サマーフィッシュ

     1


 はぁあああっ。

 プールサイドでくらげは盛大に溜め息を吐いた。

 右手に持ったストップウォッチを見ると、水泳に人生を捧げてきたくらげでも驚きを隠すことができない。

 すごい。

 素直にそう思う。私はすごい逸材を掘り起こしてしまったんじゃないだろうか。

 真夏の正午過ぎの市民プールにはほとんど人がいない。彼女の目の前ではひとつのレーンを貸し切り状態にして美夏が泳いでいる。スクール水着を着用し、キャップを付け、ゴーグルを付け、伸びるようにクロールで泳ぐ美夏の姿は、いっぱしの競泳選手に見間違うほどに本格的だ。

 才能ってやつかな。

 独りごちる。

 類い希なる吸収力、それはおそらく彼女の希有な家庭環境に由来するものなんだろう。その必死さには指導するくらげまで身につまされた。変わりたい、進みたい、その一心で泳ぐ。だから上達が早い。とても夏前までかなづちだったとは思えない。

 けれど。

 けれど、とくらげは思う。それも、わかる気がする。私たちは泳がないといけない、泳いでいないといけないんだから。そうしないと、死んでしまうから。陸に打ち上げられた魚のように。

 美夏がタッチし、ぶはぁっ、顔を上げた。水しぶきが散り、くらげを見る。

 くらげは口元を釣り上げ、美夏はそれを見て笑みを零した。

「優勝?」

「うんにゃ、入賞くらい」

「うへぇ、これでもぉ」

 美夏は宙を仰ぎ、ぶくぶくと沈む。

 こんなお茶目な姿は他の誰も知らない。こんな美夏が愛されないなんておかしい。

 くらげは未来に思いを馳せる。美夏が健やかに生きられている未来、そしてその隣で自分が笑っている未来。

 美夏は変わる。幸せに生きる。

 その為に私たちは戦う。

 誰も助けてくれないのなら、世界がやさしくないというのなら、私たちは世界とすら戦おう。


 二人で掴み取ると、決めたんだ。


     *


 練習も終り、ふたりはいつもと同じように丘の上の公園に赴いた。

 くらげはこの公園を密かに気に入っていた。丘の上にあるだけあって、開放的で景観もよく、特に練習が終わったあとは夕焼けが身体に染み入るようでとても心地良い。

「じゃ、くらげ。そこに立って」美夏が声をかけた。

「またですか」くらげが渋い顔をする。

「うん、また」

 屈託のない笑みに、くらげは為す術もなく柵に身をもたせかける。溜め息を吐き、視線を美夏に向ける。美夏は脇に抱えていた画板を肩に掛け、ベンチに腰を降ろし、鞄から絵筆を取り出し作業にかかる。

 美夏はくらげをモデルにして肖像画を描いていた。そろそろ作業も中盤だろうか、描き終わったら見せて貰えることになっている。

 くらげは初めて美夏の絵を見せてもらったとき、思わず声を失った。技法のことなど何もわからなかったが、その力量が群を抜いていることだけはわかった。明らかに学校の皆とはモノが違った。美術館に掛けられていても遜色ないんじゃない、そう伝えたら美夏は照れて笑っていた。

 そして、実際に絵を描いていくことが美夏の夢なのだと聞いた。

 くらげはモデルになることを億劫がって見せていたが、それは照れ隠しであり、実は美夏がどんな風に自分を描いてくれるのか楽しみだった。ホットパンツに無地の白いシャツなどという格好でモデルになってしまったことを少し悔やんですらいた。こんなことなら、もっとおめかししておくべきだった。ショートカットの髪だって、少しウエーブとかかけてみてもよかったかも。ガラじゃないけど。

 美夏が筆を置き、うんんっ、背伸びをする。

「ね、見せてよ」くらげが覗き込む。

「だーめ。完成してからね」手で覆い、上目遣いに見る。

 むぅ、くらげは口を尖らせる。

「いつ完成すんのさ」

 美夏は画板をひっくり返し、目尻を下げ、言った。

「夏の終わり。」


 ――くらげがこの町に越して来て三ヶ月になる。

 夏休みは残り僅かとなり、目標に定めている水泳大会は目前に迫っていた。けれど、くらげに焦りはない。やれることはすべてやってきた。それに、美夏は普通では考えられないほどに上達が早い。だから、大丈夫だ。良い結果を出して、私たちは幸せへの第一歩を踏み出せる。

 見上げれば、満点の星空が大パノラマに広がっている。

 美夏と出会えてよかった。

 この町に来てよかった。

 もう私は生ける屍なんかじゃない。

 もう私は人生を悲観しない。

 私は水を得た。

 美夏という水を。

「ねぇくらげ」

 隣からの声に視線はそのままで返答をする。

「なに」

「くらげって、漢字で書くと『水』に『母』だよね」

「ん?」

「だから、漢字で書くとさ。海にいるあれだよね」

「ああ。うん、そう。『水母(くらげ)』」

「ねぇ、なんで水母って名付けられたの?」

「知らんし」笑う。

「いやじゃない? 水母って名前」

「べつにいやじゃないよ。だって水は好きだし、水泳だって頑張ってやってきたんだから。うん、好きかな。今は、好きって、素直に言える。名は体を表すって言うしね」

「へぇえ」

 隣で頬を緩めているのが目に入り、視線を向ける。

「なにさ急に」

「べつに。ただ、月が綺麗だなぁって思って」

「なんじゃそりゃ」

「…………」

「…………」

 ふふっ、ふたりは笑った。

「ね。くらげって『海月(くらげ)』とも書くの、知ってた?」とくらげ。

「え、そうなの。海の月なんだ。どっちがよかった?」

「知るか」笑う。

「でも、水の母でいいよ。海の月じゃあちょっと私のイメージじゃあないからね」

「そうかなぁ」

「メルヘンでむずがゆくなるし」

「わたしはべつにおかしくなんてないと思うけど……でも、うん、そうだね。水母は水母でいいや」

「さっきからやたらと語るね」

「月が、きれいだからね」

「だからなんなのそれ」

「…………」

「…………」

 ふふっ、ふたりは笑った。

 そして見つめ合って、言う。

「わたしたちは運命共同体だ、私は美夏の為に、美夏は私の為に」

「ひとりだとできないことも、ふたりでなら」

「そう、その通り。私たちは一心同体」くらげは力強く言う。「私たちは負けない、負けるもんか。戦って戦って戦って、打ち勝つしかないんだ。自分の身は自分で守る、それしかないんだ。誰も私たちを救ってなんてくれないんだから」

 くらげは美夏の手を取り、美夏もそっと握り返す。月明かりがふたりを照らし、じっと潤んだ瞳で見つめ合う。が、すぐに恥ずかしくなりどちらからともなく俯いてしまう。儀式めいた宣誓に、ガラじゃなかったと水母は身悶えする。やってしまった。

「うあぁ」耳まで染め上げ身をくねらせる。

「んふふっ」美夏も頬を染めてはいたが、その様子に微笑する。

 それでもお互い手を離すことはなく、強く握りしめていた。



     2


 水母は初めから美夏に目を付けていた。

 叔母に、この町にはある陰惨な事件から村八部にされてしまった孤独な少女がいると聞かされていたから。

「近づいちゃ駄目よ」

 ことあるごとに叔母にそう言われた。それはこの町の新たな住人になる水母への、厄介ごとに巻き込まれない為の善意からの忠告ではあったが、まったくの逆効果に終わった。

(この子だ)

 水母は直観し、身の毛がよだった。

(この子しかいない)

 血がたぎり、長らく感じていなかった生の充溢すら感じた。力が漲り、未来への希望が沸々と沸き上がった。

 この子だ。

 この子となら、一緒にやっていける。私より深く傷ついたこの子となら。

 それは確信だった。ようやく見つけた、一筋の光だった。


 転校初日、早速実行に移した。思い立ったが吉日、彼女に機を待つなどという観念は備わってはいない。

 無難に自己紹介を済ませ、席に着くとクラスメートに一斉に取り囲まれた。退屈な田舎町、そこにやってきた大都会東京からの転校生、しかも競泳で輝かしい成績を収めていた少女に興味をそそられない方が難しいといえた。実際、新聞かなにかで見て水母の顔を知っている者までいた。

 水母はその渦中で俯き、胸をぐっと抑えた、額には汗が滲み、ド、ド、ド、心臓の音が世界に反響した。

 風景が回り、喧噪が遠ざかる。

 いまはまだ早い、ここにはいられない。でも、絶対に戻ってくるから。だから、彼女のところへ。

 だいじょうぶ、ぜったいに、彼女なら。

 ふらつく身体を悟られないように席を立ち、会釈をしてすり抜ける。足が重く、気を抜くとへたりこんでしまいそうだ。すると取り囲んでいたクラスメート達も一斉にその後を追い始める。

 水母が構わず目的の場所へと足を向けると、瞬時に皆の表情が強ばった。

 ――どうしてそこへ?

 彼らの瞳はそう言っていた。

 窓際でひとりぼんやりと外を眺めている髪の長い少女、その席の前に立つ。

 少女はゆっくりと振り向いた。まつげが長く、端正な顔立ちをしている。けれど美しく見えない、瞳がどんよりと濁っているからだ。わたしと同じ目だ、水母はそう思った。

「ねえ」

「……なに?」

 訝しむように上目遣いで見る少女、なんとなく身体を左右に揺らしているように見える。水母はその瞳の奥に恐怖を読み取った。教室内の空気はピンと張り詰めていて、誰もが固唾を呑み、異様な空気に包まれている。

 彼女に手を差し出す。

「友達になろう」

「……え?」

 少女は黒目を大きくして硬直する。眉間に皺を寄せ、水母が構わず見つめていたらハッと我に返りぶるっと震えた。

 水母は不敵に微笑み手を握り、力強く握り言う。

「拒否権はないよ」

 少女はポカンと口を開いて固まった。

 それが、二人の出会いだった。


     *


 想像していたことではあったが、あれだけ騒いでいたクラスメートはもう近寄ろうとさえしなくなった。

 水母は美夏と同じように『いない者』として扱われ始め、透明人間と化し、疎外され、孤立した。

 けれど、そう、これはわかりきっていたことなんだ。

「わたしと仲良くすると、みんなに嫌われちゃうよ」美夏が掠れた声で呟く。

 水母のアタックを無視し、距離を置こうとした彼女だったが、あまりのしつこさに口を開くようになっていた。

「なのにどうしてわたしのそばにいるの? ねぇ、どうして?」

 声が、震えていた。沈痛な表情、怯えきって、疲れ切っている。目の下にはクマができ、時々ふらつく。

 水母はハッと気が付いた。自分がこの少女を追いつめてしまっていたことに。

 バカだ、私は。なんて愚かなことをしていたんだろう。この子は人を信じることができない、だから、このしつこさが彼女を不安にさせてしまっていたんだ。からかってるんだ、新手のいじめなんだ、ううんちがう、じゃあなんなの、なんでこんなことするの、そう思って夜も眠れなくて、こんなに衰弱して。それなのに私は自分の都合ばっかり考えて、彼女に纏わり付いて。

 ……さいてーな人間じゃないか。

 気が付けば、美夏を抱きしめていた。

「えっ」彼女は身を強ばらせる。

 ぎゅううっと抱きしめ、髪に顔をうずめる。石鹸の香りが鼻をつき、可憐な乙女の匂いが充満した。

「ごめんね」穏やかに言う。「でも、大丈夫だから。私は、敵じゃないから。ううん、味方なんだよ。あなたの味方なんだ」

 顔を離すと、美夏の黒目が震えていた。

「まぁ正式に言うと、味方でありつつ、味方になって欲しいなー、みたいな」

 笑うと、首を傾げた。


 美夏と一緒にいると、この少女がいかにひとりぼっちかということが嫌になるほど身に染みた。

 学校でも町でも誰ひとり見向きもせず、時にはいやがらせまでされる。上履きがなくなったり、用を足している最中に水を撒かれたり、ハサミを投げ入れられ額を切ってしまったことまであった。町で買い物をしたときは痛んだ野菜を見繕われたり、お釣りも渡されず、もちろん挨拶や礼などされるはずもない。

「ちょっとなんなの!」

 溜まりかねた水母が語気を荒げたこと数えきれず、けれどそのたび美夏に袖を掴まれた。

「でも」水母は燃える瞳で、「こんな仕打ち、許せない」

「いいの」小さく首を振る。「私たち親子が、まだこの町にいるのがいけないんだから。」

 けれどある日の帰り道、

「きゃっ!」

 美夏が鋭く声を上げ、提げていた袋を落としてしまう。中身が飛び出る。

「どしたの?」

 水母は拾い集めようと腰をかがめ、目を剥いた。さっき八百屋で見繕ってもらったばかりのバナナ、腐食しきり蛆が沸いていた。あの親父さんはとてもきさくないい人に見えたのに。

