リビングデッド

「おにい、ちゃん」

「ん?」兄は振り向く。「なに?」

「あのぅ、えと……」もじもじと、「お風呂、入らない?」

「んん~?」兄は微苦笑を浮かべる。「もう卒業するって、言ってなかったかぁ?」

「そ、それは……」顔を伏せ手を揉み、「それは、あの、そうなんだけど、えと、あぅ、さ、さみしくて」

「んー、でもお兄ちゃんもさ、ほら、世間体ってものがあるじゃんか。もしお風呂入ってる時にさ、このアパートに父さんや母さんがやって来たりしちゃったらあらぬ疑いをかけられちゃうからさ」

「それはだいじょうぶ」妹は兄の腕に抱きついた。「だって、兄弟は小学校を卒業するまでは一緒にお風呂に入っていいんだって、マンガで読んだから」

「まったく、今どきのマンガは」やれやれと首を振る。「でもお兄ちゃんはもう中学二年だから」

「わたしが小学校四年生だからセーフ」腰に抱きつく。「えへへ」

 兄は一つ息を吐き、妹をひょいと抱え上げた。

「しょうがないなぁ。じゃあ、入ろうか」

「やった」

 妹は「ちゅっ」と口づけした。

 顔を離すとえへへと微笑み、もう一度口づけした。

 兄は額をぴったりとくっつけて髪をくしゃくしゃとした。

 ふたりは笑い合って、そして服を脱ぎ始めた。


 ほのかに色づき始めた妹のからだを意識しないように努めた。



     1


 小鳥は兄のことが大好きだ。

 理想像を具現化したかのような兄、ついつい甘えすぎてしまう。昔は不憫で見ていられなかったが、三年前に起きた事件をきっかに万事うまく行き始め、健やかに生きられるようになった。

 ふたり、幸せに生きられるように。

 謙遜抜きに全国屈指のサッカープレーヤーとなり、かつてはあれほど白い目を向けられた肌の色も、もはや気にする者はいない。

 ほんとうに、すべてがうまくいっている。

 兄は将来プロへと進み、国を代表するプレーヤーとなるだろう。それだけの才があると、小鳥は信じて疑っていない。


「ね、これどうかな? 似合う?」

 母がショッキングピンクの派手なタイトスカートという格好で腰に手をあてるポーズを取った。声をかけられた兄は顎に手をあてる。

「母さんにはちょっときびしいんじゃないかなぁ……」

 母はムッと口を尖らせて、「え、待って待ってちょっと待って。え、ちょっと考えさせて。それって、どういう意味かな? きびしい? え、きびしいってなんだろ?」

「きびしいっていうのはだな」横から父が「足の太さと主に年齢が」

「ちょっと黙ってて」鋭い眼光に父は口をつぐむ。「ね、小鳥」声をかけられ小鳥が顔を上げる。「お母さん、似合ってるよね? 似合ってるでしょ。似合ってるに決まってるじゃない。似合ってるって言いなさいよ、ねえ」

「似合ってるよママ。ばっちりだよ」微笑んで、「ママの為に作られたようなスカートだよね」

「でしょうそうでしょ」満足げに頷き、大きな姿見で自分の姿を確認する。鼻息荒く、くねくねとポーズを決める。

「ある意味」

「え」母が振り向く。

「どうしたの?」きょとんとして小鳥。

「ううん、なんでも……」母は訝しげな表情を見せたがまたポーズを取り始める。

 小鳥はニシシと白い歯を見せる。

「ある意味」と父も呟いた。

「ある意味」と兄も呟いた。

 そして三人は視線を合わせ、小さく笑い合った。

「あ、そういえば」母が振り向いた。「静岡のD校から電話があってね、今度挨拶に来たいそうよ」

「D高っ」父の目が輝いた。「D校っていったら、国内でも指折りの強豪校だな。いや、ほんとうにすごいなお前は。そんな高校からも誘わるなんてなぁ」

「やだD校じゃもったいないわよ」母が目尻を下げて、「この子くらいならプロとか世界も目を向けて考えるべきなんだから」

「気が早いって」兄は笑う。「まだ中学二年なんだよ?」

 けれどふたりは揚々と相談を始めてしまった。

「世界か、たしかにそれもありだな。うん、しっかりと調べてみるか」

「そうよ、国内にしろ海外にしろ、プロだって視野に入れるべきなんだから。この子みたいな天才は早いうちから高いレベルでやるべきなのよ」

 小鳥は兄と視線を交わし苦笑する。こうなってしまうと長いのだ。

 兄の側に座り肩に頭をもたせかると撫でてくれた。

 やがて父はどこかに電話をかけ始め、母は頬を紅潮させ眉間に皺を寄せて自室に戻った。はてな、二人が首を傾げていると、どすんと二階から鈍い音が響いた。どうも意見が食い違ったらしい。父は意に介さず受話器を手にどこかの国の言語を喋っている。

「おにい、ちゃん」上目遣いに、「おにいちゃんは、卒業したら、どうするの……」

 そう呟いて俯いた。細い肩が小刻みに震えている。

 兄はフッと微笑んでやさしい声音で言った。


「だいじょうぶ、ずっと一緒にいるから。離しはしないよ、絶対に、何があってもさ」


     *


 日曜昼下がりのショッピングモールはもの凄い人出だった。

「この町にこんなに人がいたなんて、信じられないなぁ」

 兄がコーラから伸びたストローに吸い付きながら言う。コップは汗を欠いており、黒い液体が昇っていく。

「こんな小春日和だもんね。誰だってお外に出たくなるよ」お気に入りのパーカーに身を包んだ小鳥が言った。

「だからってみんなここに来なくても、なぁ」

「ここくらいしかないもん。それに出来たばっかりでみんな来てみたかったんだよ」

「ま、そりゃそうだろうけどさ」兄は目を瞑りストローを囓り始める。子どもみたいな仕草がかわいい。

「あ、さっきクラブの奴に会ってさ、それがなんと彼女連れててさ、しかも相手がマネージャーでさっ。びっくりしちゃったよ素で」

「そりゃお兄ちゃんくらいの年になれば恋人さんのひとりやふたりいるものだもん」

 小鳥は生クリームが山盛りになったフルーツパフェにスプーンを差し入れる。奥の方にあったパイナップルを掬い取り、口に運ぶ。

 んにゃぁぁ、思わず吐息が漏れた。

「それにわたしの学年ですら好きな男の子の話で盛り上がったりするんだよ? なにクンがかっこいいとか、なにクンがやさしいとか、なにクンがなにサンのことを好きだとか。みんな男の子のことで頭がいっぱいなんだから」

「へぇ」兄が顔を上げると、加えたストローの先から雫が跳ねた。パフェに落ち、それを掬って食べる。微かにコーラの味がしたするような気もする。「じゃあ小鳥もその輪に加わったりするんだ?」

「え」思いもかけない質問に、小鳥は固まってしまう。しどろもどろになってしまう。「え、あ、や、あの、うんと」

「べつに恥ずかしがることないだろ。自然なことなんだから。誰かを好きになったり、好きになられたりして、人は成長していくんだよ」

「いや、だからあのね」小鳥はバナナを口のなかでもごもごさせながら次の言葉を探す。言ってしまおうか、どうしようか。「わた、わたたたたしは、おに、おにに、おにににににににいちゃんはどうなのっ!? 誰かいないの、モテるんだからっ!!」

「俺は、だめだよ。全然だめ。モテないから」

「なんで、おにいちゃんのこと好きな人なんてたくさんいるよ。バレンタインだってすごいじゃん」

「あれはな」兄は曖昧に微苦笑を浮かべた。そして言った。「あれは、俺を見て言ってくれてるんじゃないんだよ。俺の、輪郭を見て言っているだけなんだ」

「?」小鳥にはなんのことだかわからない。

 兄は続ける。

「時々、そんな視線が怖くなるよ。みんな、今は俺を見てくれてる。でも、もし俺がこれを失ってしまったら、みんなが期待してくれているものを失ってしまったら、またひとりぼっちになっちゃうって、それがわかるから。だって目が違う。俺じゃない、どこか遠くを見てる。でも、それでも構わない。みんなが俺を認めてくれるなら、それでもいい。もうひとりぼっちにはなりたくないから。もう俺は金輪際あんな日々には戻らない」

 コーラを見つめながら、半ば独白のように彼は語った。ぶくぶくとストローの先からは気泡が上がり続け、しかし彼は顔を上げない。それはもしかしたら彼なりの告白だったのかもしれない。先ほど小鳥が飲み込んだものを察したのかもしれない。気恥ずかしいのかもしれない。

 小鳥は目を細め、その手を取った。

「だいじょうぶだよおにいちゃん。おにいちゃんは、どんなことがあったってひとりにはならないよ。だって、小鳥が側にいるもん」

 しばしの間。

 やがて兄は顔を上げ、二人は見つめ合う。息を吐くように、

「俺も、小鳥と離れない。だって小鳥だけが、本当の俺を見てくれるから」

「…………」

「…………」

 小鳥はテーブルの下で兄の右足を両足で挟む。兄も小鳥のその両足を左足で挟み込み、テーブルの下、絡まり合う。

「……ね、おにいちゃん」

「……ん?」

「だいすき」

「ん」

 ――――。

 途端耳まで染めてしまう。ウブなのだ。小鳥は抑えきれずに噴き出した。余計に彼はカッカと火照り、もう氷しか残っていないグラスを必死に啜る。

 しあわせだなぁ。

 小鳥はこの甘酸っぱい沈黙をやりすごす為、ひいては彼を助ける為、目を逸らしてあげた。窓の外に視線を移す。

「――――」

 瞬間、固まってしまった。

「――ぁぇ」

 身も乗り出してしまう。

「ん?」異変に気が付いた兄が小鳥を見やる。小鳥は目を合わせなんとか答えようとするが動揺して言葉が出てこない。ハッとして指で指し示す。目を向ける兄。

「…………」

 固まる。

「――っ」

 そして、飛び出した。

 小鳥ももつれる足でその後を追う。

「おに、おにいちゃんっ」

 人混みを掻き分け、掻き分け、掻き分け、後を追う。やっと追い付いてみると、兄は噴水の前で立ち尽くしていた。

「お、お、にい、ちゃん」

 背中に触れる。そしてぜいぜいと息を整えながら顔を上げると、

「    ぁ」声すら、出なかった。

「ぁーっ、ぁーっ」

 そこには兄が立っていた。

 もうひとり。

「ぁーっ、ぁーっ」兄に肩を掴まれ、呻いているその少年。

 涎を垂らしだらしない笑みを浮かべ、鼻息荒くからだを左右に揺らしている。その浅黒い肌の色も、肩幅広くがっしりとした体格も、くるくる巻いた天然の髪も、少し潰れた耳も、眉が太く若干吊り目のその顔も、全て同じだった。

 見慣れたその顔。

 喪ってしまったと思っていた、もうひとつの顔。

「……小鳥」

 しばらくして兄が呟いた。

「これは、夢かな?」

「…………」

 兄の背中は小刻みに震えており、その目の前では同じ顔をした少年が涎を垂らし呻いている。周囲の人々が奇異の目で見ている。

「夢じゃ、ないんじゃないかなぁ」


 そこにいたのは、紛れもなくもうひとりの兄だった。


     *


 両親はその帰還を喜んだ。

しかし状況を把握し始めると、途端豹変した。

「この子……いったいどうしちゃったの? 狼にでも育てられたの?」

 母が露骨にいやな顔をしてみせる。声も一段低くなった。

「…………」

 父は言葉を発さない。顎に手をあて食事を手掴みに貪り食う彼を見つめている。一家の長としてどう対処すべきか悩んでいるのだろう。  

 ……そこには、どんな選択肢があるのだろう。

 小鳥の不安は的中した。

「わたし、イヤだからねこんな子と暮らすなんて。イヤ。死んでもイヤ。なんなのこの子。頭おかしくなっちゃったの? 昔はあんなに頼れてサッカーも凄かったのに、これじゃあ野蛮人以下じゃない。なによ、またサッカーやってくれると思って喜んじゃったじゃない」

「でも母さん、こいつは紛れもなく弟で」兄が言った。

「は? そんなのかんけーないでしょ。だって私のなかではこの子はもう死んじゃってるんだから。今更戻って来られても『だからなに?』って感じよね。この子がいなくなったときの絶望は忘れちゃいないわ。でもね、もう用はないの。バイバイ。それに私はこの子じゃなくて『あのときの優れたこの子』を引き取ったの。でしょ? こんな奴知らない。知るか。山へ帰れ。おい、食ってないで帰れ。帰れよてめぇ」

