちで作り上げるの。誰も知らない森のなかに家を建ててね、静かに暮らす。それがワタシの夢」

「夢、お姉さんの、夢」

「うん。雪深い山のそばでね、ひっそりと、誰にも知られずに暮らす。そこがね、ワタシたちのふるさとになるの。家にね、なるんだよ。静かで、心から落ち着けるあったかい家に。ほら、想像してみて。素敵だと思わない?」

 カラスは想像する。北の国、雪に埋もれた山のふもとの森で、お姉さんとチコと三人暖炉を囲んで暮らす。

 食卓にはあたたかなシチューが並び、チコが一日の出来事をふたりに語って聞かせる。凍った川でスケートをした、こんな時期なのにクマの足跡を見つけた。

 ふたりは微笑んで聞き入り、チコは大きな身振り手振りで子どもらしく説明する。もちろんそこにはなんの遠慮もない、心からの笑みがある。


 それは、まるで聖域――。


「カラスくんに任せていいかな、お姉さんの夢。お姉さん東京へ行っちゃうからさ」

「…………」

 カラスが頷くと、紅葉はカラスの頬に手を添えた。

「あはは、ありがと。待っていて。キミがどこにいても、お姉さんは会いに行くからさ」

 ゆっくりと顔を近づけて、

「だから待っていて、ワタシのこと――」

 チュッ

 唇とも頬とも付かない場所へのキス。

 顔を離し、

「なんてね」

 ひまわりのような笑みを浮かべた。

 そして教室の戸まで歩き、


 bye bye


 静かに去っていった。


 ……………………。

 ……………………。

 ……………………。


 カラスはしばらくその場に立ち尽くし、ぼんやりと廊下を見つめた。

 そしていつも紅葉がしていたようにピアノの上に寝転がった。ごつごつと硬く、ひんやりと冷たい。

 風が吹き抜け、変色したカーテンが揺れ、小鳥がさえずっていた。春が、過ぎ去ろうとしていた。もうじきジメジメとした梅雨がやってくる。

 しずかに目をつむる。

 息を吸い、ゆっくりと吐く。

 音が、遠ざかっていく。

 世界が、遠ざかっていく――  








 ドンッ


 外から炸裂音が響き、立ち上がり、窓から外を確認すると、真下で紅葉のからだがひしゃげていた。



 カラスとチコは廃校の修繕に取りかかった。

 修繕といっても抜けた床や割れたガラスなど危険な箇所を補修するだけだ。

 焦ることはない、ゆっくりと事を進めていこう。

「おにい」チコが言った。「なかまは、どれくらい集めるんだ」

 それはわからない、とカラスは言う。

 いったいどれくらい集まるのか、見当も付かない。

「ま、ほしゅーなんててきとーでいいよな。ここにずっといるわけじゃないんだし」

 散らかしているとも片付けているとも付かない手付きで割れたガラスを離れたダンボールに投げ入れていく。

 カラスはチコの頭を叩いた。あぶない。

「ひっでー! おにい、それがかわいい妹にすることかよー、きちく! あくま!」

 カラスはそんな怒り顔を見ながら思う。

 少なくとも、お前の兄ではない。

 チコは、引き籠もってしまったのだ。留守を任されたのは粗野な似ても似つかぬ少女だった。

 しかも少女は世界を見ることをやめてしまっていた。おそらくは、天井からぶらさがった母を見つけたその瞬間に。

「あでっ」チコが机にぶつかった。まだ見えない生活に慣れてはいない。「いてぇーなこのー!」

 机に八つ当たりしている。


 焦ることはない、とカラスは思う。

 手持ちの二千万だけでは不安がある。できるだけ貯めておく必要があるだろう。もし可能なら、そんなシステムを構築できればいい。みんなでお金を貯められるシステムを。

 そこに行けば、チコだって戻ってきてくれるにちがいない。

 だってそこは、しずかで、あたたかくて、誰にも犯されることのない、僕らの家――聖域なのだから。


 北へ、行くのだ。


 了

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子どもたちの風景 あしなむ @a674

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