 憤懣やるかたない目で見上げると、美夏は「んもう」と言って柔和に微笑んでいた。

 けれどその瞳は焦点が定まっていなかった。


     *


 家庭が美夏の安息の場となればよかったのだ。けれど、むしろ家庭こそが美夏の神経を磨り減らしていた。

 日がな一日、泥酔した母が居間に居座っていたから。

「また、お酒ばっかり飲んで」

 母はアルコール中毒に陥っていた。アルコールなしに生きていかれないのだ。

 美夏はどんなに体調が優れなくとも、家事をし、母の世話をしなければならなかった。甲斐甲斐しくも毎日、毎日、弱音のひとつも吐かず。

 母はテレビの前から動かず、見ているのかいないのか、ただちゃぶ台の上に肘を付き画面を眺める。まばたきひとつせず、眠る時すらテレビを付けっぱなしにすると聞かされ驚いた。

「怖いんだと思う」美夏は目を伏せた。

 実際に美夏の家に赴くと、聞かされていた以上の光景に呆気にとられた。

 下着姿の女性が、ティッシュ、空き缶、空き瓶、雑誌、服に埋もれてテレビを眺めていた。生ゴミの匂いがツンと鼻を刺激する。

「またこんなに散らかして。朝片付けたのに」美夏が苦笑混じり言った。

 たぶん、この人は身の回りをごちゃごちゃにしておくことで心を落ち着かせているんだろな、なにとはなしにそう思った。

「あんまり飲んでばかりいると身体壊しちゃうよ」

 美夏が転がっている瓶や缶を腰を屈めて拾う。ちょうど体でテレビが塞がれた。

 母はおもむろに立ち上がり、ビール瓶を握り美夏の頭を殴打した。ごぅん、鈍い音が響き渡り、美夏は倒れ伏す。瓶からは金色の液体がどぼどぼと流れ畳を濡らす。

 美夏はもんどり打ち、それでも微笑を浮かべ起き上がろうとしたがまた倒れる。後頭部からの流血が髪に絡み服を染める。

 母はゴミでも見るかのように見下ろし、残りの液体をあおった後また腰を下ろしてテレビに釘付けになった。

水母はあまりのことに立ち尽くしていたが、ハッと我に還り美夏を抱きかかえる。

「美夏っ!?」

「ぁ、ぁはは……」

 美夏は頭を揺らしながら呻き、しかし屈託なく笑いかけた。身体を起こすが膝が生まれたての子鹿のようにぷるぷると震え、体を預けた。

 脳震盪だ。

 なんにせよ頭だ、病院に連れて行かないと。

 母を睨み付けると、彼女は虚ろな瞳で目を合わせ、そして未だ立ち上がれない美夏を見て言った。

「拭いてけ」

 ――――。

 腰を浮かす。

 と、袖を掴まれた。

「やめて」

 かぼそい声で懇願され、そんな顔をされたらもうどうすることもできない。

 水母は眉間に皺を寄せ、荒ぶる心を納めた。

 美夏はぐらぐらしながらも身を起こし、ちゃぶ台の上に置いてあった茶に変色した布巾を手に畳を拭き始める。額から血がぼたぼたと垂れ、それも拭かなければならず、むしろビールの跡ではなく血の跡が畳に染みる。

 母は何も言わず、ただテレビを眺め続け、水母はタオルを持ってきて美夏の頭をおさえた。

「救急箱は? ねぇ早く病院行こうよ」

「たいしたことないから」朗らかに笑う。

 けれど血は止めどもないのだ。

「バカッ、これのどこがっ」

 強引に肩にかけるようにおぶさり外に連れ出した。美夏の家に電話機はない、借りにいかなければならないがここに置いておくとまた何をされるかわからない。治療もしてもらわないと。

 そう考え隣家に赴くがインターホンを鳴らしても反応がない。演歌が鳴り響いているというのに。

「すみません!」半ば怒鳴るように、「美夏が怪我したんです! 電話を貸してください! すみません!」

 返事はない。

「ねぇ! なんで返事してくれないの! いるんでしょ! 出てきてよ!」

 それでも返事はなく、憤怒に駆られ戸を開こうとしたが、

「やめて……」

 美夏に袖を掴まれグッとこらえる。

 それならば、直接病院へ連れて行くしかない。

「でも、どうしてこんな……」

「しかたないよ」目を瞑り、過去に想いを馳せるかのように、「……悲しいんだ、お母さん。」


 美夏は病院にかかることを頑なに拒んだ。聞けば、母に迷惑がかかるからだという。

「そ、そんなこと言ってる場合じゃっ」

 水母は食い下がったが、彼女が本気で嫌がっているとわかるとそれ以上は口にしなかった。

 渋々頷き、水母の家で応急手当を施すことに決めた。

 着いた先ははごく普通の一戸建て、水母は親戚の家に間借りしている。

「お、水母が友だちを連れてきよった」

 ふたりが居間に入ると老人が声をあげた。縁側でポテトチップスを頬張っていたらしい、口の周りはベトベトで周囲にカスが散乱している。

「ほらほらじいちゃん、零してるから」

「うんん?」

 水母がティッシュを手にカスを拾い集めると、老人は立ち上がり、かと思うと急に股間を濡らしてしまった。

「あっ、また」

 水母が溜め息をつく。老人は構わず廊下を歩きだす。滴がポタポタ後を引く。

「あーあーもう」

 それも拭き取る。

「ちゃんと着替えてよー、じいちゃんっ」

 聞こえているのかいないのか、のそのそと自室へと引っ込んだ。

「……あ、挨拶してなかった」

 美夏が目を泳がせる。

「いいよだいじょぶ。じいちゃんご覧の通り感じだし」

 水母は美夏の応急手当を始める。

 治療の為には部分的に髪を切る必要がある。

「いい、かな?」

「う、うん」

 水母は鋏を髪の根元にあて、

 ジョキ、ジョキ、ジョキ、

 切り進めていく。

「…………」

「…………」

 庭から差し込む陽光で居間は朱に染まり、水母はなんだか今この瞬間がとても懐かしいもののように感じられた。

 庭に目を向けると、山間に沈んでいく夕陽がやたらと目に馴染む。

「…………あ、あの」

「ん?」

「あ、ありがとう、ね」

「うん、時間なら心配しないでいいから。おじさんとおばさん8時まで帰ってこないし」

 髪を掻き分け、消毒液を付けたガーゼで撫でる。んっ、美夏は目を瞑り、身体を硬くする。

「でも、じいちゃんあれ以上ひどくなるようだと困っちゃうなぁ」

 ぽん、ぽん、ガーゼで撫でられるたび、美夏は肩をもちあげる。

「あ、あのね」

「ん?」

 その顔に、水母は目を丸くする。瞳は夕焼けに染まり燃えているかのようだ。

「なに?」

「あのねっ」

「うん」

「…………」

「…………」

 あ、ぅ、美夏は俯いてしまう。

 蛙が鳴き、蝉時雨が絶え間なく、風鈴が時折涼やかな音を出し、夕焼けに染まった世界は夏の到来を告げていた。額から汗が滲み、美夏の長い髪は汗でうなじにひっついている。

 水母は美夏の言葉を待つ。ただ、じっと。

 やがて美夏が顔を上げ、見つめ合う形になると、もう彼女も視線を逸らさず、見据えて言った。

「お父さんがね、人を殺しちゃったんだ。それも、四人も」

 そして美夏は語り出した。







     3


 父のことが大好きだった。本当に、大好きだった。

 美夏の父は小さな車の整備工場に勤めるエンジニアで、決して腕がいいとは言えなかったが、柔和で、やさしく、人望の厚い立派な職人だった。

 一家の主として家庭も愛し、美夏はそんな父を心から尊敬し胸がいっぱいになるくらいに大好きだった。

 ――生まれ変わったらお母さんよりはやくお父さんとであってけっこんするんだ。

 それが美夏の口癖だった。

 母は、

「まあ悔しい。将来はあなたみたいな人と結婚するわね」

 そう冷やかし、そのたびに父は照れて頭を掻いた。その背中は広く、固く、けれども暖かく、そこが少女の定位置だった。

「おいおい、重いよ」

 しょっちゅうしがみついては父を困らせた。けれど父は苦笑しつつも美夏が自分から降りるまでは決して降りろとは言わなかった。後ろから顔を覗くと、頬を撫でてくれて、頬を擦り合わせると、もうどうにもならなくなってその頬に、その額に、その口に、キスの雨をお見舞いするのだった。

「うわっ」父は嬉しそうに倒れ込み、美夏はそこに愛の追撃を加えるのだ。

 穏やかな日常、かけがえのない日々。

 大好きな、お父さん。


 そんな父の為に、得意の絵を何枚もプレゼントした。

 美夏には得意なことがあった。絵を描くことだ。

 集中して風景や人物を見ていると、腕がおもむろに動き出し、そこで更に踏ん張ってうーんうーんと潜っていくと、自分でもびっくりするような絵を描くことができた。

「すごいなぁ美夏、うん、たいしたもんだ」見せるたび、頭を撫でてもらえた。

 その才は父譲りなのか、美夏も詳しく聞いたことはないが、彼は学生時代本気で絵描きを目指していたらしかった。美夏は今でも初めて似顔絵を描いて渡した時のあの恥ずかしそうな、でも誇らしげな表情を憶えている。

 夫婦の仲も至って良好だった。

 特に母が父にベタ惚れで、それは子どもの目から見ても明らかだった。目が、ちがうのだ。ぜんぜんちがう。

 あれは今になって考えてみれば異性を見る瞳だったんだろうなぁと美夏は思う。潤んで揺れて、素朴な恋する乙女そのものだったから。

 親族とは疎遠になってしまっていた。

 両親は一緒になるときに色々あったらしく、両者共親族と距離を置いていた。駆け落ち同然に家を飛び出してきたらしく、ふたりはそれを気に病んでいる様子だった。だが唯一父の祖父母、つまりは美夏の曾祖父母だけは彼らを快く迎えてくれた。齢八十を過ぎた身体で畑仕事に出る健老な夫婦だ。

 美夏は可愛い曾孫として溺愛され、少女ももちろんそんな老夫婦が大好きだった。どことなく父と似ている曾祖父の顔、不思議な気持ちになってそっと撫でてみる。表面は固く、内側は少し柔らかかった。

 曾祖父は目を細め、

「とうもろこし食え」

 畑で作っているとうもろこしを渡してくれた。残すと悲しい顔をされてしまうから、残さず食べた。

 その世界にあってはただ一切がキラキラと輝いていた。

 少し傾いた長屋住まいで裕福とは言えない家庭だったが、笑みの絶えない日々で、少なくとも美夏にはぬくもりの情景しかない。

 だが、思いも掛けぬ悲劇が起こる。

 父が、人を殺してしまったのだ。

 それも、四人も。


    *


 知人から一報が入ったのは夕食の支度をしているときだった。

「あなたの旦那が人を刺して逃走中よ」

 母は受話器を手に首を傾げた。酔ってるのかな? そんな顔をしていた。相手の声は大きく傍にいる美夏にまで丸聞こえで、母は苦笑しながら受話器を置いた。

「なにを言っているのかしらね、失礼しちゃうわ」

母は意に介さず夕食の支度を再開し、美夏もいつも通りにそれを手伝う。時刻は午後六時半を廻ったところで、テレビに映し出されたニュースは社会人ラグビーの結果を伝えていた。

 シチューをかき混ぜていると、インターホンが鳴った。はぁい、母が扉を開けてきょとんとする。警官がしかつめらしい顔を並べていた。

 事情をお聞きしたいのですが――任意同行を求められると腰を抜かした。

 警官が支え、パトカーまで連れて行かれる。美夏も靴をつっかけ追いかける。

 母が我に還り言った。

「だいじょうぶだから、人ちがいとか、そういうのだから。近くで人が殺されちゃってね、まだ犯人が捕まってないんだって。それで、たまたま側を通りかかったお父さんが疑われちゃったの。すぐ誤解を解いてお父さんと戻ってくるから、先にご飯食べて待っててね。危ないから、絶対外に出ちゃだめよ」

 声は震え、膝が揺れている。

 そして母は車に乗せられ、警察署へと向かった。

 美夏は時折、あのときに母は連れ去られてしまったのだという感覚に襲われる。


 美夏は帰りを待った。夕食には手を付けず、じっと帰りを待った。

 日付も変わり、瞼が重い。全てが夢の中の出来事のような感じがする。

 カッ、チッ、カッ、チッ、カッ、チッ、カッ、チッ、

 秒針が響く。

 美夏はハッとして立ち上がり、コロッケとシチューをレンジに持って行き温め直す。ホカホカにしておかなくちゃ。スイッチを押したところで音もなく玄関の戸が開いた。

 母が、突っ立っていた。

 おかあさん。

 駆けて見上げる。母は虚ろで微動だにしない。

 おかあさん。

 もう一度呼ぶとビクッと震え、視線を向けた。

 どうしたの?