「やめないか」

 さすがに父も制したが母の怒りは収まらい。

「なによ! あんただって同じでしょ? 同じよね、同じって言いなさいよ、言えよ!」

「……いや、まぁ、それは……たしかに、な」語尾が掠れる。

 母の口元が歪んだ。

「でしょ? この子、また施設にでも入れりゃいいんじゃないの。こんな状態なんだし、誰も咎めやしないでしょ。むしろ同情してくれるんじゃない」

「ふざけないでくれ」兄が割り込んだ。

 母はビクッと兄を見やった。

 兄は冷たく、通る声で言った。

「帰ってきたんだ。弟が、帰ってきたんだ。それなのにまた離ればなれになんてなりたくない。俺は、こいつとうまくやれてなかった。だから今度こそはいい兄になりたい。こいつだって大好きな小鳥と一緒にいたいに決まってる。小鳥も一緒にいたいだろ? 大好きなちいにいちゃんと。……これは奇跡なんだよ母さん。奇跡が起きたんだ。ね、俺がこいつの世話をするよ。しっかりする。ふたりには迷惑かけないようにする。だから、母さん父さん」

「で、でもっ」母は狼狽し縋るように父を見る。兄の機嫌を損ねるわけにはいかない。

「…………」父は沈黙し目を伏せていたが、やがて兄を見据え口を開いた。

「なぁ、さっき母さんも言ったが、こいつはもういない者なんだ。それはわかるな? ――失踪、あれを失踪と言っていいのかわからんが、二年して葬儀も行ったし、私たちのなかではもう決着が付いてしまったことなんだ」

「父さん!」

「最後まで聞きなさい。……いいか、私たちは感情でこの家に置いけないと言ってるんじゃないんだ。率直に言えば、金の問題だ。情けない話だがこの家も裕福じゃない。そりゃ今は何不自由なくやれてるがそれはお前たちがまだ義務教育だからだ。これからたくさん金が入り用になる。父さんたちもな、お前たちの為に設計図を敷いてるだよ。きちんと不自由なくやれるように見通しを立てている。彼がそこに加わることはもちろん想定していない。……で、だ」

 父はひとつ息を吐いた。ゆっくりと目の前のグラスを手に取りウーロン茶を口に運ぶ。どこかその動作は白々しい。

「生活費、という問題があるわけだ。これはさて、どうする?」

「どうする、って……」兄の眉間に皺が寄る。

 そんなこと瑣末な問題だ。そんなことを言うべきではないのだ。会えないと思っていた家族が帰ってきたのに。

「そんな目をするな。子どものお前にはわからん。私には一家の長としての責任がある。犬猫を飼うのとは別次元の問題、それはわかるだろう。金だ、金。金が、ない。仮に施設に預けると決めたところでこっちで金を工面する必要があるのかもしれないし、そこだってちゃんと調べてみないとわからんのだぞ」

「…………」兄は沈黙している。

 彼の言い分もわかるのだろう。喉を鳴らし何かに耐えている。しかしわかるというだけで受け入れられるものではない。

「そうなれば設計図は台無しだ。お前たちにもかわいそうなことになってしまう。情にほだされて決断はできないよ。金の問題が、あるんだよ。こればっかりはどうしようもない」ふぅ、とまた息を吐いた。そしてわざとらしく、「なぁ、わかるだろう?」

「…………」

「ざんねんだよ、本当に」

「……ざんねんなら、置いてくれ」

「え?」

「俺が、払うよ。今すぐにはむりだけど、卒業したらどこかのチームと契約して、契約金で払う」

「なんだって?」その口元は緩んでいた。

「父さんたちにも今までの恩返しをする。だからこいつをここに」

「そうかそうか!」兄の肩を力強く叩いた。「それでこそうちの子だ!」

「お母さんも、感激した!」目尻に涙が溜っている。

「いや、でもいいんだ。そんな中学卒業したらすぐなんて言わなくていい。まるで父さんたちががめついみたいじゃないか。さっきはああ言ったがそこまで稼ぎが少ないわけじゃないんだぞ? 進路を決めるのはまだ早い。じっくりいこう」

 どうやら狙いは言質を取ることにあったようだった。これで彼らも安泰なのだ。

「うん、わかった。絶対にこの足で稼いで返すから。約束する」

「その心意気だ。な、母さん」

「誤解しないで、私だってこの子を置いておきたかったの、私がどれだけこの子を溺愛してたか知ってるじゃないの。ああ、ほんっとうによかった! もし施設になんて預けちゃってたら、毎日悲しくて円形脱毛症にでもなっちゃうところだった。ああー、よかった!」

 涙を拭う。とても清々しい表情だ。

「じゃあ、そういうことで決まりだな。お前の弟もうちに置くことにしよう。お前たちのアパートじゃ狭すぎるからな。それにお前の練習の邪魔はしたくない。せっかくサッカーに集中できるようにアパートを借りてやってるんだ」

 兄の顔が引き攣る。

 見え透いた嘘だ。彼らはただわたしたちと一緒に暮らしたくなかっただけなのだ。

「まぁ、ううん、しかたないか。これじゃあちょっといろいろあるからねぇ。検査とか教育やら、ねぇ。はぁあああ、めんど」

 母が盛大に溜め息をついてみせた。本音も漏れ、あっ、とわざとらしく口をふさいで、照れたように舌を出した。

 兄は頭を下げ、

「ありがとう、なら任せるよ。でも今夜は泊まっていっていいでしょう。一緒にいたいんだ、こいつと」

 そう言って弟を見た。つられて三人も見る。

 弟はいつの間にかテーブルに突っ伏して眠り込んでいた。

 すぐにぎーっ、ぎーっ、という地鳴りのようないびきが響き、母が顔を歪めた。



     2


 純血ではない。半分違う国の血が混じっている。

 肌も浅黒く、骨格からして日本人離れしている。

 どこの国とのハーフなのかは小鳥には言っていない。聞かれなかったし、小鳥も気にしている様子はなかったからだ。それはとてもうれしいことだった。

 だがこの事実は彼と、帰還した弟――小鳥にとってはもうひとりの兄を――苦しめた。彼ら双子のコンプレックスといってもよかった。

 遠い祖国で三歳にもならないうちに相次いで父と母を亡くした。世話を買って出る者もいなかった為、両親の旧知の友人である日本人に引き取られることになった。その女性の名をハルといい、そうしてふたりはこの国にやってくることになった。

 もちろん不安はあったが彼らはハルが好きだったし、ハルも揺るぎない愛情を持ってくれていたので幸せだった。子どもながらに恵まれた環境を理解し決してさみしいとは口にしなかった。心から感謝し愛していた。

 だが、悲劇は重なる。

 その後、ハルもすぐに亡くなってしまった。脳溢血による、突然死だった。


 引き取り手はやはり現われなかった。

 大人に手を引かれるままに養護施設に入所し、未だ片言の日本語で不安を抱きつつの共同生活を余儀なくされた。

 最初彼らは彼らなりにうまくやろうと努めたが、無駄な努力と知りすぐに諦めた。疎外された。異国の血が混じっていること、言葉が通じないこと、子どもたちは恐がり、あるいは侮蔑し、近づいてくることはなかった。確かにふたりの日本人離れした体格は子どもたちには驚異だった。

 大人たちも彼らを庇護することはなく、特に寮長はあからさまに不機嫌な顔をして見せた。異邦人を引き取ることには抵抗があったらしい。

 ふたりは身を寄せ合い引き籠もるようになる。

 

 もう頼れる者はいないのだ、お互いの他には。


 やっとその考えに心が追い付いた時、彼らは顔を見合わせた。そして二ヘラッと口を歪めた。涙が浮かんだが、袖で拭い笑みを絶やさないようにした。

 それからふたりはお互いを監視することを始めた。

 ひとりになれば、感情に潰されてしまうから。


     *  *  *


「ね、ふたりはガイジン、なの?」

 見下ろすと幼い女の子がじっと見上げていた。きょとんと丸い瞳を向けている。

「ガイジン、言うな」兄が強い口調で言った。

「そうだ、言うな」弟も加勢する。

「なんで?」女の子は首を傾げた。

 なんで、どうして? 

 ガイジンさんじゃないの?

「なんでって……」兄はきょとんとしてしまう。

「なんでって、だって……」弟も口をつぐんでしまう。

「わたし、ガイジンさん初めて見たの。ね、触ってもいい?」

 返答を口にする間もなく女の子は腕をつついた。

「あ」

 兄が声らす。

「ほぇー」女の子はふにふにと摘み、掴み、じっくりと点検している。まだ小学校に上がるか上がらないかくらいの年だろう、その様子はとてもあどけない。

「なんか、すべすべだね。黒っぽくて、あれだね。ええと、ほら、ううんと、あ、こんにゃくみたいっ」

「こんにゃく?」兄は首を傾げる。「なんだそれ」

「こんにゃく?」弟も首を傾げる。「なんだそれ」

「こんにゃく知らないの? こんにゃくはね、なんかね、ふにふにしててすべしべしてるの。このあいだ夕食で出たから、食べたでしょ? わからないかな。うーん……あ、そうだ。冷蔵庫のなかにね、こんにゃくゼリーあったよっ。食べよ食べよっ。ね、寮長せんせーっ。食べていいよねー?」

 遠巻きに様子を窺っていた寮長は少し困ったように頷いた。

 うんっ、女の子はふたりの手を取った。

「やったっ。じゃ、行こ? 冷蔵庫の場所、わからないでしょ?」

 呆けていると引っ張られた。

 今でもそのおさげ揺れる小さな後ろ姿を忘れられない。それは彼の原風景にすらなっている。

 小鳥との出会いだった。


     *  *  *


 友だちができた。

 小鳥はいつも側にいてくれた。周囲はそれを止めたがっていたが、小鳥は進んでくっついてきた。楽しいらしい。話相手ができたことで日本語もすこぶる上達した。

 ある日、弟が聞いてみた。

「お前いいのか。俺たちなんかといると仲間外れにされるぞ」

「ん、ん? なになに? どういう意味?」つぶらな瞳。

「いや、だから、俺たちと一緒にいると、お前もほら、友達とかが、近寄らなくなっちゃうだろ。いや、もうなってるのか」弟は見据えられてしどろもどろだ。

「あぁー」小鳥はポンッと手を叩いた。「んふふふ。知ってるよ、あのね、そーいうのをね、『とりこしぐろー』っていうんだよ、小鳥知ってるんだから」

「とりこしぐろー?」弟は眉を顰める。

「とりこしんぐろ?」兄も眉を顰める。

「なんだよ、やっぱりお前いじめられてるんじゃねえか。俺も知ってるぞ。『ぐろー』って悪口のことだろ? 難しい言葉だけど漫画で読んだ」弟が言った。

「え?」小鳥は首を傾げる。「?」

「あ?」それを見て弟も首を傾げる。「?」

「あ?」ふたりを見て兄も首を傾げる。「?」

 沈黙が降りた。

「あのね」小鳥がぽかんとしているふたりに言った。「ママが言ってたの。人は見かけじゃないんだよって。まずはお話してみて、自分で判断しなさいって。ママね、人に振り回される大人になっちゃだめよっていっつも言ってたの。自分の見たこと、知ったことを信じなさいって。だから小鳥、そうしてるの。みんなこわいこわいって言ってるけど、ほら、全然こわくないもん。ね?」

「…………」弟は何かを言おうとしたが留めた。「お前のお母さんは?」

「死んじゃった。なんかね、悪い人に騙されて、お金を持ってかれちゃったんだって。パパももういないから、困って死んじゃったの。だからね、実は小鳥もここにきたばっかりなんだ」

 あははーと無邪気に笑う少女をふたりは直視できなかった。まだ理解が追いついていないのかもしれない、そのうちに嘆き悲しむ日々がやってくるのかもしれない。

「……そうか」弟は小鳥の頭に手を乗せた。

 小鳥はくすぐったそうに目を細める。そして弟の掌をそっと包み込み、頬に擦り付けた。

「小鳥ね、おにいちゃんがいたんだって。でも、生まれてすぐに死んじゃったんだって。ママいっつも言ってた。申し訳ないことしちゃったって。あの子は今ここにいるはずだったのにって。小鳥ね、思うんだ。ふたりっておにいちゃんに似てるなって。そのぶっきらぼうなところとかそっくり。あのね、パパがそうだったんだって。『あいそう』のない人だったのよーって、ニヤニヤしながらママ言ってたもん」

「おにいちゃんに似てるって、生まれてすぐ死んだのになんでわかるんだよ」

「おにいちゃん、わたしと一緒にいるから」照れたように、「ひとりになると出てきてくれるの。みんないないって言うけど、いるんだ。いるものはいるんだからしょうがないよね。やさしいんだよおにいちゃん。ぶすっとしてるけど、ほんとうはやさしいの。あ、あとね、サッカーがとっても上手いの!」

「…………」弟は口をつぐむ。

 どう言葉をかけるべきかわからない。

 少女の夢は、時として現実となる。この少女だってきちんと理解してはいるのだろう。その上で、彼と一緒にいるのだ。

「おにいちゃんね、わたしの四つ上なんだけど、サッカーでフォワードでね、点数バンバン入れてね、『小鳥、見てたか!』ってガッツポーズしてくれるの。サッカーって、知ってる?」

「サッカーなら知ってる。けど、やったことはない」と弟。

「なら今度やろ。地域のサッカークラブに入ってる子もいるんだよ。寮長さんに頼めば、入れてくれるよ」

 小鳥が弟の手の平を閉じたり開いたりして遊んでいる。弟の頬は微かに染まっている。

「……そうか、考えて、みるか」絞り出したような声。

「わっ!」嬉しさ余って立ち上がる。

 と、体勢を崩してしまった。

「おいっ」弟が抱き留める。

 足が痺れているようだ、腕のなか舌を出してはにかんでいる。

「ありがと」

 ちゅっ

 小鳥は弟の頬にキスをした。

「…………」弟は呆けている。

「ママね、ありがとうはきちんと形にして伝えなさいっていつも言ってたの。だからね、ママや仲のいいともだちにはこうやってチューしてたの。そうするとね、みんな笑ってくれたしママも笑ってた」

 弟はすぐに小鳥を降ろし、

「じゃ、じゃあな」

 部屋を出て行った。明らかに動揺していた。

 ふたりが残される。

「ね、おにいちゃん」

「なんだ」

「わたしのおにいちゃんと、遊ぶ?」

「…………」

 逡巡の後、無垢な瞳に向けてこう言った。

「ああ、遊びたいな」

「うん、じゃあ今度、ぜったい!」

 いつしか小鳥は兄をだいにい、弟をちいにいと呼ぶようになった。


     ◇


 兄弟はサッカーを始めた。

 弟が才覚を現し、他を圧倒した。誰もが目を奪われた。

 鮮やかな足捌き。無尽蔵のスタミナ。そして日本人には得難い肉体のしなやかさと強靱さ。誰も彼を止めることはできない。

 一躍クラブのエースストライカーへと躍り出た。弱小チームでしかなかった所属クラブも一変した。

「どうも俺には才能があったみたいだ。それもとびきりの」弟は白い歯を見せた。

 すぐにその名は知れ渡った。彼のコンプレックスは払拭された。活躍すれば誰もが一目置く、認めざるおえない。ちやほやされるうちに心はほどけ周囲とも打ち付けた。笑顔が目に見えて多くなった。

「…………」

 兄だけが取り残された。

 兄は思う。こんな弟は見たことがない、弟はこんなにも外向的だっただろうか。

ちらりと弟の隣を見る。

 この少女の影響にちがいない。

「ちいにいすごいよっ。みんなもすごいって言ってるよ。誰もちいにいを止められないもんねっ。ね、今度試合いつ? シュート決めたら小鳥を見てこうガッツポーズして!」

「ああ、してやる。絶対してやるから期待しとけ」力こぶを作ってみせた。

 小鳥はぴょんと腕に抱き付いた。

「うわぁー!」

そのまま向き直り頬にキスをした。弟はくすぐったそうに目を瞑った。

「…………」

 そっと場を後にした。

 彼に才はなく、小鳥にキスをしてもらったこともない。


 不思議なことに、日に日に衰えているという実感があった。運動機能が低下し、皆の背中を見つめることが多くなった。

「?」チームメイトの背中を追いかけながら首を傾げる。

 いくらなんでもこれはおかしい。

 もう少しはマシだった。一般的なサッカー初心者くらいには動けていた。しかし一向に上達の気配はなく、監督にも早々に見切りを付けられた。それはいい。センスがないのだろう。しかし、こんなにも身体が動かないのはどう考えても変だ。

 腰を曲げ膝に手を付き喉を鳴らす。

 弟は遙か彼方の先にいる。前線でボールを回している。彼は反対にめきめき力を付けていくようだった。

 あるいは俺は病気なのだろうか?

 そう疑いすらした。しかし検査結果に異常はなく、誰に訴えても深刻には受け取ってくれない。言い訳にしか思われない。

 何かがおかしい、何かが。

 深夜、地鳴りのような弟のいびきに耳を塞ぎ、身体を丸くした。多くの人が自分を弟と間違える、双子だからだ。その度に相手は謝りもせずに去っていった。容姿は同じでも中身は違うのだ。

 朝、枕が濡れていることもしばしばだった。


 小鳥だけがやすらぎだった。小鳥だけが傍にいてくれた。

「だいじょうぶだよ。だいにいには他になにか才能があるんだよ。今はわからないだけ。いつかきっと、みんなを『あっ!』と言わせるんだから」

 励ましに耳を塞ぎたくなってしまう。目を逸らすと前に回り込まれた。

「落ち込んじゃだめ。ちいにいのこと、応援しよ? 小鳥はね、ふたりのこと大好きなんだよ。ちいにいにはちいにいのいいところがあるし、だいにいにはだいにいのいいところがあって、だからそんなに落ち込まないで。小鳥はだいにいのことちゃんと見てるから」

 でも、俺にはキスしてくれないんだな。

 その言葉は飲み込んだ。

「小鳥は、俺と一緒にいてくれるか」何気ない問い。

「もちろん! いるよ、ちいにいとだいにいといっしょにいるよ!」

 いつも『ちいにい』が先にくることを、この少女は気がついているのだろうか。

 

 弟の人気に比例して小鳥も人気者となった。いつも弟の隣にいる小鳥、ちょっとしたマスコット扱いとなり皆にかわいがられた。

結果、小鳥と一緒にいることが難しくなり、彼もまた接触を避けるようになった。嫌われ者が傍にいることで、小鳥に迷惑をかけたくないということもある。

 そのうちにどす黒い感情に飲み込まれた。笑みが消えた。皆から求められる弟、愛される小鳥。俺だけが除け者。

 暗い部屋で膝を抱えていると心が落ち着いた。自分にはここしか居場所がないのだと涙を溜めた。

 サッカークラブにも顔を出さなくなり、引き籠もるようになった。


     *


「なんで辞めるなんて言うんだよ。ちょっとうまくいかないからってそりゃないんじゃないか? 情けない、なぁ出てこいよ。みんなも待ってるぞ。出てこいよ」

 薄暗い部屋に弟のいらついた声が反響する。扉の外から光が差し込んでいる。

 のっそりと頭を起こし二段ベットの上段から弟を見下ろすと、これから練習なのだろう、クラブのユニフォームを着て腰に手を当てていた。眉間に皺が寄っている。明らかに機嫌が悪い。

 返事をしないでいると、露骨に溜め息を吐かれた。

「下手だっていいじゃんか。なにそんなにふてくされてるんだよ? 皆も言ってるぞ、お前は陰気だって、怖いって。そんなんじゃ誰も近寄って来ないに決まってるだろ。ただでさえ俺たちはふつうじゃないんだ。自分から率先してやってかないとうまくないってわからないのか? ぐじぐじして殻に籠って、俺みたいに努力しろよ! お前の何十倍も努力してる。恥ずかしくないのかよ! 兄貴ならシャキッとしろよ!」

 普通じゃない?

 努力しろ?

 ……兄貴なら、シャキッとしろ?

「なんだよ、反論あるのかよ」

「…………」

 再び寝転がった。

 弟は、もう同じ風景を見ていない。

「寝るな! ……はぁ、なんだったら皆との仲を取り持ってやってもいい。俺に恥をかかせないでくれよ」

「ひとりにしてくれ。出て行け」

 弟は目を剥いた。

「俺の部屋でもあるのに?」

「ああ、練習に行けばいい」

 カチンときたようだった。声音が変わる。

「いやだね。お前は変わった。卑屈になった。昔は兄として頼りになったのに、どうしてそんなになっちまった? こんな境遇だからっていくらなんでも酷すぎる」

 ハンッ、心のなかで唾棄する。

 神に愛された子どもは言うことがちがう。

「ほんっとうに情けない、見返そうという気概もないなんて男じゃねぇ。なぁ、小鳥もそう思うだろ」

 え、と再び頭を上げると小鳥が影から顔を出した。フリルスカートにお気に入りのストライプのシャツを着ている。

 目が合うと小鳥は気まずそうに笑みを浮かべて言った。

「いいよ、むりして出てこなくてもいいよ。ゆっくり休んで、それでまた出てきたくなったら出てきて。待ってるから、だいにい」

「おいおい」弟が制した。「ちがうだろ、今怒ってたとこ。情けないこいつに渇を入れてたとこ」

「でもちいにいちゃん。だいにいがんばってるよ。そんなに言っちゃいけないよ。苦しいんだよ、悲しいんだよ」

「頑張ってる?」首を傾げる。「何を?」

「えっと……それはちょっとうまく説明できないんだけど、でも、だけど」

「はぁああああっ。小鳥にフォローさせて、ほんと情けない。はぁあああああああああっ」

「おい」と兄は言った。「ちょっとこっちこい」

「あ?」言われるまま弟が歩み寄ると飛び跳ねた。

 落下ざまに拳を振り下ろす。

「がっ!」

 額に喰らい弟は尻餅を付く。兄も着地に失敗し大きな音が響いた。肘をベッドにぶつけ尻も打った。涙が出る。

 小鳥は目の前でぽかんとしていた。

 顔を歪めていると弟が憤怒の形相で掴み掛かってきた。馬乗りにされて殴られる。

「ぐふっ」

 歯が折れた。動こうにも象のように重い。ガードを固めるが弟は我を忘れているのか拳の雨を降らせる。

 痛みのなかで愕然としていた。ここまで身体能力に開きがでてしまっていたとは。明らかにこんなのはおかしい。どうしてこうなっているのか。俺がそっちでもよかったはずだ。

 なのに、こんなの、


 こいつは、奪ったんだ。

 俺の、力を。


 そんな確信。

 頭のなかで何かが弾けた。


 ――ふ ざ け る な


「ぁぁああああああああああああああああああああああああっ!!」

「っ!?」 

 ありったけの力でがむしゃらに動く。弟が体勢を崩し肩を激しくぶつけた。抜け出ようとしたがしかし今度は脚を降らせてきた。顔が真っ赤だ、我を忘れている。

 手を振り回すと何かを掴んだ。ハサミだ。振り下ろした。

「ぃぎっ!」

「?」

「?」

 場違いな甲高い声にふたりは止まった。見ると、小鳥が右腕を押さえ跪いていた。二の腕にはハサミが突き刺さり、血が滴り落ちている。苦悶の表情を浮かべ、真っ青だ。

 ふたりは我に還った。

「こ、小鳥!」

「あは、は……」

 弟が抱き寄せると小鳥は目尻に涙をいっぱい溜めながらもなお微笑んだ。絨毯が染まり赤い水溜まりになっている。

 兄は呆然と小鳥を見つめた。

「だいにい」

 小鳥はゆっくりと身体を起こし、彼の頬をさすった。そしてその胸に顔をうずめた。ぐりぐりと押しつけて、こう言った。

「仲良くしよ? だめだよ、だめ……」

 決壊した。

「あぎゃあああああああああああああああっ!!」

「きゃっ!」

 小鳥を突き飛ばした。

 はっ、はっ、はっ、はっ。

 呼吸も荒く膝が震える。

「~~~~~~~~~~ぁっ!!」

  もう一度吠えた。声にもならない咆吼。寮長が飛んできた。悲鳴を上げ人を呼んだ。すぐに職員が集まり暴れる彼を拘束した。 

 小鳥は弟の腕のなかで虚ろな瞳を向けていた。弟は怒りに震え睨んでいた。

 場が落ち着くと、寮長は眼鏡を持ち上げて冷徹に言った。 

「これは、事件です。決して許すことのできない過激な事件です。信じられません。信じたくありません。信じません。絶対に、信じません。なかったことです。これは、なかったことです。届け出は出しません。わたしの子どもには犯罪者などいないのです。いいですか、これは、なかったことです」

 三人は分かたれた。彼には狭く汚い部屋が彼だけの為に割り当てられた。元物置部屋だ。

 彼は静寂を得た。


 彼はひとりで食事を取り、ひとりで勉強した。

 誰も彼もが彼を見ても見て見ぬフリをし続けた。透明人間の扱いだ。

 噂で弟と小鳥が学校に通いだしたことを聞いた。ふたりには事件以降会っていなかった。もしかしたらこれからも会うことなどないのかもしれない。狭い寮にも関わらずふたりを全くと言っていいほど見なかった。大人たちがそう計らっているのは明らかだった。

 鏡を見る。目は濁って死んでいる。世界が皮膜に覆われているようだ。頭のなかに藻が張っているのか頭が重い。何も考えられない。ただ眠い。

 ここはどこだろう?