 問いかけると、

「お父さんがね」

 うっすらと口の端を持ち上げ、呟いた。

「お父さんがね、死んじゃった。」


     *


 頸動脈を切っての、自殺だった。

 町外れの奥深い森の中で遺体は見つかった。血の沼のなかで倒れていた。

 犯行後に自ら命を絶ったのだろうということで落ち着いた。遺書も出ず、その理由は一切不明な信じがたい凶行だった。

 だが、犯人は間違いなく彼だった。目撃者は複数おり、鑑定結果もそう出た以上その事実は揺るがない。喉に詰まり、吐き戻してしまうことになっても飲み込むしかない。何度も、何度も、必死に。

 安置室で対面した父はいつもと変わらぬ表情で、そっとその頬に触れてみたが、しゃりっと髭の手触りが気持ち良く、いつも通りの父だった。

 母は部屋の隅で虚ろな瞳のまま佇み、どこか遠くを見つめていた。


 事件後は、大変だった。

 母は遮二無二働いた。朝は新聞配達、昼からはスーパーでレジ打ち、それをルーティンとしてこなし、合間を縫っては内職でシャーペンを組み立てる。家事も手を抜くことはなく、片時も休むことはなかった。

 ……こわい。

「どうしたの美夏」母が微笑んで、「だいじょうぶよ、何も心配しなくていいからね、お母さんが美夏をきちんと育ててあげるから」

 そうじゃない、そうじゃないよ。

 声にならない。

「絶対に、母子家庭だからって言われないようにするからね!」

 おかあさん、そんなに頑張らないで。


 次第に風当たりが強くなる。

 事件後は心遣いをくれていたご近所も距離を置き始め、考えてみれば当たり前の話ではあったが殺人鬼の家族となど誰も関わりあいになりたくはないのだ。世間体を気にする期間も過ぎ、町内で共通理解が生まれたのか町民からあからさまに避けられるようになる。

 避けられ、冷遇され、それにとどまらず母は全ての職を失ってしまう。不自然であり、明らかに見えざる力が働いていた。

 村八分――この町から出て行け、それが町の総意だった。


 美夏も全ての友人を失った。誰一人傍に残ってはくれなかった。

 調子に乗っていじめまがいのことをする生徒まで現れ、その度に謝った。時には頭を床に擦り付けまでしたが、踏みつけられて終わった。もはや彼らにとっては友達などではなく、むしろ追い出すよう家庭で命じられてすらいた。

 美夏は悔しかったが、それ以上に申し訳なく、泣いて許しを請うた。

 だが汚物扱いは続き、やがて一人二人と離れていき、誰も相手にすらしなくなる。

 面倒臭くなったのだ。


 それでも前を向いて生きていた。

 母の目は輝いていたし、美夏もまだ人と触れあうことに希望を見いだしていた。

 だからこそ、決断した。

「引越そうか」

 美夏は驚いた。それまで母は町を出ることは逃げだからと事ある毎に言っていたのだ。

 やっぱりわたしのことが気がかりなのかな、そう思い胸が苦しくなる。

「ひいおじいちゃんたちがね、いつでもいらっしゃいって言ってくれてるんだよ」

 抱きしめられ、頭を撫でられ、

「また一からやり直そうね」

 温もりに、胸がいっぱいになった。


 だが、不幸は重なる。

 頼りにしていた曾祖父母が相次いで死去してしまう。心労で体調を崩していたとは聞いていたが、そこまでだったとは。

 母は葬式にも出ず、家でぼんやりと宙を仰いで過ごした。

 おかあさん。

 呼びかけても返事はなく、まるで抜け殻のように見えた。

 そしてその後、彼女が戻ってくることはなかった。


 現在は生活保護に頼り生活している。

 母に改善の兆しはない。瞳は濁り、言葉すら滅多に発しない。

 ヘドロなの。

 美夏は言う。

 ヘドロに飲まれて動けないの。

 息も、できない。


     *


「いやなの」一呼吸置いて、「誰にもお母さんを悪くなんて言わせない。ぜったいに」

 いつしか夕陽は完全に沈んでいた。帳のなかから鈴虫の声が響いている。

「どうしてなんだろうね」美夏は独り言のように、「どうしてお父さんは人を殺さなくちゃいけなかったんだろう。ずっとずっと考えてきた。でも、なんにもわからないの。ほんとうに、考えれば考えるほど真っ白になっちゃうの。お父さんは、私たちのことなんてどうでもよかったのかな? 私たちがどうなるかなんて、考えもしなかったのかな? お父さんが事件を起こした理由はわからないけど、私たちを大切に想ってくれてなかったことはわかっちゃうから、だってそうでしょ? 大切に思ってたら、残される家族のこと考えるよね。それが、悔しいの。あの生活も、なにもかも、嘘だったんだって、そう思えて……」

「…………」

 水母は震える美夏を見つめた。

 やがて、

「ね、子ども産みたいと思う?」

「……え?」

「お母さんになりたい?」

 美夏が眉間に皺を寄せる。

 真剣だとわかると、視線を落とし考え、答えた。

「……うん。こればっかりは相手がいないとどうにもならないけど、でも、ちょっと怖くもあるかな……。お父さんがあんなことになっちゃって、自分の子も、そうならないとは言い切れないから……。それに、きちんとした親の象みたいなものがわからなくなっちゃってて」

「そっか、うん、怖いか」水母は頷き、やさしげな笑みを浮かべる。「そうだよね、私も美夏だったら怖いかもしんない。……でも、さ、私よりはいいよ、全然いいよ。だって選択肢があるじゃんか」

「え」美夏は首を傾げる。「それってどういう……」

 にひひ、白い歯を見せる水母。

 美夏はしばらく思索を巡らしていたが、

「……え?」気が付き、声を漏らした。

「ほらほら」水母が立ち上がる。「そろそろおばさんたちが帰ってきちゃうから、ちょっと外に出ない? 歩ける?」

 手を差し伸べる。

「…………」

 美夏は少しの間の後、その手を掴んだ。




 月がぽっかりと浮かんでいる。あぜ道をゆきながら水母は全てを伝えた――自分の物語を。

 大好きだった伯母が病気を患い死んでしまったこと。

 自分も同じ病気を患い手術をし、なんとか快復できたこと。

 打ち込んできた競泳をやめてしまったこと。

 人とうまく話ができなくなってしまったこと。

 息苦しくなり、倒れそうになってしまうこと。

 世界が無機質に硬くなってしまったこと。

 この町には静養も兼ねてやってきて、

 なんとかしたいと思って、

 このままじゃいけないから、

 だから、

 そして――  

「ここに美夏がいた」

「…………」

「美夏じゃないとダメなの。美夏とならやれる。こんな感覚初めて。わかる? 美夏はどう?」

 滔々と語り、美夏も真摯に聞き、だから二人は林のなかまで突き進んでしまっていたことに気が付かなかった。

「あ、あれ?」

 水母が我に還る。暗く突き刺すような冷気、木々がざわめいていた。

 美夏も周囲を見廻す。と、

 バサッ

「ひっ」身体を竦めた。

 蝙蝠が飛び立ったのだ。

「ここって、町外れの林のなか、かな」水母が尋ねる。

「う、うん。曲がるところを通り過ぎちゃったんだ」とか細い声で美夏。

「帰り道、わかる?」

「え、ええと……あ、あれぇ? ううん、こんなに暗くなければわかると思うんだけど、これじゃあちょっと……」

 来た道は二叉に別れており、どちらから来たのかすらわからない。

 夜空を見上げる。木々の隙間から覗いた月はその身体のほとんどを雲に隠しており頼りない。

「とにかく戻るしかないよ」

 二人は朧気な感覚を頼りに道を戻り始める。

 だが、

「…………やば」

 完全に迷ってしまう。

「ご、ごめん。わたし、間違えちゃったかも」美夏が謝る。

「なんで謝るの。私だってわからないんだから、ふたりの責任でしょ」水母が微笑する。「もうちょっと歩いてみよ。そんなに歩いてきたわけはないんだから、なんとかなるって」

 けれども歩けども歩けども林を抜けず、さすがの水母にも焦りが募り始める。まさか遭難なんてことにはならないと思うけど、こういう甘い認識が事態を悪くしてしまうってこともあるのかも……。体力を考えると朝まで休んでいるべきだろうか、でも、もし捜索隊なんて出されたら美夏に迷惑が……。

 すると、

「あ」

 パッと視界が開けた。

 眼前には奇妙な佇まいの建物が佇んでいる。

「……廃校?」水母が首を傾げる。

「廃校、だね」と美夏。

 月が照らしだす校舎は、蔦が絡まり、ひび割れ、朽ち果てていた。けれども静寂に佇むその姿は敬虔で、厳かで、誠実だった。

 吸い込まれるように昇降口へと向かう。


 こうしてふたりは廃校を見つけた。



     4


 ふたりはお互いを求め合うようになる。


 水母は美夏と一緒に立ち向かってゆくと決めた。そして、いつかあの柔らかな世界を取り戻し、人の温もりのなか生きてゆくと。

 美夏はいまいちど頑張ると決めた。そしてまた皆と仲良くなって町の一員として暮らしていきたいと。もちろん母も一緒に。


 水母は美夏の決心を嬉しく思った。彼女が癒えていくのを見届けられたとき、自分もまた変われているんじゃないだろうか。

 それは希望だった。孵化の予感だった。

 けれども確信であり、水母の確信は外れない。


 目標が定められた。

「九月の水泳大会で優勝しよう。そうだなぁ、具体的には自由形の五十メートルをぶっちぎりでの優勝。どう?」

 美夏はきょとんとする。いったいなにを言っているんだろう?

「ああと、だからね、考えたんだけど、まず皆の美夏を見る目を変える必要があると思うんだよね。その為にはさ、目に見える結果っていうか、目立つことが大事なんだよ。美夏は事件からずっと目立たないようにしてきたでしょ、それじゃあダメなんだよ。殻を破って、目立つ。それで、注目を浴びる。まずはそこから」

「でも、どうして水泳なの」当然の疑問だ。

「どうしてって、じゃあ他に何かある?」

「…………」言葉に詰まる。

 勉強で頑張る、得意な絵で認めてもらう、様々な可能性が駆け巡るが、そう言われればどれもしっくりこない気がする。特に絵などはこれまでも見てもらう機会はあった。

「うん、美夏の言いたいことはわかる」水母は頷く。「でも、こういうのって意外性が大事なんだよ。美夏の絵はもちろん凄いけど、これまでも皆の見る目を変えられてはいないでしょ。事件前からの特技で驚きがないってこともあるんだろうけど、なんていうかさ、『うわぁ、すごい』で終わっちゃうんだよね、やっぱり。わかる? この感じ。絵って描けない私から見ればある程度才能なのかなって気がしちゃうんだよ。描ける人はやっぱり小さい頃からうまいよなって。あっさり片付いちゃうっていうか、羨望だけで終わっちゃうっていうか、そうじゃなくて今は皆に『なんだあいつは』って思われた方がいいと思うんだよ。しかもそれを努力で成し遂げるっていうのが大事、これはわかるでしょ? 美夏の頑張りを見せつけるの。頑張って、認めて貰う。でも最初から認めてもらえるなんて思っちゃだめだからね。たぶん最初は『なにイキガッてんだよ』って感じで嫌悪感抱かれることもあると思うから。でもそれは前進だからね、目を向けてもらえたってことだから。そこからだよ、それは大きな一歩」

「それにこれは経験から言わせてもらうとスポーツでの結果って言うのは誰もが認めやすいものでさ、数字として出るからわかりやすいし、やっぱり走る飛ぶ泳ぐとかそういう本能に根ざしたものって感心してもらいやすいと思うよ。特に男子はなおさらね。それと美夏はかなづち、これが大事。皆ももちろんそれを知ってる。それなのに美夏が大会で大暴れ……どう? 絶対注目の的でしょ? 『なんだなんだ』となって、『どうしてあいつはあんなに泳げるようになったんだ』って噂になって、そこでハタと気が付くわけなんだな、『あああいつは頑張ったんだな、この大会の為に頑張ったんだな』って」

「……楽観的すぎる? はぁああ、なに言ってるんだろこの娘は。そう言って今まで何もしてこなかったくせに。いいの! そういうもんなの! 要は美夏の頑張りを見せて関心を持ってもらうこと、これに尽きる! 結果を出せば僅かでも気にかけてくれる人も出てくるよ。まさか本気で競泳を始めたなんて考える人もいないでしょ。大事なのは、これだけは外せないのは、美夏自身が前を向いて光り輝くってこと! 輝いてる人間は誰もが放っておけないものだから。周りを変えたいなら自分から変わらなくちゃ。水泳はちょうど大会があるからそのきっかけってだけ。うじうじし過ぎたんだよ、じめじめした奴なんて、しかも大事件の犯人の娘なんだから、そんなの近寄って来なくても当たり前だよ」

「でも、泳げないって? ……だ、か、ら! 頑張るの! 頑張るしかないの! 泳げばいいんだよ泳げば。なんにも考えずにひたすら泳げば、魚になって泳げば、それでどうにかなる! 私が付いてるんだから遮二無二なって泳げばいいの! あのね、私はジュニアオリンピックでもかなり良い線いってるんだよ、そんな私が教えるんだからこんなスイミングスクールもない町の子なんて余裕だって。正直に言えばだから選んだっていうのもあるしね。大丈夫、泳ぎ方からコツから作戦まで任せて、大会までのスケジュールもこっちで組むし、美夏はなんにも考えず力の限り付いてくれればいい。わかった?」

「…………」

 美夏は頷いた。若干戸惑い混じりではあったが、力強いものだった。

「ふぅうう、つかれた」笑って大きく息を吐く。

 内心安堵していた。ここまで煽ってやる気を出さないようなら諦めようと思っていた。こうは言ったが、別に水泳でなくともよかったのだ。ただ自分が精通していたらから選んだだけ。きっかけなんてなんでもいい。ただ、やるかやらないか。やらなければ、すべてを諦めるだけだ。