 首を傾げる。

 この男は誰だろう?

 黒い肌にちぢれた髪、

 なんて醜い。

「もー、なんでそんなこと言うのちいにい!」

 外から聞き慣れた声が届いた、小鳥だ。

 笑っている、弟に笑いかけている。

 その声は、あまりに遠い。


 世界を呪う。


     ◇


「今日から私があなたのお母さん。それでこっちがお父さん。おーけー?」

 派手なピンク色のジャンパーを羽織った厚化粧の女性が弟に話しかけている。気色の悪い色の唇が輝いている。

 弟は神妙な顔付きで聞き隣の小鳥を見た。小鳥は小さく頷いた。

「でもだからって甘えないでね、迷惑だから。自分のことは自分でやる。これ世界の常識。働かざる者食うべからず。これは古来からの常識。ま、これができないと猿ってこと。だから家事は自分たちでやること。私は一切関知しないからね。食事もそうよ。自分たちで用意してね。費用やらなんやらは……ま、出世払いってことで仕方ないわよね。あ、勘違いされる前に言っとくけど、別にあんたたちが嫌いってわけじゃないの。あんたたち、特にあんたには期待してる。将来性を見込んで引き取ったの。わかる? 言わば青田買いってやつ」

 弟と小鳥は身を固くして聞き入っている。

 兄は内心溜め息を吐いた。

 どうせこんな奴だろうとは思っていたが絵に描いたような女だ。そうでなければ好きこのんで俺たちを引き取ろうとするはずもないのだが。

「なぁにその目は? わからないの? わかるでしょ? わかれよ。なに? それともあの施設で一生暮らしてたほうがよかった?」

 弟は苦虫をかみ潰したかのような顔で弱々しく首を振る。彼は小鳥の為にこの決断をした。こちらの方が選択肢に広がりができる。将来を考えればどちらがよいかなど考えるまでもない。

 華奢な少女にこの目の前の金づるが執着しているのは引き取り手の二人もよく知っていた。

 弟の肩に手を乗せ、

「悪いようにはしないから。ね」

 弟は頷く。

 言えば、これは取引なのだ。

「ま、入って入って」

 促され玄関に足を踏み入れるふたり。小鳥が振り向いた。無視する。

「…………」

 伏し目がちに少し待っていたが、やがて弟に手を引かれ先に入っていった。

 鼓動が少し乱れている。額の汗を拭うと玄関に脚を踏み入れた。リビングから甲高い笑い声が響いた。耳をつんざく耳障りな声だ。

 ふたりが脱いだ靴を見ながら思う。

 やはり俺はおまけでしかなかった。

 あの引き取り手のふたりは俺をいない者として扱うんだろう、施

設の奴らと同じように。


     * * *


 三人が引き取られた経緯はこうだ。

 弟のサッカーセンスを世間が放っておくはずがなかった。彼はまさに神の子なのだ。すぐに県選抜に選出され次いで全国選抜に選出された。国籍自体はこちらなのだ、なんの問題もない。彼は萎縮するどころか遺憾なく才を発揮し、すぐに花形プレーヤーとなった。  選りすぐりの才能豊かな少年たちを前にしてもなおその輝きは色褪せることはなかった。むしろ引き立てられ、より輝きを増した。しかもまだ明らかに発展途上なのだ。日に日に成長していく彼に誰も彼もが目を奪われた。

「神に愛された子ね」

 そうだ、そしてそれは俺ではない。


 メディアへの露出が始まった。

 もちろんまだジュニア向けの特集であったり将来を見込まれての取材でしかなかったが、奇異な生い立ちが紹介されると一気に知名度が増した。火が付いた。

 孤児、その言葉が一人歩きし、彼はさながら悲劇のヒーローに仕立て上げられた。

「えらいぞっ、よくそんな境遇で」

「神さまは見ていらっしゃるのねぇ」

 投げかけられる同情と憐憫に弟は笑顔で手を振り返していた。その瞳にはなんの葛藤もなかった。遠くから見ていたがそれはわかった。以前の弟ならばあんな対応はしなかっただろう。

 反吐が出る。


 その活躍に目をつけた夫妻がいた。彼女たちは弟を引き取りたいと申し出たのだ。

「サッカーが好きで、彼のプレーに惚れまして」

 そう言う女性だったが応接間での寮長とのやりとりから知識の乏しさは明らかだった。

「スローインがすばらしくて」

 女性の発言に隣の男性が小突いた。そしてバツが悪そうに笑った。どうもフリーキックと言わせる予定だったらしい。どれだけの玄人になればスローインの素晴らしさを語れるのだろうか。少なくともこの女性には無理だろう。寮長含め苦笑いだった。

引き取る対象に兄は含まれていなかった。あたりまえのことだ、俺を引き取る奴などいるはずがない。

 詰まるところ、弟の将来を買いたいということなのだ。

 寮長は熱心に話を聞いている。女性の心意気に打たれているようにも見える。

 無駄なことを。

 ちらりと弟を見る。弟は微動だにせず胡散臭い二人を見つめている。

 視線を戻し大人たちの会話を眺める。

 弟がこんな話を受けるはずがない。

 そう信じて疑っていなかった。


「妹も一緒なら、いいです。」

 だからそう聞いたとき思わず耳を疑った。

「妹がいます。妹と離れるわけにはいきません。それが条件です」

 ――俺は?

 口から出かかった言葉は飲み込んだ。

 当然ながら夫妻は寮長に説明を求めた。彼に妹などいないのだ。仲の良い女の子がいまして――その説明にホッと胸を撫で下ろした。そんな我が儘が通るはずがない。

 しかし弟の決意は本物だった。夫妻の余裕はすぐに消えた。弟は断固として譲らなかった。

「それが通らなければ、僕は行きません」

 夫妻は幾度となく顔を見合わせたが話は平行線を辿った。

 話が煮詰まったところで寮長が口を開いた。

「実は他にも引き取りたいと申し出て下っている方が何人もいらっしゃるんです。異例のこととは承知していますが、私たちも彼の希望は出来る限り叶えてあげたいと考えています。彼は私たちの希望の星ですから。ですから、申し訳ありません。この要求を呑んで頂けないようであれば――」

 女性は引き攣った笑みを浮かべ渋々要求を呑んだ。鼻の下には汗が溜まっていた。

 寮長が弟に目配せした。寮長のアシストだったのだ。

 すぐに小鳥が部屋に呼ばれた。

 事情を聞いた小鳥は開口一番こう言った。

「おにいちゃんは、ふたりだもん」

 女性は固まった。

 部屋の時も止まる。


「外人を引き取るだけでもアレなのに、まさかおまけが二つも付いてくるなんてねぇ」

 女性は露骨にうなだれる。男性も腕を組んで微動だにしない。寮長もふたりには同情を禁じ得なかった。少女はともかくもう一人は明らかに余計だった。あんなものを誰が引き取りたいと思うだろうか。まぁ、こちらとしては厄介払いになったけれど。


 かくして三人は引き取られることとなったのだ。


     * * *


 新しい生活も落ち着きを見せ始めた頃、しかし新しく親となったふたりは頭を抱えていた。

 兄の存在に世間が目を付け始めたのだ。

 弟のスター性は彼の悲しい背景によって彩られていたが、中でも兄の存在が一際目を惹いた。双子という特異性もあった。取材が殺到した。

 しかし、兄は愚図なのだ。

 夫妻としてみれば世間には出したくなかった。弟のカリスマ性に傷を付けてしまう結果ともなりかねない。また、自分たちにも害が及ぶかもしれない。ちやほやされなくなるのは惜しい。

 夫妻は兄の存在を伏せることに決め、兄もまた施設でと同様に引き籠り続けた。事情はともかく何も文句を言われないのは助かった。

 だが、それによって更に耳目を惹き付けてしまう結果となった。 


「双子のおにいさんは?」

 姿を見せないことで周囲は余計気にするようになってしまったのだ。天才の兄なのだから特別にちがいない。そんな期待はどんどん膨らんだ。それだけならまだしも、あまつには弟の暗い過去と関係していて見せられないのだ、などと悪く勘ぐる者まで現れた。こうなるとうまくない。

 夫妻は決断し、兄を試合観戦へと狩り出した。

 これ以上評判を落すわけにはいかない。

 会場で母に監督へと面通しされた。その上塗りの笑みがおぞましい。

「サッカーやってたんだって? ちょっと混ざってくか」

 監督の粋な計らいによって練習に参加させられることになった。夫妻は慌てたが、監督に押し切られた。彼もまた有望なら引き抜こうと画策しているようだった。

 振り返ると、小鳥がじっと見つめていた。

「…………」

 力が入るのがわかった。

 周囲も天才の兄ということで注目しているのが感じられた。小鳥の視線を背中に感じつつ、彼は足を踏み出した。

 結果は言うまでもなかった。


 その夜は眠れなかった。枕に顔を埋めても昼間の出来事が思い起こされる。

「マジお前の兄ちゃんウンコだな」

 弟と小鳥の苦笑いがこびり付いて離れない。

 両親の見下した目、弟の諦めきった表情、最期に振り返ると小鳥は悲しげに目を細めた。


 そんな目で、見ないでくれ。


 彼だけにあてがわれた三畳の個室。今は万年床が敷き詰められている。

 小さな窓から星を眺める。甲高い歓声が階下から響いた。どうも小鳥と弟が一緒にお風呂に入っているらしかった。

 彼は顔をしかめる。

 目を瞑ると風呂のなか楽しげなふたりの様子が浮かんだ。仲睦まじく身体を洗いっこしている。裸で。


 ほんとうの兄弟でもないのに。


     ◇


 引き取られてからの半年間は一言も言葉を発しなかった。

 ごく僅かの例外を除いて夫妻は彼をいない者として扱っていたし、弟もそれは同じだった。食事時も呼ばれず冷蔵庫から勝手に見繕って食べていた。小鳥だけは彼と接触を図ろうとしていたようだったが、彼の方から避けた。その度に悲しげな顔をされた。

 ある日、拍子に小鳥の右腕のケロイドを見た。小鳥は普段Tシャツを着ることはないのだがその日は暑かった。誰にも見られないと思っていたのだろう、遭遇すると目を丸くした。そして右腕を露骨に隠して曖昧に笑った。

 そのケロイドは黒く盛り上がって醜かった。まるでミミズのようだった。彼がハサミを突き刺してしまったところだ。深くまで突き刺さり跡が残ってしまった。少女は生涯ミミズと付き添うことになるのだろう。肌を晒すことに抵抗を覚えたまま。

 胸が疼く。

 目を合わせられず素通りした。少女のさみしげな瞳を見ないように。


 そんなある日、予期せぬ出来事が起こる。

 小鳥が、変質者に襲われたのだ。


 その日、例の如く世間体を気にした両親に狩り出され彼は弟の試合観戦に赴いた。事件はその道すがら起こった。

 彼はいつものように皆の後ろを歩いていた。前に両親、その後ろに弟と小鳥。ふたりは手を繋いでいる。

 全てが遠い。

 いっそこのまま知らぬ土地に消えてしまおうか。それもいい。

 だが、一抹の未練を捨てきれない。

 小鳥がちらりと目を向けた。気が付かないフリをしてそっぽを向く。寂しげに肩を落した。

 俺はいったい何をやっているんだろう。

 と、弟が遠くにチームメイトを見つけて駆けていった。小鳥と繋がれた手が離れる。小鳥はひとりになり、しきりに後ろを気にし始めた。もじもじしている。

 彼も戸惑った。声をかけてしまおうか、いや、しかし。

「あ」

 と、通行人と肩がぶつかった。よろけて尻餅を付く。なんだと思い見上げてみれば中年女性がぼんやりと遠くを見つめていた。どこか様子がおかしい。ふと視線を下げると手には刃渡りの長い包丁が握られていた。目を剥く。包丁には血がべっとりと付着していた。

 女性の目がゆっくりと彼を捕らえた。息を呑む。女性の胸がせわしなく上下している。息が荒い。身体は震え涎を垂らしている。明らかに尋常ではない。そしてその口元が僅かにつり上がったのを見て彼は悟った。

 死んだ。

「おにいちゃん?」

 その声で硬直がとれた。

 小鳥が小走りに駆けてきていた。叫ぶ。

「ことっ――ぁ」

 小鳥の耳元を包丁が掠めた。女性が鋭角的に振り向き投げつけたのだ。

「え?」

 目を丸くする小鳥。耳を触ると血が付いた。

 そして状況を把握した。

「ひ」

 その場にへたりこんでしまう。涙が滲んだ瞳、口をパクパクさせている。自失状態だ。

 彼は立ち上がろうとした。だが足が動かない。


 動け動け動け

 動け動け動け動け動け動けっ!!