 すべてを。

「よし、じゃあ今日から市民プールで練習ね!」

 私は卵を暖める。そして絶対に羽化させるんだ。

 さぁて、怒濤の日々がはじまる。




「はいはい立って立って。じゃ、もう二十往復ね」

 美夏は胃から迫り上がってくるものを必死に飲み込みながら顔を上げる。ショートカットにTシャツ短パンの少女がニコニコしながらストップウォッチを手に見下ろしている。

 喉が胃酸で痛い。

「ほらほらなにやってんの。追加しちゃうよ?」

 口は緩んでいるのだが目は冷たい。

 美夏はもうなにも考えずにただ身体を動かした。泳いでいるという感覚もなく、気が付いたら時間が経っている。

 コーチの基本方針はごくごく単純に「泳いで泳いで泳ぎまくる」というものだった。

 フォームも教えこそしたが綺麗に泳がせるつもりはないらしく、馬力の勝負だとことある毎に言っていた。時間もないし、短距離なら押し切るのが一番いい。今は肺活量を増す意味でも泳ぎこみが一番、それにフォームは泳いで身に付けるものだからね。

 そう言われては従うほかない。それに確かに気が付くと楽に大きく水をかけるフォームで泳いでいることがあった。身体が無意識にフォームを模索しているのだ。こういうのはレクチャーされてわかるものじゃない。

 水泳バカ。

 泳ぎながら笑った。

 タイムが伸びると自分以上に喜んでくれた。

 それを見るのがなんだか無性に嬉しかった。


 放課後は毎日夕飯前まで練習に励み、夏休みに入ってからは朝から夕方までどっぷりと水泳漬けになった。

 練習を終えたら高台の公園で涼んだ。

 身体中の節々が悲鳴を上げ腕もまともに上がらないというのに、美夏は絵を描いた。

 水母の絵を。



     5


 ペンキを塗りたくったかのような日本晴れ。

 今日ばかりは蝉の声も心地よく、影が色濃く付着している。

 久しぶりの休日、二人で過ごす一日。

「休むことも練習のうちだから」

 そう説得した。今では水母からストップをかけなければならないほどに彼女はずっと水のなかにいた。その集中力は尋常ではなく、時折怖くなりさえした。

 ――楽しい、部活みたいで楽しい。

 胸が痛くなった。


 美夏の家のインターホンに手を伸ばす。

「おかあさんっ」声が響いた。

 裏に廻ると居間では美夏が尻餅をつき、母がじっと見下ろしていた。

 窓から様子を窺う。

「お母さん、もう今日は飲んじゃだめだよ。そんな辛そうな顔して、さっきからずっと吐いてばっかりで、お医者さんからも止めらてるんでしょ? ね、今日だけはやめて、お願い」

「…………」

「そうだ。たまには外に出てみない? 今日はすっごくいいお天気で風も気持ちいいよ。ずっと家のなかにいたんじゃクサクサしちゃうもんね。どうかな、ね、どうかな?」

「…………」母は無言でどすんと腰を降ろした。低い声で、「……あんた」

「えっ?」

「あんた、いつか狂うよ。あの人みたいにね」

「…………」

 母はテレビの鑑賞に入る。

 美夏は立ち上がり、部屋を後にした。

 水母は急いで玄関へと廻り、戸が開くのを待った。

「……あれ?」きょとんと美夏。

「ちょうど今来たとこ」息を静めて水母。

「そっか。じゃあ行こ」

 ふたりは歩き出す。

 美夏の横顔を盗み見る。綺麗で、あどけない横顔。

 どういう風に言われたってかまわない、私たちは気にしない。

 いつかあなたの手だって引いてみせる。


     *


 ふたりが訪れた先は、林の側にひっそりと佇む廃校。

 先日迷いこんで見つけたこの場所をふたりは気に入っていた。どこか、居心地がいい。

「それにしても」水母が口を尖らせる。「このあいだはひどかったなぁ。なんなんだよあの片足の男、ニヤニヤしてさぁ、あげくには抱きついてきて、気持ち悪いのなんのって。すんごい力だったし、今日もしてきたらぶん殴ってやる」息巻く。

「でもいくら水母でもあの人の力じゃどうにもならないよ」

「だいじょぶ」笑みを零す。「これ持ってきたから」

「あ、それ」

「そ、スタンガン」得意気に、「護身用のやつなんだ」

「それなら安心だね」美夏は息を吐いた。「でも、なんとなくあのひと喜びそうな気もするなぁ」


「――フヒヒヒヒヒヒヒヒッ」

 案の上ブライアンは息を漏らし続けた。

「フヒヒヒヒヒヒヒヒッ」

「なんで笑ってんの」水母が眉間に皺を寄せる。

「いや、お前いいなぁと思って」ブライアンが黄ばんだ歯を見せる。

 ゾッと身の毛がよだつ。こんな奴と関わり合いになりたくない。

「通っていいんでしょ」ぶっきらぼうに。

「ああ、こないだ町長の許可も取ったからな」

 二人は横を擦り抜ける。ブライアンはその背中を目で追う。

「見ないでよ」水母が振り向く。

「お前、良い身体してんなぁ」

「うへぇ」肩を震わせて、「やめてやめて」足早に去る。

 と、遠くから声が響いた。

「いい骨格してるよ」

「……骨格?」首を傾げる。「骨格?」

「あぁ、でも水泳やってたから、うん、身体も引き締まってるし格好良い体型だと思うよ」と美夏。

「そう、かなぁ」二の腕をつねる。

 入院で筋肉も落ちちゃったけど、それでもやっぱり平均的な女子中学生よりかは肩幅も広いし引き締まってはいるのかもしれない。

 でも、どうしてあの男がそんなところを褒めるのか、水母にはわからなかった。


「やぁ来たね」

 三階音楽室に入ると町長が笑顔で迎えた。

「それにしても暑いよねぇ。早く冬になってくれないと干からびちゃうね」

「おにぃ、あたいとろけてる」

 チコはリノリウムの床にべったりと寝そべり、くねくねと身体を擦り合せている。冷たくて気持ちがいいのだろう。

「うにゃぁああ~、豆子にこうやって擦り付けたいぃいい~~」卑猥な動きが加速する。

 水母は眉間に皺を寄せる。

 豆子? 豆子って、あの?

「チコちゃん、わたしじゃだめかな?」と自分を指差して美夏。

 微笑している、戯れのつもりなのだろう。

「…………」チコは無言で手招きする。

 美夏が小走りに向かい傍に置いてあった扇子で扇いでやると、

「おりゃっ」

 チコは彼女のシャツとブラジャーを捲り、

 ――じゅぅずぶぶぅるるるう。

 乳首に吸い付いた。

「…………」美夏は呆けている。

「ふん、まあまあね」顔を離すと唾液が糸を引いた。チコの口の周りと、ピンク色の乳首がテラテラと光っている。「豆子のは、もっと甘い。」

 我に還り美夏は服を直す。途端、火が付いたように耳まで染まる。

 ギ、ギ、ギ、そんな軋む音が聞こえてきそうなぎこちない動作で首を捻り見ると、町長は微苦笑した。美夏は頬を引き攣らせ、俯いてしまう。

 水母は口の周りを舐め回しているチコをぼうっと見つめる。

 どうしてこの子は目が見えないのに絵を描くのだろう。描いても、自分では見ることができないというのに。盲目のミュージシャンならわかる、だって自分で楽しむこともできるから。でも、この子はちがう。不毛とは思わないのかな、他にも趣味にできるものはたくさんあるだろうに。

 同じ絵描きでも、こうもちがうものなんだな。チコと美夏、どっちも凄い絵を描くけど、抱く印象は全くちがう。チコの絵は眺めていると飲み込まれてしまいそうな、その下でマグマが沸き立っているような印象を抱くけど、美夏の絵は心に染み入るような淡い色彩が特徴で、どことなく儚げで時間を忘れて物思いに耽ってしまいそうになる。

 人間性の違いとかいうやつなんだろうか。チコに美夏の絵を見せられたらな、ライバル心とか燃やして面白くなるかもしれないのに。

「知ってるわよ」声が響いた。

 意識を戻すと、チコがリコーダーを手にぶすっとしていた。

「ふん、そんなの比べるものじゃないわよ。絵に善し悪しなんてないし、窮屈でたまらないじゃない。訳知り顔の奴らが勝手に決めればいいのよ。それにこの子がどんなの描こうがあたしにはかんけいない、あたしはあたしだから」

 プィーッ。ふてくされたようにチコがリコーダを吹き鳴らす。

「…………」水母は頬を引き攣らせる。額に汗が滲む。

「ね、ふたりとも」町長が朗らかに、「新しく仲間になった二人に、是非と見せたいものがあるんだけど」

 二人が視線を向けると、町長は廊下へと出た。

「付いてきて」

 促され、その後に続く。


     *


 一階理科準備室の中に入ると、一人の男子がせんべいを頬張りながら漫画を読んでいた。けれど、噛み砕く音が聞こえない。はて、と思いよく見てみると、男子には歯がなかった。一本も。歯のないいがぐり頭の男子だった。

「はれぇ、ちょうちょうどうしたんすはぁ」歯のないいがぐり頭の男子が顔を上げる。

「この二人に商品を見せてあげてくれないかな」町長が言った。

 男子は口を開けて笑う。見事に歯がない。せんべいのカスが飛び散る。

 目の前に並んでいる奇妙な品を指差す。

「ほれは、すべへ歯でできへいる」

「へぇえ」水母は嘆息する。

 首飾り、髪飾り、腕輪、指輪、たしかにすべての装飾品が歯でできていた。

「こいつの家は歯科医院なんだ」町長がフォローした。

「ほれは」男子は得意気に、「これはうちの患者の親知らずを集めて作った首飾りで、これさえあれば『どんな密事でも親に知られず決行できる』。あとこれは犬歯で作った腕輪で、これさえあれば『望めばどんな縁でもひと断ちできる』。嘘っぱちに聞こえるかもしれないけど、ぜんぶほんとうのことだ。正真正銘紛れもなく効果がある。それは俺が責任を持って保証する。もし駄目だったら歯を抜いて詫びてやるよ……こんなところかな?」

 町長が振り向くと、男子は口を尖らせていた。二人が聞き取れず、町長が代弁したのだ。

 水母は首飾りを手に取る。

『どんな密事でも親に知られず決行できる』

 面白い、けど、特にそんな用事もない。

「こんなオカルト、本当に効くのぉ?」問うと、

「ひふよっ!」紅潮して唾を飛ばされた。

 男子は怒って詳細な説明を始める。しかし水母は聞き取ることができない。

「…………」

 美夏はそんな騒ぎを尻目に腕輪を手に取り眺めていた。

『あなたが望めばどんな縁でもひと断ちできる』

 歪に歯が並んだ腕輪。

「…………」

 思いを馳せる。自分一人の未来に。

 もし一人なら、どこか知らない町で暮らして、友達もできて、絵の勉強だってできるかもしれない。少なくとも、そんな可能性だけはある。今はそんなもの、どこを探したって見つからない。

 ――でも。

 腕輪を戻す。顔が綻ぶ、

 でも、こんなの必要ない。


     *


 理科準備室の戸を開くと、セミロングの髪にTシャツ、ホットパンツ姿の少女が目の前を通り過ぎた。

「豆子」水母が声をかける。

 豆子は静かに振り向いた。

「あ」小さく口を開け、小さく頭を下げる。

「ん?」と、町長が反対側に歩いて行ってしまった。水母は首を傾げる。

「豆子ちゃんこんにちは」美夏が丁寧にお辞儀をする。

 はい、豆子が小さく返事をした。

 二人は幼なじみだと水母は聞いていた。といっても、小さい頃は一緒に遊んだこともあったがずっと疎遠になっていたという。

「どこ行くの?」美夏が言った。

「帰るんです」と豆子。

「じゃあ途中まで一緒に行かない?」美夏が提案した。

「…………」こく、微かに頷いた。

 水母は目を奪われる。ガラス細工のような子だ。目を離した隙に、パリンと砕け散ってしまいそう。

「じゃあ行こ」と美夏。

 三人はブライアンの通り昇降口をくぐる。

「豆子と力強い女のコンビじゃねぇか」ブライアンは嬉しげに言った。「そそる」

 外に出てからも水母は豆子を見つめる。手を伸ばす。

「……なんですか?」豆子が振り向いた。

「ん、べつに」手を引っ込める。

 どうしてだろう、触れたくなってしまった。


 真夏の日照りがじりじりと地面と肌を焦がす。

 蝉の合唱の中あぜ道を行く。汗が噴き出て、三人は何度も拭う。豆子の身体が朧気に見える。水母は首を振る。湯だっている。

 ちらりと美夏を見やる。ずっと俯いていた。あの奇妙な歯の装飾品のことでも考えているのだろうか。

「豆子」遠くから声。

豆子と同年齢くらいの男子が歩いてきている。

「あ」豆子が小さく声を漏らした。

 四つ辻で合流する。

「豆子」少年は親しげに、「この人たちは?」

「あの、あそこに出入りしている人たち」豆子は無表情に答えた。

「へぇ」少年の顔が明るくなる。「この人たちも町民なんだ」

 豆子は頷く。「いつものとこで会って、いっしょに来たんだ」

 その瞳が微かに揺れているのを水母は見逃さなかった。

「あそこも人が多くなってきたよね」少年が言った。

 豆子は頷く。けれど視線が僅かに逸れている。

 水母は頬を緩めて提案した。

「よし豆子、今度プールに行こう!」

 えっ、豆子が目を丸くする。

「暑いしさ、泳ぎに行こ。私プールって好きなんだよね。いいっしょ? それじゃあいつにしよっか」

「く、水母?」美夏も困惑している。

「あ、もちろん美夏もだから。そうだなぁ、でもどうせだからみんなで行こっか。君も入れて四人で、どうかな、君?」

「ぁ、は、はぁ」少年も戸惑いを隠せない。

 水母は少年の肩をがっちりと掴む。

「気のない返事してないで行くって言うんだよこういう時は。お姉さんたちに誘われてるんだから。ね、行くでしょ?」

 少年はおどおどしつつも頷く。

「決まり」バシッと肩を叩いて、「いい子だ」

 水母がちらりと美夏を見る。わからないようにウインクをする。

 あ、美夏は狙いを察する。そしてため息を吐く。

「近郊に大型プールあるんでしょ、そこに行こう。ううん、いいね、夏の思い出になるね……ん?」

 水母が気が付いた。豆子の様子がおかしい。

「……どうしたの?」

 顔を覗き込むと、汗で髪が頬にべったりと付いており、呼吸を荒げていた。

「あっ」少年が駆け寄る。「豆子、豆子はいいから、むりしなくていいから。また今度機会があったらでいいから、ね」優しい声音。

 豆子は小刻みに震え地面を見つめている。

 水母と美夏は顔を見合わせ、沈黙する。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 蒼と朱が混じり合う空をカラスの群れが飛んでいく。