 

 女性はゆっくりと小鳥の元へ向かい、大きく包丁を振りかぶった。奇妙なことに、沈黙が辺りを包み込んでいた。ただ青空の下、包丁が輝いていた。女性が腕を振り下ろした。

「待っ――」

 ピタッ、それはすんでのところで止まった。

「ああー」女性はひとつ頷きバックの中を探り始めた。

 そしてペットボトルを取り出し中身を小鳥に浴びせた。

「?」

 硬直して動かない小鳥はきょとんとしてそれを眺めていた。

 彼は声を張り上げようとしていたが喉が張り付いて息が漏れるばかりだった。しかしなんとか立ち上がることができた。膝が生まれたての子鹿のように震える。ガクンと膝が折れた。太腿を思い切り叩く。もう一度立ち上がる。必死に小鳥に向けて手を伸ばす。

 女性はちらりと彼を一瞥し、ポケットをまさぐりライターを手にした。

「あ」声が漏れた。もしかして、


 ――ふざけろ

 ――やめろ


 ライターを小鳥に近づけ着火した。

 ボウッ

 赤く染まる視界。

「キャアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 火に包まれ錯乱する小鳥。踊り狂う。

 女性は包丁を手にぼんやりとそれを眺めている。

 そこからのことは霧に包まれているかのように朧気だ。


 気が付けば彼は小鳥をきつく抱きしめていた。傍らでは女性が大人たちに押さえつけられていた。

 小鳥の身体が熱く、じゅうっうううっと微かな音が耳に届いた。

「……おにいちゃん」

 耳元の囁きに目を向けると、吐息が触れる程の距離に小鳥の虚ろな瞳があった。

「もう、だいじょうぶだよ。あつくないから」

 そう、火は消えていた。

 彼が抱いて掻き消したのだ。

「お手柄だよキミ! 怖がらずによくやった!」押さえつけている一人から声が飛んだ。

 どうもあの後すぐに小鳥に抱きつき守ったようだった。

 女性は包丁で彼を刺そうとしたが彼は必死に抵抗した。そして悲鳴を聞き駆けつけた数人に女性は確保された。そういえば右肩から血が滴り落ちている。切られたのだろう。

 無我夢中だった。

 どっと身体の力が抜けた。小鳥の肩に頭を預ける。世界が廻っている。ぐるぐると廻っている。身体が火照っている。熱く熱く火照っている。小鳥の身体も火照っている。その頬に触れる。頬に頬を擦り寄せる。

 小鳥がいる。

 ここにいる。

「おにいちゃん」

 甘い響きにかろうじて顔を向けると、

「切れちゃったね、ここ」

 そう言って右肩に触れた。

 痛みはないが深そうだ。

「わたしと同じところだね」

 そう言って小鳥は微笑み、

「ありがと――」


 チュッ


 唇に柔らかいものが触れた。


 その後、弟が青ざめた顔でやってきて彼を突き飛ばし小鳥を介抱した。両親は遠巻きにおどおどしていた。

 女性は通り魔だったらしい。この日既に三人が切り付けられていた。

 幸いなことに小鳥はパーカーと髪が燃えただけで大きな火傷を負うこともなく、爛れた皮膚もすぐに再生するとのことだった。彼も懸念された腕の傷は軽傷で済んだ。微かに跡が残ってしまったがそれだけだ。むしろ火傷で首から肩に掛けて皮膚の色が変わってしまったことの方が問題だ。ただ、それだけで済んだのは全くの僥倖といえた。女の子である小鳥が無事だったのだ。これ以上何を望むことがあるというのだろうか。

 久しぶりに小鳥と病院で談笑した。

 本当に久しぶりだった。

 笑ったのなんていつ以来だろう。

 自分でも忘れてしまった。

 心から幸せなひとときだった。

 夢のようだった。

 それを弟は遠くから眺めていた。


 その次の土曜日、弟が乗っていた遠征バスが崖下に転落した。

奇跡的にも皆の無事が確認されたが、弟だけ見つからなかった、車外に放り出されたのだ。いつまで経っても見つからない。そのうちに捜索は打ち切られた。遺体は出なかった。


 消えて、しまった。


     ◇


 弟がいなくなってからというもの、小鳥は食事も喉を通らなくなってしまった。特に両親が荒れに荒れ、二人は居場所を失った。もはや両親に二人を置いておく意味などなかった。ただ邪魔なだけだった。

 二人は身を寄せ合い日々を過ごした。

「施設に、戻りたい……」

 そう小鳥が漏らしたこともある。

 だが彼はそれを是としなかった。

 弟は小鳥の為を思い苦渋の決断をした。なら、俺がその志を引き継いで小鳥を幸せにしよう。小鳥によい教育を受けさせる為に、ここに留まろう。

 ――小鳥は俺が守る。

 確固とした信念が芽生え始めていた。

 弟の分も、俺が、やる。


 彼は塞ぎ込む小鳥の為にサッカーを再開した。

弟のような才はないが少なくとも喜ばせることはできる。笑顔が見たいのだ。昔のような、屈託のない笑みを。

 地域のクラブは快く迎えてくれた。事情が事情だ、同情心もあったのだろう。しかしそれでも嬉しかった。

 彼は小鳥を想いピッチを駆けた。内容など二の次だった。小鳥は笑顔を見せてくれた。それが堪らなく嬉しかった。夢中になってボールを追った。

 そして我に還ったときに気が付いた。

 自分が抜きんでていることに。


 身体が軽い。足が動く。捌ける。出来なかったプレーのことごとくがうまくいく。想像に身体がついてきた。全力で走り廻っても息が切れない。試しに弟のプレーを再現してみた。四人置き去りにした。そのままシュートを決め振り返ると誰もが立ち尽くしポカンとしていた。

 彼もまた、ポカンとした。

 これは一体、どういうことだ?

「すごいすごい!」

 嬉々とした声に振り向くと小鳥が身体全体で喜びを現わしていた。久しく見なかった笑顔。

「すごいよおにいちゃん! ほら、ガッツポーズして!」

 言われるままにポーズを決めると小鳥から黄色い歓声が飛んだ。

「まるでちいにいちゃんみたい!」

 本当にその通りだった。


   *   *  *


 それは既に思い出となった出来事だ。乗り越えたはずだった。

 しかしその思い出が今、こうして舞い戻ってきた。

「お前は、戻ってきたんだな……」

 地鳴りのようないびきを立てる弟を見て呟く。

 そう、こいつは戻ってきたのだ。

「うん、そうだね……」小鳥が弟の髪をそっと撫でた。

 小鳥ももうあのころの幼い小鳥じゃない。艶めかしく、女の色気を醸し始めている。大人の階段を上り始めている。

「またふたりでサッカー出来るね」

「……ああ」

 今度は対等にピッチに立てるだろう。弟にはブランクがあるが、あの神の子が露骨に衰えるなど想像がつかない。もっとも、記憶が戻ればの話ではあるが。

「でも、ぜんぜん変わってないよね。ちいにいちゃん」

 本当にその通りだった。

 あのころと同じように、もうひとりの自分が寝ているようにしか見えない。

「ぐっすりおやすみ、ちいにいちゃん。目が醒めたら、また一緒に遊ぼうね」


 ――チュッ


 弟が眠るベッドの横に並べて布団を敷いた。

 電気を消すと小鳥が潜り込んできた。

「えへへ……」

 イタズラな笑みに何も言えなくなる。いつまで経っても甘え癖が抜けないのだ。腕を巻き付けてきた。

 不意に、心臓が跳ねた。

 二つの柔らかな膨らみに脳が痺れる。今の今まで気が付かなかった、女の、からだ。

 気が付いて、しまった。

「ん?」

「あ、いや」

 僅かに身体を離した。

「ね、おにいちゃん」

「……なんだ」

 そっと髪を撫でるとくすぐったそうに目を細め、

「おにいちゃんがふたりいるね。ふたりいるよ」

「…………」

「うにゃあああああ」

 小鳥は猫のように鳴き、腕に抱きついたまま眠りについた。

 少女の甘い匂いと柔らかさ。

 隣からは凄まじいいびき。


 その晩は、いつまでたっても寝付けなかった。



     3


 うららかな陽気に包まれた街、街路樹も輝いている。

 桜並木は満開、舞い散る花が美しい。

「ね、今度試合いつなの?」

「再来週。俺、出るから見に来いよな」

「うん、絶対いく。友達も連れてっていい?」

「恥ずかしいけど、まあいいかぁ」

 えへへ、と小鳥は微笑んだ。背中のランドセルが揺れる。小鳥も

もう小学四年生だ。

 兄は柔和に微笑みそっと手を繋ぐ。

 小鳥は照れて俯き、ふたりで桜並木を歩く。

 ハッとして、怖ず怖ず振り返った。

「えと、いい、かな?」

「あ?」

「だから、試合」

 ああ、と頷く。

「うん、もちろん。どうして俺に聞くんだよ? まぁ、と言っても俺はまたベンチだろうけどな」恥ずかしそうに頭を掻いた。

 その目は活力がなく足取りは重い。最近兄はいつもひとりで歩いている。

「兄貴はちょっと不調なんだ。またすぐに調子も戻るよ」

「ちいにい」

「な、そうだろ兄貴?」

「…………」目線を落し、「そう、だな」

 不意に弟に袖を引かれた。

「小鳥。そういうこと聞くなって」

 小声で注意されしょんぼりとうな垂れる。確かに軽率だった。

 三人は桜並木を歩む。

 隣には黒い肌をしたちりぢり髪の男の子。精悍な顔立ちをしている。

 後方にも黒い肌をしたちりぢり髪の男の子。背を丸め歩いている。

「ううん」不意に、不思議な感覚に襲われた。


 はて、どうしてこうなってしまったのだろう?


 ――弟が戻ってきてから半年が経とうとしていた。

 様々な変化が生じたが、一番の変化は弟の変貌だった。

 彼はもう一度サッカーを始めた。兄が勧めたのだ。兄としてもまた弟とサッカーをするのが念願だった。それに家に置いておいても仕方がない。

 しばらくして、兄がベンチ、弟がレギュラーとなった。

 小鳥は首を傾げた。兄も首を傾げた。

 これはいったい、どういうことなのだろう?

 

 おかしいのだ。彼はスタープレイヤーなのだ。それなのに傍目で見ていてもわかった、兄の足がもつれる回数が増えた。横っ腹を押さえ、苦しげな表情でピッチを駆ける。あれだけ圧倒していたチームメイトにも抜かれ、背中を追いかける側に回った。  

 誰もが『不調だろう』と笑い飛ばしていたが、小鳥にはそうは思えなかった。まるで、日に日に彼の中から何かがごっそりと失われていくように見えた。事実、いつまで経ってもそれは改善されなかった。

 逆に弟はめきめきと力を付けていった。いや、取り戻したというべきなのだろうか。笑みを浮かべ颯爽と皆を置き去りにするその姿は、まるで少し前までの兄だった。軽やかだった。両親も彼を野蛮人などとは呼ばなくなり、記憶は未だ戻っていなかったがそれも些末な問題になった。彼はそのままで人気者だ。

 少し前までの兄に見間違えるほど、自信に溢れ、気品高く、優しい。

 自然、兄の取り巻きは弟に鞍替えした。

 兄は曖昧に笑って皆を見送った。

(どうして……?)

 考えれば考えるほどわからない。

 ついこの間まで兄は弟に手ほどきをしていたのだ。弟ともう一度サッカーをしたいと、ボールをまともに蹴れもしなかった弟に指導していたのだ。

 それが今ではこうなっている。

 弟が急速に力を取り戻した、そう考えるのに違和感はない。けれど兄は? 兄はどうしてこんなにも力を落してしまったのだろう?