「だいじょうぶ」掠れた声で、「行くから」

 そして四人でプールに行くことになった。



     6


 水上で踊る煌めきに水母は目を細める。

 まさに盛夏の日差し、今日ばかりは蝉の合唱も心地よく、うっすらと肌に滲む汗すらスパイスだ。

 絶好のプール日和。

 少年は実は楽しみにしていたのかイルカ柄の浮き輪を抱えている。

 美夏はもじもじきょろきょろ周囲を気にしている。水母の視線に気が付くと、「うううっ」っとうなって睨んだ。水母は笑う。

 彼女はスクール水着を着てきていた。水母がそう指示をしたのだ。練習するかもしれないと思ったからだ。

 美夏は心底嫌そうな顔をしたが、水母も着るという条件でそれを呑んだ。しかし水母はその約束をすっかり忘れており、普通のワンピースを着てきていた。彼女の姿を見て水母は思った。ああ、確かに中学生にもなってその格好は狙っているとしか思えない、と。しかもこんなレジャー施設で。

 豆子は、未だ更衣室から出てきていない。

「豆子にさ、仕込みしてて」水母は耳打ちする。

「え、仕込み?」美夏が目を丸くする。

「そ、仕込み」

「どういう?」

「ま、見てて」

 やがて少女がやってきた。

 淡い、ブルーのビキニを着た少女が。


 ――――。


 少年が浮き輪を落とした。

 美夏は水母を見る。水母がいたずらに微笑むとパッと瞳を輝かせた。

「じゃ、じゃあどうしようか」豆子の声は少し震えている。

 顔は火照り、身体を縮め、時折ちらりと伺う上目遣いの瞳は濡れている。足の指に力が入っていて、両足の親指を絡めている。

 ほぅうう。水母はその未成熟な果実に思わず息を漏らす。

 膨らみ始めたばかりの胸、華奢な肩に腰回り、可愛らしいおへそ、南国の少女を思わせる太ももから脹らはぎのライン、そして控えめに付いたお尻、まるで妖精のようだと陳腐な感想を抱いた。青空が少女を引き立て、水母の脳裏にその風景が焼き付いた。

 いつもの豆子とはまるでちがう、囓ればじゅわっと甘みが広がりそうな、新鮮で、可憐な少女。

「どうかな、ねぇ、どうかな?」少年に声を掛ける。

 少年はぼんやりと水母の顔を見る。

 瞬時に茹で上がり、

「ど、どうって、その、あの、え、えと、」狼狽える。

 それを見つめる豆子の瞳は潤んで揺れていた。

 水母は満足感に包まれた。大成功だ、そう思い目を細めた。


 しかし、すぐに限界が訪れる。


 異変に気が付いたのはやはり少年だった。

「豆子っ」

 豆子の膝が生まれたての子鹿のように震えていた。間もなくしゃがみ込んでしまい、亀のように縮こまる。

「…………え?」水母が現状を把握できずきょとんとしていると、少年がかけより豆子の肩にそっと手をかけた。

「豆子」

 僅かに豆子が顔を上げる。顔の色がなく、息が震えていた。胸が不規則に上下している。

「大丈夫?」少年が見据えて言った。

 豆子はその腕にしがみついた。ぎゅううっと目を瞑り、その姿はまるで何かに耐えているようだ。見るからに身体が硬直している。

 少年はバッグから大きなタオルを取り出し豆子の肩に掛けてやった。そして振り返り二人に視線を送る。

 あっ、二人は頷き肩を貸して更衣室へと連れて行った。


     *


 世界が遠のいていく。

 喧噪に身を沈め水の煌めきを眺めているうちに、白昼夢でも見ているかのような感覚に陥り始めた。光と影の世界に迷い込んでしまった。べっとりと付着した自分の影を見つめる。今にも動きだしそうだ。

「…………」隣では、豆子も水面の煌めきをぼんやりと見つめていた。

 既に着替えており、パーカーを羽織りビーチサンダルを履いている。

 ――三人は体調を気遣い帰ろうと提案したのだが、彼女はそれなら一人で帰ると頑なに拒み、仕方なく残ることにしたのだった。もちろん彼女を一人にしておくことはできないので順番に傍にいるようにした。

 あんな風に肌を見せることに抵抗があるんだと思います。学校でもプールはいつも見学なんです。

 少年にそう説明された。けれどそれ以上は言葉を濁したので聞かなかった。

 理由はわからない、けど、これだけは言っておかなくちゃならない。

「ごめんね」横顔に声をかけた。

 照り返しが彼女の顔で踊り、睫毛が輝く。僅かに髪が揺れる。

 静かに首を振った。

「………………から」

「えっ?」

 聞き返すと無表情に呟いた。

「俺の半身は、死んでしまっているから。」


     *


 少年と交代し、美夏と流れるプールへ向かった。

 水母は美夏が仰向けにゆるゆると流れるのをプールサイドから眺める。

「はぁあーーっ」美夏が温泉にでも浸かっているかのような息を漏らす。学校指定の紺の水着が輝いている。

「よし、泳ごっか」と水母。

「え……」渋い顔をする。「やだよ」

「ほらほら、今なら人も少ないし、せっかくそんな格好で来たんだからさ」

「…………」

 美夏は沈んだ。そして遠くで浮き上がるとクロールで泳ぎ始めた。

 戻ってくると、満面の笑みで言った。

「魚みたい!」

「魚?」

「うん、魚になったみたい!」


 ウォータースライダーの列に並ぶ。

 階段を昇っていくが、結構な高さがあり、絶え間なく絶叫が響いている。

 落ちてゆく人々を見て美夏が感嘆の息を漏らす。

「すごい……これ大丈夫なのかな? 勢い余ってコースアウトしちゃったりしないのかな?」

 髪から滴がぽたぽたと垂れ、水着がお尻に少し食い込んでいる。

 美夏はウォータースライダー初体験だった。水母は少し驚いたが、考えてみれば当たり前のことだった。ウォータースライダーどころか、こんなレジャー施設にすらほとんど来たことないだろう。あんな事件があったんだし、人の目がある。

「落ちはしないけど、鼻に水は入るかもね」と水母。

「へぇえ、気を付けるね」お尻の食い込みを直す。

 と、

「あっ!?」背後から声が響いた。

「ん?」振り向くと少年三人が凝視していた。

 見覚えがある、たしか左の男子はクラスメートだ。スポーツ刈りが印象的で、なんとなく野球がうまそうだと思ったのを覚えている。

「おいおいおい!」見知らぬ男子が口元を吊り上げる。「ありえねーでしょ!」

「なんなの」眉間に皺を寄せる。「美夏、あれ誰?」

「…………」

「……美夏?」見ると、美夏は真っ青になっていた。

「えっ」

「なぁどうするよ」見知らぬ男子がクラスメートの男子を突つく。彼は目玉が飛び出て顔が震えていた。

「いはははは」もう一人の男子が軽薄に笑う。彼と美夏を交互に見やり、「まずいんじゃないのぉこれはぁ!」

 水母は訳がわからない。美夏も微動だにせず固まっており、その表情は髪に隠れて読み取れない。

 やがて、

「……他のとこいこうぜ」クラスメートの男子が踵を返した。「おら、行くぞ」

 けれど連れの二人に腕を掴まれる。

「いやいやいや! このままなんにもせずに帰るとかないから!」

「これってスッゴイ機会だよなぁ、なんてか運命だよねぇ」

 愉快極まりないといった表情。

 水母は彼らを睨み付け、美夏の手を引く。

「あいつらが行かないなら私たちが行こう」

「あ、あの、だ、大樹君っ!」だが美夏は動かなかった。裏返った声を上げた。「あ、あのっ、ちょっ、ちょっとだけでいいから、あのっ、話をっ」

 大樹と呼ばれたクラスメートの男子は床を睨み付けている。足の指に力が入っているのがわかる。

「謝って済むことじゃないのかわかってるけど」美夏が必死に、「で、でも、あの、せめて謝らせ――」

「仇取ってやろうか?」

 声が被さった。

 美夏はっう、と喉を鳴らし、もう一度顔を上げ口を開いたが声が出ず、うな垂れてしまった。

「まあさ」訳知り顔で連れの男子。「こうリアルな話だけど、見せてもらうとか揉ませてもらうとか、それくらいならいいんじゃないの? だって、ねぇ? どう考えてもそれくらいの権利はあるよねぇ。むしろ『償いになるなら』って喜んでくるんじゃないの?」

「お前それドラマの見過ぎ」もう一人が歯を剥く。「でもせっかくだからなんかイベント欲しいね。そうねぇ、それもいいかもねぇ。おっぱいくらいならねぇ。だってこいつだもんね。てかなんでこいつこんなとこ来てんだろうね、バカなんだね。自分の立場がわかってないんだね。こんな態度じゃ相手にされないのも当たり前だってのね……あ、なんか怒り沸いてきた。あー沸いてきた。あーおっぱい見たくなってきた」

 大樹の肩に手を掛ける。鼻息荒く、

「な、こいつマジ最悪だよな。な、お、おれ、おおおおっぱい見たいんだけど、いいんじゃね? いいんじゃ――のぁっ!?」

 大樹は手を払い掴みかかった。

「ちょっ、おぁっ!?」

 倒れ、馬乗りにされ、頬を殴打される。大樹の息は荒く、鬼神の如く朱に染まっている。みぞおちがふいごのように蠕動し、見るからに見るからに我を忘れている。

「おまちょっ、何すんだよ!」顔をガードしながら叫ぶ。しかし大樹は構わず殴り続ける。「やめ、やめろっ、やめっ」

「アホかっ!」もう一人が止めに入る。

 大樹はそっちにも飛びかかる。駆けてきたその鼻っ面に拳をめり込ませた。鈍い音が小さく響き、男子はうずくまる。鼻を押さえるが、血はとめどもなく流れ落ち水溜まりを作る。大粒の涙を溜め見上げる彼に、しかし大樹は構わず拳を振り下ろし続ける。

「大樹君!」美夏が叫ぶ。けれど止まらない。

「あ」と水母。顔面に膝を繰り出そうとしている。あれは、マズイ。「ちょまっ――」

「かふっ!」

「……?」大樹が止まる。

「……え?」水母が目を見張る。

「けふっ、う、ぃぅいいっ」美夏が脇腹を押さえてうずくまっている。「うぅうううううっ」

 飛び出し、割って入ったのだ。

「み、美夏っ?!」すぐさま駆け寄った。「ばっ、なにしてんの!!」

 苦しげに微笑む美夏。

「…………」大樹はじっと彼女を見下ろす。

 美夏も水母の腕に抱かれながら彼を見上げる。徐々に大樹の顔が歪み、頬が引き攣り、涙が浮かぶ。

「っざけんな!」と彼の首に腕が絡まる。馬乗りに殴られた男子が掴みかかったのだ。

 水母は慌てて美夏を非難させる。

 二人はもつれ倒れ揉み合う。遂には鼻を殴られた男子もよろよろと立ち上がり、目玉をむき出して大樹の脇腹を蹴り上げた。

 げふっ。

 悶絶し、喉から息が漏れる。二人は一気呵成に力を込めて殴り蹴り始める。

 周囲は固唾を呑んで静観していた。誰も頼れない。

 気が付けば、水母は二人に殴りかかっていた。

 二人はぎょっとして水母の腕を掴む。後ろに回し、がっちりと固定する。水母は顔を歪めるが声は漏らさない。もがき、抜け出そうとする。が、一人ならばともかく二人ではどうにもならない。足も掴まれてしまい、身動きひとつ取れない。

 二人は困惑した。まさか女子に乱入されるとは思ってもいなかったのだ。腕の中で暴れる少女に途方に暮れる。水母の頬を男子の鼻血が濡らす。

 水母は目の前で足を掴んでいる男子を睨み付ける。と、男子は妙な胸騒ぎを覚える。俺は今、少女の足を掴んでいる。目の前には、水着の少女。二つの柔らかな膨らみと、浮き出たアバラ。

 ――ああ、滅茶苦茶に

「おいお前ら!」背後から怒声が響いた。

 ハッとして男子が振り返ると係員が駆けてきていた。騒ぎに気が付いたのだろう。ほうっと息を吐き二人は逃げた。水母は追いかけようと足を踏み出したがくずおれてしまう。足に力が入らない。震えている。

 美夏は大樹の元へと駆け寄った。彼は朦朧とし、全身血まみれだった。擦り傷に鼻血、それから額がパックリと切れていた。係員が救急車を呼び、三十分後に搬送された。

 帰り道は各々憔悴しきっていた。誰も口を開かず、美夏などは何度もしゃがみ込んでしまった。ぜぃぜぃ胸を上下させ、本来は気遣ってあげるべき豆子にさえ気遣われた。美夏は微笑んだが、明らかに目が虚ろだった。

 豆子と少年とは駅で別れ、水母は美夏を送っていくことにした。夢遊病者のようにゆらゆらと歩く美夏の背に思い切って尋ねた。

「あの大樹っていうのとは、どういう関係なの?」

 美夏の足が止まる。

 水母が追いつき顔を覗くと、その目は据わっていた。

 そして自嘲するかのように微苦笑し、言った。


「大樹君のお母さん、わたしのお父さんが殺しちゃったんだ。」



     7


 美夏は変わってしまう。

 まるで生気が感じられず、練習も気が入っていない。

「ねぇ、大会まで時間ないのわかってるよね」強い口調で言っても、

「…………ん」生返事をするばかり。

 これでは練習にならない。水母の胸に焦燥が募る。事情はわかるし、同情もする。でも、あなたが欲しいのは同情じゃないでしょ?

「ちょっといい加減にして」プールサイドから見下ろして水母、「そんなふぬけた態度でぐじぐじしてさぁ、頑張る気がないならやめれば?」

「…………」

「それに」下唇を噛みしめ、「それに、このあいだのことは美夏にだって原因があったんじゃないの? 美夏がだめだったから彼に迷惑をかけたの。そうでしょ? 全部美夏のせい。お父さんを隠れ蓑にしないで、見て見ぬフリをしないでよ。恥じて、それを恥じてよ。ねぇ、だからこそ私たちは頑張ってるんじゃないの? もう嫌だから頑張ってるんでしょ? 私はもういやなの。美夏は、美夏はそう思ってないの?」

「…………」沈黙。

「………………そ」踵を返す。プールを出る。

 言うべきことは言った。厳しい言い方だったもしれない、けど、これくらいで終わってしまうようならどうにもならない。

 それに私は、美夏を信じてる。


 美夏は引き籠もるようになる。

 水母は一縷の望みを持って閉ざされた扉の外から声をかける。

「ねぇ」

 …………。

「もう、やめるの?」

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 すぅううううう、はぁああああああ。

 大きく息を吸い、吐いた。

「そ、わかった。じゃあ、さようなら」

 ………………。

 しばらく待ったが、やはり反応がない。こらえきれず顔を覆った。

 廊下の奥から響くバラエティ番組が癪に障る。姦しく笑うタレントたち。見やるとやはり美夏の母が酒とゴミの中で柿の種を頬張っている。

 水母は目の前に立った。

「しっかりして下さいよ!」見下ろして、「あなた母親なんですよね、どうしてそんなにていたらくなんですか。なんでもかんでも美夏に押しつけて、猫の親だって、いえ、猫の親の方がよっぽど尊敬できますよ。誰とも関わりあいになりたくないなら一人でこの町を出たらいいじゃないですか。そうしたら住み込みの仕事でも探してどうとでもなるでしょう。でもそうはしないんですよね、逃げてるから、勇気もないから、世界を恨んで、こうやって目を逸らして、『かわいそうな私を誰か助けに来て』って、美夏に迷惑をかけるのは自分の権利だとでも思ってるんじゃないですか。あの子を虐めてるんですよね、実はその自覚があるんだ。……戦えとは言いません、あなたも傷ついてしまったんですから。でも、あの子は戦うと決めたんです。決めてたんです。だから、せめて美夏の邪魔をしないで。お願い、お願いします……」

 涙が溢れ、鼻が出て、最後は頭まで下げていた。

 母はのっそりと顔を上げ、あーと呻いた。

「あんた、あの絵のモデルだ」

「?」水母が目を丸くする。

「絵、絵、絵、絵だよ絵。あのゴミみたいな絵。あの子が描いてる絵」

 高台の公園で私をモデルにして描いている絵のことだろうか。

「机の上に置いてあったから見たんだけど」黄ばんだ歯を見せて、「気持ち悪い絵だねありゃ。腐ったゴキブリみたいな絵だ。性根がよく出てる」

「…………」口を開いてしまう。何を言ってるんだろうこの人は?

「あの子の父さんも絵を描いてたけど」遠くに思いを馳せるように、「うん、似てる似てる、瓜二つだ。やっぱり親子って似るんだねぇ。てことはアレだ、二面性もあるんだね。ああそうか、うん、そうかそうか。あの子、将来狂うね、間違いなく」

「…………」

 一瞥もくれずに部屋を後にした。

 後ろから笑い声が聞こえた。

 どんな言葉も届かない。

 戦うことを諦めた彼女には。


     *


 一人で歩く町は広々としていてうすら寒い。夏の夕空の気配がもの悲しく感じられる。

 橋の中腹で立ち止まり、とうとうと流れる川面を見やる。川岸では親子が魚釣りをしていて、子供ははしゃぎ、父は微動だにせず竿を握っている。

 もしかしたら、と水母は思う。もしかしたら、美夏に言ったこと、おばさんに言ったこと、全て私にも当てはまるのかもしれない。

 結局私は一人じゃどうにもできず美夏を利用しようとしていただけなのかもしれない。希望の光を勝手に見いだして、すがっていただけなのかもしれない。自分を卵を孵化させる親鳥のイメージと重ねていたなんて、今考えればバカらしい。

 ――でも。

 水母は小石を拾い、投げる。波紋が広がる。

 でも、私たちならと。

「なあ」

「っ?!」ビクッとして振り返ると、大樹が立っていた。

「黄昏れてんのか」腕を吊り、顔中にガーゼを貼っている。見るからに痛々しい。「それとも熱にやられたか。真っ青になってんけど」

「いやいや、大丈夫」目を拭い頭を掻いた。「それにしてもすごいねその傷。ええと、その、大丈夫なの? 鼻からすごい出血してたけど……」

「ヒビ入った」けろりと、「でもべつに大したことねっし。おれアキレス腱切ったことあって、その時に比べれば屁でもねっし。腕はひねっただけだし、新学期までにはこれも取れるし」腕の三角巾を掲げる。

「お前こそ大丈夫なんかよ、お前あいつらに飛びかかって行ったろ。なんかされなかったか?」

「係員の人来てくれたしね、特には。……それより」

「あ?」

「あの」頭を下げて、「ありがとうね、なんていうか、その、怒ってくれて」

「……別に怒ってねぇし」ムスッと横を向いて、「あいつらがうざかったからだからし。元々ソリの合わない奴らだったんだよ」

 水母は頬を緩める。想像していたよりもずっと穏やかで優しいじゃないか。

 たぶんこの子は美夏を本当には嫌ってはいない。考えてみれば、二人は幼なじみなんだ。美夏のいいところだって一杯知ってるはずなんだ。

 やっぱり、問題は美夏の態度にあったのかもしれない。

「そうだよ美夏だ!」

「は?」大樹が眉間に皺を寄せる。

 かと思うと急にそわそわしだし、身体を揺らして、

「そ、そういえば」声が上ずり、「お前らいつのまに仲良くなったんだよ。二人でプールになんか来てよ」

「水泳大会に向けて練習してんの」はっきりと、「美夏が優勝するって張り切っちゃって」

「は?」顔を突き出す。「あいつかなづちだろ」

「うん。でもすごい頑張って泳げるようになってきた。たぶんビックリするから、あまりの違いに」

 大樹は目をクリクリさせる。

「なんだそりゃ。そりゃまたどうして」

「美夏はね」少し溜めて、「生まれ変わるんだよ。殻を破って、自分らしく生きるんだって」

「…………」大樹は沈黙する。

「お前、おれたちの事情知ってんのか?」

「ある程度はね」

「あいつ、ずっと死んだ目で隅っこにいたのに、どういう心境の変化なんだよ」

「君のことが好きなんだって」

「はぁ?!」肩を持ち上げて、「んなっアホか!!」

「アホじゃないよ。君に見なおしてもらいたから頑張るって目を輝かせてたんだから。私、生まれ変わるの! なんて言っちゃってさ。私まで練習に付き合わされて、ホントいい迷惑なんだから」

「あ、アホ、アホかっ!」口をモゴモゴさせて、「うご、おま、ちょっ」

「思春期ってやつだよ。美夏だって恋するお年頃なんだから」

「こ、恋っておまっ」

「……でも」声を落して、「美夏、塞ぎ込んじゃってさ、練習もやめちゃいそうで、ほら、君があんなことになっちゃったでしょ。それで自分のせいだって部屋に籠もっちゃってんの」

「はぁ?」瞼を震わせて、「なに勘違いしてんだよ、だからあいつの為じゃねーし。ただ俺がムカって」

「でも美夏はそうは思ってない。美夏の性格は知ってるでしょ、自分のせいだって思っちゃう子なんだから」

「んだよ」口を尖らせる。「ざけんなっての、俺の方こそ膝蹴りかましちゃって、申し訳ないって悩んでるっつーのに……」

 水母は緩む頬を押さえきれない。

「あいつ、練習しないのかよ」ぶっきらぼうに、

「しないんだよ、私がいくら言っても駄目で、部屋に閉じこもっちゃって」

「んだよそれ」大樹は耳をくしゃくしゃと掻いた。「まるで俺のせいみたいじゃねぇかよ。ありえねえし」

「あ」水母は手を引かれる。

「どうしたの?」

「いいから」

 ずんずん進む。

 その足取りは力強く、水母は思わず抱きつきたくなりすらした。


     *


 コンコン。

「美夏」窓をノックする。

 間があり、中から声がする。

「……水母」沈んだか細い声だ。「あの、だから私はもう……それに今日はちょっと熱っぽくて駄目みたいで……ごめんね、だからまた今度」

「へぇえ」挑発するように、「へぇえええ」

「……なに?」憔悴きった声、「やめてよ、もう。やめて。もういやなの、いや、いやなの! なんでそんな声出すの? もうやめて……お願い」

「おい」低い声が響いた。「甘えんなよ、出てこいよ」

「…………っ」窓の向こうから息を呑む気配が感じられた。

「仮病だろ出てこいよ。練習しろよ、なにおれのせいみたくしてんだよ、迷惑だよ」

 …………。

 カラカラ、玄関の戸の開く音がし、おずおずと美夏が角から顔を出した。

「こっちおいで」水母が優しく呼びかける。

 つっかけにパジャマ姿の美夏は困惑気味に水母の側に駆け寄った。

「お前さぁ」大樹が燃える目で見据えて、「おれのせいにするとかってどういうこと? 迷惑かけたとか言って塞ぎこんでんらしいけど、それって余計おれに迷惑かけてんじゃねぇの? なに責任押しつけてんの?」

「あ、あの」狼狽えて、「「そ、そんなつもりじゃ」

「じゃあどういうつもりなんだかな。今までだってそうだよ、お前は自分からバリアー張ってさ、おれと目を合わそうとすらしないだろ? なんだよそれ、おれが悪いのかよ」

「ち、ちがっ」

「あれだろ『申し訳なくて』とか言うんだろ? なんだよそれ。なぁ、俺さ、前にお前に話しかけたことあんだよ、覚えてるか? 事件の後、話しかけたんだよ。いつまで経ってもウジウジしてるから、話しかけたんだよ。でもお前ずっと俯いて、あげくに逃げだしたんだぞ?」

「あ、の、それは」しどろもどろになる。パジャマは汗でぐっしょりだ。どうやら本当のことらしい。

「しかも俺、クラスメートの前で話しかけたんだよ。お前がまたうまくやれるようにって思ってさ。ほら、俺とお前が仲良くすれば良い方にいくと思ったんだよ。でもお前は逃げて、それを見てたクラスの連中もお前の態度に怒って、逆効果に終わってさ、おれがどんだけ自分を責めたと思ってんの? お前なりの気遣いからそうしてたのかもしんないけど、それが人を傷つけることもあるって考えたことあるか?」

 美夏の瞳が揺れる。うなじに髪が張りついている。頬を引き攣らせ、足が震えている。

「どうして自分から積極的になることがおれの為になるって考えてくれないんだよ、おれってそんなに心が狭いと思われてんのか? それってめちゃくちゃショックだろ。そりゃおれもそれくらいでお前に話しかけなくなったのは悪いし、やっぱりうまく折り合いも付けられなくて段々と避けるようになったのはよくなかったとは思ってる。けど、それはあんまりにお前が後ろ向きだから話なんてしたくなかったんだよ。お前がそんな調子で暮してるの見ると、おれまで泣きそうになっちまうし、よくわかねえけど怒りもこみあげてきてどうにもならなくなっちまうんだよ……。なぁ、やれよ。よくわかんないけど頑張ってたんだろ。ならやってくれよ、おれのこと思うならやってくれよ、なぁ――美夏!」