 わからない。

まるで、入れ替わってでもしてしまったかのようだ。


「ところで小鳥」弟の声に顔を向ける。「今度の土曜日は練習もないんだけど、どこか行こうか」

「え、ほんとに?」パッと顔を輝かせる。「じゃあ遊園地!」

「よし、そうしよう」

 振り返り、声をかける。

「だいにいも、行こ?」

「…………」返事はない。

 兄は僅かに瞳を揺らし、視線を小鳥の隣に移した。そして曖昧に笑い俯いた。

 弟は眉間に皺を寄せ溜め息を吐いた。

「行きたくないってさ、いいよふたりで行こう」

「でも」

「体調悪そうだし、だろ兄貴?」

「…………ああ」

 そう言われると無理強いもできない。肩を落す。なんとか明るい兄に戻って欲しい。

「――んっ!」

 ポン、ポン、

 桜色の絨毯を弾むように歩く。スカートが揺れる。ジャンプして、その勢いで腰を屈めて桜の波を掬って舞い上げた。

「あはっ!」

 桜に包まれる。

「あ」と、短めのスカートが捲れてしまっていた。急いで直す。

 そろりと振り返ると、兄が凝視していた。

「もう、えっち!」

 笑って花びらを投げつける。兄も一枚拾い投げつけてきた。反応があったことが嬉しくてたくさん投げつけた。お互いの桜は届くことなくヒラヒラと舞い落ちるばかり。しかし本当はえっちも何もあったものでなかった。一緒にお風呂に入っているのだ。

 しばし投げ合いをして遊んだ。


 日曜日は弟との約束通り遊園に行った。けれどあまり面白くなかった。

 兄もいて欲しかった。


     *


「だから、なんでそうのろいんだよ!」

 罵声で目が醒めた。

 寝惚け眼をこすりながらカーテンを開け庭を見下ろすと、弟が兄を前に仁王立ちしていた。

 兄はいやらしく歯を見せている。弟はうんざりしたように舌打ちした。

「あのさぁ、俺はちゃんと教えてるよ? できないのは兄貴の問題だろ? それをなんなの、そうやって笑ってさ。俺が悪いとでも言いたいの? ちがうから、兄貴がとろいの」

 きつい口調だ。それでも兄はへらへらしている。

「……なぁ、どうしてこんなになっちゃったんだよ。優秀なプレーヤーだったんだろ? 何か悪い物でも食べたの? こんなに一気に下手になるなんて尋常じゃない」

「それをお前が言うのか、わからないのか」

「あ?」

「いや、いい」

 弟はキレた。

「いい加減にしろよ! 俺だって暇じゃないんだよ! やる気ないんなら失せろよ! おい、それでも俺の兄貴なのかよ! 俺は覚えてないけど兄貴なんだろ? こんなのが兄貴って、しかも同じ顔って、ハッ、反吐が出る。もうサッカーやめたほうがいいよ。才能ないよ才能。やっても無駄。ほんと無駄」

 サッカーボールを壁に蹴りつけて弟は去っていった。ボールは道路に転がっていった。

 兄が小走りにボールと取りに行くと自転車に轢かれた。両者は絡まり倒れる。

「あ」

 兄の額から血が滴っている。自転車に乗っていた青年が激怒し兄を突き飛ばした。また頭を壁にぶつけそのまま座り込む。青年は憤懣やるかたない様子で去り、兄はヘラヘラと笑ったまま覚束ない足取りで縁側まで戻り腰を下ろした。

 やがて、その背中が震え始めた。


 ――思えば、兄が弟に手ほどきをしたのもこの庭だった。

 兄は必死に自分と同じ顔、同じ髪、同じ肌を持った少年に技術を与えたのだ。技術の習得にしたがい彼は言葉や知識を取り戻していった。

 その結果が、これだ。 

「…………だいにい?」

 上から声を駆けるとビクッと見上げた。

 その瞳は濡れていた。

「汗かいたでしょ。お風呂入ろ?」

「…………」

「わたし、朝風呂に入りたいな。こっちのお風呂、おっきくてきもちいいんだもん。ね、いっしょに入ろ?」

 習慣だった。他意はなかった。

 しかし浴室で小鳥は息を呑んで立ち尽くした。


 彼のそれは、そそり立っていた。



     4


 思えば、兄の視線に違和感を感じていたのは気のせいではなかったのかもしれない。一緒にお風呂に入るなんて、おかしいのかもしれない。もう子どもじゃないんだから。

 小鳥にも知識くらいはあった。実は兄が押し入れの中に秘密の本を隠しているのも知っていた。掃除の最中に見つけたのだ。興味本位で開いてみて驚いた。

(すごい……)

 貪るように読み、ハッとして戻した。

(やっぱりお兄ちゃんもこういうの読むんだな……)

 それ以降は触れていない。

(おにいちゃんだってそういうお年頃だもんね)

 しかし、今度の一件はそれとは違う違和感をもたらした。彼のそそり立ったソレがこびりついて離れない。

 頭を振る。

 暗い天井が像を結んだ。深夜のアパート。

 隣に目を向ける。兄が寝息を立てている。

(まさか、ね)

 と、不意に兄が身体を起こした。咄嗟に目を瞑る。

 …………?

 動く気配がない。

 チラと瞼を開くと兄がぼんやりとこちらを見下ろしていた。すぐさま目を閉じる。

 …………。 

 しばらくそうしていた。

(わたしを……見てるの?)

「う、う、うくっ」

 微かな声が漏れた。

「?」目を開くと、兄の尻が見えた。「あ」

 そして、そそり立ったソレも。

 身体が硬くなる。

「うっ、くっ、あっ」

 兄の吐息が漏れる。息が荒い。

 シュッシュッとティッシュを引き抜く音が響いた。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」耳元で囁かれているかのような息づかい。

 部屋は暗く、テレビも雑誌もない。この部屋には今、他に使えそうな物は何もない。


 ……もしかして、わたしを見て、しているの?

       

「うぐっ!」

 一際高く呻いた。

「――っふぅううっ」

 細く長い息。

「は、ぁ。は、ぁ。は、ぁ。」

 小刻みな呼吸。

 また数枚のティッシュを掴んだ。紙が擦れる音が響く。

 不意に、鼻がひくついた。

(生、臭い)

 鼻孔をツンと刺激するこの匂い。

 は、は、ひ、

 頭がぐるぐると回る。世界がぐるぐると回る。

 見て、しまった。

 血管が浮き出て、びくびくっと震えていた。

 グロテスクで、黒々としていた。

 硬くそそりたち、兄のごつごつとした指がその先端で蠢いていた。

 生き物の、ようだった。


 しばらくして兄がまた寝入ったのがわかった。

 小鳥も寝ようとしたが駄目だった。頭にこびりついて離れない。


 間違いない、だいにいは、


 枕元に置かれたゴミ箱から、生臭い臭いが立ち昇るのが見えるような気がした。


     *


 同情を、兄は喜ぶだろうか。

 ぼんやりと遠くの兄を眺める。夜、人気のない市営グラウンド、兄が人目を避け練習に励んでいることは知っていた。

「はっ、はっ、はっ」

 身体を左右に振り、ドリブルの練習。仮想敵を据えているようで、誰かと対峙している様子が見て取れる。

 兄が仕掛けた。フェイントをかけすり抜けようとする。

「あ」思わず声が漏れた。

 ボールが足にひっかかり、転がっていってしまった。兄は取りに走った。

「…………」

 もちろん以前ならこんなことはなかった。あの仮想的を颯爽と抜き去ったことだろう。弟が戻ってくる前の兄なら。

 戻ってきて再度の挑戦。今度は転んだ。派手に転倒し、しきりに肘をさすっている。大丈夫だろうか。

 今度はリフティング。膝に乗せる。

 一回、二回、三回、よんか

「あ」

 ボールは転がっていった。

 兄は呆然とそれを見送っている。

「…………」

 その背はひどく寂しげだった。

 しばらくしてボールを拾い、もう一度の挑戦。

「あ」

 四回目の壁を越えられない。てんてんと転がっていき、茂みに入ってしまった。

「…………」兄はぼんやりとしている。

 不意に肩が跳ねた。目を凝らしてみると、彼は泣いていた。子どものように泣きじゃくっていた。

 闇夜に嗚咽が響き渡る。

 小鳥はずっと目をそらしていた。

 しばらくして兄は目を拭いながら茂みに入った。ボールを探しているのだ。小鳥は見つからないように先回りし、ボールを拾い彼の方へ向けてそうっと転がしてやった。

「…………」

 いつまで経っても気が付かない。小石を投げて物音を立てることにした。兄の後方に極小の石を放り投げる。

 兄の肩が跳ねた。

「だ、だだ、だれだ!?」

 声が震え瞳孔が開いている。別に大きな音ではなかった、小枝が折れるくらいの小さな音だ。それなのに。

 ひい、ふ、はぁ、うう、ああ。

 身を縮め周囲を警戒している。眉間に皺が寄り、今にも泣き出してしまいそうだ。

 ひぁ、うう、ああ、ううぐあうあ。

「…………」

 小鳥はそっとその場を後にした。

 

 帰り道、新月に手を合わせ祈りを捧げた。

 おにいちゃんを、助けてあげて下さい。



「ふたりで暮らそう」

「…………」その瞳は真剣だ。これはやりすごせない。

 いつか言われるだろうとは思っていた。その為小鳥は弟のその誘いを静かな面持ちで聞いていた。

「父さんと母さんは俺が説得してみせるから。それが嫌ならまた家に戻ってほしい。いつまでも兄貴とアパートで暮らしてるなんておかしい。な、いいだろ?」

「……うんと」答えに窮する。 

「心配なんだよ小鳥が。……あいつ、最近少しおかしくないか?

 うまく言えないけど、嫌な予感がするんだよ……」

「おかしい?」

「ああ、なんか、心ここにあらずって感じで」

 あの夜を思い出す。あの、生臭い夜を。

「どうかな、小鳥」

「……ううん」視線が泳ぐ。部屋の中を見廻す。

 このアパートは兄の為に親が借りてくれたものだ。小鳥もそこで暮らすようになった。まだそのころ兄は期待を一身に背負っており、親も『兄をサッカーに集中させる』という名目でここを用意した。

 思い出が詰まった部屋だ。

 壁にかかった兄のユニフォーム、隅に転がったサッカーボール、ふたりで見たDVDの数々、ベランダには今もふたり分の洗濯物が揺れている。

 お風呂にも一緒に入った。その度に兄の腕の傷を見た。兄は自分を守る為に危険を顧みず殺人鬼に立ち向かってくれたのだ。そして燃える私を抱いて助けてくれた。

 忘れてはいけない。

 忘れられない。

「そうか……」

 その声に振り向くと、弟は寂しげに目を伏せていた。

 ……表情に出てしまっていたのか。

「だけど小鳥」ス、と立ち上がって、「諦めないからな。これは小鳥の為なんだ」

 彼は小鳥を抱きしめた。小鳥もそれに応じた。

「ちいにい、ごめんね」

「ああ」

 と、玄関の扉が開いた。目をやると、兄が呆然と立ち尽くしていた。

「なんだ、帰ったのか兄貴。おかえり」弟の冷たい声。

「…………」兄は無言で横を通り過ぎ洗面所へと消えた。 

「おい挨拶したんだから何か言えよ!」弟の苛立った声が飛ぶ。

 しかし返事はない。

 舌打ちした。

「あ、そうだ」

 弟は目を輝かせ、奥に声を飛ばした。

「父さんと母さんが話あるって。今後のことで」


     *


「ねえ、ちょっと怠惰が過ぎるんじゃないの? いくらなんでもここまで墜ちるってなに? なに、嫌がらせ? 私たちへのあてつけ?」

「ちがうよな、父さんは信じてるぞ。お前はそんな子じゃないって。こいつが数年ぶりに帰ってきた時だって心から心配して『将来絶対稼いで返すから』って約束までしてくれたもんな。な? そんな優しいお前がそんな卑しい真似するはずないよな? な?」

 ふたりの目は笑っていなかった。憤怒を宿していた。

 兄はひたすら俯き沈黙している。

「父さんと母さん、相当お冠だな」

「うん」

「無理もないけどな。イイ気味だ」

 ふたりは静かにやりとりを見守る。口を挟めば厄介なことになるのは目に見えていた。

 両親は兄が自分たちへのあてつけから兄がわざと怠慢(・・)しているのだと信じて疑っていない。だが小鳥は知っている。これはそんなものではないのだ。兄だって苦しんでいる。

 遂に痺れを切らした父が眼鏡を外した。眉間に指をあて首を振る。苛立ちを隠せない時に見せる仕草だ。

 一転、態度が変わる。

「おいおい、俺たちは、お前の為に、お前がサッカーに集中できるように、アパートまで借りてやったのに、どうしてそう幼稚なんだ。

いくらなんでもそろそろ遅れを挽回してくれないと俺たちも我慢の限界だよ。なぁわかってるだろ? 何が気に障った? せっかく弟が帰ってきてふたりで頑張ろうってときに、輪を乱してどうするってんだ」