 美夏の肩が震えた。

 そして、滴が零れた。

 やがて顔を上げると、満面の笑みだった。

 これまでで一番の笑み。

 途端、大樹が耳まで朱に染まる。

「お、おれっ」慌てて「帰る!」

 そそくさと歩き出し、すぐに駆けだした。

「えっ」美夏が手を伸ばす。

 水母は地面を蹴り後を追う。

 緩やかな坂を下り、路地を曲がったところで息を切らして大樹は突っ立っていた。

「なに逃げてんのよ」

「うっ、うっせー」そっぽを向いて、「三十六計逃げるに如かずとか言うだろ」

「なにそれ」笑う。「ふぅん」

「な、なんだよ」

「まぁ、いいんじゃない」

「なんだよなに笑ってんだよ」

「いやぁ、いやいやいやぁ?」

「んだよ!」

「んふふー」

「んぎぎっ」

「大樹くん!」

 振り向けば、美夏も坂を駆け下りてきていた。

「うぁ」大樹は後じさりし、反転して駆けだした。

 その背中に美夏が叫ぶ。

「あ、ありがとう!」

 彼はそのまま駆けて行き、美夏は息せき切って水母の元までやってきた。髪はボサボサでしかもパジャマというみっともい格好だったが、その横顔は美しい。

「美夏、震えてる」

 彼女の身体は小刻みに震えていた。腕を回して自分の身体を抱きしめる。

「と、とまらないの」声も震えている。

「あらら」水母は笑う。

 とても風が心地よい。


 風が吹いている、いい方に。


     *


 悪いことは重なると言うけど、良いことも重なるのかもしれない。そういう意味では神さまも公平なのかも。

 美夏から話を聞かされ水母はそう思った。

 母と、仲直りできたのだという。

 泣いて謝ってきたらしい。こんなことは初めてと、美夏も興奮を隠せず目を赤らめている。

「よかったねぇ」頭を撫でると、仔猫のように目を細めた。

 美夏の長い黒髪は、ボブのように短くなっていた。突然のことで水母も驚いたが、彼女なりの心の現れだと言うことはわかった。

 しかし前も後ろも切り揃えられ過ぎていて、おかっぱそのものだ。まるで小さな少女のようでおかしくもある。

「なに?」

「うんにゃ、なにも」

 おそらく自分で切ったんだろう、なにも言うまい。

「わたし、お母さんが大好きなの」美夏は遠くの山を眺めて言う。「とってもやさしいんだ。覚えてるもん、わたし、しっかり覚えてる。今はあんな風だけど、でも、仕方ないから……わたしがお母さんでも、そうなっちゃってたかもって思うから……お母さん、張り詰めてたものが切れちゃっんだ。いつかきっと立ち直ってくれるって信じてるから」

「そっか」水母は宙を仰ぐ。「でも、ビール瓶で殴るって言うのはどうかと思うけどねぇ」笑う。

「いいの、わたしがはけ口になれるなら、それでいいの」

「…………」

「でも、ね」顔を伏せて、「実は、ちょっと言い辛いんだけど……ほら、これ」美夏がポケットから何かを取り出し差し出した。

「あっ」

 掌に乗ったそれは廃校で歯のないいがぐり頭の少年が売っていた、あの歪な歯の並んだ腕輪。『あなたが望めばどんな縁でもひと断ちできる』と謳っていた品だ。

「いつの間に」

「わからないの」首を振る。「いつ買ったか覚えてないの」

「は?」眉を顰める。

 気が付いたら、持っていた?

「どゆこと?」

「わかんないの、記憶にないの」

「…………」

「どうしたの?」

「あ、いや、うん」取直して、「なんでそんなの買ったの?」

「うん……」考え込んで、「どうしてだろう、こんなのいらないって思ってたんだけど」

 どうしてもなにも、理由はひとつしかないじゃないか。

「でも恥ずかしい。衝動だよね」

「…………」

 水母は息を吸い、吐き、茶化すように言う。

「ね、あの売り子の子はなんて言ってたっけ?」

「絶対に縁が切れるって、保証するって」

「あー、うんなるほど。そっか。そのおかげでこうやって悪縁が切れて、お母さんともうまくやれるようになったってことかもねぇ」

「あ、その考え方は素敵」美夏は微笑む。

 水母も微笑む。

 でも、自分はうまく笑えているだろうか?

「まぁその腕輪のことはもういいや。それより今日からほんとにラストスパートだから張り切っていくように! もう夏休みも僅かだし、悪いのは、美夏。だからその分頑張るのも、美夏。でしょ?」

「言われなくても頑張ります!」大袈裟に、「今のわたしは燃えているのです!」

「きもい」

 彼と仲直りできて、美夏も少しずつ変わり始めている。

「あ、あとさ、いつもの絵もまた付き合ってね」

「え、あの公園のやつ? あれまだ続けるの?」

「うん、もうほとんどできてるから。大会終わったら見せるから、ね?」

「ううんしょうがないなぁ」溜め息を吐く。けれどその頬は緩んでしまう。

 二人はその後市民プールで練習に励んだ。

 練習では目標タイムを初めてクリアした。

 これで泳げれば入賞は確実というタイムだ。もちろん全国レベルの水母にとっては子供のお遊びに等しいタイムではあったが、なんといっても美夏はついこのあいだまでかなづちだったのだ。こんな短期間でここまで伸びたことに驚嘆しこそすれ、落胆などするはずもない。

 人はここまでやれる。向上心さえあれば道は自分で切り開いていける。こんなひたむきな娘を、無視できるはずがない。美夏は生まれ変わる。ほんの些細なイベントごとでの出来事かもしれないけれど、ここから一歩一歩、少しずつでも進んでいけばいい。

 ――この夏は、きっと忘れられない夏になる。


 そして夏の終わりはやってくる。

 新学期、水泳大会当日の朝が。



     8


「拍子抜けって言葉を生まれて初めて使いたい」

「だめだよ」美夏は苦笑して、「延期になっただけなんだから。でも、そうだね。わたしもなんだか気が抜けちゃうかも」

「台風め」増水した川を睨む。「よくもっ」

 川面は激しく揺れ、濁流が轟々と音を立てている。

 風は生ぬるく、低く垂れ込めた雲が町を分厚く覆い、木々がざわめいている。


 時季外れの台風がやってきていた。


「やっぱり今日はプール行くのやめる? 練習休んでさ」水母が言った。

「ううん今日もやるよ。延期って言っても少し延びただけだし、きちんと気を引き締めておかないと」

「とてもいい心がけだ」本当に感心してしまう。「でも軽めにしておこ。もうやることはやったんだし、調整って感じで」

「うん、そうだね」

 風で制服のスカートがバタバタはためく。美夏の短く切り揃えられた髪もボサボサだ。けれどその髪も今ではすっかり見慣れたものになっていた。

 どこか印象も変わり、元気になった気がする。そしてそれは髪のせいだけではないのだ。

「でもお母さんががっかりしちゃってさぁ。応援に行くって言ってくれてたから」

「へぇ、そうだったんだ」

「最近はもうぜんぜん違うんだよ」美夏が振り向く。嬉しそうに、「お風呂洗いとかお料理とか、少しずつやってくれるようになってきたし、うん、お料理なんてね、ほんとうに久しぶりに作ってくれて、涙で味なんてわからなかった……あはは」

「そっかぁ」胸がいっぱいになる。

「昔みたいになれるといいなぁ」目を細めて、「本当はね、かわいいひとなんだから。」


 橋に差し掛かる。

 ああ、大樹に声をかけられた橋だ。

 ぼんやり歩いていると美夏に小さく手を引かれた。

 ん? 振り返ると下方の河原を指差された。

「ああ」

 大樹が友人二人と遊んでいた。あの男子たちではない、同学年だろうか?

 濁流に向かって石を投げたり押し合いをしたりしてはしゃいでいる。

 川岸には柵は設置されていない。傍から見ていると危なっかしくて仕様がない。

「大樹君!」美夏が強風と濁流音に負けないよう声を張り上げる。「あぶないよー! もう少し離れたほうがいいよー!」

 本当に、少し前とは別人のようだ。

 眼下の三人は一斉に振り返り、大樹は「げ」とそっぽを向いた。

 水母と美夏はそれを見て笑い、大樹は友人二人を肘でつついて背中を向けそそくさと歩き出した。

 が、友人たちは動こうとはしない。

「ん?」なんとなく不穏な空気だ。

 大樹は再度声をかけるが二人は無視して川の縁まで歩み寄る。駆け寄り手を掴んだが振り払われ尻餅を付いてしまった。

「あっ」美夏が声を漏らす。そして沈黙。

 水母も勘付いた。彼らは、殺人鬼の娘の忠告などに耳を貸したくないのだ。むしろ意固地にその逆をいこうとしている。

 遂に一人が川際に身を乗り出した。あれでは足を踏み外せば落ちてしまう。

「バカなにやってんの!」堪らず水母も叫ぶ。

 しかし当の本人は二人を見上げ薄く笑い、その表情は明らかに挑発していた。

「ねぇ、あぶないよ!」美夏が腹の底から声を張り上げる。「そんなことしないで! お願いだから!」

 まるで意に介さずもう一人まで水際に躍り出てペットボトルを川に浸し始めた。

 水母は目を剥く。

「ちょっ、なにやって――ぁっ」

 大樹が二人の腕を掴み引き離した。橋の上を見上げ申し訳なそうに目を細める。水母と美夏は胸を撫で下ろす。お互いに見合わせ、大きく息を吐く。

 視線を戻すと男子が何か怒声を発し大樹の身体をこづくとこだった。身体が大きく傾き、まるで平均台の上でなんとかバランスを保っているかのような足取りになる。

「あ」美夏が言った。

「あ」水母言った。

 男子は目を剥き手を伸ばす。大樹も手を伸ばす。しかし届かない。そのままヨロヨロとのけぞり、足が地面を離れ、身体が浮き、尻餅を付き、その弾みで背中から川に落ちてしまった。


 ………………………………………………………………………。


 水母が我に還り叫ぶ。

「救急車!!!」

 川岸の男子たちは川面を見つめたまま動かない。

 水母は近隣の助けを借りようと身を翻す。隣に美夏がいなかった。

「えっ?!」

 視界の隅に何かが映る。目を見開き見ると、美夏がスカートを翻しながら凄まじい勢いで土手を駆け下りていた。

 ――まさか。

 川面に目を凝らすと、波のまにまに腕が覗いていた。血の気が引く。息が震える。

 腕は何度も波に呑まれ、けれど手首は助けを求めるかのように振られていた。そう見えた。

 視線を戻すと美夏が足を滑らせ土手下に転げ落ちていた。泥まみれの制服、気にもとめず立ち上がり駆けだした。

 ――まさか。

 まさかまさかまさか!

「美夏!」腹の底から声を出すが勢いを増した濁流と風に掻き消され届いた気がしない。「戻れ! 戻ってぇ!」

 波のまにまに覗いていた腕は加速度的に下流へと流れ始めた。

「だめだ美夏! 救助、救助を  」


 ――その後の事は霧に包まれ今でも現実のこととは思えない。

 美夏は飛び込み、最初こそ波に抗い泳いでいたが、すぐに飲まれ、沈んだ。

 いつの間にか大樹の腕も見えなくなっていた。

「…………」

 男子二人がどこかへ駆けて行くのが目に入った。しかし動けず、ただただ風と濁流の音の中にいた。それが世界の全てだった。

 やがて込み上げる吐き気に寄って自分を知覚した。


 …………。

 ………………。

 ……………………嘘、でしょ?