「お前は、将来、その足で、稼いで、恩返しを、して、くれるんじゃ、なかったのかぁ? これじゃあただの糞、だろ。最・底・辺、だよ。な? 身をやつすなよ。お前には、すぅばぁらしぃ才能が、あるんだから。な? 頼むよ、機嫌直してくれよ、な?」

 最後は一転媚びた笑み。

 母は般若のような顔で沈黙している。

「……もしかしたら、兄貴は俺と比べられるのが嫌なんじゃないのか? 今まで自分の独壇場だったのに、数ヶ月で追い付かれて、それでふてくされてんじゃないの」弟が口を挟んだ。「怖いんだろう? 比べられるのが。双子だし、すぐに比較されるもんな」

「そうか!」父がポンと手を打った。「それだ! それはわかりやすい! 幼稚な嫉妬だ!」

「くっだらない理由ね。もうちょっと骨のある奴だと思ってたのに」

「そうか、そうだよな。今まで自分だけだったのにまた弟がちやほやされていい気はしないよな。ああなんだ。あ、いや、なんだとはスマン。でもそんなの気に病むことじゃないんだぞ? 父さんと母さんは今でもお前に期待してるし、ふたりを同じように愛しているんだから。だから安心しろ」

 父が兄の肩を叩く。心配するな、とでもいう風に。

「…………」それでも兄は顔を上げない。薄っすら笑みを浮かべている。

 弟がその椅子を蹴った。

「なに笑ってんだよ! なんか言えよ! っざけてんじゃねぇよ! 情けない……こんなのが兄貴だなんて反吐が出る」

 兄は椅子ごと倒れ弟を見上げている。

「それでいいのかよ! 悔しくないのかよ!」

 キッ、と兄の目が鋭くなった。前傾姿勢を取る。

「!?」弟は咄嗟に身構える。

 が、兄はそのまま横を駆け抜け外へ飛び出していってしまった。

「…………は」虚脱する。「殴ることもできねぇのかよ……」

 諦念の色が見えた。

「ねえ、この司会者ってカツラよね」

「いや、植毛だろう……あ、これの正解は鮭だな」

 両親は立ち尽くす弟に目もくれずテレビを付け、すぐに夢中になった。


 小鳥はすぐに後を追った。


   *


「おにいちゃん」

「…………」

 息を整え隣に腰を降ろす。眼前の水面は静かに揺れている。闇が濃く川辺は少し恐ろしい。遠くの町灯が優しく感じられる。

 兄は膝を抱えじっと水面を見つめていた。

「この町で」

「え」

「この町で、前に大量殺人事件があった」

「…………」

「原因不明の大量殺人。誰もが口々に言ってたらしい、なんであんなにいい人がって。その殺人鬼、最後は首を切って死んでしまったんだけど、家族は今でもこの町に住んでる。娘をチラッと見たことがあるんだけど、名前はなんて言ったかな、美夏だったかな。その子はひとりだったよ。周りにいないことにされてるみたいに。その子が悪いんじゃないのにな。

 この先彼女は大変だろう。誰からも本当の自分を見てもらえない。どこに行っても殺人鬼の娘というレッテルを貼られる。表面だけで判断される。それは、とてもつらいことだよ。

 人は自分の利益からしか人間関係を作らない。厄介事を背負い込んでまで友だちを作ろうなんて思わない。俺はそれを知ってる。小鳥も知ってるだろ? かつて俺がどんな目で見られてたか。

 優れた弟、愚鈍な兄。外見は同じなのに中身はこうも違うのか、みんなそう言ってたよな。……かつて、じゃないな。今もそうか。今の方がよっぽどそうかもな。皆の期待を裏切っちゃってるんだもんな。…………こんなの、ないよな」

「それは」

「帰ってきた、あいつは帰ってきた。はは、なんでだよ」

 卑屈に笑う。だが笑えない。熱いものが頬を流れた。

 腕で拭うが止まらない。とめどもなく溢れる。

「ご、ごどり」鼻水も垂れる。

 手を握られた。

「だぁ、こ、ことり、ごどり、だけ、は、だめ。ぜったい、だ。だ、ぁだあだあ……」

 脆い、なんて、脆い。

「おで、おがぢぐなっぢゃうぁ、ご、ごどり、ごど、ごどり、ごど、ごど、あ、ぁああああ、うぁあああご、ごぁうぁあああ」

 小鳥は思い出す。いつかのカフェでの会話を。


 ――みんな、今は俺を見てくれてる。でも、もし俺がこれを失ってしまったら、みんなが期待してくれているものを失ってしまったら、またひとりぼっちになっちゃうって、それがわかるから。

 だって目が違う。俺じゃない、どこか遠くを見てる。


 小鳥はそっと兄の頭をかき抱いた。服にべっとりと鼻水と涙が付いた。小鳥の胸のあたりに顔を擦りつける。

「ぅあ、ああっ、あ、ああああああっ!」

 いつまでも慟哭し続ける兄を抱きしめながら小鳥は思う。


 気のせいだろう、お腹に硬いものがあたっているなんて。


   *


 帰り道、不思議なふたり組と出会った。

「やぁ、スーパースターじゃないか」

「?」

 前方で淡いブルーのシャツを着た少年が兄に向けて手を上げた。隣には小さな女の子を連れている。街灯に照らされた精悍な顔立ちは育ちの良さを感じさせた。

 どこかで見たような……。

「夜の散歩かな? そちらは恋人さん? ずいぶんかわいらしい恋人さんだね」

「ちがう」兄が戸惑ったように首を振った。落ち着いたが未だ目は赤い。「俺はスーパースターの方じゃない。勘違いしてる。スターは弟の方で」

「いや、弟さんじゃなくて、君もスターだと思うよ」

「あ?」

「君だってスターだったじゃないか、それくらい知ってるよ」

「……弟と、きちんと見分けた上で言ってたのか?」

「うん。見間違えたりしないよ。今でも君のプレーは目に焼き付いてる。すごかったなぁ。この町からスターが出るかもしれないって父も喜んでたな」

「あ」その発言で思い出した。

 彼はこの町を基盤とする政治家の息子だ。

 以前何かのセレモニーで見たことがあった。彼の父には町長すら言いなりらしい。

「だけど最近は君の弟さんばかりで、君の活躍を聞かないね。どうかしたのかい?」

「…………」口籠もる。「それは……」

「怪我、しちゃったんです」小鳥がフォローした。「大きな怪我で、それで前みたいにはプレーできなくなっちゃって。まだみんなには言ってないんですけど」

「ああ、そうなのか」少年は首肯した。「なるほど、それで」

「さいてーね」

「え?」

「きこえなかったの、さいてーって言ったのよ」

 少年の隣の少女が睨んでいた。

 小鳥は一歩下がった。少し怖い。

「こら、チコ。まずはご挨拶」

「ふん、おにい、こんな小娘にあいさつなんて不要よ。あたし、こういう奴だいっきらいなの」

「……えぇ?」首を傾げる。

 だいっきらい?

「ねぇ、それってどういう意味?」

「頭悪いわね。そのまんまの意味よ」

「そうじゃなくて」

「そういう無自覚なところがきらいなの」

「…………」わけがわからない。

 少女に詰め寄ろうとした。

「近よらないで」

 シャットアウトされた。見ると、隣で少年は苦笑していた。

「そうやって人の人生もてあそんで、なにさまのつもり? 名前も変よね、小鳥って、人をバカにするのもいいかげんにしてちょうだい。平和のしょうちょう、青い鳥、チルチルミチルって、ちゃんちゃらおかしくってやってられないわね。ね。しあわせの青い鳥なんていないの。チルチルとミチルはすぐそばに見つけたけど、そんなのメルヘンなの。ぜったい見つからない。なら、おにいとあたしはどうすればいいか、かんたんよ、見つける旅に出ればいいの。そうするのが当ぜんでしょ? だって、ここにないんだもの。あたしたちはね、あきらめないの。わかる? あなたにはわからないでしょ」

「チコ、失礼じゃないか」

「でもおにい」

「チコ」

 強い口調に少女はやっと口をつぐむ。

「じゃあさいごに一つだけ」ズイと兄の目の前に立ち、「ざんねんだけど、あなた近いうちするわね。でも大丈夫、あたしとおにいがいるから」

 少年は少女の頭を叩いて無理矢理手を引いた。

「ごめんね、それじゃあまた」

「どういう意味なんだ」

「いや意味なんてないよ。忘れて欲しい」

「…………」

 無性に気になる。少女の雰囲気は普通ではない。しかもどうやら目が見えていないようだった。目の見えない者は心の目が鍛えられている、そんな話を信じないでもない。

「あたしたちはこれからイイトコロに行くの。じゃましないでくれる」

「イイトコロ?」

「そ、イイトコロ」

「まぁちょっとおもしろいところを見つけてね、色々と準備してるところなんだ」少年が付け加えた。「そうか、もしかしたら君たちにも縁があるところかもしれないね。……チコ、どうかな?」

「ちぢれにはある。妹にはない」

「だそうです。それじゃあ」

 そしてふたりは闇に消えた。


(無自覚なところがきらい? 兄が破滅する?)


 不思議なふたりだった。わけのわからないことを非難し断定していった。面識もなくそんなことを言われても気に掛けるはずがない。

 しかし不思議とわだかまる。

(どうしてだろう?)

 そんな夜の邂逅だった。


 兄も同じ気持ちなのか、ふたりをぼんやりと見送っていた。



     5


 あの少女の顔がちらつく。

 遂に兄がクラブを辞めさせられた。

「うちはお遊びでやってるんじゃないから……」

 そう監督に告げられたのだ。

 両親は怒髪天をついた。

「てめぇみてぇなクズを今まで食わせてやってたこっちがバカだったよ! もういいから帰れよお前、国に帰れよ! もう用はねぇから国に帰れよゲスが!」

 母の目はゴミを見るそれだった。

 兄はそれでもヘラヘラとアパートへと戻り、そして出てこなくなった。再度の引きこもり生活だ。

 両親もアパートを引き払うとは言わなかった。諸々の事情もある、ああは言ったが出て行かせることは難しい。かと言って一緒に暮らしたくはない。仕方なしに彼の為の別宅を存続することにした。

 ――無駄金を使わせやがって。

 彼らの苛立ちは最高潮に達していた。

(これじゃあおんなじことの繰り返しだよ……)

 焦ってみても、小鳥にはどうしようもできない。


 その日は朝から体調がおかしかった。

 ――兄の為に食事を作らないと。

 布団から出るとぐらりと視界が揺らいだ。そのまま耐えきれずに腰を降ろす。どうも身体が熱っぽい。計ると体温計は三十九度を示していた。

(あれれ?)

 などと思っていたら身体が傾きいつのまにか闇に落ちていた。

「…………んぁ?」

「起きたか」

「おにいちゃん」

 目覚めると、見知った顔。

「寝てていいからな。ちゃんと見ててやるから」

「……うん」

 手を握るとこそばゆいように目を細めた。胸が満たされる。弱っているときはさみしくなる。

 傍にいて欲しい。 

「病院へ行くか?」

「だいじょぶ、寝てれば治るよ」

「でもな……そうだな、それならうちに行こう。ここだとあいつもいて気も休まらないだろうし」

「え」目を丸くする。「あ」

 やっと気が付いた。

このひとはだいにいじゃない、ちいにいだ。

「ねぇ、ちいにい――わっ、わっ」

 お姫様のように抱え上げられた。 

「心労、それと過労だよ。あいつ引き籠もって小鳥に迷惑ばっかりかけやがるから……クソ。俺がなんとかしてやるからな」

「そんなこと」

「いいから、任せとけ」

 玄関を出て古びた階段を降りる。さすがにこの姿勢は恥ずかしいのでせめて負ぶさる形にしてもらった。

「恥ずかしがることじゃないだろ」

「でも、恥ずかしいよ」

 道行く人はみんな笑っていた。

 弟の背中で揺れるうち瞼が重くなってくる。抗えない。

「なぁ小鳥」

「…………ん」 

「別れられるようにしてやるからな」

「…………ん」

 夢うつつのなかで、小鳥は兄と遊んでいた。

 どっちのおにいちゃんかな……それがわからなかった。


 だからもしかしたらその後の出来事も向こうの家で何かあってのことだったのかもしれない。ちいにいがお父さんとお母さんに相談して、それでまた怒られたりしていたのかもしれない。今ではそう思える。