 嘘ではなかった。

 二人は十キロメートル下流で見つかった。

     9


 蝉の死骸が揺れている。

 紅葉も過ぎ去ったというのによく今まで残っていたものだ。

 焦げ茶に変色した葉を踏みしめながら歩む。風は冷たく、冬の到来を告げていた。

 夕陽が山間に沈もうとしている。朱と蒼がせめぎ合い、水面を染め上げる。水面は鏡面ともなり、うつろう空を映し出している。

 今年の役目を終えたプールには少しだけ藻が生え始めていた。

 カラスの声に耳を傾けていると、風で枯れ葉が舞い目を細めた。

「足下気をつけてね」振り返り、「落ちないでよ」

 少女はにへらと笑い、プールサイドを駆けだした。

「あっ、走っちゃダメ!」

 すると少女はくるりと反転し、突撃をした。

「どーんっ!」

「いった……!」思い切り頭からぶつかられ、顔をしかめる。

 しかし少女は爛々と目を輝かせており、叱る気にもなれない。

 ほうぅうううっ、息を吐き、抱きしめ頭を撫でる。

「っぁ」滲むものを我慢し、上を向く。

 役目を終えた学校のプール。

 けれど、私たちはまだここにいる――。  


*  *  *


「――美夏さんが、大樹君を突き飛ばしたんです。」

 男子二人はそう口を揃えた。全てを美夏になすりつけようとした。

 もちろん水母は反論し、警察にも訴え、そんな供述は公にはならなかったが、すぐさま町ではそれが既成事実となった。

 この親にしてこの子あり。

 いくら水母が説明をしても誰も耳を貸そうとはしなかった。重要なのは彼女が殺人鬼の娘であるということで、事実は後付にされた。

 それでも水母は力の限り無実を訴えたのだ。それでも話は加速度的に広まり、遂には大樹の父親にまで知られてしまうこととなる。

 彼は我を失った。


 過去に妻を、そして今度は一人息子まで。

 出刃包丁を手に美夏宅を襲い、母を切り付けた。幸い異変に気が付いた人々がすぐに駆けつけ命にかかわるものにはならなかったが、しかし頬と唇をぱっくり裂かれてしまった。その痕は黒々としたミミズ腫れのように残っている。

 大樹の父は涙と鼻水まみれに喚き散らし、もはや心身喪失状態で、後に施設に送られたと聞いた。


 水母はその事件の後、美夏の母にもう一度きちんと説明をしに行った。不安になっているだろうと思ったからだ。

「おばさん」腰を屈め、やさしい声で、「気にしないで……なんて無理なことだと思うけど、でもどうか気にしないで。美夏は褒められることをしたんだから。本当なら讃えられてもいいくらいなんです。私はそれを知ってる。全部見ていたんだから。大切なのは本当のこと、ですよね? 誰がなんと言おうと気にしなければいいんです。だって彼らは目を背けているだけなんだから。……だから、どうか気を落さないで下さいね」

 母はちゃぶ台に肘を付いたまま微動だにしない。頬から顎にかけてガーゼが巻かれ、彼女は頑なに入院を拒んでいた。

「おばさん」

「いいから」ぼそっと、

「え?」

「いいから」顔を動かさず、「いいの、もういいの。わかってるから、ぜんぶわかってるから。はぁあああ……あの子も、あの人の娘なんだからねぇ。うん、わかってたの、ほんとうはぜんぶわかってた。だから慰めてくれなくてもいいのよ、あたしがね、愚かだった。バカだった。あの子には何も期待しちゃいけなかったのに、ああ、あたしの責任でもあるのかな。なんか変にやる気だして、危ないなぁとは思ってたんだけど。わたしもすっかり乗せられちゃって、ああ、きちんと止めておけばこんなことにもならなかったのに、本当に申し訳ないことをしてしまって……ああああ。うん、いいよ、そんな嘘付いてまで慰めてくれなくても。あんたも辛いかもしれないけど、でもきちんと現実は受け止めないといけないよ。そうしないとあたしみたいになっちゃうからね。あはは。……うん、ありがとう。ほんとにありがとうね。」


 …………。

 ………………。

 …………………………。


 そっと部屋を出た。

 廊下へ出ると美夏の部屋が開いており、机の上には画用紙が置かれていた。

 それはいつもの公園で描いていたあの水母の肖像画だった。

暖色系の色彩に、夏の香りが漂う。

「……?」

 隣には腕輪が置かれていた。あの、歯のないいがぐり頭の少年が売っていた歪に歯が並んだ腕輪だ。


 あなたが望めばどんな縁でもひと断ちできる。


「……………………」

 絵と腕輪を鞄の中にしまった。


     *  *  *


 腕輪を見つめる。

 これはいったい誰の歯なんだろう、私が知っている人だろうか。そんな詮無いことを考える。

 少女は水に手を浸しキャッキャッとはしゃいでいる。水面の赤茶の葉と蝉の死骸が波に揺れる。

 バッグを降ろし、その背中を見つめる。

 華奢な身体、この寒い中Tシャツ一枚なんて風邪をひいてしまう。けれど厚着させても目を離した隙にすぐむずがって脱いでしまうのだ。

「しんどしんど!」少女が嬌声を上げた。

 手を伸ばすが届かない。

「そんな生き物の死骸で遊ぶなんてよくないよ」

 らしくないよ、とは言えなかった。

 やはり少女に通じることはなく、めいいっぱい身体を伸ばして腕を伸ばす。首筋が浮かぶ。とても楽しそうだ。

 水母は視線を外した。

目を瞑る。


     *  *  *


 少女は、濁流に呑まれてから一週間後、下流の岸に打ち上げられているところを発見された。

 ――奇跡だ。

 誰もが口を揃えた。

 大樹は既に見つかっており死亡が確認されていたが、美夏だけはいつまで経っても見つからず、捜索は半ば形骸化していたところだった。

「奇跡だ。」

 美夏の心臓は止まっていたらしい。搬送途中に蘇生し、それはまさに奇跡としか言いようのないことで誰もが目を見張り戦慄した。

 しかしそんなことはどうでもいいのだ。奇跡でもなんでも助かったんならいいじゃないか。

 水母はじっと目覚めるのを待った。祈ることはしなかった。彼女が自分の力で目覚めると信じていたからだ。

 大丈夫、絶対に目覚める。どうしてこの子が目覚めないなんてありえるだろうか? 私たちはまだ何も為しえてない。大丈夫、目が醒めてまた一緒にやっていける。まだ始まってもいないんだから。

 やがて目覚めたと一報が入った。

 水母は足をもつれさせながら病院へと駆けた。

「美夏!」病室に入る。「…………っぁ」

 視界が滲んだ。

 ベッドの上から見慣れた顔が見つめている。ニコニコ笑って、嬉しそうにしている。

 水母は笑おうとしたが叶わず、そのまま歩み寄った。

「み、みな、みなつ……!!」手を取る。「も、もうっ、ほん、になんで、あん、なかっ、う、うぅううっ」

 うまく喋ることができない。立っていられず美夏の太ももに顔を伏すようにへたり込む。

 すると、頬をぺちぺちと叩かれた。

「?」

 顔を上げると、美夏は鼻水を垂らし、じっと見つめていた。

「…………え?」眉間に皺を寄せる。

 なにかがおかしい。

 なにかが。

「美夏?」呼びかけた。

 すると美夏は水母の頬を手で挟み、大きく揺さぶり、

「げ、げ、げっ!」

 と笑った。

「…………」

 笑顔が凍り付いた。


「――脳に障害が」

 誰もがそう口を揃えた。

「まるで、神の子ね。」

 一命を取り留めた少女、しかも止まっていた心臓が動き出すという奇跡。

 あどけない笑みは多くの人を惹き付けた。

「心が洗われていくよう。」

 次第に純真無垢な少女の周りには人が集まるようになった。

 時折水母の目から見ても、少女が全ての責苦から解放され穏やかに見える時があった。

 その度に首を振った。

 こんなのは本当じゃない。

 私たちはもっとちがう、別のところを目指していた。

 やがて町にも同情と憐憫の空気は広がり、美夏は町民に受け入れられ始める。

 ――悲劇の子。神の子。

 特に実際に彼女を見た者は涙混じりに様子を伝え、見舞い客がひっきりなしに訪れるようになる。

 怒りに震えた。

 憎悪した。


 こいつらは、これまでの仕打ちを忘れようとしている。罪悪感を紛らわせようとしている。こうやって持ち上げることで、自分を慰めようとしている。ふざけるな。

 美夏は、お前らの玩具じゃない――。


 しばらくして美夏の母がいなくなった。失踪だ。町から忽然と姿を消した。取るものも取りあえず出たのか家の中はそのままになっていた。

 美夏の境遇が問題となった。

「いやよぉこんな子を引き取るなんて」

 聞き耳を立てていたのだがその必要もないほどの声量だった。

 心底嫌そうな女性の声、しかしその思いは誰もが同じらしく声は立て続いた。

「まぁ、施設に入れる他ないんじゃないか」

「うん、こんな子を預かれる余裕はとてもないよ」

「でもお金が」

「私はねぇ!」怒声、「あの二人の結婚なんて許した覚えはありません!」

 しわがれた老婦人の声が病室内に轟いた。

「けどなぁ、まさかこの子まで置いていくなんてねぇ。あの子も昔はもっと思いやりのある子だったのに、あの事件ですっかり運命狂わされちゃったわねぇ」

「えぇ? なんですその言い方は?」喧嘩腰に、「まるであの子一人が悪いみたいな言い方じゃないですか」

「は? いやいやいや、それはだってうちのは関係ないでしょう? うちのはイイ子でしたよ、旦那があんなのじゃなければ真っ当な人間ですよ」

「ふざけないで頂戴!」つんざく声。「うちの子は何も悪くないわよ! あんな女と一緒になったから、あの女があの子を変えてしまったんですよ! それをなんですか責任押しつけて、責任はそっちにあるんです! それをよりにもよってうちの子にそんな言いぐさっ」

「やれやれ、子も子なら親も親だな、正気とは思えない。あのですね、あの事件のせいで親類の私たちまでおかしな目で見られてるんですよ? 浩介なんて高校にハンドボールで推薦決まってたのに駄目にされたんですよ? どれだけ迷惑かけられたと思ってるんですか? それを今まで謝罪のひとつもないんだもんなぁ。いやぁほんと参っちゃうなぁ」

「ふ、ふざ、ふざけないで頂戴!!」

 もの凄い音が響き、誰かが物を投げたのかもしれない。

 罵詈雑言は鳴り止まず、水母は場を後にした。

 あの病室の中に、美夏もいたはずだ。美夏は、きっとあの中にいてもニコニコしているんだろうな。

 心を決めた。

 翌日の夕方、決行に移した。


「ようこそ美夏さん」町長が手を広げて迎える。「ここが今日からキミの家だ」

「あんたみないうちにずいぶんかわったわね」チコが美夏に擦り寄り鼻をすんすん鳴らす。「なんか匂ひもちがうわ」

 美夏がチコの頬をびろーんと伸ばす。ケタケタ笑う。

「は、はひふんほほっ」チコはもがくが今度は持ち上げられ振り回されて始める。「こ、こら、あんたちょっとやめないぎっ!」

 目を回した美夏が倒れ頭を激しく打ち付けた。

「で、でも」頭を揺らしながらチコ、「いいおんなになったわね」

 美夏はおもむろに着ていたパーカーを脱ぎ、ズボンまで脱ぎ始める。

「あ、また!」水母がその手を止める。「どうしてか、すぐに服を脱いでしまって」

 町長は微笑んでいる。

「あたしたちのますこっとがーるね」チコが立ち上がり言った。「しょうちょーでもある」

 その後、水母は警察が美夏の捜索を打ち切ったことを聞いた。親族は厄介払いができたと考えたのか騒ぎたてることはせず、既に町内でも彼女の存在は忘れられ始めている。

「もう、服着てよ!」

 子どものように全身で全力で反抗され辟易してしまう。力の加減を知らない為、手や足が至るところにあたりそこかしこに青痰を作っている。

「ねぇ」チコが言った。「どうこれ」

 水母は黒板を見る。そこには月を見上げる髪の長い少女が描かれていた。彼女は美しく佇んでいた。


 チコは全裸の少女を清少納言と名付けた。


     *  *  *


「――ん?」

 ふと目をやると、少女がバッグを漁っていた。

 中から一枚の画用紙を取り出す。

 にまぁっと笑う。

「あ、それはっ」駆け寄り手を伸ばす。「これは駄目」

「んーっ!」口を尖らせて、「んーっ、んんんーーーっ!」

「駄目なの!」

「んぅうううううううっ!」

 奪い合いになってしまう。水母は破けないよう注意を払いつつ引き寄せようとしたが、指を噛まれ、

「いたっ!」

 手を離してしまった。

 画用紙はゆらりゆらりと宙を舞い、風に流され、プールに落ちてしまった。

「あ」声が漏れる。

 少女はそれを見て喜色ばみ、身体を揺らしてゲラゲラと笑う。そして今度は手の平を開いて見せた。覗き込むと、浮いていた蝉の死骸があった。

 少女はニヒッと白い歯を見せ、一気に手を閉じた。

 パキバキビキキッ。

 何度も拳に力を込め、両の手の平を擦りつけ、蝉は粉々になって地に落ちる。

 少女は目を見開き、頬を緩め、飛びはね踏んづけ足を振り付け、蝉はもはや跡形もなくなった。

 少女はまたプールサイドを駆けて行き、甲高い嬌声が響き渡る。

 …………。

 ………………。

 ……………………。


 バンッ。


 腕輪を地面に叩き付ける。

 バラッとほどけて歯はプールに飛び散った。

 水が跳ね波紋が広がる。

 蒼と朱が混ざり合った空は歪み、輪郭がぼやける。

 天高く舞うカラスの影が円環を横切った。

 あ、声が漏れた。

 その瞬間、魚に見えた。

 しかしもう一度覗いてみても魚は現れず、カラスの声は遠ざかる。

 円環が消えていく。

 と、光が目を貫いた。

 んっ、目をやると、ちょうど山間に夕陽が沈む瞬間だ。

 ここは、ほどなく闇に包まれるだろう。

 すると視界の隅に何かが映った。

 あの、画用紙だ。

 風に押され流されてくる。

 覗き込むと、同じ二つの顔が並んだ。

 片方は醜く歪み、もう片方は照れて微笑している。

「あ」風が吹き抜けた。

 画用紙が煽られ沈んでいく。

 そして目の前には醜く歪んだ顔だけが残された。


 夏の終りに残ったのは、ただそれだけだった。

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