 …………だけど。



 学校から帰ると、兄が居間でテレビを見ていた。

 そのころはアパートどころか自室に引き籠もり小鳥とすら顔を合わせることを避け始めていたので久しぶりに顔を見られて小鳥は喜んだ。

 こういう機会を大事にしないと。

「ねぇおにいちゃん。夕ご飯は何がいい?」

「なんでも」

「それじゃあ張り合いがないよ。ね、なんでもいいから言ってみて」

「うるせぇ」

「…………」

 少し怯んだ。熱が出た日、小鳥はそのまま向こうの家に泊まったのだが、それい以降兄はとても機嫌が悪い。だけどそれは自分の意志ではなく、目が覚めたら朝だったのだ。どうしようもなかった。

 むぅ、と口を尖らせる。そんなにいつまでもスネるようなことじゃないのに。

 でも、嫉妬してるんだよね。

 ニシシと笑う。子どもなのだ。

 結局返事がなかったので得意のカレーと決め、先に風呂掃除をすることにした。

(もうちょっとお料理勉強しないとなぁ)

 小四の小鳥にはまだあまりレパートリーがない。

(おかあさんがいる子って、やっぱり家庭の味を教えてもらえるのかな……)

 素朴な疑問。母の顔も今ではぼんやりとしてしまっている。

 でも、それでもいいと思える。

 それがうれしい。

「おい」

 ビクッとして振り向くと、兄が立っていた。

「え、な、なぁに?」

 驚いてスポンジを落してしまった。

「このまま一緒に入るぞ」

「え?」

「服を脱げ」

「…………」

 浴室の扉は兄に塞がれている。

 目が泳ぐ。兄の目が怖い。

「どうした? いつもはお前の方から入ろうって言ってくるくせに」

 そうだ。ついこのあいだまではそれがふつうだったのだ。

 それなのに、今ではそれがとても昔のことのように思える……。 

「小鳥」

「え、と」目が泳ぐ。

 脳裏をよぎるのはあの夜の情景。

 忘れようとしていた。

 考えないようにしていた。

 ツンと鼻孔をつくあの匂い。

 何度も頭を振った。

 でも、こびりついてしまった。

 もう、一緒には入れない。

「ごめん、なさい」

「あ?」

 凄い力で腕を掴まれた。

「いたっ!」

「ふざけるな」

 息を呑む。いつもとは違う、そう直感した。

 断れば、何をされるかわからない。

 今日の兄は、普通じゃない。

「え、あ、そ、その、おにい、ちゃ」

 膝が震える。

「じゃ、入るぞ。ほら手を上げろ」

「…………」

 言われるままに手を上げると乱暴に脱がされた。

 一糸纏わぬ姿となり、身体を縮めて大事な部分を手で隠していると、

「色気付くな、十年早い」

 手を取り払われた。

「すべすべだな」

 腹を触られた。

「やっ!」

「……かわいいな」

 甘い囁きに、鳥肌が立った。

 

     *


「背中を流せ」

「うん」

 タオルに石鹸を擦り付け、泡立ててから兄の大きな背中にそっと触れた。

「いくよ」

 声をかけてから、ごしり、ごしりと手を上下させる。

「んしょ、ん、ん、しょ、……あっ」拍子につんのめった。

 兄の背中に顔を打ち付ける。

「ご、ごめんなさい」

「前も。早くしろ」

「う、ん」

 前に廻る。

 首から胸、腹、足も撫でるように泡立てていく。

「ここもだ」

「…………」

 壊れものに触れるようにさすった。

「ああ、気持ちいいなぁ。小鳥はうまいなぁ」

「…………」

 桶に溜めたお湯で身体を流してやると、兄は湯船に浸かった。

「ほら、来いよ」

 小鳥も急いで身体を洗い、湯船に浸かる。さすがにふたりは狭い。湯が溢れた。

「小鳥も大きくなったなぁ」しみじみと言われる。

「うん、もう小学四年生だもん」

「あんなに小さかった小鳥がなぁ」

「……ねえおにいちゃん」

「なんだ」

「狭いし、出てもいい?」

「あ?」

「…………ううん」

「なにモジモジしてんだよ」

「だって……だって恥ずかしいよ」

「おいおい、自分で言ってただろ? 『兄弟は小学校を卒業するまでは一緒にお風呂に入っていい』んだって。俺が中学二年だけど大丈夫だって。ついこのあいだの話じゃねぇか」

「それは、そうなんだけど……」

「お前からせがんできてただろう。一緒に入ろうって。いったいどうしたんだよ」

「だって、でももう」

「まだ出るとこも出てないのにマセたこと言うな」

「あ、や、や! ちくびつままないでっ!」

「生意気に頬染めちゃってまぁ。からだも火照ってんな。はは、本当に成長したなぁ」

「も、揉まないでよぉっ!」

「嫌なのか」

「え?」

「嫌なのか、小鳥」

「…………」

「そうか」

「あ、ちが」

「お前は俺のものだ。誰にも渡さない」

「ひ」

 身体を抱えられ膝の上に乗せられた。後ろから抱きしめられる。きつく抱きしめられ顔が歪む。

 兄の心臓は太鼓を打っていた。兄は小鳥の背に頭を乗せた。

「お、おにいちゃん? 今日はどうしちゃったの? 怒らないで、そんなに怒らないで……ひぅ!?」

 悪寒が走った。兄が、胸を撫でたのだ。

 それは今さっきの手付きとはちがった。

 まるで愛撫――  

「ちょ、おにいちゃ、やめっ!」

 もがくが抜け出せない。湯が跳ねる。

 兄はかまわず指を蠢かす。

「――ヒ」

 尻に当たっているそれが、大きく硬っていた。

「やめ、やめてっ、やめてよぉ!」

 兄が腰を降り始めた。

(す、擦りつけてる!?)

 耳元の吐息が大きくなる。


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、

 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、

い、いいだろ?

 血、

 つながってないんだから


 狂乱した。


 渾身の湯船から飛び出すと腕を掴まれ組み敷かれた。

「や、やっ!!」

「お前は、俺のものだ」

 口を塞がれた。舌を絡めてくる。

「~~~~~~~~~~っ!」

 口を閉じやり過ごす。

「ひぅ!?」

 彼の指が下腹部を伝った。下に降りて止まる。

「お、お前だって言ってくれたろ。お、俺と一緒にいるって――いぎっ?!」兄が耳を押さえ顔を歪める。

 小鳥の手には桶が握られていた。兄の額から血が滲んだ。憤怒の形相をしている。我に還りタイルを蹴ったが滑って転んで鼻を打ち付けた。

「あ」どっと出血した。止まらない。

 また兄が覆い被さった。目が血走っている。 


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、

 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、


 もがいていると手が何かに触れた。掴み、振り回した。しかし掴まれ、それでも振り回した。

 不意に、鮮血が散った。

 剃刀が小鳥の額を切り裂いていた。パックリと開き、血が目に入り朱に染まった。


 はぁ、はぁ、ひ、

 はぁ、はぁ、ひ、

  

 兄も足を切ったようで痛がっていた。鏡に映る自分の鼻は曲がっていた。

 ふらふらと浴室を出た。

 兄が追いかけてきたのがわかった。

 裸のまま玄関を出、階段を降り、夜の町を駆ける。

 人通りはなくただ月がぽっかりと浮いていた。背後からベタベタと大きな足音が聞こえる。徐々に間隔が狭まっている。


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、

 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、

 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、


 世界は呼吸音に満たされている。

 余りにも暗い。遠くの街灯を目指して走る。転んだ。立ち上がる。脇腹がヒリヒリした。ガラス片が刺さっていた。身体中血まみれだった。塗れた髪が汗ばんだ肌に張り付く。

 全裸の兄が追いかけてくる。兄の陰茎はそそりたっている。

「あはは」

 鳩尾が痛い。膝が震える。ガラスを踏んでしまった。痛い。


 ヒィ    ヒ


 喉が鳴る。息ができない。足の裏が痛い。走れない。足がもつれ壁にぶつかった。しばしぼんやりとしてしまったがすぐに起き上がり駆け出す。足下が覚束ない。

 不意に、太腿に熱いものが流れるのが感じられた。目をやると、夥しい量の血が流れ出していた、股のあいだから。

 それを認めた途端、下腹部が重くなった。大きな石でも飲まされたかのようにズンと重い。

 血の点を刻みながらを走り続ける。

「あはははははひ、は、ひ、ひ、は、ひぅ、あははははははははっ」

 つんのめり、転んだ。立ち上がる。

 警報が鳴り始めた。目の前は遮断機だった。 

 カンカンカンカン

 遠くに小さく電車の灯り見えた。


 はぁはぁひ。

 はぁはぁひ。

 はぁ――  


 振り返ると兄は歩いているのか走っているのかも判別つかないくらいの速度でゆらゆらと揺れていた。。

 破裂してしまいそうな左胸に渇を入れ、遮断機が下りる寸前に滑り込んだ。このタイミングなら。 

 線路に足を取られて転んだ。

「いたっ!」

 足首を捻った。

「は、ひ、は、は、ひ、は、ひ、は、はっ、はっ――ヒィ」

 喉が鳴る。鳩尾が蠕動する。全裸で線路に倒れている。

 電車のライトが小鳥を照らした。遮断機はいつのまにか降りていた。急ブレーキが轟いた。

 膝を抱えて丸くなる。数秒後に鉄の塊が頭の上を通り過ぎ、スイカ割りのように破裂する。

 小鳥は目を瞑った。


「  りっ!」


 鈍い音を聞いた。

 気がした。



     7


 日曜日の昼下がり、小鳥がリビングでテレビを眺めながら煎餅を囓っていると、兄がユニフォーム姿でやってきた。

「またそんなダラダラして、太るぞ」

「だいじょうぶだもん」膨れっ面で返す。

 最近、スタイルを気にし始めたことを兄に悟られてしまった。体重計を睨んでいたら兄が物陰で笑っていたのだ。

 耳まで染めて怒ったが兄はただ笑うばかりだった。でも休日は買い物に付き合ってくれる。貴重な休日だというのに、優しい兄なのだ。

「これから練習行ってくるからな。小鳥も来るか?」

「え、と、あの、今日はちょっとアレの日だから……」

「あ」しまった、という風に自らの頭を小突いた。「そうか。ごめんなデリカシーなくて」

 ううん、首を振る。

 顔が火照るのがわかった。

 外から両親が兄を呼んでいる。

「それじゃあ小鳥、くれぐれも気を付けるんだぞ」

「うん、でもだいじょうぶだよ」

「いや、さっき家を覗いていやがったからな……」

 ビクンッと肩が弾む。

「あ、れ」

 途端、手が震え始めた。紅茶を口に運ぶがガチガチと歯にぶつかるばかりでうまく啜れない。服にかかってしまった。カップを置いて笑ってみせるが笑えない。

「…………小鳥」

 兄はそっと小鳥をかき抱いた。

「片足を失って、アレは本当にダメになった。何するかわかったもんじゃないからホントに気をつけないと」

「う、ん……」


 ――あの夜、目を開けた小鳥が見たのは血塗れで倒れ伏す兄と、グチャグチャに潰れた彼の右足だった。車に轢かれた蛙のようになっていた。

 兄は呻いて懸命に右足に手を伸ばしていた。そこに誰かが駆けつけたところで、またストンと闇に落ちた。


「足がなくなったって言うのに逆に外に出るようになるなんて、不気味な奴だよ」

 怪我をしてからというもの、彼はこの家の付近を毎日うろつくようになった。しかしそればかりでもなく、他の場所へも足繁く通っているようだった。以前とは違い、朝から晩までアパートを空けている。

 足を引き摺りどこへ行っているのか、もう小鳥には知る由もない。

「じゃ、ゆっくりな」

「うん、いってらっしゃい、おにいちゃん」

 チュッ

 頬に口付けをして兄を送り出した。

「ふぁあああああっ」眠気に誘われる。

 麗らかな陽光と棚引くカーテン。

 心安らぐひととき。

(なんて、優雅)

 紅茶を口に運ぶ。

「あっ」

 カップを落してしまった。

「…………」

 身を屈めカップを拾う。と、姿見が目に入った。微笑み、手串で髪を揃える。

 不意に、額の、赤黒く盛り上がった傷跡が露わになった。

「…………」

 二の腕をさする。

 ここにもケロイドがある。どちらとも生涯付き合うことになるだろう。それほどに傷は深く、絶対にひとには見せたくない。

「…………」 

 見れば、紅茶のカップは欠けてしまっていた。気に入っていたが、これでは捨てなければならない。

 傷つける物に口を付けるのは怖い。

 テレビではお笑い芸人が身体を張った芸で観客を沸かしていた。バットで叩き合っている。いつか怪我でもしてしまうんじゃないかと心配になる。

 でもおもしろい。

 あはは。


「死ねばいいのに。」

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